4. 浴室の出来事
まずい、と紗世が身を引いた途端に、浴槽からバシャンと音を立てて腕が伸びて紗世の腕を掴んだ。
思わず悲鳴をあげる。振り払おうと身をよじったが、ぬめつく腕は強い力で紗世の腕を掴み続ける。
不意に、浴槽の床が急になくなったように感じた。耳鳴りのような音が浴室に響き渡る。無数の腕が紗世の手足を掴み、お湯に沈めようと引っ張った。体が沈んでいく。
紗世は咄嗟に浴槽の縁を掴んだ。浴室で溺死は確かにホラーゲームっぽい、でも嫌だ。
水音に混じって、何か、呪詛のような声が聞こえる。それは死ねとも落ちろとも聞こえた。ぬめる手が紗世の顔を掴み、水へ引きずり込もうとする。
滑る手で必死に抵抗していると、ガタンバタンと大きな音がし、浴室のドアが勢いよく開いた。
「姉さん!」
浴室へ入って来た蓮は息を呑み、紗世の腕を掴んで浴槽から引き上げた。紗世を掴んでいた手がどろりと溶け、浴槽のお湯がバシャリとひときわ大きく跳ねる。紗世は蓮にしがみついて目を閉じた。背後で何が起きているのか見たくなかったからだ。
蓮が言葉を紡ぐ。音は低く、水の音に阻まれて紗世には聞き取れない。だがそれは、さきほどの呪詛に似ていた。
断末魔の叫びのような物が聞こえ、浴室が静かになった。
蓮は大きく息を吐き、紗世の背を優しく叩いた。
「もう大丈夫だよ、姉さん。怪我は? 痛いとこある?」
「ううん、平気、です。ありがとう……」
紗世が身を起こして礼を言うと、蓮は微笑んだ。そして、ふと目を丸くし、頬を赤くする。
「あの、ごめん、姉さん、ちょっと、離れて」
「あ、ごめんなさい、濡れちゃいますね」
「いや、そんなことはいいんだけど……」
蓮は口ごもり、明後日の方向へ目を逸らした。
紗世はよろめきながらも立ち上がり、脱衣所へ出た。浴槽を見るのが怖かった。バスタオルで身を包む。震えているのは、寒いからではなかった。
続いて蓮も、脱衣所へ出てくる。不自然に紗世から目を逸らしながら、蓮は言った。
「姉さん、そしたら僕、居間にいるからね……」
疲れたような顔で脱衣所の扉に手を掛ける蓮の腕を、紗世は咄嗟に掴んだ。
「蓮くん、待って、行かないで」
「え!?」
「そこにいてください、怖いから」
「だっ……でも、あの」
「お願い、そこにいてください、そっち向いたまま」
「う、うん……」
蓮は口を覆い、うつむいてドアの前でじっと固まった。紗世は急いで体を拭き、服を身に着ける。布ずれの音がするたび、蓮はどんどんと俯き、最後にはドアに額を押し付けていた。
「もういいですよ、ありがとう」
紗世の言葉に、蓮はゆっくりを振り返る。泣きそうな顔をしていた。蓮も怖かったんだ、と紗世は思った。
「蓮くんも、お風呂……は無理でも、シャワーは浴びますよね?」
「え? あぁ、そう、そうだね」
「私、ここにいてもいい?」
「え!?」
「脱衣所にいてもいいですか? ひとりになるの怖くて……。浴室のドアは閉めますから」
本音を言えば、脱衣所の鏡も微妙にフラグが立っているような気がするが、この際仕方がない、と紗世は思った。
蓮は明らかにゲームでいうところの戦闘要員だ。どうやって闘っているのかは分からないが、襲ってくる怪物を撃退する能力を持っている。
(でも、秀悟の弟なんて、ゲームには出てこなかった)
彼もまたイレギュラーに生き残った人物なのだろうか。それとも、自分がまだ見ていないゲーム終盤に出てくるキャラクターなのだろうか。
いずれにせよ、彼から離れない方がいいだろう、と紗世は思った。
死亡を回避した要因が蓮にあるなら、彼から離れない限り、回避は続けられるかもしれない。
逆に言えば、蓮から離れた途端に、ゲームの強制力が働いて死に近づくかもしれない。
今さっきのように。
紗世の「ここにいていいですか」の言葉を聞いて、蓮は呆気にとられたように一歩下がった。背がドアにぶつかる。鈍い音がした。
「い、いいけど、姉さん、あのさ、もうちょっと警戒して」
「え? もっと? じゃあ浴室のドア開けておいてもいいですか?」
「ちがう! ちがう、そうじゃない、いや、そっちもだけど、僕に対して、もうちょっと……一応、僕は男だから」
「??? 私達、姉弟なんですよね?」
「そうだよ」
「??? 何を警戒するんです?」
「……、そうだね、ごめんね……」
蓮は手を額に当て、大きくため息をついた。
◇◆◇
「え? 別々の部屋で寝るんですか?」
「うん、ベットは一つしか用意できなかったから、姉さんが使って。僕は居間のソファで寝るよ。何かあったら呼んでくれればすぐ……」
「どうして? 一緒に寝たら良いじゃないですか」
紗世の言葉に、今度こそ蓮は口を開けて固まった。
蓮はお風呂から出た後、新島が用意した寝室の一室へ紗世を連れて行った。
そこはシングルベットひとつ、机ひとつのシンプルな部屋だった。椅子はあるが、ソファは無い。
「それは……、まずいんじゃないかな。見ての通り、ベットはひとつしかないから」
「私たちなら二人で寝れますよ」
「そうだね、くっつけばね」
くっつけば、の言葉を蓮は異様に強調した。紗世は軽くうなずく。
(年頃だから、嫌なのかな? でも非常事態だからね、仕方ないよね)
一人で寝るのは怖い。夜中にふと目を覚ますと、部屋に誰かが……!というのはホラーゲームの鉄板だ。あるいは女の霊に髪で首を絞められるとか、そもそも起きたら全然違う部屋に(たいていは人形がたくさん飾られていたりする)飛ばされているとか。
「ベットから落ちないように、くっついて寝ましょう」
紗世がそう言うと、蓮は何故かまた泣きそうな顔をした。




