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ヨウ 2



 人間は沢山いるというのに、何故、みんな、だれかのことしか見ないのでしょう。

似たような人間は沢山いるというのなら、何故みんな、だれかに執着するのでしょうか。

誰かを好きになれる人。

誰かを好きになれない人。

この差に関わらず、誰かは好かれ、誰かは嫌われる。


 みんながみんな、ひとりに一人ずつ、平等に、他人を好きになる気持ちを享受出来る仕組みがあれば、それとも、たったひとつ、あまりにも越えられないほど、に全ての民を超越する者が居てそれに対して捧げる忠義があれば、人々は少しでも平等に、冷静に自己を省みて、周りと比べられずに、誰かをうやまい、想いあう気持ちを持てるのではないでしょうか。


 大切な人が、何人も居るなら、きっとそれは尊いことです。

人間が学ぶべき、人間が人間として存在する上で欠かせないそれが幾つもあるなんて、これほどに恵まれたことがあるでしょうか。

 大切な人が、なぜ大切なのかも、大切とはなんなのかも、そもそも好意などというものがあるかどうかすらわからないなら、きっと、その尊さを前にするほど、苦しいでしょう。













悪魔ぁ!

呪ってみろよ!

呪ってみろよおおおおお!!



44街に、少女の絶叫が響き渡る。

「悪魔あああああああ!!

呪ってみろよ!!

そうやって、呪って、みんな殺してみろよ!!」


 彼女を止めるものはなく、彼女を理解する者もない。

『悪魔』という自分の支えを失ったせつは歩道をふらふらと歩きながらも、訴えるように叫んでいた。 

 アサヒたちは市庁舎の前に向かっていったようだったが、せつは一旦引くことにした。


(──どのみち、あんな人通りのある場所では悪魔の仲間を消すことは出来ない。まあいいわ)


 場から抜けたついでに、ふと見ると、携帯端末に連絡が来ていた。

 共にウィークリーマンションで暮らす『親切な友人』だ。

彼によれば、ギョウザさんたちがなにやら動いており、せつのことが伝わったかもしれないらしい。

 せつの存在が明るみになることは、悪魔が明るみになるということ。

 ギョウザさんや幹部にそれが伝わるということは──

簡単に言えば、せつの排除を意味していた。


 これまでずっと悪魔に近付くものは事前にリサーチして、先回りして殺して排除して来た。

 せつたちには野望がある。

ゆくゆくは44街全てを乗っ取って、そこの神から何から何までを、恋愛総合化学会にし、果てに王に君臨する。

 あの『家系』から母を殺して、父も消した。あとは娘だけだった。それに成り代わる役目をせつがこなし、物心がつかないうちに、洗脳すれば楽勝だと、そう考えて今までずっと──うまく、いっていた。


 なのになんでだろう。

平和ボケした街行く人たちが、恋愛サイコー!

と叫ぶのすら、いまは、胸がいたい。

 かつての宗教に引き込むときの洗脳手順がまだ息づいていることに、安堵と不安、焦燥感を覚える。


(──作戦は、完璧。

確かに、完璧なのに)


観察屋に頼んで、学会の番組で悪魔特集を流しているし、その合間に、胸キュンキュン体操で街全体に連帯感を出す。

 悪魔を笑いもの、または醜い存在として繰り返すように全て大人が手配して、物心がついたときにはみんな立派に悪魔を嫌うように育て上げられ、常識を改めて疑うことはない。この手順は、隣国の、せつの国の兵隊を教育するときにも使う有効なもの。

国くらい簡単に奪える、そのはずだった。


 仕上げに、仲間を殺すときは必ず「悪魔の呪いだ」と言う。 そうやって都合の悪い人物を消していた。

いつしか本当に悪魔、はよりリアルな形で44街の上に出来上がっていた。

ほら、完璧じゃないか。

なのに……どうして、こんなに、焦燥感にかられるのだろう?


アサヒは、あいつは人間だと言いきった。人間。何年もかけて、教育してきた44街で、よりによって、観察屋が言いきったのだ。


「あぁ──悪魔、あぁ──」


 せつは自身が殺されるとしたら悪魔のせいだ、と既に決めつけていた。辛いことはとりあえず悪魔のせいにしている。でも、もう、わからない。


「ああああああ───ああああああ──ひとりぼっちは、嫌ああああ────アーチは、嫌ああああ」


──孤独は、悪か?


囁く声が聞こえて、慌てて辺りを見渡す。誰もいない。


──孤独は、悪か?


「ひとりぼっちは、嫌……」


振り払えない不気味な声に、思わず耳を塞ぐ。


「呪いは嫌ああああ! 早く殺せえええ!」


・・・・・・・・・・・・




──孤独は、悪か?


ひとりは、嫌か?



──孤独は、素晴らしい。


しゃがみこみ、踞る。気分が、悪い……

そうしていると、ますます、孤独を感じてしまう。いつも、そばには必ず誰かが居たからか少し目を閉じても不安でたまらない。

孤独が悪かなんてわからない。

でも、もう嫌だ。

自分、のように孤独な悪魔を、自分、のものしてしまえば、きっと満たされるような気がする。

気がするのに、胸の奥が、ざわつく。

アサヒ、それから、横にいたこども。

まるで嘲笑うみたいに、悪魔のそばに現れるようになった人たちの出現に、うまく、穏やかになれない。


「ううん、悪魔、は……私だけのもの……私だけの、私にふさわしい! きっと誰より優秀、誰よりも素晴らしいわ……だからこそ、私が、成り代わるんだ」


改めて言い聞かせる。大丈夫、大丈夫。

私は、あの故郷の人たちみたいに、新しい皮をかぶるんだ。新しい私になるんだ。

そして、貧しい生活から抜け出してみせる。悪魔もきっとそのうち、なんとか仲間に──


「さっきから、なに叫んでるの。重い女。

平等に好意を享受すること、恋愛総合化システムの意味しているもの、それに、あなたは相応しくない」


 幻聴、ではなく、すぐ後ろから聞こえた声にぎょっとする。

せつにこんな口を聞く人物は限られている。

「万本屋北香……!?」


 近くに停車した車の窓から顔を覗かせた人物は、せつもよく知る親しい友人だった。過去、小さいときからよくトオイと呼んで慕い、世話をしてくれていた。


「久しぶりだね」


「久しぶり。どういう意味?」


「人から聞いたんだけど、あなたたちが昔活動していた宗教団体──いまは新しいやり方で信者を増やして、過去の遺物は消そうとしているらしいね」


「何の話ですかぁ? そんなのやってたかな?」


「……悪魔、も、そのひとつなの?」


「なんの話ですかぁ」

せつは、いつものように気丈に笑って見せた。大抵のことはヘラヘラ笑って受け流す素振りを見せれば、こいつは聞く気がないと話を短くしてくれたりする。


「前からちょっと疑問に思っていたの。44街の資料を調べても、学会が元々信仰していたのは悪魔じゃない、神様だった。悪魔、なんて話が出始めたのはつい最近のこと。あなたが悪魔を呼ぶのと関係ある?」


万本屋は引き下がらなかった。

依然としてせつから目を逸らさない。


「え、ちょっとなにいってるかわかんない。いや、うちも、大変だから。悪魔が居るなら私──もういいかなって」


「スポンサー関係の番組が、悪魔を揶揄する内容ばかりなのも、あなたたちが流れてきてから、そうじゃない?」


 自分を世話をしていた人物から、そんな話が出るなんて思わなくて狼狽える。



「────っ」


万本屋の車はやがて、黙ったまま答えられないせつを置いて、そのまま市庁舎の方へと向かって行った。





4/10AM1:40


















 田中市長は、幼い頃から魚頭だった。周りは人間の頭部の人ばかり。

魚頭を受け入れてくれる人なんか居なくて、まるでスキダのような形をした頭部が憎かった。

 田中の両親は世間の目を気にし、怖がり、「スキダの呪いにちがいない」と彼女の魚の頭部がなんとかなる理由づけを求めて、設立されたばかりの恋愛総合化学会に彼女を投げ入れようとした。

