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四都物語異聞:秘色の薄絹

 薄衣の向こうに隠されたるは、ただ秘めるだけの情か。それとも、心惑わす綾か。


     1 


 青龍京の東、一条大路から少し奥まった場所に、中納言の姫、月白つきしろの住まう屋敷があった。

 藤の咲き乱れる季節、宵闇に溶け込むように広がる淡い紫の花房は、甘く、どこか退廃的な香りをあたりに漂わせる。

 まだ十九の歳を越えたばかりの月白は、その艶やかな容姿と、人を惹きつけるような深い瞳は、都の貴公子たちの間で、密かに「花の君」と囁かれていた。しかし、その輝きは、まるで薄衣に隠された秘め事のように、静謐な趣を湛えていたのである。

 彼女の婚儀は、すでに定まっていた。相手は、右大臣の嫡男。都で最も有力な家門同士の結びつきであり、これ以上ないほどに雅やかな縁談だった。右大臣の嫡男は、明朗な気性で知られ、将来を嘱望される若き才人であった。しかし、月白の心には、婚儀の定めとは異なる、秘めたる想いが深く根を下ろしていた。

 その想いの主は、彼女の異母兄である、蔵人頭くろうどのとうの若き貴公子、朝霧だった。朝霧は、眉目秀麗で、常に落ち着いた物腰。月白とは、普段は言葉を交わすことも稀で、兄妹とはいえ、公の場では互いに一定の距離を保つのが常だった。都においては、たとえ異母とはいえ血を分けた兄妹が親しく交わることは、「人倫に背く」とされ、口にするのも憚られる禁忌であった。私的な文のやり取りすら、その慎みが問われるほどに。しかし、月に一度、病に臥せる母を見舞うため、朝霧が月白の部屋を訪れるその僅かな時間だけ、二人は言葉を交わすことが許されていた。

 それは、ほんの短い時間だった。病床の母の傍らで、世間話や、都の出来事を語り合うだけ。だが、その度に、朝霧から漂う墨と白檀びゃくだんが混じり合った、知的な香が、月白の心を強く揺さぶった。彼の視線が、わずかに彼女の薄衣の向こうを捉える時、彼女の胸は、抑えきれぬ熱を帯びる。兄妹という関係は、都の慣習において、越えられぬ深淵であり、この想いが叶うことなど、ありえないと、月白は誰よりも理解していた。それでも、薄衣一枚隔てただけの距離にある彼の存在が、彼女の心を惑わし続ける。

 ある夜、藤の香が満ちる寝所にて、月白は、密かに歌を詠んだ。


 藤波の 香に惑いてぞ うつつなき 結ばれぬそでの 濡るるばかりか

(藤の花の香りに心を惑わされ、現実とは思えないほどに夢見心地でございます。しかし、結ばれることのない袖は、ただ涙で濡れるばかりでございます。)


 この歌は、彼女の心の奥底に秘めた、禁忌の恋心を綴ったものだった。誰にも見せることなく、彼女は小さな文箱ふばこにそっと仕舞い込んだ。その薄い紙の向こうに、決して叶わぬ願いの切なさが、湿り気を帯びて滲むかのようだった。

 しかし、この秘めたる想いが、やがて予期せぬ形で、小さな波紋を広げていくことを、月白はまだ知らなかった。


     2 


 藤の花が散り始め、青葉が萌えいずる頃、婚儀の日が近づくにつれ、屋敷は祝宴の準備に追われ、慌ただしさを増していった。連日、様々な貴族の使いが訪れ、祝いの品々が届けられる。しかし、月白の心は、晴れやかな祝宴の気配とは裏腹に、深く沈んでいた。定まった婚儀は、彼女の心を雁字栫がんじがらめにする鎖のように感じられた。

 そんな中、母の見舞いのために朝霧が屋敷を訪れる日が来た。月白は、普段よりも一層、身なりを整えた。薄紅色の重ね着に、香を焚きしめる。彼が、ほんの一瞬でも、自分に目を留めてくれることを願って。彼の視線が、この薄衣の向こうにある自分の心を、わずかでも捉えてくれることを、密かに望んでいた。

 病床の母の傍らで、朝霧はいつものように静かに言葉を交わす。しかし、その視線は、時折、母の隣に控える月白の姿をかすかに捉える。その度に、月白の胸は高鳴りを抑えきれない。彼は母の様子を尋ね、都の出来事を語る。そして、婚儀の準備について簡潔に口にした。

「月白よ。婚儀の準備は滞りなく進んでいるか。右大臣殿の御嫡男は、高貴な御方。きっと、お前の幸せを願っておられるだろう」

 朝霧の声は、いつもと変わらぬ穏やかな響きだった。しかし、その言葉の裏に、何か別の感情が隠されているような気がして、月白は胸が締め付けられる思いだった。彼は、自分の心を読み取っているのだろうか? それとも、ただの形式的な言葉なのだろうか?

