35. 少女戦開始
裏庭に出た紗世たちは、異様な光景を見た。
そこには井戸があった。
それは蓮や夏樹には「井戸にしては質素だな」と思うような、ただ石垣の円柱があるだけの井戸だった。
でも紗世にはもう、見ただけで脳内に警報が鳴り響くような井戸だった。
いまにも出てきそう、髪の長い女が。
だが身をすくませている場合ではなかった。井戸の前には少女がいた。少女は蒼太を井戸へ落とそうとしている。
けれど蒼太の方がずっと背が高いせいで、なかなか落とすことができない。少女は蒼太の胸倉を掴み、高く持ち上げた。
蒼太は動かない。意識がないようだ。額から血がどくどくと滴っている。それは少女の手も汚していた。
ああ。紗世は目を逸らしたくなるのを必死でこらえる。
バットエンドでは、蒼太は頭を割られて井戸に落とされる。そして井戸の底で生きながらに、血の匂いを嗅ぎつけたネズミや虫に食べられてしまうのだ。
トラウマもののムービーである。
あれと同じようなことが起きようとしている。
ピシ、と亀裂が走るような音が、すぐ足元から響いた。
氷だ。隣にいる蓮の足元から、ビキビキと氷が出現し、井戸へ向かう。
少女が蒼太を落とせないよう、氷で固めようとしているのだ。攻撃に気づいた少女がこちらを向いた。落ち窪んだ眼で。
見えない力が氷を割る。少女に触れる前に、氷が爆ぜて消えた。
蓮が焦ったように舌打ちする。紗世の手に何かをぐいと押し付けた。
「姉さん、これ持ってて」
紗世は思わず受け取り、それを見る。
赤く熱い。朱雀の御守りだ。
「昨日の技を覚えてるよね? いざとなったら使うんだよ、僕を巻き込んでもいいから」
蓮、と声をかける前に、蓮は紗世から離れ、数歩前へ歩いた。
紗世と夏樹を庇うような位置に立つ。
「僕じゃ火力不足なんだよな、オールラウンダーって聞こえはいいけど、要するに中途半端なんだよ」
誰に言うでもなく、蓮が呟いた。
ーーーーーーーーーーーあ。
今の台詞は、聞いたことがある。
『俺じゃ勝てないかもしれない。オールラウンダーってさ、聞こえはいいけど……君と比べたら、俺って中途半端だよな』
これは蒼太の言葉だ。ボス戦前に朱莉へ言う台詞。
それを受けて朱莉は言う。「そんなことない。私を守ってくれるって、信じていますから」と。
ボス戦前のちょっとした、心温まるイベント。少しだけ恋愛要素の混じった、プレイヤーをドキッとさせるイベントだ。
そしてそのドキドキを維持したまま、プレイヤーは本物のドキドキが待つボス戦へと突入する。吊り橋効果のようなイベント。
ボス戦前へ戻っているのかも。
紗世は咄嗟に、蓮の背中へ声をかけようした。朱莉のような言葉を。
でも何て言えばいい? 守ってくれるって信じてる? それは、でも、この場合は、信じて当たり前じゃない?
この子、ずっと私を守ろうとしてくれてたんだから、今更言葉にしなくても。
紗世はほんの一瞬考え、そして言った。
「がんばって。蓮なら、私のお願いなんでも叶えてくれるって信じてる」
ふ、と隣で夏樹の笑う気配がした。前にいる蓮がチラとこちらを振り返り、わずかに笑う。
空が赤く染まり始める。紫だったはずなのに。明るく、濃い、血のような赤色に。
ほら来たぞ、と紗世は思った。あの赤色は、洋館のボス戦開始の合図だ。
ここは現実の世界だから、BGMは無い。でも、もしあったら、きっと変わってた。
裏庭に風が吹く。木々が揺れる。
周囲が冷たい空気に変わる。蓮を中心に、空気がキラキラと光り始めた。地面に霜が出現し始める。空気は既に痛いほど寒い。
夏樹が手を伸ばし、紗世を抱き込んだ。すると寒さは無くなり、代わりに少しだけ暑さを感じる。
「その人に、あんまべたべた触んなよ」
「分かってるよ、許容範囲だろう」
こちらを振り向かずに蓮が言い、夏樹が笑って答えた。
それが何かの合図だったかのように、蓮の足元からすさまじい勢いで地面が凍り付いていく。
氷は勢いよく少女へ向かった。少女は動じない。顔だけをこちらに向けて、ただ立っている。
けれど何かしらの防壁が発生しているのか、氷は少女へたどり着く前に、さっきと同じように阻まれて割れ、四方へ飛び散った。
その飛び散った氷が、また地を這うように増殖していく。
すこしずつ、井戸を包囲していく。
そうだ、ああやってじわじわ包囲していくしか、蓮には手がない、と紗世は思った。
あの子は単体技を持っていないと言っていた。広範囲の技しか撃てないのなら、気絶して身動きの取れない蒼太がいる今の状況では、物理的に少女を絡めとるしかない。
少女の周囲だけは、井戸も周りの土も草も、変わらず存在居続けている。
けれどその周りは凍り付いていく。無事な場所は徐々に狭くなり、少女の周囲にバチバチと稲妻が走った。
「押し切れるかな」
少女の様子を見ていた夏樹が、紗世に視線をチラと移して聞いた。
意見を求められていることを、紗世は少し意外に思った。蓮も蒼太も、紗世を守ろうとするけれど、あまり意見を聞くことは無かったから。
「いまの段階なら、蓮の方が強いと思います。あの少女は蒼太さんとの戦いで消耗している」
「その言い方は、次の段階があるように聞こえるけど」
「あります」
紗世はきっぱりと言い放つ。それと同時に、ついに氷が少女へと到達しはじめた。少女の足元から煙が上がり、凍り付いていく。
そこで初めて、氷の速度が落ちた。
蒼太を巻き込んで凍らせることを恐れて、蓮のコントロールが慎重になっている。
でも、そのせいで少女の防壁をなかなか崩せない。力で押し切ることができないからだ。
紗世は先ほどの少女と蒼太の攻防を思い出した。
少女はボスキャラだ。HPゲージのようなものはあるだろうが、MP……いや、霊力ゲージのようなものはないはず。きっと霊力は無尽蔵に湧いて出る。防壁は消えない。直接少女にダメージを与えて倒さない限りは。
長引けば、蓮の霊力が枯渇してしまう。
そしたら、バットエンドで井戸の底だ。
「蒼太さん……!」
紗世は思わず、蒼太の名を呼んだ。
もう…(泣)また水曜分をスキップしてしまいました。もう自分が信用できない…来週分を今から書きます…!