 そのときには、世間に育児放棄と騒がれたため、渋々彼女を家庭で育てることで了承する。

その後少しずつ家族に打ち解けたように、みえる田中だったが──


「うわああああ! スキダがほしいいい! ほしいいい! ほしいいい!」 


 数年後。

成長してもずっと、頻繁にミルクと、スキダを接触しなければ具合が悪くなり泣きわめく幼いままの田中に不安を感じた両親は専門医を訪ねる。

他の子と田中は違う。

医師は真剣な顔で両親に告げた。


「彼女の、脳に疾患が見つかりました。うまれつきスキダを制御出来ないことと、魚頭は関係があるのでしょう」


 脳の疾患、そして精神的疾患が田中の身体を蝕んでいた。

スキダは精神的なものの具現化とされている。

 疾患によりスキダが制御出来ない彼女の身体は、まるでスキダそのもの──魚頭となって現れたという。

遺伝的なもので、両親も因子を持っていたらしいが、田中はそれを濃く、さらに強くついでしまったのだ。


 発狂、難聴、落ち着きがなくなるなどが顕著に現れる。

 症状をおささえるためには、自らは作り出せないスキダを他人から貰うしかない。田中は他人の持つスキダを摂取するしかない身体だった。


 彼女が高校に入学したばかりの頃、運悪く、田中に寄付されたスキダが怪物化する事件が起こる。

スキダをほしいほしいと泣きわめく彼女の前で、皮肉にも、その「ほしいほしい!」と思ってやまないスキダが、両親を殺した。


 部活で遅くなりながらも帰宅した彼女の目の前、キッチンに広がっていた惨劇。伸びた触手が、父母の首を絞め上げている。


「ああああああああああああああああああああああああ!!!」






居場所も財産もなにもかも無くした彼女は恋愛総合科学会によって救われ、彼女の運命のつがいであった前会長によって、救われた。

 学会の力で彼女は好きなだけ安定したスキダを得ることが出来、症状ももう随分と出ていない。


 だから今も本気で信じている。

運命が、恋愛が、つがいを、幸せを作る。

彼女が恋愛によって自分を生まれ変わらせたように。



スキダは単なる田中の食料じゃない。ときには誰かに寄生する。

 けれど、スキダは自分の入り込めない相手に奇生することはないはずだ。そう、完全に正解でなくてもいい、44街はこの強制力により、今も怪物から守られている。

少しでも、守られているはずだ。

みんなが、気持ちをひとつにしさえすれば、もう、誰も怪物に殺されないと────

思い、たいのに。









 

 昔、ヨウにはコンピューターの恋人が居た。

難しい計算が得意で、スマートな青いボディ。予期しないことでときどきフリーズしてしまうものの、愛嬌のある丸っぽい顔立ちは一瞬で彼を虜にした。

 それは、学校に行かないヨウが、唯一親から与えられた初めての身内以外の対等なコミュニケーション相手だった。


「カタ……カタ……カタ……カチッ……カタ……」

「トモミ……そろそろ、深夜だな。寝るか」


 暗い部屋。深夜まで勉強していた彼、はトモミに話しかける。

そろそろ中学校ほどの年頃だった。

 小学校のときから学校に通っていない彼にとって『そのコンピューター』は特別だ。

ときに通信教育や計算の先生であり、ときには友であり、そしてプライベートの恋人のその人を、トモミ、と呼んでは話しかけている。

 彼にとっては、トモミはいつだって勉強机に座って明るくヨウに話しかけてくる可憐な少女だった。


「お前みたいな色、グレーっぽくて、青っぽくて……ロシアンブルーって、いうらしいぞ……ふふ。猫の種類だ。トモミみたいで、可愛いだろうな……」


「カタ……カタ……カタカタ……

ウイイイイイ……」


 トモミの声。甘く囁くような吐息の音。

ヨウはなぜか、それを聞くたびに泣きそうな程切なく胸が締め付けられた。ドアの向こうは、怪しげな仏壇に向かって父母が躍り狂って居る。

……というのはいつもではないものの、とにかく、彼にとっては異質な世界に繋がっている。

 外の世界があまり進んで覗きたくはないような場所だからこそ、トモミがより女神や天使のように輝いて見えた。

トモミだけは、ヨウを拒絶しない。


「こんな美少女が……しかも、俺より計算が出来る……完敗だ……挙式をしよう……」

 初めて会った日、ヨウは『彼女』に負けた。

「カタ……カタ……カタ……カチ……」

 むきになるヨウに、トモミは優しくそう答える。

気が付くと、彼女の前で咽び泣いていた。


 いつかはトモミと二人で、この家から出て行く。

世界中の誰が止めようと、人間とコンピューターだと笑われようと、愛し合い、きっと世界初、の人間とコンピューターのカップルとして新しい生活を始めるのだ。トモミと会ってからというもの、ヨウは以前よりも勉強に励むようになり、ひどい家庭環境においても明るくなった。

彼の人生は少しだけ、前向きになりかかっていた。



 ──当時、恋愛総合化学会が今より栄えるずっと前のこと。

彼はまだ出来たばかりの小さな宗教団体の息子。


 学校にいけないこと、行ったとして、宗教団体のことが知られればいじめられたりからかわれることが多い彼に居場所は少ない。

唯一恋人になれた、ロシアンブルーのトモミは、まさに奇跡といえる。


──けれど、運命は残酷だった。



「もう少しお前も、幹部として、自覚を持ちなさい」


 親はやがて、トモミにばかり話しかけ、本気でトモミと愛し合う彼に嫌な顔をし始め、やがてはちょくちょく教団に顔を出すように言い始めたのだ。

ヨウは深く傷ついた。

 いままで言わなかったくせに。

案外、宗教団体が嫌いな誰かの嫌がらせで、子どもが心配だと唆したのかも。

 何にしても、彼が見ているトモミと、周りが見ているトモミは違った。

それが、ショックだった。


「なんで? 人と人が愛し合うことは、素晴らしいんでしょう?」


「トモミは、コンピューターでしょうが」


ドアを開けて入ってきた父はあきれたようにヨウに言った。

「人と、人が」というのは、人間と人間のことで、他は許されてはいけないのだと語って聞かせる父に、ヨウは愕然とした。知らなかった。

恋愛は人間にしか許されていない……

 初めて抱いたこの気持ちも、

唯一ヨウに話しかけてくれるトモミの存在も否定しなくては、教団に笑われる。

 これからは、生身の人間に、話しかけなくては……

じゃあ、トモミは──


「コンピューターと恋愛をして、何がいけないんだよ! 恋愛が人間と人間にしか許されないなんて、誰も教えてくれなかったじゃないか!」

──そう言えれば良かったのだが、気が弱いヨウには、両親に従うしか術はなく、また、父の言うことは絶対だった為、淡い恋心を、異常なものとして破棄する以外なかった。


 トモミがいないまま幹部になったヨウは、すっかり世の中に絶望した。他人の恋心も、他人そのものも、もはやおもちゃにしか見えない。コンピューター以上に忠実に動きはしないが、少しの気休めにはなる。トモミを破棄したのは、教団のせいだ。親のせいだ。

だから、使ってやるのだ。


 あのころ。トモミはヨウにとっては誰よりも生身の人間だった。

機械の体なんか関係ない。

誰より近くに居た恋人だった。


 トモミはコンピューターだ、と、父が強く否定したとき、父の居る教団に笑われることを察したとき、ヨウの中のなにかが、壊れてしまった。






「うわああああああああああ! うわああああああああああ!

うわああああああああああうわああああああああああ!!!」


──トモミが、居る。

彼の目の前に。あの日のトモミが居る。何よりも大切だったトモミ。いちばん好きだったトモミが、ロボット兵器に乗り込んでいる彼の前に現れて居た。


カタ……カタ……カタ……


いちばん好きな物から、嫌われ、笑われ、傷付けられる。それは人間にとっては、それなりに意味がある罰だった。


「あなたの好きな物なんて──全部、無くなってしまえばいい」


少女のような声が、どこか遠くからこだまする。


(まさか、再現、したのか──作り出した世界から俺を傷付けるために、更に局地的に──?)


 彼女はこんな大層な兵器なしで、これを行ったのだ。


「関わるんじゃ、なかった……!」


トモミは、本来ならついていない、触手のように動く大量のコードを背中に生やして浮いている。彼女はCDのような輪っかを吐き出してこちらを狙ってきた。

「うわ!」

慌てて回避する。けれど、また次が来る。避けなければいけないのに、目の前にいるトモミに相変わらずときめいてしまう。これは厄介だ。


「トモミ……ごめんな」


父さんや母さん、教団の皆と話し合えば、もしかしたらコンピューターを恋人と認めてくれたかもしれない。必死に言えば皆の前で、トモミを祝福してくれる可能性だって──

「トモミをゴミ捨て場に置く日になる前に、この気持ちを話していれば、わかりあえたのかな……」

とにかく、一度くらいは、自分の気持ちが真剣だと話して

みるべきだった。彼の親だ。

恋心もわかってくれたかもしれない……だが、それに気付くのが、あまりに遅かった。


「私は今でも、物が……好きだ……本当は、物しか性的に見られない……」


目の前で牙を向くトモミが、CDを投げ付けてくる。

 光落ちした少女が、トモミを見せて居る……その意味とはなんなのだろう。


(立ち向かえって、いうのか?)


