◆◆ 006 -暴食の般若は欲望にあらがえない-(1/4)◆◆
……また、この夢だ。
俺の前に射抜くような視線を浴びせる5人の瞳。
俺の全身は汗びっしょりだった。
まるで蛇のようにギラギラと獲物を狙うその視線。
俺はまさに蛇ににらまれたカエル。
喉の奥でゲコゲコと音もたてずに鳴くのが俺にできる唯一精一杯の抵抗。
逃げたくても逃げられない。
手も足も動かない俺はただただ身をすくませる。
と、どこからともなく伸びてきた鎖が俺の手足を引っ張り上げる。
抵抗するもむなしく俺は五人の前にギリシャ神話の女神のごとく、大の字に磔。
ずずず、と一人の蛇が前にはい出て、長い髪をゆらしながらその鎌首を持ち上げて、俺を見上げる。
蛇の口元は赤い口紅で彩られていた。
その口元からしゅるんと一瞬、舌を見せる。
やめろ、俺に何をする気だ。
俺は無駄な抵抗とわかりつつも、全身の拘束を解こうとどうにかあがく。
蛇は俺に向かって、大きく口を開ける。
「―――!」
声の出ない絶叫。俺は全身で叫ぶ。だが、事態は何も変わらない。
後ろの四人はただニヤニヤと嘲笑の眼光で俺を見ていた。
そして、蛇は俺に向かって、もわわ~んと何かを吐き出した。
そのもわわ~んは、俺の周りをもわわ~んと包み込む。
くさっ!
その鼻の曲がりそうな臭気に俺の顔が歪んだ。
顔をそむけても、もわわ~んはもわわ~んともわわ~ん。
なんだこれ!? 納豆を焦がして、くさったイカの塩辛のぬめった感とタマネギの刺激を足したような感じ!
目が! 鼻が! 目が! 鼻が!
たまらず口を開けてしまった俺に、そのもわわ~んガスが肺の中に入りこんできた。
この世の全ての悪臭を詰め込んだかのようなソレは、俺の全身隅々までもわわ~んともわわ~ん。
涙、鼻水、唾液が溢れ、とめどなく俺の顔面を流れ出る。
抵抗できない俺は全身にひきつけを起こし、意識さえも暗く途切れていった。
「おにいちゃん!」
消えゆく意識のどこかで、かすかに俺を呼ぶ、幼いころの妹の声がした……。
………………。
…………。
……。
◆◆ 006 -暴食の般若は欲望にあらがえない- ◆◆
意識を取り戻した俺の視界には、鬼のような形相の現在の我が妹の顔。
妹の顔に手を伸ばすと、ガシッと思いっきり掴まれた。
いたっ! いたいって! 思いっきり握るなって!
「よかった……」
うめく俺に妹はホッと表情を緩ませた。
俺も腕の痛みに、意識が現実に還って来た。
「あにぃ、大丈夫?」
妹は心配そうな表情で俺を見ていた。
あんまり大丈夫ではないぞ。
俺は掴まれた腕をゆすって、妹に伝える。
妹はようやく気が付いたのか、俺の腕から手を放す。
口の中がカラカラだ。口を開けたまま寝てたのか、俺は。
俺はむくりと起き上がり、口を閉じて肺の中の空気を循環させる。
目も口も鼻の中もカラカラで乾いている。
「お前、何でここにいるんだ?」
俺の発言に、がびーんと妹は大口を開けた。
うん、我ながらひどい発言な気はするよ?
妹はうつむいて、身体がぷるぷると震え出しました。
とりあえず落ち着こうか、我が妹よ。兄だって聞かれたくないことはあるんだぞ。
俺は精一杯の笑顔を妹に向ける。
「人が心配してやってんのに、なんやの! このあほんだらーっ!」
俺はボスっと枕を頭に叩きつけられた。そして、のっしのっしと妹は部屋を出ていった。
わかってほしい この妹に 心配かけまいとする 兄心
なんとなく俺は心の中で俳句っぽい何かを読み上げた。
* * *
コポコポコポとお湯が沸き立つ音。
俺は台所で何か食べるものがないかと物色中。
今はスープ物を身体の中に入れたい気分だ。
すするよりもすすりたい、麵よりもスープを。
しかし出てくるのはヌードル系か焼きそばばかり。胃の中の蛙が俺に固形物はよせと告げている。
と、奥の方からコロコロコロと一風変わった色合いの容器を持つと、重量は他のものより一段軽め。
……フォー?
