第九話 釈迦如来vs斉天大聖
なにも小難しい仏教の話や、西遊記の話をしようなどと思っている訳ではないし、さりとて私の博識をひけらかそうと思っている訳でもない。
相変わらずの私とご主人の生活を書こうとしているだけである。
落語に例えるなら「毎度のご機嫌伺いでございまして。」というようなものである。
世間的には、ご主人は飼い主で、私はそのご主人に飼われているペットという立ち位置である。無論その関係性を否定しようとか逆転させよう等という邪な考えを持っているわけではない。
しかしである。某国営放送の〝ドキュメント72時間〟とか、某民放の〝情熱大陸〟ばりに密着取材してもらえれば、私とご主人の関係性が世間一般のそれとは大いに異なることが分かって頂けるであろう。
何故、世間一般と異なるのか?それはひとえに私の名優ばりの演技に起因するのである。
その一つがゲストに対する振る舞いである。
ゲストに対しては、常にちぎれんばかりに尻尾を振り、〝可愛くて愛らしいバンビーノちゃん〟を演じることを心掛けている。また、ゲストが動けば必ずその後を追っかけ、〝かまってちゃんバンビーノ〟を表現し、ゲストが座ろうものなら、その膝の上に乗りたいアピールを必死にするのである。また、ゲストの目の前で仰向けになって寝転がるのも肝要である。そして仕上げはゲストが帰宅の途につく時である。
それまで散々、〝可愛くて愛らしいバンビーノちゃん〟〝かまってちゃんバンビーノ〟を演じていたとしても、この帰り際の演技で全てが水泡に帰することがあるので最後の仕上げは最重要事項と言っても過言ではないのである。ゲストが帰宅の途につく時は必ず玄関まで見送り、悲しげな演技をすることである。ここまで出来ればしめたもので、ゲストは私に対してメロメロである。
つまり【細工は流流仕上げを御覧じろ】てなもんである。
この方法をマニュアル化して、他の犬族の仲間にも教えてあげたいものである。
ただし、私のように端正なマスクであることは最低条件ではあるが。
二つ目がご主人に叱られた時の振る舞いである。
ご主人に叱られた時は必ずお座りの態勢になり、顔を少し下に向け、目は節目がちにし、ションボリすることである。そして、あたかも反省しているような演技をし、しおらしさを表現することである。決してご主人と目を合わせることなく、ご主人が私のことを睨みつけていても、虚な目で目を泳がせ、ご主人のことはチラ見くらいで済ませることである。こうすることによって、ご主人の怒りが早々に収まること請け合いである。
以上の二点が私の処世術の最たるものであり、このように私が全ての事象に対してコントロールしておけば、平穏で幸せなドッグライフが送れるのである。
ところがである。
当のご主人は私がコントロールしてるなどとは、露程も思っていないのである。全てをご主人自身が優位的な立場においてリーダーシップを取っていると勘違いしているのである。もちろん、それが私の狙いであるのは当然である。
何故なら、ご主人の実家がそうだからである。ご主人の父様は亭主関白だと思っておられるのであるが、その実はご主人の母様が上手く父様を掌の上で転がされておられるのである。ところが父様は母様によって転がされてるとは露程も思っておられないので父様はご満悦であり、その結果、家庭生活がすこぶる上手くいっているのである。
それを目の当たりにした私は母様に教えを請い、それをご主人に対して実行しているだけである。
つまり、孫悟空が觔斗雲でどれだけ遠くまで飛んでも、結局はお釈迦様の掌の上からは逃れられなかったのと同じである。
最後に今一度申し上げておくが、私とご主人の関係性を否定しようとか逆転させよう等という邪な考えを持っているわけではないし、私がお釈迦様でご主人が金絲猴だと申し上げている訳でもないのでくれぐれも誤解なきよう。
P.S.今日の一言
私は決して策士ではない。