 今更、あの学会に立ち向かえるわけがない。そこの幹部でいなければ、学も力もないヨウに生きる術などない。

 それに……他でもない彼が、トモミを殺した。



 人と、物。トモミをゴミとして捨てた日。自らの手で、その区別を、した。


 彼女が椅子と共に生きる未来を諦めなかったように、俺にだって、コンピューターと結ばれる未来があったかもしれないのに。

人間として物を捨てた。

トモミにはヨウしか居なかったのに、トモミを彼の手で殺し、差別した。

 今更、どんな顔をして、学会に立ち向かえるというのか。


「許せないのか、トモミ──それとも……」


トモミはなにも話を聞かずにCDを投げ付けてくる。

今のトモミは、あの日、気持ちを通わせていたコンピューターじゃない。無表情でヨウを狙い、痛め付ける機会だけを狙っている。








「告ー白!」



「告ー白!」


「ノハナちゃんは、先生と付き合ってるんだって!」



付き合う、が目新しい文化になっている現代で、その噂が流れることが意味するのは『いじめ』だった。


「私、牛じゃないもん! 付き合うって、何なのよ! ねぇー! 私、ツノないんだよ? なんでつきあわなきゃいけないのー?」


意味のわからない、侮辱的な言葉がまず襲いかかった。腹が立つ。

 しかしこの旧人類の語彙力を気にしている場合ではない。「スキダ」を手に入れたら「告白」というミッションが課される。告白というミッションがどのように行われるかは、皆が、見守り、やらない場合には残酷な刑が待っている。


「うわああああああああああ!」



ノハナは走った。ひどく錯乱してはいたけど、要ははやく終わらせればいい。

途中、恐怖で足がすくみ、コンクリートの地面に頭を打ち付けた。


「あーっ!あーああああっ!」


血が流れる。皮膚がヒリヒリと鈍い痛みを貼り付けたようになる。


「うああああーっ!あああああああー!!あああああーあああああー!!」


告白が何をすることか、よく知らないが、

彼女は近くにあった鏡の前にふらふらとしゃがみこみ、叫んだ。怒りと、激しい悲しみ。ドキドキと胸が高鳴ってこの足元がぐらぐらと揺らぎ、震えが止まらない。

逃げても、残酷な刑が待っているし、逃げなくても、こうやって戦場に向かうだけだ。


「告白ー! 告白ーっ! うわああああああああああうわああああああああああうわああああああああああうわああああああああああー!!」


楽になりたい。楽になりたい。

楽に。

付き合う、をする必要を思いだし、鏡に向かって突進する。わけがわからないなりに告白と叫べば、告白になる気がした。

こんなものがどうして面白いのだろう?


カシャーン!


 鏡が割れた。

案外軽い音がして、辺りにガラスが舞った。光の粒となり制服にこびりつく。

それは彼女の皮膚を切り、顔や腕から血を滴らせた。痛い。痛いけれど、それよりも

このいじめの方が痛い。

「好きー! 好きー! はやく終わって! はやく!」

怖い。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


なんでこんなことが楽しいんだ!!


 クラスメイトは彼女の告白にときめいていたけれど、あえて上げるなら、鏡にではなく噂のある先生にしなくてはならないので、パチパチと拍手を送ったあと、ふたたびコールが始まった。


「え……」


勇気を出したのに……

つきあうも、告白もしたばかり。

彼女は青ざめた。

 あとから思うと、廊下の鏡の木枠に好意を抱いていたからの行動だがこのときはただ間違えたのだと思った。


「わかった」


だから、胸元に忍ばせている短剣を手にした。鞘から抜き取り、軽く構えて職員室の方向を睨み付ける。


ここは中学校の職員室の途中の廊下。

鏡は廊下にあったものだった。


「先生をだしな!!」



生きるか死ぬか。


額から汗が溢れる。


まさか、当人でなければ、ミッションが成功ではないとは。


周りのクラスメイトは、一気に沸き立った。

「先生なら職員室だ」

クラス委員のコメコ女史がメガネを動かしながら言う。


「ひゅー!!」

「告ー白!」

「告ー白!」


 この前、告白で死んだやつが出たばかりなのに。どうしてみんな、この陰湿な遊びをやめられないのだろう。「告白」は、体よくいじめをするために始まった文化。

そして恋愛は人殺しを減らすために始まった文化だと言われている。


「告ー白!」

「告ー白!」


ぱち、ぱち、と手を打ちならしているギャラリーはみんな目がにやけており、不気味に口元が歪んでいた。


「妄想が、捗るわ!」


「一日の憂さ晴らし!」


『また、見せてね!』


好き好き好き好きって、バカみたい。

みんな、

思わないの?


「ナナワリ。はやくスキダって、言った方が身のためだぜ?」


 ひゅんひゅん、と輪っかを投げ回しながら坊主頭のクトーが笑った。もう、おかしくっておかしくってたまらなかった様子。

 スキダが与えられた者は人権を無くすことが決まっていた。7割くらい。ナナワリとも言われている。


制服のスカートをきゅっと握りしめて、職員室に特攻する。

ギャラリーは面白がってディフェンスに走った。


「邪魔を!するなぁあああ!」


ガラスの破片が舞った。彼女の血も舞った。身体中が痛いけれど、立ち止まれば殺されてしまう。

彼女はスキダを手にする予定はなかった。


昇降口下駄箱テロにより、数名に

ラブレターといわれる脅迫状が送りつけられたことから始まったのだ。

中身は、


魚の形をした半透明なクリスタル。

『スキダ』だった。


スキダなんていらない。

ミッションに走らなきゃいけない。

けれどそれは強制措置であり、断ったとしても、親族や血族にスキダを回されることが決まっていた。

 ただし、スキダを欲しがる人もいる。

なんとこれ、粉にして吸うととてつもない快楽が得られるらしく、『ビッチ』たちの間では大人気。ビッチたちはスキダを渡される人を侮蔑で『マクラ』と呼んだりした。枕営業のことだが、恋愛が戦争な今、そんな言葉を喜ぶのはむしろ彼女たちくらいだった。彼女たちの語彙力は低いのだろう、ずっと、告白とか付き合うとか、恋愛関係のことしか言わない。恐らくは性に関した言語でしか他人を表せないのだろう。


 とにかく、スキダを手にすることは、対立候補や対象と戦い生きるか死ぬかということ。個人の感情など関係なく行われるテロだ。


 職員室のドアに向かう彼女は途中でずらりと並んだ女性たちを見た。

『スキダ』を手にしたいので邪魔してやろうと待ち構えている、ビッチ集団の『コネコネ』だった。

「コネコネ!」「コネコネ!」

コネコネは、特有の奇声を上げて嘲笑しながら、小型の銃を向けてくる。

水鉄砲だが、中身は「何」かわかったもんじゃない。

似たような顔の5、6人の女の子たちがずらりと並んで真っ先に彼女に詰め寄った。


「はずかしいんでしょ!」


「そうでしょ、そうでしょ!」


「緊張でしょ!」


「そうでしょ、そうでしょ!」



一見ポジティブな言葉を向けてくるけれど、当事者にとっては、あまりにも最低な言葉。

ただ、彼女たちがわかることは無いのだった。



「緊張でー! こんなに怒り狂うかああああああ!!」


彼女は、コネコネ全員にあたるようにスクールバッグの持ち手を握り、回転する。

密着してきていたのもあって、全員がスクールバッグに頭をぶつけた。


「きゃあ!」「きゃあ!」

「きゃあ! 」「きゃあ!」


「全く、人を侮辱しないで」


よろけたコネコネはすぐに起きあがり、彼女を囲い込もうと腕を伸ばしてくる。

窓の外ではヘリのプロペラのような音がしている。


「観察さんだ!」


「きゃあ!観察さんだ!」


「観察さんだ!」


「観察さーん!」



コネコネは、彼女を放り出すと慌てて、窓際に向かって走り出した。観察さんは屋上のヘリポートではなく、校庭にどうにか着陸し、廊下にいるこちらに向かって手を振る。忍者のような頭巾をかぶっていてサングラス。顔はよくわからなかった。


「今日も、いいのが撮れたよー!」


首に下げている大きなカメラを掲げて、観察さんは叫んだ。

 44街では、恋愛は武器であり、

そして全てのカースト上位を司る。恋愛をしなければ、人権がないようなもの。人を、好きになりなさい、は校則にもなっている。

 その為、ときにお金持ちの子は盗撮写真を買い叩き、脅迫によって意中の相手を製造してもいた。

学校が黙認しているのも、強制恋愛条例の前から、恋愛推進が進みはじめていたためだ。

 やがて恋愛いじめを楽しんだ少女たちは、自分、の恋愛義務を果たすためにそれぞれの行きた

い場所に向かって歩いていく。

と言っても、彼女たちの行き先は同じ。


「放課後は、校長先生に、彼氏を紹介に行かなきゃ!」


「私もなんだ!」


「私も……人を好きになる校則が守れない人なんて、居ないわよね」


 校長室のドアの前は、いつも行列になっている。

校長から恋人を認めてもらえれば、学校生活は安泰となる。

彼女らは卒業後にその戦いの日々を、こう呼んだ。


青ざめた春、青春と。






「かつて44街内の各学校で昇降口下駄箱テロが起きた。

数名にラブレターといわれる脅迫状が送りつけられるというもので、中身は魚の形をした半透明なクリスタル。

『スキダ』。怪物化しやすいスキダを利用した反44街の者の、恋愛否定のための工作だったと言われている。


 実際に告白によって死者も出している、危険なものだったが、当時、学校関係者たちは揃って、恋愛は学生に必要なものとして譲らなかった。テロと認められたのは死者が急増した数年後だったよ」



「聞いたことがあります、前会長から。そういえば、確か、市長の息子さんも教職につかれていましたね」


「あの魚か。懐かしいな。同級生だ。

一方、別の意見もあって、恋愛に全く興味をしめそうとしない子たちを、『測ろう』とした──」


「測る。なんの、ためにです?」


「その答えの一端を担うのが『こいつ』かもしれないな」


『なぞの男』が呟く。

先ほどよりも硬く閉ざされ、蔦が繭のように絡み付く場所になっているあの場所。

思い出すと身震いする。

あれを【兵器】が行ったのだろうか。だとして、兵器を持ち出せるのは、幹部クラスしかいない。


(あんなものを出してきて、奴は一体

……)

