40. 愛の理由
――戻った。
夏樹は顔を上げた。周囲の空気が変わっている。重苦しくじめじめとした雰囲気は消え、ただ熱い風だけが吹き抜ける。
山の空気だ。
自分の両手を見る。土に汚れたはずの手は綺麗になっていた。
擦り傷もない。服の汚れも消えている。
風が吹く。それは甘えるように夏樹の頬を撫でた。
ホーム。なぜかそんな風に思う。
蓮の攻撃から身を守るために、減りに減った霊力が、緩やかに戻っていくのを感じる。
夏樹はゆっくりと立ち上がった。
戻って来た。そう感じる。
妙だな。こんな不気味な山を。
背後から呻き声がして、夏樹は振り返った。
蒼太が目を覚ましていた。あれだけ流れていた額の血が見当たらない。傷が無くなっている。血で汚れ固まっていた前髪が、さらさらと流れた。
まるで、そこでちょっと昼寝でもしていたみたいだ。
ただ、明らかに顔が青ざめている。おそらく、失った血は戻っていない。貧血状態だ。
夏樹はそっと近寄り、蒼太を覗き込んだ。
こいつは、全然霊力が戻らないな。
たぶん、この山が心地いいのは自分だけなんだろう。この男や蓮たちには、そこまで優しい場所じゃなさそうだ。
はやいとこ下りた方がいい。
「おい、大丈夫か?」
声をかけ、分かりきったことを聞いた。大丈夫じゃない、ことは、まぁ、見ればわかる。
でもこういうのは様式美だから。
「……あつき?」
「え?」
焦点の合わない目が夏樹を見て、子供のような声色で、自分とよく似た、でも知らない名前を呼んだ。
パチパチ、ぼんやりとした目が何度か瞬きをする。やがて、蒼太の目がはっきりと夏樹を捉えた。
「誰、おまえ」
「……、杏条夏樹。自分がなんでここにいるのかは、よく分からない」
蒼太の目が不信感に色づいたが、気にせず夏樹は手を差し伸べた。
「肩を貸すよ。山を下りよう、みんなで」
「みんな?」
「あっちに紗世さんがいるよ、君の知り合いだろ」
紗世の名前に反応して、ハッと蒼太の目が見開く。夏樹は苦笑して、無理に蒼太を腕を掴み、引き起こした。
その時背後から、蓮の焦ったような叫び声が聞こえた。
あぁ、今度はなんだよ。
蒼太を支えながら振り返る。視界の先で、倒れこむ紗世を必死に支える蓮の姿が見えた。
◇◆◇
(分かりやすく落ち込んでるな……)
夏樹はソファに深々と身を預けながら、沈痛な面持ちで肩を落とし俯いている蓮を、興味深げに眺めた。
蓮はもう、はた目から見て分かるほど如実に青ざめている。時折唇が戦慄いて、何か話そうとするが、言葉にならないようだ。
4人はなんとか下山できた。まぁおかしな現象さえ起きなければ、朱雀山は普通の山道を歩くだけだから、通常であればそこまで大変なことではない。
ただ、4人中1人がふらついてまともに歩けず、1人が意識を失っている状態だったため、えらい苦労したというだけだ。
紗世はまだ目覚めない。洋館から朱雀山へ戻ってから、ずっと気を失っている。
夏樹は、紗世の青白い寝顔を思い出し、目を閉じていると人形のようだったな、と他人事のように思った。
『アンタが連れてって、僕じゃ駄目だ』
てっきり蓮が彼女を抱えて下山すると思っていたのに、蓮は何故か怖がるように紗世を夏樹へ預けた。
代わりに蒼太へ肩を貸す。蓮の方が背が小さいから、ひどく辛い体勢だったろうに、いつもはぴいぴい文句を言う生意気な男は、下山中一言も口をきかなかった。
仕方なく夏樹は紗世を背負って――まぁ軽かったけれども――下山した。
山の麓で待っていた新島は、蒼太を見て「また増えてるじゃん」とブツブツ文句を言ったが、人数が増えることは見越していたのか6人乗りの車で来ており、4人はなんとか新島宅まで戻ってこれた。