「はい、兄様にいさま。滞りなく、準備は進んでおります。右大臣様のお屋敷も、都随一の雅やかな佇まいと伺っております。」

 月白は、感情を悟られぬよう、努めて平静を装って答えた。その時、朝霧の手が、母の寝具をそっと整えるために伸びた。その指先が、わずかに月白の薄衣の裾に触れる。

 ほんの一瞬の、しかし鮮烈な接触。

 二人の間に、目には見えぬ電流が走ったかのように、空気がぴんと張り詰める。その場に漂う藤の残り香さえもが、その緊張を吸い込んでいるかのようだった。朝霧は、すぐに手を引き、何事もなかったかのように視線を外した。しかし、その指先から伝わった微かな熱が、月白の肌に残る。

 薄衣一枚隔てただけの、されど越えられぬ距離。それは、水面下で触れ合う二つの波紋のように、静かに、しかし確かに広がった。

 その時、病床の母が、微かに呻き、寝返りを打った。その眼差しが、まるで薄いとばりの隙間から、二人の間に流れる空気を探るかのように向けられた気がして、月白は思わず息を呑んだ。朝霧もまた、一瞬、母の方に視線をり、表情にわずかなかげりを宿した。

 その夜、月白は、再び筆をった。今度は、あの時詠んだ歌とは異なる、より直接的な想いを込めて。


 触れし袖 微かにほてりて 夜は更けぬ  心惑わす 君が残り香

(わずかに触れた袖から伝わる熱に、私の心は火照り、夜が更けていく。この心を惑わせる、あなたの残り香が忘れられません。)


 この歌は、誰にも見せることなく、文箱の奥深くに仕舞い込まれた。

 紙の裏に、触れた袖の熱が残るかのようだった。しかし、彼女の心は、この夜から、さらに深く、禁忌(きんき)の想いに囚われていくのだった。


     3 


 それからというもの、月白は、兄の朝霧を意識するあまり、毎日の装いに工夫を凝らすようになった。

 藤の花が終わり、初夏の緑が深まる頃、彼女は彼が好むと伝え聞く色合いの衣を選び、夜には、彼の香と同じ、墨と白檀を混ぜた香を部屋に焚きしめる。

 彼の心に、わずかでも自分の存在を刻み込ませたい。叶わぬ恋と知りながらも、彼女は、まるで禁断の果実を求めるかのように、その想いを募らせていった。

 一方、朝霧もまた、月白の様子に、何かを感じ取っていたようだ。

 母の見舞いに訪れる回数は、以前よりも増え、彼が滞在する時間も、わずかではあるが長くなっていた。そして、彼から漂う香も、以前にも増して濃く、甘いものになっていた。それは、まるで、月白の心をさらに深く探ろうとしているかのようだった。その香の奥に、彼の理性がかろうじて抑え込んでいる、(ほの)かな誘惑の気配が感じられた。

 屋敷に仕える古参の女房たちは、月白の身支度の変化や、朝霧が訪れた後の部屋に残る甘い香に、口には出さぬ好奇の目を向けていた。ひそやかな噂が、藤のつるのように絡みつき、広がり始めていた。彼らのひそやかな交流は、既に薄氷を踏むがごとき危うさをはらんでいた。


 ある日、朝霧は、母の見舞いの後、帰り際に月白に声をかけた。

「月白よ。お前が最近、部屋に焚きしめている香は、珍しいものだな。都の香とは、少し趣が異なる。どこで手に入れたのだ?」

 朝霧の声は、穏やかでありながら、どこか探るような響きがあった。月白の胸は、どくんと高鳴った。彼は、気づいていたのだ。彼女が、自分のために香を選び、焚きしめていることに。