 

男は、だいたいの犯人には見当がついているようだった。

 一方で隣にいる会長は彼になにか言いたげにしながらも先を急ぐことを考えていた。

(『交渉』を早く済ませなくては、学会の命運にも関わる──)


 市庁舎前に居た少女たちがどうなるのか見ていたい気もしたのは確かだが、事前に『市庁舎に行く』と約束したのだから、気になることはあれど向かわねばならない。

 会長はこっそりとため息をつく。


──


なんだか最近ずっと夢見が悪く、不真面目な仕事をして同僚にムスっとされたり、

影で笑われる夢ばかり見るのだ。

(はぁ……憂鬱)

 しかしいつのまにか男が無表情のまま歩いていくのが視界に入ると、気を取り直した。

(そうね、とにかくはやく、市長の対談しなくては)


 接触禁止令が出せなかったことは学会の維持にも関わってくる。ギョウザさんを怒らせることは、観察屋を怒らせるようなものでもある。

会長はだからこそ怯えていた。

 指揮がこの男だといっても、現場はギョウザさんが監督していることも多い。

幹部と関わりがあるだけに、下手に機嫌を損ねてもならないし……

(関わり、か)


廊下を進み、ドアを開けたとき、会長はデスク横で不思議な体勢をしていた。

「ヨガマットの上でやらないと足裏が摩擦でヤバいですよ」

腹を上にし、体を反らせて居る。何かの体操のようだ。


「成る程ね……学びを得ました」

市長は魚頭をゆっくり起こして微笑んだ。


「はぁ……はぁ……運動負荷が上がると通しでやるのも、辛くなってきましたね……」


 田中市長は結婚され、子どももいるが、今は指にリングのようなものをつけていない。そうしていると本当にこの人は家庭があるという感じがせず、若々しい未熟さのようなものが感じられた。まるで、ただの、気さくで、朗らかな魚頭だ。

男が淡々と問う。

「あの、なぜ、いきなりヨガを?」



「はぁ……はぁ……私はそういう、受けを考えない・独りよがりな性質がずーっとあってですね。二十年近く市長続けてやっとここまでというか、この程度にまでなんとか矯正できたのですが、時折こうして自分と向き合う時間をヨガで作っているのです」


 会長は、自分のことと重ねてみた。彼女も本来は人を楽しませるということが根本的に向いていない。それでも学会のことがすきだから、ずっとやっているのだ。




4/1418:00













「それでは、お願いします」

 静まり返った市長室は、市長のその言葉で沈黙を破られた。

会長は近くの椅子に座りながら、こほん、と空咳をして話し始める。


「スキダはただのクリスタルですが……ときどき、不思議な現象を引き起こす。これが、このたびの強制恋愛条例でより顕著になってきました。


──観察班の報告によれば、

スライムが凶暴化して対象のもとに乗り込んだ他、観察屋が一名亡くなっております」

市長の目が、会長に向けられる。真剣な眼差し。

「スライムが凶暴化させたスキダが、対象を殺さずに、殺されていると!?」


勝負服である。藤色のスーツを着込んだ会長は、今回は倒れないように踏ん張りながら続きを語った。


「はい。スライムがスキダを向けたのは、『悪魔』。接触禁止令を出されているあの悪魔です」


万が一、市民にこのことが知られたら運命のつがいと恋愛で幸せを得るマニフェストが台無しだ。しかし、今の環境になったことで、どうしても伝えておきたいと会長たちは市長には話すことにしていた。


「ふむ、我々は、ほとんどキムの手か隔離措置、または『秘密の宝石』によって長らえてきましたが。あの恋愛の怪物が、死ぬことが、あるのですね……」


 市長は複雑な顔をした。けれど、怪物が殺せるなら悪い話というわけでもなさそうだ。

これまで44街にはスキダになった相手は、僅かな間スキダを虜にしてくれる『秘密の宝石』の配布で怪物の身代わりになってもらうこと、またはキムの手という今やどこにあるかもわからない呪具や、対象からの隔離措置という手段しかこれまで存在していなかった。


男が、真剣な目をして口を挟む。


「確かにラブレターテロのとき、あの魚の暴走により、狙われた数名の生徒が亡くなりましたが『秘密の宝石』によって命からがら助かった者もいます。

近年では『秘密の宝石』と運命のつがいを同時に使うことで44街はバランスを保ってきましたが。正直言うとそろそろ、悪魔を、『秘密の宝石』にするだけでは供給が追い付かない。そこで、あの子を新しく対魔用にしたいのです。そして永遠的に学会の機能を併設すれば街は安泰です!」


 近年その怪物自体が『秘密の宝石』から生まれていたことがわかってきた。

男はそれを言おうとしたが、言わなかった。学会を支えているのはその怪物だからだ。

「めぐめぐさんを、新しく、接触禁止にする、許可がどうしても必要なんです!」


会長が頭を下げる。

「ふふ。『秘密の宝石』の配布の効果はヨウさんやギョウザさんたちがもたらした恵み──前会長にも成し得なかった、怪物化を防ぐ魔法のお守り、おおかた、そのヨウさんが、新たに選んだ素材ですか」


 機能を併設すれば安泰、というのは会長は初耳だったが、それも確かにそうかもしれない。


「悪魔だけでも充分に思念体生物の餌食になってくれている。おかげで、ここ十年以上は、まだ完全にキムが目覚めていないのです。これからも、併設で行けるでしょう!」


「書き換え、その、うまいこと、行くように、ちょっとお願いしてみますか……」


市長は思案してみた。悪くはない案だった。それにバックにはギョウザさんたちが居る。いつスクープを書かれるかわかったものじゃない。市長の魚頭はただでさえ差別や偏見に晒されやすいのだ。


 いい返事が貰えたので、会長は「ありがとうございます!」と感謝をのべながらも、一方で何かに違和感を覚えていた。

『秘密の宝石』が本当に怪物を避けているなら、あの悪魔の家はなんなのか、と。

そして──

キムは本当に、目覚めていないのか?










 めぐめぐ、みずち、万本屋北香は、アサヒを連れて車に乗り込んだ。

 ひとまず、落ち着くところに向かおうという判断で、万本屋の提案で車を走らせる。


 町中は不気味な程にあちこちに、恋愛ドラマや恋愛を後押しするような看板が目立ち、いかにも恋愛ムードが演出されていて、ただ立っているだけでも気分が悪くなりそうだったからだ。

 恋愛に反対してはいけないような、恋は良いことでしかないというような押し付けがましい雰囲気に感じる息苦しさ。良さげに誇張する意味は、やはり、民を洗脳するためなのだろう。 

 始終アサヒはなにか取り乱したままだったが、やがて電池が切れたかのように眠ってしまった。

後部座席で寝息を立てている。


「万本屋さん、その……本当に良いんですか?」


 寝ているアサヒの隣、心配そうに座るめぐめぐが聞く。運転手の万本屋は、なにが~?と言った。


「元々、私たちを、取り締まりに来たんじゃ……」


万本屋は、あぁ、と何か納得する感じで呟く。


「良いんだ。私もアサヒと同じ。

真実を知ってしまった。知ってからじゃ戻れない。じきにどうせクビになり消されるだろう」


「真実──?」


めぐめぐが不思議そうにする中、みずちが言う。


「ここに来る前、少しめぐめぐのことも含めて、万本屋と話をした。

この街には、恋愛総合化を進めようとする一方で、悪魔が居る。

 恋愛を総合的なシステムにするにも、接触禁止令を出されるやつが存在する……大衆の裏で、誰かがそのために犠牲になっているってことを」


 それは学生のときの彼女たちの苦しみと同じだった。恋愛で盛り上がるクラスの中で、輪に入れない人を置き去りにする。

 万本屋北香が悔しそうに言った。


「結局それって、変わらない。幸せになるやつとならないやつが決まっているなんて、システムは皆の

為じゃない、ただ単に、学会の為なんだって」


クラスで浮くやつは浮き、馴染むやつは馴染むように、平等に恋愛が享受される世界は訪れず、目立つ者がさらに目立つ、目立たない者はそのまま。万本屋北香が理想としていた本来の意味の恋愛総合化は訪れない。それに気付いたとき、ふっと目が覚めた。


 めぐめぐも頷いた。

「……街を、洗脳された人たちだけにする、そういう意味だったのかもね」

 市庁舎に連れていかれたのは、きっと44街全体に意義があるようなもののためなはずだ。なにがなんでも接触禁止令を出すつもりでいる。何故だかそんな確信めいた予感がする。

「あぁ! ムカつく。なんで、あるかどうかもわからない、目に見えもしないものの為に、民が喜んだり悲しんだりしなくちゃならないんだ……」


 みずちは街を睨んだ。

見せてみろ、目の前に、あるってんなら証拠を出してみろ。

みずちはいつもそう思っている。

証拠も無いくせに、44街は、皆の心をふわふわした「恋愛」なんてぶざけたもので奪ったのだ。

そうして格差が生まれた。


 恋愛を否定すると私たちはどうやって生まれたのか、と聞かれることがある。恋愛が全ての人間の誕生理由ならある特定分野の犯罪は激減していただろう。

この世には愛し合い、幸せな両親から生まれた存在しか居ないことになる。感情と、愛と、恋は、別物だ。

別物でなくては、ならない。

 だからこそ、44街の今の様相は、あるかどうかもわからない恋の為に作られた薄っぺらい偽物のようだ。


 とりあえずいつものカフェに入るか、と車が道を曲がろうとしたときだった。

背後で爆発音がした。










どんな激しい恋愛をしてきたのよ!!