聞き慣れない商品名を脳内でつぶやき、俺は頭を傾ける。
色合いは緑や青の爽やか系で商品説明には鶏だしとある。
あっさり系か、たまにはいいだろう。
お湯を沸かしていた電気ケトルのお湯は、今は静かに注がれるのを心待ちにしている。
フタを開け、半透明の麺の包装を剥がし、添付のスープの素をふりかける。ハーブと思われる清涼な芳香。
そこにお湯を注ぐと、その芳香は一層の清涼感を増し、俺の全身に鼻先から隅々まで駆け巡る。
浄化、解毒、リフレッシュでウォッシャブル。
伝えたい。この全身にどくどくと駆け回る毒が、この清涼で清浄なきらめきの風によって消えてゆく。
芳香だけでこれほどならば、口にしたときはさぞかし、俺はアルプスの少女のように純真な心となるだろう。
俺は浮き立つ心を口笛で軽やかに奏でながら、うきうきウォッチングで居間へと足を踏み入れる。
ちゃぶ台には先客がいた。
着物に身を包んだ、扇子を片手の……般若。
……はんにゃ?
俺の身体は凍結する。極光に処刑された氷の戦士のように。
般若は扇子をバサッと開く。
『こんにちは。お邪魔してます』
毛筆で書かれたような細い和の書体の文字が縦書きで表示された。
あ、今度はそれが電子パッドなのね。
もはやタッチペンすら不要になったとは、技術の進歩ってすごいなー、おそれいるなー。
「こんちゃっす」
俺は視線を合わせず、ちゃぶ台について、ペコっとカップフォーのフタを開ける。
密閉された芳香が容器の砲口から咆哮を上げる。
俺はそれを包み隠さず鼻から、全て吸い上げる。
全身を駆け巡る清浄なる芳香に、俺は鼻から静かなる咆哮を上げる。
『あなた、わかってますね』
一度、扇子をバサッと閉じて、再び開くと開いた扇子から新たな文字が映し出されていた。
どんな仕組みやねん。超技術。これが組織の力なのか。
一瞬、戸惑うも俺はズズズッとかぐわしき芳香とともに米粉で作られた麺、フォーをすすり上げる。
青き清浄なる世界が俺の全身を駆け巡る。
異文化革命、ルネッサーンス!
新たな異文化との出会いが俺の全身に新たなる歓喜をもたらした。
「お待たせ、般若さん。あー、あにぃ、やめてよね。人前でカップラ食べるの。みっともないじゃない」
妹の小言を聞き流し、俺はさらなるフォーをすすりこむ。
塩味のスープに、ハーブの芳香。
ずきゅん、ばきゅんと湯気と共に放たれるソレは、俺の全身を清く正しく美しく。
「よく食べれるね、それ。うち、青臭くてダメだったのに」
『パクチーは好みが分かれますからね』
「般若さんは大丈夫なの?」
『人並みです』
居間のちゃぶ台に着物扇子の般若と何の変哲もない青臭い兄と妹。
なんだこの光景は。今回に限った話ではないが、今回は特におかしすぎるだろ。
『私、お兄さんとは仲良くやっていけそうです』
そうなの? どこに俺と仲良くやっていけそうな要素を見出したの?
俺はフォーをすすりながら、心の中で疑問を口にした。
「よかったね、おにいちゃん。般若さん、気に入ってくれたって」
ぱっと花咲く妹の満面の笑顔。
それ自体はいいんだが、……いいのか? 人前で般若のお面の人と兄が仲良くしてお前は平気なのか?
ぐるぐると色んな疑問が渦を巻くが、それらを全て俺はフォーの残ったスープとともに飲み込んだ。
そして、俺は口を開いた。
「あんた、唐揚げには何をかけて食べるんだ?」