12. 逆さ女
天井がミシミシと鳴る。それは小さな音なので、移動しているときは自分の足音に紛れて気づかない。
紗世は蓮の手を掴んだまま立ち止まった。
部屋を移動した直後は、巡回敵は現れない。敵が現れるのは、必ずマップ移動後に少し移動してからだ。
いま自分は5歩、歩いた。ゲーム的にはこれだけ歩けば、「移動した」とみなされるはずだ。
「ね、単体技を持ってる?」
「え? さっきみたいなやつ1体に効く技ってこと? 持ってるけど……」
「すてき。出力最大で準備しておいてね」
蓮が何か言う前に、ポタポタ、と紗世のすぐそばで音がした。
天井から雫が落ちている。紗世は見なくてもそれが何か分かった。血だ。
「蓮、くるよ」
「え、なに、なにが?」
「おばけ」
紗世は身も蓋もない言い方をした。でも他に言いようがない。
逆さ女の出現イベントはよく覚えている。敵の初回登場シーンはムービーなのだ。逆さ女のムービーはよく出来ていた。
まずは床に落ちる血。そして前方から後ろへ抜けていく女の笑い声。朱莉は思わず後ろを向く。でも何もいない。訝しく思いながら正面を向くと、上から女が降って来る。首を絞められ、たいていは死ぬ。
いわゆる脅かし系だ。初見殺し。
紗世は蓮の腕に精一杯体を寄せ、腕を絡めた。胸があたり、蓮が変な声を出したが、そんなことには構っていられない。
―――――来る。
女の笑い声がした。気が触れたような、細く耳障りな甲高い笑い声。前方から突風が吹く。その風に乗って、女の笑い声は後方へ去っていった。
思わず蓮が後ろを振り向く。紗世は止めなかった。
「なんだ、今の……」
蓮が前を向くと同時に、紗世は蓮の腕を強く掴み、しゃがんだ。「わっ」と声を上げて、蓮もよろめきながら身を低くする。
それと同時に、
バン!
と天井から女が逆さ吊りになって降って来た。
女の両腕が、先ほどまで紗世の頭があった場所に伸びる。首を絞めようとしていたのだ。紗世はしゃがんでそれを回避し、そのまま逆さ女の下をすり抜け、蓮の腕を引いて走り出した。
首を絞め損ねた逆さ女は、おそらくすぐ反転しこちらを向く。そして笑いながら追いかけてくる。逆さ女の動きはかなり速いので、普通に闘っていてはいずれ掴まってしまう。
ただ、逆さ女は曲がり角を曲がれない。もっと言えば、曲がるモーションを持っていないのだ。だから曲がり角でいったん姿を消し、曲がった先でまた姿を現す。
その姿を現した瞬間が、攻撃を当てるチャンスなのだ。なぜなら姿を現すその一瞬だけは、逆さ女は棒立ち状態になり(ぶら下がっているから立ってはいないけど)、攻撃を仕掛けてこない。
紗世は蓮の手を引きながら、曲がり角を目がけて走る。
「蓮、撃つ準備をしておいて」
「えっ」
「私が合図をしたら――」
廊下の曲がり角を曲がった。紗世は息を吐いて、背後を伺う。逆さ女が笑いながら追いかけてきている。
OK。私はここにいる。あいつは絶対ここを曲がるためにいったん消える。そしたらまた私たちも曲がって――。
「姉さん」
「待って、まだ」
「姉さん!」
「しっ、待って、タイミングが大事なの」
「姉さん! あれ見てよ!」
なによ! と振り返り、紗世は固まった。
曲がった廊下の先は、また少し長い廊下だった。その奥からガチャガチャと音がする。
何かが歩いてきている。重くて硬い金属の音。
それが何か、紗世は分かっていた。
武家屋敷のステージで徘徊する巡回敵は2種類いる。ひとつは逆さ女。普通にプレイしていると、ステージ最後の方でお目にかかる敵だ。
でもここにはもう一体、巡回敵がいる。出現フラグが難しいので、普通ではお目にかかれない。
鎧武者。
上位版の巡回敵だ。
(なんで!? そんなに倒した!?)
紗世はパニックになる。鎧武者は滅多に出現しない。出現させるには、敵を100体くらい倒さないといけなかったはずだ。
さきほどの日本人形を思い出す。さすがに100体はいなかっただろう。なぜ――……。紗世はハッと思い当たる。
(誰かが、他の場所で敵を倒しているんだわ)
出現条件の撃破数は、累積されていく。朱莉編で5体倒し、次の秀悟編で敵を倒すと6体目と表記される。
先ほどの蓮の攻撃を思い出す。あんなチートみたいな技が、この山のあちこちで繰り広げられているとすれば、すべての巡回敵の条件が満たされていたとしてもおかしくない。
逆さ女の笑い声が、すぐ傍で聞こえた。
(しまった!)
後ろから、女が出現する気配がする。紗世は咄嗟に蓮の腕を引き、しゃがみこもうとした。首を絞められたらお終いだ。
背後の鎧武者を見ていた蓮が振り返る。曲がり角から出現した逆さ女の手が、紗世の首に伸びているのを見て、息を呑んだ。
「やめろ!」
蓮が手を伸ばし、逆さ女の腕を掴んだ。えっ、と紗世は驚愕する。でも、そうだ。向こうがこちらを掴めるなら、こちらだって掴めていいはずだ。さっきの日本人形戦で、それは分かったはずではないか。
キン、と音がする。蓮の周囲から冷気が漂いだした。紗世は思わず、蓮の後ろへ下がろうとし、それから後ろに鎧武者がいることを思い出した。
なんだろう、この八方塞がりな状況は。
冷気はますます強くなる。何が起きているか分からず、紗世はただ背後の壁に背を押し付けた。寒い。
逆さ女の体がだんだんと凍っていく。蓮が握った個所から、固まり動かなくなっていく。
バキン! という音と共に、蓮が逆さ女の腕を砕いた。女の体にヒビが入っていく。ピシピシと亀裂が入る。
「氷砕!」
蓮の声と共に、逆さ女の体が粉々に砕けた。
冷たい氷が、そこら中に落ちる。
紗世が喝采する間もなく、蓮は鎧武者を振り返った。あちらの方がよほど強いことを彼も分かっているのだろう。紗世を背に庇う。
鎧武者はゆっくりと近づいてきていた。