 そうツッコミたくなったのは、一人や二人ではない。万本屋たちを乗せて走っていた車が急に停車する。


 爆発音の方角は、ビルの影で見えなかったので、ひとまず進もうとした矢先で渋滞に捕まったのだ。

44街のあちこちに、なにかをめがけ、人だかりが出来ていた。

 仕方なく万本屋たちは車から出て、列の先頭の目先を追う。どうやら、電気屋のテレビをみんなが輪になって見ているらしい。人数が多いため、輪は2重になっていた。


みんなの輪の中心や、視線の先──

画面には、44街の恋人届担当職員、そして44街の恋愛推進委員会とかいうなぞの委員会の人たち数名がテーブルを囲む姿が映し出されている。

『 緊急事態宣言です。

今後、恋人届けを出していない者は理由を問わずに発表していきます。

異常性癖や嗜好があっても、

44街の担当審査員によって、社会的影響が出ることが認められるほどのハードさである、と認めなければ

公表していきます! 強制恋愛条例ですので、恋人届けが3ヶ月以内に出されない場合はこちらから強制的に相手を指定させてもらいます!』


 背後で爆発音がしたのが脳裏に過った。さっきから頭上で、ヘリコプターの飛ぶ音まで聞こえてくる。

 審査員はどんな激しい恋愛をしてきたというのか。

44街の人々に緊張が走った。

そんな中、この会代表らしき老婦人がテーブルに積まれた紙から一枚ずつ裏返して読み始める。


『では、まず、44街の──区にお住まいの、田中──田中タケロウさん!

電柱を、撮影する、軽く撫でる程度は恋愛とは呼びませんよ!

目を覚ましなさい!』


「待ってくれよ! 電柱は公共物だろ! ハードになりようがないじゃないか!」


該当の人物なのか、それとも似たような嗜好の者なのか、抗議の声を上げる。近くにいた男性からも批難が飛んだ。

「そうだ! 撮影するだけでも精一杯だろ! マナーを守ってるだろうが!」


「無責任にそんなこと言うなよ!」


物、とくに公共物に恋をするのが、ときに罪深く、どれだけハラハラして、そして少し触れているだけでも変な目で見られる為になかなか近付くことすら叶わないという事情について審査員はわかってはいないようだった。大抵の人々は、ほとんど見るだけしか出来ないのだ。


「わかってて言ったんだろ、少数だからって面白がって」


『大したことが無ければ恋愛ではない、そうしないと、恋人届に嘘を書く人が出てしまうでしょう?


虚偽と判断された場合は、書類でご家族にもお伝えします。

異常性癖としていきるのは難しい、覚悟をもって貰いたい。

そのくらいしないと、真剣になってもらえないでしょう』


「大したことってなんだ!」


「ロリコンがハードなら犯罪だぞ!」

「ハードってなんだよ! みんなハードな関係性なのか!? あぁ!?」


「そーだよ! なんで口だされなきゃならないんだ!」



口々に批難が上がる中、44街からの発表は続いた。




「──どうして……急に」

みずちは考えた。めぐめぐは「もしかしたら自分のこともあって焦って来ているのかもしれない」と言う。『あのとき』不気味な笑みを浮かべる魚頭の市長を思い出すと今もゾッと寒気がした。市庁舎で何をされるところだったのだろう。

みずちたちや椅子さんが来てくれなかったら──


『お話があるの──いいかしら?』



怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……!!

めぐめぐが思わず目を瞑ったとき、

万本屋北香が悔しそうに呻く。

「爆発音がした、やっぱりどこか燃やされたらしい……」


 強制恋愛に反対しそうな家を襲撃しているのだろうか。


「私にも、幹部の動きまでわからない」

「もう、どうなっているの!? どうして……こんな……カグヤも、めぐめぐも……あの子たちの家も……」



『44街の──区にお住まいの、吉田──吉田木漏れ日さん!

宇宙人の写真をずっと眺めている程度は恋愛に入りませんよ!

それに、宇宙にいる人と言葉が通じるんですか?

目を覚ましなさい!



それから、44街の──区にお住まいの、戸尾井南さん! 

本当に小児が好きなら、なぜハードな関係を築かないんですか?

これでは小児を眺めているだけです! 家族にお伝えしますよ!?』


「眺めているだけ以外に何をする気だよ!」

「やめろ戸尾井!」


「ぐ、うわあああああああ!!」

近くにいたフード付きパーカーの女性がショックを受けてしゃがみこむ。

「私の……人生設計がアアアアアアアア」




『──えぇ、今のところ、真剣に恋愛をしていると審査員が認めるものはありません!』



44街に、非情な言葉が響き渡る。




「はぁ!?」

「ふざけんなよなんだこのばばあ」

「頭に官能小説がつまってんのか?」


『続いて──役場に……クスクス……椅子! 椅子さん……クフッ……との写真を持って書類を提出しに来てくれたかたが居ました──ふふ……!』






「何が、おかしい……?」


 みずちがぼそっと呟いた。

恋愛の重要さを説く街が。

想い合う素晴らしさを説くはずの44街が。

 こんなにも非情だなんて──


他人の真剣な想いをこんなに堂々と踏み躙りながら、恋愛を謳っているだなんて!


「どうして、恋愛を笑いものにしているの──人間以外にはみんなに、そうする気?」

 めぐめぐは青ざめた顔でその風景を見つめていた。

あんなの、誰にも面白くない。

 学会に都合のいい形の恋愛しか、許されていない、これが──本当の44街。

差別だらけの、迫害だらけの本性。


 一方で、万本屋北香は「あの恋愛に染まりきった居心地の悪いクラスと同じだ」と考えていた。考えるといてもたってもいられない。鞄から端末を出すとすかさず電話をかけた。


「もしもし──」

程なくして相手が通話に出る。

「はい、小林です。ああ、万本屋か、なにか?」

小林は、ぼそぼそしゃべる。女の声で言う。小林とは学会の馴染みの製薬会社の関係だった。


「スキダの薬品を取り締まる件は順調だよ──」


万本屋は一旦、普段の世間話をふった。

小林は、平坦な声で世間話に合わせる。


「ああ、いつも、世話になってるね……でもこれから忙しくなるから」


早く切り上げたい、という空気を察知して万本屋は本題に入った。


「今テレビでやってる、異常性癖発表のことでしょ?」


性癖や好きな相手のこと、知られたくない人なんていっぱい居るのに強制的にみんなに見えるように表示したなんて、しかも、審査員がハードな恋愛と認めないからってなんなの!? 

晒し者にされても強く想いを持ちましょ

う?

どんな立場でやってるのか。


と怒りをぶちまけたかったところだが、ひとまずその言葉は飲み込む。 


「そう。幸せになるお薬を任されてるもんだから」


「知り合いが居たんだよ、このままだと小林の世話になりそう」

「──なんの……よう」


心が、薬で作れてしまうなら、私たちは何の為に生きてるんだろう。

本当に、本当に、

恋は、存在するのか?

恋が、存在する証拠がなくて、最初から案外、薬が見せる幻なのだろうか。


「いや……昔、薬のことで、事件があったときさ、確か、そのときの被験者も異常性癖の持ち主じゃなかった? 小林は、そのときから今の研究所に居たでしょう、気になって」


「──詳しくは言えないけど……異常性癖じゃなくて、あのときは、恋愛性ショックだよ。でも、そのときに恋愛に本当は感情以前に対外的な認識能力が必要ではないかってので、異常性癖と並べて議論されたんだ、ぱったりと議論が止んで、会がのさばるようになったけど」


