【第32話】不穏な空気
午前中の市場は昨日の夕方と比べ閑散としていて、仕事へ向かう客の昼食用なのだろう炙り肉や、フィッシュパイを売る店が数件営業しているくらいだった。
目的のミルクとチーズは牛ではなくヤギの物だが、専門に扱う店を見つけ手に入れることができた。
店主によると、牛は家畜として非常に価値が高く貴重で、もっと王都に近い街でしか飼われていないらしく、値段もかなり高額になるそうだ。
そのかわりヤギは成長も早く飼料代も牛に比べ安くすむため、辺境の地域ではもっぱらヤギが飼育されているらしい。
昨日立ち寄った店で卵を買い足した後、のんびりと街を散策してみたのだが、残念なことに米を売っている店は見つけられなかった。
「この辺りで米は作ってないのか、それともこの世界に米が無いのか……ま、いいか。無いなら無いで、別に困るわけじゃないしな」
今のところ米の味が恋しいということもなく、漣は特に米が好きというわけでもない。
「日本人なのに?」
家族や仲間から事あるごとにそう言われ、そのたびに怪訝な顔をされたのも何だか少し懐かしい気がして、ふと空を見上げた。
眩しい日の光は、漣の真上で輝いている。
「この世界でも、あれ、太陽っていうのかな……」
空も雲も、髪を揺らしてそよぐ風も、元の世界と違いがあるように思えない。
「そんなとこでボーっとしてんな!」
通り過ぎる誰かに怒鳴られて、漣は我に返り道の端に避けた。
正午を告げる教会の鐘が、煽るように響く。
「もう昼か……そういや、腹減ったな」
街には裕福な商人や貴族に向けた高級店と、庶民を相手に手頃な価格の料理を提供する店があり、漣は迷わず庶民向けの店に入った。
今日街に出向いた主な目的はこれ、庶民向け料理を食べてみること。
一応料理人として雇われたわけだから、この世界の一般的な料理くらいは把握しておきたい。
開け放たれた入口を入ると、店内には4人掛けの丸テーブルが並び、6割程度のテーブルが客で埋まっていた。
広さはコンビニの1.5倍くらいだろうか。
「いらっしゃいませ! どうぞお好きな席へっ」
店に一人だけらしい若い女給が、陽気な声を掛けて手招きをした。
奥の席が空いているのを見つけ、店内が見渡せるよう壁際の席に座る。
ただ、テーブルを含めた店内のどこにもメニューが見当たらない。
どうしようかと漣が戸惑っていると、さっきの女給が注文を取りにやって来た。
「今日の料理は、クリーツァのシチューとアルミラージのポトフですけど、どちらにしますか?」
ああ、なるほど。と、漣は心の中で頷いた。
メニューが無いのは、提供する料理が日替わりでしかも二品だけだから。
これなら、ある程度の量を作り置きしておけるし、すぐに出せるから客の回転率もいい。
それに、仕入れる食材も限られるので、余りが出るような無駄がないだろう。
「じゃあ、クリーツァのシチューを」
両方試してみたかったが、他の客のテーブルを見て諦めた。
どのテーブルに置かれているのも、ほぼラーメン鉢と同じかそれ以上の大きさだったからだ。
小食な漣には、一つでも食べ切れるか怪しい量である。
「お待たせしました、クリーツァのシチューです!」
5分と待たずに注文の料理が出てきた。
シチューといっても、漣のイメージにあるシチューのようにこってりしたホワイトソースやデミグラスソースを使う濃厚なものではなく、茶色い半透明なスープで煮込んだもので、見た目は日本の肉じゃがに近い。
ジャガイモやニンジン等の野菜類が多く、メインのはずの肉はほんの僅かしか入っていないが、値段を考えればこんなものだろう。
「惣菜の肉じゃがだって、肉はちょっとしか入ってないしな」
そして肝心の味はといえば……。
「うん、普通だな」
美味くはないが、思っていいたほど不味くもない。
肉は口の中でほろほろと崩れるほど柔らかく、ハーブ類と一緒に煮込んであるようだが、たぶん血抜きをされていないらしく少し生臭さが残っている。
塩気がまったくないのは、塩や胡椒が高級品で庶民には気軽に使えないのだろう。
周りの客を見ると、みんな満足そうに食べている。
「これが、食文化の違いか……」
漣は少しだけ、パントリーの特典をくれたメビウスに感謝した。
半分ほど食べ終えそろそろ味に飽きてしまい、どうやってあと半分を胃に納めるか漣が考え始めた時だ。
ドカドカと無遠慮な靴音をたてて、見るからにヤバそうな雰囲気の厳つい男たちが店に入ってきた。
「いらっしゃいま、せ……」
他の客の給仕をしながら振り向いた女給が、声を詰まらせ引きつった笑顔に変わる。
「おいっ、この店で一番上等な食いモンと酒を持ってこい!」
中央の席に陣取った男たちの一人が、傲慢な態度で怒鳴った。
「は、はいっ。ただいま」
焦った様子で厨房に駆け込んでゆく女給。
「あ~あ、なんか不味いタイミングだなぁ……」
今日この時間この店に入ったことを、漣は少しだけ後悔した。