 その言葉の遣り取りの中に、密やかな色香が宿っていた。

「はい、兄様。ある里の者が、珍しい香木を献上してくれたものでございます。その香が、私には、どこか心惹かれるものに思えまして……」

 月白は、動揺を悟られぬよう、必死に平静を保った。その言葉には、嘘も混じっていたが、彼女の心は、朝霧に気づかれたことへの喜びと、その意図が彼に伝わったことへの期待で、複雑に揺れ動いていた。

 朝霧は、じっと月白の瞳を見つめた。その視線の奥には、彼女の心を揺さぶるような、深い感情が宿っていた。

「そうか。その香は、確かに人を惑わす力があるようだ。私もこのところ、夜な夜なその香が夢にまで現れる……」

 朝霧の言葉に、月白の全身が粟立った。

 夢にまで現れる。

 それは、彼が彼女の香に、心を奪われている証ではないか。しかし,それと同時に、彼が「惑わす力」と表現したことに、かすかな背徳感も覚えた。兄妹という禁忌。それは深淵なれど、彼の言葉は、彼女の心をさらに深く、彼へと引き寄せていった。

 その夜、朝霧が屋敷を後にした後、月白は、再び筆を執った。今度は、あの「夜の花」の歌とは異なる、より大胆で、彼の心を誘うような歌を。


 夢にまで 通いし香の 誘いかな  が袖触れて 覚めし心ぞ

(夢にまで現れて、私を誘うその香は、一体誰の袖から漂っているのでしょう。その香に触れて、私の心は目を覚ましました。)


 この歌を、月白はあえて文箱に仕舞い込まなかった。代わりに庭に咲く、夜にだけ開く白い花の香を、歌が書かれた紙にそっと移した。その花は、人を誘い、惑わすような、どこか妖しげな香気を放っていた。彼女は、この歌と香を、明朝、兄の屋敷へ届けるよう、密かに仕える女房に命じた。この文は、単なる歌ではなく、彼女自身の秘めたる色香を凝縮した、密やかな誘惑の糸だった。


     4 


 季節は夏へと移ろい、月が冴え渡る夜。

 月白の文が朝霧の元へ届けられた。彼は、その文を受け取ると、夜まで誰の目にも触れぬよう、衣の奥に隠し持った。そして、夜更け、自室に戻ると、文を開いた。そこには、月白の(うるわ)しい筆跡で、あの歌が書かれていた。そして、紙から漂う、夜の花の、人を惑わすような甘い香。その香は、彼の理性の均衡を、静かに、しかし確実に崩し始めた。

 朝霧の胸は、激しく高鳴った。彼は、文と香をじっと見つめ、そして、深く目を閉じた。

 月白の、あの魅惑的な瞳が、彼の脳裏に焼き付く。兄妹という、越えられぬ壁。都の習わしに背く大罪が、その背に重くのしかかる。

「この一線を越えれば、家門の名に泥を塗り、未来永劫、世の(そし)りを受けるだろう。何より、病床にある母の心を乱し、その命を縮めるかもしれぬ。」

 朝霧の理性が警鐘を鳴らす。しかし、月白への情が、その警鐘をかき消すかのように募っていく。病床にある母の、穏やかながらもどこか憂いを帯びた顔が脳裏をよぎるが、募る情は止まらない。

 香は朝霧の血肉にまで染み入り、肌を熱く、痺れさせた。彼は、堪えきれぬ思いで、静かに立ち上がった。

 その夜、月白は、自室のひさしの間から、庭を眺めていた。

 満月が、屋敷の庭を白く照らし、夜風が、薄衣を優しく揺らす。彼女の心は、期待と不安の間で揺れ動き、彼の返事を、ただひたすらに待ち焦がれていた。薄衣が風に揺れるたび、月白の心に秘めた情熱が、月の光に透けて見えるかのようだった。その薄い衣は、彼女の心の高鳴りを映すかのように、僅かに震えていた。

 その時、庭の奥の小道から、人影が一つ、ゆっくりと近づいてくるのが見えた。

 月明かりの下、その姿は、朝霧に間違いなかった。月白の心臓は、激しく脈打った。彼は、禁忌を破り、ここへ来たのだ。朝霧の訪問は、言葉を超えた、何よりも雄弁な返事であった。