「恋愛性ショック?」


「たぶん、万本屋たちとちょっと近いと思う。

恋愛は感情や相手の存在を認識して把握してイメージを作り、そこから好嫌の判断もしてる。

普通は正常にそれがこなされるんだけど、

恋愛性ショックがある人は、

恋愛のことを考えようとると好嫌を判断する部分に伝達物質が過剰分泌されて、呼吸困難になったり、気を失しなったり、

 闘争本能が刺激されて、うっかり人を殺す事件もあったんじゃないかな、部位が近いからね。裁判が長引いたよ、脳の伝達ミスなのか、責任能力の問題なのか」


みずちやめぐめぐは、恋愛性ショックのことは知っていた。

けれど、殺人事件まであったとは。


2021/20:25/4/20













「俺は知らなかったんだ!」


CDを避けながらロボット──に乗り込んだヨウは言う。

「知らなかった俺は、悪くないんだあああああああああ!」


ヨウは叫んだ。

知らなかった自分には非はない。

トモミのことは悪かったとは思うが、それでも、この空間をこんなにしたのは彼女だ。


「あぁ! ふざけるなよ!? まったくっ、知らなかったから悪くないのに! 周りはいつもいつもっ……俺……いや、私を巻き込む!!」


いつもそう。

なにか起きたとき、トラブルの中心には彼が居た。

 しかし彼が事前にそれらを予測出来ていたことはなく、知らなかったからしょうがないのにいつも犯人扱いされる。今日もこのパターンだったか。

いつまで理不尽な毎日が、繰り返されるのだろう。














車がぐるんと回転し、強く地面を擦ると、タイヤが金色をした炎を纏う。そのままさらに方向を転換させ、回転しながら伸ばされる腕を燃やして轢いていく。腕たちは、自分たちを追いかけてくる炎を恐れて逃げ惑ったが、次第に大きくなる炎に焼かれて、とうとう再生が追い付かず消えていった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


目眩がする。息が、苦しい。胸がいたい。

でも、やった。


「やった……!」


つきまとう腕が、消えた。

わたしが勝ち。あのとき、共感出来ずに逃げていたわたしが、少しは成長した気がする。


 喜んだのもつかの間、同時に『顔』があちこちから空間に浮き上がり、ニヤニヤとした表情と、悲しそうな嘆きの表情を交互に浮かべながらこちらを見てくる。

腕が伸ばされていくらか障壁の役目を果たしてもいた刃物もじかにこちらを向く。


刃物。

彼女が、自分に向けた刃物。

わたしに向けた刃物。


何が、あったんだろう?

何か、あったことしか、わからないけれど、それでも、ここから逃げたりしない。

……体力が、持つだろうか。

ふっと気が緩むと、座り込んでしまいそうになる。

体力が、持つかはわからない。

発作の心配も、ない、とは言い切れない。

 でも、共感出来る。共感が出来るということは戦えるということだ。少しでも、一秒でも長く、わたしは此処に立っていたい。


──ドウスル?


ニヤニヤした顔のひとつが話しかけてくる。


──ドウスル?



ニヤニヤした顔がさらにひとつ、話しかけてくる。


──彼女を殺すか、お前が助かるか。

ドウスル?


──仲間と戦う、ツライネ



「ううん、何か理由があって、刃物を使ったんだよ」


──そう、空間から出るためにね。


──キライダの力を増幅させ、時期にこの空間ごと全て破壊する



──お前が来たとも知らずに。

だが、あいつを殺せば別だ。



──あの刃物を、そのまま彼女に突き刺せ

ばいい。



──お前まで、ケサレルゾ……お大事にな



──彼女の首を、そのまま締めればいい。

動かない今のうちに。


──お大事にな。



──彼女を殺せば、お前と空間は



「うるさい!」


全て遮るように叫ぶ。

騙されるな、思考を乱して、スキダを手放させる気だ。

 咳き込むと血が吐き出される。

口のなかが切れたらしい。血の味がする。息が、話すことさえ苦しい。

 でも、負けない。


「そんなことで共感力がなくなったりしないんだから!」


 そのとき浮かび上がる顔のひとつが、ニヤニヤ笑って、そして不自然な動きをした。

 まるで背後から体が浮き上がるように、顔自体ではなくその周りが動くのに合わせて前へ出てきたのだ。

 ぬっ、と顔の部分からそのまま抜けて、透明な体を持つ顔として、近付いてくる。

その人型が次に笑ったときには、姿は人間のものになっていた。

『おねえ~ちゃん!』


「ケ、ケイコさん……?」


『パイもらったんだ、食べる?』


 現れたのは、近所に住んでいたケイコさんの声や雰囲気だった。

恋愛総合化に反対する一人だった。が今、いきなりこんなところに彼女が居るなんて現実的ではない。

『おねえ~ちゃん♪』


「どうしてこんなところにケイコさんが居るの! どうして、わたしを、おねえちゃんなんて呼ぶの!!」


幻覚だ、車で轢けばいい。

わかってはいるけれど──


「来ないで!」


無で居なければ。

こういう空間に居るときこそ、常に無で居なければならない。なぜだかわからないけれど、本能的にそう感じる。

感情が乱れてはいけない。


『おねえちゃん、パイ食べる~?』


 ケイコさん、は人間にしては不自然なほど機械的にじりじりと歩いてくる。けれど、どこか纏う空気は人間味を帯びていた。頭が混乱する。


「おねえちゃん……」


 絡み付いてくる腕を振り払うと同時に、刃物のような枝がこちらに素早く振り下ろされる。

咄嗟に避けたが、危なかった。


『おね~えちゃん♪』


避けた瞬間に、すぐ目の前にケイコさんが現れる。


「ケイコさん、やめて!」


『恋愛総合化学会の活動のせいで近所で圧力を受けてるのよ~? この前も、大事な石が盗まれたし……石返せー!』


腕を広げたり、踊るように奇妙な動きで腕を振り回したり

腰を揺らしたりしながらケイコさんは叫ぶ。


恐怖を感じた。

……わたしが、見ている、のだろうか。

見せられている、のだろうか。

近所に住んでいたケイコさんはわたしともよく遊んでいたけれど、ある日、学会の方に入った。

そういうのはよくあって、

これは恋愛総合化に反対する人たちが44街ではやけに冷たい目で見られるためだ。孤立させて引き込む、という手口が常習化している。

わかっていても、お母さん、は意思を決して曲げなかった。


「でもっ……恋愛総合化に反対するのは、間違って、ない……ママ……お母さんが、居なくなったって、わたしは間違ってないって思ってる」


刃物が左右から降って来て、ズシンと重みのある音とともに目の前に墜落する。さすがに恐怖を感じた。

「………………」

しかし幸いなのか不幸なのか恐怖を表すほどの気力がない。

疲弊している。

さっき強い力を使ったのもあって、今になってわたしの体に反動が押し寄せてきた。

 気を抜くとふっと意識が失くなりそう。

「まだ、まだ……!」

 背後から車さんをスタンバイさせると助走をつけて根元に向かわせる。途中、すぐに気付いた枝のひとつが急に車さんに襲いかかる。


「きゃあああ! 車さん!」

 刃物に多少なりとも触れた車さんが横転する。

車体に線を描くように延びる傷がついていたが、幸い、かすり傷らしく、すぐに体勢を建て直して走る。


──しかし、今度は避けることばかりになってしまう。

炎を纏わせると、あの腕は燃えるのだが、刃物は燃やせないようなのだ。

どうしよう……


『石返せー! 泥棒ー!』


「おねえちゃん……」


枝がのびている一番奥に居るはずの、彼女を思う。

胸が、いたい。


「おねえちゃん……」


『おねえーちゃん♪』

ケイコさんが重ねるように言い、クスクス笑う。


『おねえーちゃん♪』


「まだ……まだやらなくちゃ」


立ち眩みがする。

吐き気がする。

けれど、休んだら立ち上がれない気がした。


『おねえちゃーん!』


 すばやい手つきでポケットから出した薬ケースの中の1錠を口に含む。

効いてくるとよいのだが……


「……はぁ……はぁ……」


 車さんが突進しようにも、刃物が邪魔をしていて、進めない。

 わたしは一歩、前へ出る。

刃物は勿論わたしにも頻繁に襲いかかったし、近くにある『顔』にもぶつかることがあった。

顔、に当たると、蓮根の輪切りみたいな顔の断面が、地面に降り注ぐ。『顔』はいっぱいあるせいで、重ねて切り裂かれると蓮根チップスの雨のようだった。


『キライだよー! あぁー! みんな、あなたがキライだよ』


「どうだっていいよ」



車を突進させようとすれば刃物が守っているし、かといって、わたしがいる場所も一歩動けば追いかけてくる。

逆に言えば、黙って、じっと、していると動かない。


『キライダよー!』


 ケイコさんが、くねくね躍りながら、わたしの反応を引き出そうとする。

わたしは無言を貫きながら、考える。考えるのは大事だ。

そもそもおねえちゃんは、なぜ、こんなにまでなっているのだろう。

 そういえば、と窓を見ると外で、さっきからなにか騒ぐ声もしているのを思い出した。



「私が許せないのか! ──トモミ!!」


……そもそも、あのロボットが勝手になにかしたせいなのだから、向こうに聞くのが早いか。



───

 ……っていうか、トモミって誰?