そして今、蒼太と紗世はそれぞれ寝室で寝ており、夏樹と蓮はリビングで顔を合わせている。
「紗世さんの傍に居なくていいのか?」
夏樹の問いに、ピクと蓮が反応する。そして怯えたような顔で首を振った。
「何があったのか知らないけど、君って極端だな」
「うるさいな、ほっといてくれよ」
「それでもいいけど。しかし君、そんないかにも『落ち込んでます』って顔して俺の目の前に座って、ほっといては無いだろ」
自覚があるのか、蓮はばつが悪そうに黙り込んだ。
夏樹は蓮を見つめ、同じように黙る。黙って、待った。
(所詮は末っ子だ。甘ったれの次男坊。黙って傍に居れば、いずれは口を開くんだろ)
本当に放っておいてほしいなら、ここにはいない。話を聞いてほしいから、一人じゃ抱えきれないから、話し相手が欲しくて自分の傍に来たんだろ。
夏樹は静かに待つ。
やがて、蓮が震える声で話し始めた。
「玄武は依り代が二人いるんだ。蛇と亀、動と静、攻と守、刀と鞘。役割が分かれてる」
「刀と鞘か。あの場所で、君、刀を使ってたな」
うん。小さな声で蓮が頷く。
「兄さんは攻撃に刀を使うんだけど、それは姉さんが持ってるんだ。姉さんがいつも体の中に持って、力を貯めて、守ってる。兄さんが必要になったとき、いつでも使えるように」
「その刀を、さっき君は使ったのか?」
「違う。兄さんの刀は兄さんにしか使えない。あれは僕の刀だ」
心細く話す蓮の瞳に、仄暗い執着の色が見えて、夏樹は目を瞬いた。
「君の姉さんは、刀を何本も持ってるのか?」
「……いや、今までは一本しか持ってなかった。一本しか持てないはずなんだ」
「でも」
「たぶん、兄さんの刀は、まだ兄さんが持ってる。姉さんの中に戻ってきてないんだ。姉さんの鞘は今、空っぽで。だから僕の刀を孕めたんだと思う」
孕めた。
その言い方がやたらと生々しくて、夏樹はまじまじと蓮を見返した。
なんだ今の言い方。
蓮は、夏樹の物言いたげな視線には気づかず、ただ心細さげな顔をして視線を上へ向ける。
二階で眠っている紗世へと。
「刀を産むのは、すごく力を消耗するんだ。蓄積した霊力を一気に使うから。その分、すごく強くて……だから兄さんは、この辺一帯じゃ、一番強かった。刀を使ってるときは」
「そうだな、さっきの君も、すごく強かった」
「……うん」
「嬉しそうじゃないね」
「コントロールできなくて」
そうだな。君に殺されるかと思ったよ。
夏樹は微笑んで、その言葉を飲み込んだ。まごうことなき本音だけれど、今これを言ったらマズいことになる。
しょんぼりと俯く蓮を眺め、夏樹はなるほどなぁ、と思った。
紗世だけが生み出せる強い刀。
一度に一本しか作れない。今までは兄だけの特権だった刀。
なるほど。
蓮の、紗世に対する、あの盲目的な、崇拝のような愛は。
(こいつは本能で分かっているんだ。姉が、自分の力を増幅させると)
蓮が姉を愛している理由は、可愛いとか綺麗だとか、今までの思い出だとか、まぁそういうこともあるんだろうけど。
でもたぶん根底にあるのは、本能なんだ。彼女が自分を強くするキーだと分かっていて、だから渇望して、でも得られなくて。
『姉さんは僕のこと好きじゃないよ。今は記憶がないから傍に居てくれるだけだ。前は、あんまり話してくれなかった』
同じ家で暮らしているのに、家族なのに、自分は愛しているのに。なのに自分を好きじゃない姉を、それでも妄信的に愛するのは。
あぁ、と夏樹は内心で微笑んだ。
それは情念だよ、きみ。