 朝霧は、縁側の下に立ち止まった。

 何も言わない。ただ、その瞳が、月白の瞳を、真っ直ぐに捉えた。

 二人の間に、言葉は必要なかった。互いの心に秘めた想いが、視線だけで通じ合う。

 月光が、彼らの間を、まるで祝福するように照らしている。その静かな空間に、馥郁(ふくいく)たる香りが満ち、二人の心を深く結びつける。

 朝霧は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、縁側へと上がってきた。その姿は、普段の冷静な蔵人頭ではなく、一人の男としての、抑えきれない情熱をまとっていた。彼のまとう衣から、墨と白檀の香が、より一層強く漂い、月白の心を深く包み込んだ。

 彼は、月白の目の前まで来ると、何も言わず、ただ、その手を、彼女の薄衣の袖にそっと触れさせた。その指先が、彼女の肌に触れる。

 夏の夜風が吹く中、その接触だけが、熱く、甘く、そして、秘めやかな誘惑の香りを放っていた。

 月白は、目を閉じた。彼女の頬に、熱いものが伝う。それは、歓喜の涙か、あるいは、禁忌を破る背徳の涙か。その夜の月の光は、二人の間に交わされた密やかな情の全てを見届けていた。


     5 


 その夜、二人の間に交わされた言葉は、ごく少なかった。しかし、その視線、触れ合う指先、そして互いの香が混じり合うことで、言葉以上の情熱が交わされた。

 月は、全てを見守るかのように、静かに夜空に輝いていた。薄衣一枚の隔たりは、もはや意味をなさなかった。

 夜が明け、鶏の声が聞こえ始める頃、朝霧は、静かに月白の部屋を後にした。彼の足音は、庭の露に消え、やがて、その姿は、朝もやの中に溶け込んでいった。

 月白は、彼の去った後も、しばらくの間、その場に立ち尽くしていた。彼の残り香が、まだ部屋の中に満ちており、それが、まるで昨夜の出来事が夢ではなかったと告げているかのようだった。

 婚儀の日は、刻一刻と近づいていた。

 月白は、右大臣の嫡男と結ばれることになるだろう。新郎は明朗な気性で知られ、疑うことを知らない。

 屋敷では、婚儀を待ち望む華やかな空気が満ち、右大臣家からの祝いの品がひっきりなしに届いていた。

 月白は、右大臣の嫡男と対面するたび、彼の飾り気のない誠実さに触れた。その誠実さは、彼女の罪の意識を、一層深く心の奥底に沈ませるのだった。それは、都の定めであり、誰も逆らえぬ運命だった。しかし、彼女の心には、もう一つの、誰にも知られぬ秘密が深く刻み込まれていた。その秘密は、彼女の人生を彩る、最も鮮やかな色となるだろう。

 ある日、右大臣の嫡男が、婚儀の準備のため、月白の屋敷を訪れた。

 彼は高貴で雅やかではあったが、月白の心には、何の響きもなかった。彼の纏う香は、都の流行の香で、彼女の心を揺さぶることはなかった。彼の背後で、あの甘く危険な香が、かすかに漂っているかのようだった。

 その日の夜、月白は、再び筆を執った。


 月影に 交わしし香は 消えずとも  定めし道を 独り行くかな

(月明かりの下で交わしたあの香りは消えることがないとしても、定められたこの道を、私は一人で歩んでいくのだろう。)


 彼女の歌は、叶わぬ恋の切なさと、しかし、その中で育まれた、誰にも侵されぬ秘めたる情熱を物語っていた。彼女の恋は、都の表舞台には決して現れることのない、薄衣の向こうに隠された物語だ。だが、その香りは、彼女の心の中で、永遠に燃え続けるだろう。まるで、消えることのない微かな火種が、胸の奥で燻り続けるかのように。

 都の貴族たちは、月白の婚儀を、雅やかな祝福の宴として見送るだろう。

 しかし、誰も知らない。

 彼女の薄衣の向こうに、燃ゆる想いと、禁忌を破った、甘く危険な香が、今もひそかに漂っていることを。

 そして、その香は、朝霧の衣にも、深く染み込んでいることを。

 二人の秘められし情熱は、時が経ても消えることはなく、互いの心の中で、永久に燃え続ける(あかり)となったのである。



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