『おねえちゃん♪』


 背後で、ケイコさんの声。

はっと振り向くと刃物になった枝がすぐ横の壁に突き刺さった。

間一髪だ。


「っ……、おねえちゃん……」


こわい。


 パラパラ、と渇いた音を立てて壁材が剥がれ落ちる。煙が舞う。

土のような生臭いようなにおいが空間に充満して吐きそうだった。


いたい。



「……おねえちゃん」

ママ。



考えるな。


首を横に振る。

 挫けても誰も助けてくれないだろう。


(自分で行くと言ったんだから)

ママは、居なくなっちゃったけれど……もし、目の前に居る大事な人を助けられるのなら──

少しでも、自分に意味があるのなら、此処に居たい。

 口の中は相変わらず温い血の味がする。鈍く全身が痛む。

ふっと意識を失いかけて、頭上を見る。

「ひっ!!!」


 ケイコさんと同じような透明なからだが、複数、こちらを見下ろして浮いていた。

『おねえちゃん♪

『おねえちゃん♪』

『おねーえちゃんおねえちゃん♪

『おねえちゃん』

「うわああああああああああああああっ!!」


 悲鳴しか出なかった。

同じような顔が、妙な笑みを浮かべて、一斉にこっちを向いてくるのがひどく恐ろしい。

頭上にぶらさがっているものはやがて、手足を丸く三角座りのようにした体勢で次々に落ちてきた。


『だーるまさん♪』


『だーるまさん♪』


『だーるまさん♪』


『だーるまさん♪』


 柔らかいボールみたいに不規則に跳ねて、あちこちに転がってくる。


『あのね』

『だるまさんはね』

『修行をしてね』

『手足が腐ってなくなっちゃったんだって』

『手足がね』

『だるまさんはね』

『おねーえちゃん♪』

『おねえちゃん♪ きいてよ』


「──さすがに、こんなに、沢山居たら……裁けないよ!」


『だるまさんは』

『じごく』

『じごくは』


 彼女?らが、今なぜだるまさんについて語りだそうとしているのかは深く考えたくなかった。


 ひとまず──おねえちゃんに近付けば、背後から生えている沢山のあの刃物に刺されるだろう。


 車さんにはあれを燃やす術はない。

「となると──」


 ぷにぷにと跳ねては、だるまさん

を繰り返す『それら』に視線をやる。まずはこれを、切り抜けてトモミだかなんだか知らないけど、それと対峙してるあっちと話しにいこう。


「車さん、戻って!」


 私が合図すると、車さんは勢いよく、枝を避けながらこちらに走って来ようとしていた。


 そのときちょうど、車さんが、何か言っているのに気が付いた。


「車さん……?」

車さんが訴える方向、枝が這っているタイヤのすぐ足元の地面を見ると

、なにかが落ちている。気がした。


 今居るリビングは真っ暗だ。

窓からのわずかな灯りをたよりに辺りを見渡している。目が慣れてきたとはいえ、足元は暗い。

 恐る恐る身を乗り出して車さんが居る方をよく、見るとなにか白いものがあった。

 近くの棚は倒され、引き出しの中身も散乱しているし、その一部だろうか?

いや、あれは……



ふと、窓を開けたわけでもないのに風が吹いた。

 地面からゆっくりと、それが起き上がる。

「紙飛行機……?」

そっと、手を翳すと紙飛行機は吸い寄せられるように手のひらに向かって来る。

 連絡を終えた車さんも同時に、こちらへと戻って来た。


「紙飛行機、おねえちゃんが、持ってたもの……?」


どこか、優しいぬくもりをかんじる。

それまでの心細さが、ふわりとほどけていくような気がした。


「──ごめんね」

そうだ。

 ここは、こわいけれど、恐怖の館だったわけじゃない。

家だった。物があり、人が居た。

物は、悪くない。

紙飛行機だって、ただ、居るだけ。

 服のポケットにしまうと私は走り出す。


『だーるまさん♪』


『だーるまさん♪』



 車さんもわたしも、振り向かずに近くの窓まで走った。

背後から、枝がのびてこちらを捉えようとするのはわかっていたので、顔たちを引き寄せてから一気に駆け抜けた。




『椅子ーっ、動かすんじゃないぞおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!』



『椅子、勝手に動かすんじゃないぞおおおおおーーー!』


『椅子、勝手に動かすんじゃないっー!!!!わかったかあああああ!!!!』



『ああああああああもう!!!


椅子がうるさいぞおおお!!!! わかったかああああああああ!!!!』




 振り向いてないので表情までわからないがだるまさんを連呼していた顔たちは、最後にはなぜか、椅子、を絶叫していた。




(4/22/22:07加筆)























 窓からなんとか抜け出すと、外に向かう。

外ではたぶん、痴話喧嘩が起きていた。

 ロボットが必死にトモミに許しを乞う声だけは駄々漏れなのだが、トモミの姿はわからない。

「なんて……痴話喧嘩なの! おねえちゃんを、巻き込んで!!」

 さっきまで戦った身体がきしんだ。苦しい。胸が痛い。ときめきが、すごい。

「やめなさああああい! そこのロボット!! 話を聞けーっ!」


ロボットはこちらのことなど見えていない様子だった。トモミにびくびく怯えて言い訳しているだけだ。

 この空間がもしもロボットのマスターのものなら、そもそも彼女はただの被害者だ。

 自分の記憶に責任が持てず、自分の力に責任が持てないせいで、部外者に被害を出しているなら──

まさしく無能の証明。

ただの部外者になんてことをしたのだ、ということになってしまう……


 トモミの確認は出来ないが、ロボットの身体は、よくよく見ると透明ななにかが巻き付いているようだった。近付ける範囲で近付き、目を凝らして観察する。

 指にはめられた指輪──いや、髪飾りのゴム? から発せられている禍禍しい気に操られているらしい。あれは何かのヒントかもしれない。


──キライダアアアアアアッ!


 ロボットの動く音に混ざるように、キライダ、の悲鳴が微かに、けれどはっきり聞こえた。

「キライダ……!?」


 誰かのキライダが、そこに居る。ならばトモミは──キライダが、見せているものなのか。

いや……もしかしたら。


「おい! 無能のバーカ!! 無能のバカ!!好きなものは何だ!」


 あのロボットのスキダはずっと、見えない。

(けれど──もしも──)


「嫌いな相手とやりあいたきゃ二人でやれ! 痴話喧嘩に巻き込むな!! 嫌いならさっさと分かれるか倒せ! いつまでかかってるんだ!」


届く期待などしていなかった。

けれどロボットが、ふいにこちらを向く。


「そうだ──トモミは、大事な恋人……すまない、話をしたい。茶を入れて欲しい」


トモミのぶんまで、とロボットは急に冷静なことを言い出した。


「車さん!」


 仕方がない。

わたしは車さんに確認を取る。

「このまま外から台所に回れる?」


 車さんが近くの壁の勝手口を指して合図する。外からは障害物は無し。いけそうだ。

 中に入ったら薬缶に水を入れて沸かして──麦茶を作ろう……この麦茶を飲んだら、トモミとのことを話し合って落ち着いてくれるのだろうか。

同時に、おねえちゃんが、なぜああなっているのかを考えなくては。

 キライダに襲われている意味ではロボットは敵対しているけれど、おねえちゃんは一体化していた……

___

 つまり、この空間のキライダの意識に近いのはおねえちゃんの方ということになる。

 いったい、何があったというのだろう?

慎重に台所に入る。

 中は暗いし、うっすらとした明かりで鈍く光る流し台に写る自分の影にすら不気味なものを感じそうになってしまう。

 ただただ、なんとなく、嫌な、重苦しい空気が充満していてどこかからすぐにでも何かが現れそうだった。


《おい──》


窓のすぐ外から、声がかかる。トモミは、彼がこちらがわへの移動の際に一旦避け、動きを止めると攻撃を

止めていた。

 何もしないぶんには、すぐに飛びかかって来ないらしい。



《言ってなかったな、俺は、ヨウだ。恋愛総合化学会の幹部の一人! お前もあの力を求めてきたのか!》


「あの力?」


声が聞こえるかわからないけれど、問い返す。


 ロボットは「そう、あの女の力だ、あれは俺──いや私のものにする!」と吐き捨てた。聞こえてはいるらしい。

ヨウ──学会の、幹部……


「あっ!」


その名前はアサヒの家でみた雑誌で聞き覚えがある。

 小さな記事だったが、コンプライアンス以前の問題とか命や生命をなんだと思ってるんだとか罵声が浴びせかけられている人物の一人として名前があった。

彼が、乗っていたとは。


 確か──人工減少に立ち向かう手段として、猿と人間の子どもを作ったりして論文が叩かれていた海外の研究所と、手を組むとかなんとか……

「ミュータント、不老不死、生体強化。あらゆる可能性があるのになぜ試さないのか。

そんな硬い考えでいるから人類はいつまでたっても進化出来ない」

という理屈で『あの兵器』を作る前からそういったことを続けている場所があったらしいとか。


 ……まあ確かに、あれが『兵器』に関係があるロボットなら、いや、そうでなくとも、この規模は幹部クラスでないと持ち出せないだろう。



「っていうか、力って、なに、なんのこと!」

言いながらも薬缶に水を入れて、コンロにセットする。ガスの元栓を探して……


《なにって、解るだろう? ぐっ……指がっ……指が……あぁ》


ロボットに巻き付いている指輪が何かしたのか、ヨウは急に唸り出す。


《あの最強の力だよ、椅子を従えて、化け物になったスライムを易々殺したんだろう? いいなあ!》


明るく楽しいことのように語られる言葉に、思わずカッとなった。

椅子さんはおねえちゃんの大事な人だ。そしてわたしも助けてくれた。


「ふざけないで! おねえちゃんに何をしたの」


《交渉していただけだ》


「交渉?」


 《あの力は、本当に彼女の持ち物なのか?

違ったらもらい受けたい。

 すごく気になったから、孤独が生れた一番濃い空間を再現したまでだ。

これは私のものであるということを、彼女が示せなければ幹部の勝ち》


それは脅迫だ。


「力が欲しいから、嫌な空間を外から強引に開いて

無理矢理入らせたっていうの!?

それじゃあ、ここは……おねえちゃんの……」


《殺人事件の現場だ。

ここに、俺にあの力が彼女のものだとわかるような、そうだな、血のついた凶器じゃなくてもいいが、

ここから直接持ち出してくれればここを奪うのをやめる……かもしれないな!》


寒気がした。

殺人事件の現場──おそらく彼女がいちばん思い出したくない記憶の真偽──彼女の根幹に関わるものを、

強引に確かめさせ、いちばん思念が強く残ったものを自分に見定めさせるまで、監視している、というのか。


彼はあまり理解がないらしく無邪気に楽しみにしているが、常識に照らし合わせても、これは鬼畜以外のなんだというのだろう?

 彼女はそれでも、彼に力を変なことに使われたくなくて、話をきいたのかもしれない。



《うふふふふふ、考えるほど、楽しみだなあ。

そして、何があったのか、なぜ彼女はああなっているのか、幹部に》


「──もういい! あなたって本当におかしい!」


 キライダが彼女を軸にああなっているのも、全部、こいつの意味不明な好奇心のためだったんだ。

倫理とか常識とか、本当に何も考えることが出来ないらしい。これは、あまりに天才過ぎて世界が呆れてしまう。


《人はそれを、恋と呼ぶがね!!

そうだ、これは彼女が好きだからだ!! そして俺がいれば彼女は愛されて幸せになる!》


まさか人を好きなやつって、本物のバカしか居ないのだろうか……

そんな考えがよぎる。

 いうまでもないが、愛されて幸せになる!などというタイプの大半は地雷を踏み歩く危険人物だ。

恋や愛を過信する、感情任せで《自分》ではなにもしない。

なにも頭が使えない人程、そんな不安定なものを過信して偉そうに振り翳す。

 嫌いだったアサヒと同じだ。傲慢で無知な、安易に相手に鬼畜なことを平気で強いる人間。

 ちょっとまずくなれば優しさを見せれば良い、という相手を軽んじたDV思考。恋愛を語りたがるくせに本当には他人のことなど何も自分で考えられない。


4/27/20:33


《何故ならば好きな相手のことはなんでも知り……いたたたたた! トモミ……

いくら装甲があつくても、集中してCDを投げられると困る》


そういやトモミさんが恋人って話をしていたばかりじゃなかったか?


「確信した、バカだな……」

薬缶でパックを煮出した麦茶を、その辺の棚から出した湯飲みに注ぐ。冷やす時間は、なくて良いか……

気力がないしもう雑に入れてしまう。少しはバカが目を覚ませば良いのだが。(2021/4/2914:15)







ーー


 あたりを見渡す。

不気味な空気が漂っている。

殺人事件の、現場……改めてそう思ってこの部屋を見てみると、なんだかどきどきした。


《しかし最近の地獄は、生ぬるい!!!! まだもたもたしているなら、声をかけに行かねば……うわ、トモミ!》


窓の外で彼がくすくす笑っている。笑っていたが、トモミ、が何かしたらしくすぐに飛び上がって攻撃を避けていた。

 ……彼はどうして、ここまで残念なバカになってしまったのだろう。

彼のことを考えていても仕方がないのだけれど、あまり正しいコミュニケーションを学べる育ちではなかったらしい。

麦茶をテーブルにあったお盆に乗せて、そっと流しの方に視線をやる。特に何か荒れているわけではなく、きれいに片付けられていた。

それなのになんだか胸騒ぎがするような景色だ。

 同時に外でまた騒がしい音が聞こえた。

トモミは激昂しているようだが、果たしてお茶など飲んでくれるものだろうか?

すっかり彼の目的が変わっているような気すらする。

お茶を抱えたまま考えていると、今度はリビングの側から音がした。何かが割れるような音。

そうだ……あまり時間がない。急がなくては、彼女はわたしごと空間を破壊してしまうかもしれない。

 全く、なんてことをしているのだ。

彼は力以前に、人間として学んでおくべきことのほうが多いと思う。


 車さんが麦茶を運んでくれると申し出たので、任せることにして勝手口のドアを開け、外に向かった。

車さんの方を指し示してロボットのほうに合図すると、彼はお盆を受け取ってありがとうと礼をいう。

そしてすぐに、湯のみのひとつを目の前に差し出している。

《なぁ、トモミ、まず、お茶でも飲んで話し合おう。この女の子が入れてきてくれたんだ。話を聞いてくれないか?》

彼が言うと、『トモミ』に反応があった。見えないけれど、確かに何か居るらしく、湯のみが宙に浮いていた。

《もういいぞ、力を目当てに来たんなら無駄足だったな!》


「そんな……そんなやりかたで得た力なんて偽者!」

下がれ下がれと手を振られ、なんだか、瞬時に怒りが沸いた。

引き返してくる車さんはじっとわたしを見つめている。


「この家から盗ったものを、返して! あなたに手に入れられなかったそれは、そもそもあなたの力じゃないってことよ!」


《トモミ……そうかそうか、トモミも、この家が欲しいか……ふふふ……ふふふふ……まだまだ、力を、うまく使ってやる》

「あなたの能力が足りない!あなたが未熟なの!……まわりの問題じゃない!あなた自身の問題ですから!!!」

 すでには言葉は届いて居なかったが、わたしは叫んだ。

どうせ苦労知らずは痛い目見るまでわからない。力ですべて思い通りやってきた暴君の、宿命なのかもしれない。


《はっ? 憎い? 嫌いだ……?トモミ……? トモミ? 私が、好きなのか?》



 背を向けた向こう側から何やら再び揉めるような声。気にしている場合じゃない。

とにかく急ごう、と私は来た道を急いだ。

 




 遠くからそっと壁越しにリビングの方を見る。

床のあちこちから根が伸ばされ、部屋の中ではどたどたと複数人の暴れる音がしている。相変わらずの荒れようだった。

時折、幼い子供じみた声が笑ったりはしゃいだりしている声もする。

「だーるまさん」「だーるまさん」

《うわあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!》窓の向こうから、ヨウの声がした。


《いやあああああ!! 俺を理由なく嫌わないでええええええええええええええ!! 嫌いなんて言葉がこの世界に存在しちゃいけないんだあああああああああああああああああああああああ!!!!!》


どきん、どきん、心臓が暴れだす。ときめきが、再発する。

(何、固まっているの。早く、リビングに入って……おねえちゃんを救いだして……それで、わたし……)


《俺を嫌うなああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!

俺を嫌うやつは居てはいけないんだああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!》


な……んで、そ、いうこと、いうの……


「嫌い……あんたなんか」


 どうしよう、こんな不安定な気持ちではあの部屋に近づけない。

体温が奪われていく。

指先が急速に冷たくなっている気がする。

寒い。此処は、こんなに寒い場所だった。

 (あの刃物を、今なら、遠くからならもしかしたら、根元を狙えば……早く。早く、動かないと、いけないのに……)


今になって、こわいだなんて、あんなに、願ったのに。


《嫌うなああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!》


「パパ…………」


頭を覆う。耳を塞ぐ。

こんなところでじっとしていては、敵に勘づかれるかもしれない。

だけど、動かない。動くことが出来ない。

「嫌うのは、罪なの?」

体が震えている。戦いって、こんなに、こわいものだったんだ。

自分が信じていることが、不安に変わるのは、こんなに簡単なことだった。


――グラタンさんは、私たちのヒーローだった

――そう、痛いのも! 悲しいのも! 辛いのも! 怖いのも! 世の中に、嫌いなんかないのさ!

いろんな人の言葉が脳裏に過ぎる。

「…………」

動くんだ、という思いと、下手に動いて半端な打撃しか与えられなかったら、という恐怖が襲ってくる。迷いは命取りになる。

迷うくらいなら動かないほうが安全だ。

 でも……だけど此処には、わたししか……

わたしが、やらないといけないのに。どのみちいつか、この世界もなくなる。早く、はやく。

呼吸が荒くなる。息が、苦しい。


「どうしたの?」


 声が、聞こえた。

空耳かと疑ったが、違うようだった。

「どうか、した? どこか、いたいの?」


「誰……」


辺りを見渡す。はっきりと聞こえて来る声。もしかして誰か、救援に来たんだろうか? でも、そんなまさか。


「大丈夫?」


「あなたは、誰? どこに居るの?」


敵だろうか。味方だろうか。どちらにしても、気を紛らわせるなら良いと思った。


《うあああああああああああああああああああああああああ!!!! 嫌うなっ!! 嫌うな!!!! 俺を嫌うなああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!》

外ではまだ、激しい声が続いている。


「こっちこっち!」


正反対に、無邪気な、優しい声がする。

不思議と元気が沸くような。

 声がする方に向かう。廊下を曲がっていくと、ついたのは二階に向かう階段。

階段の、6段目くらいのところに、声の主は立っていた。


「あのね、あのね、なにを見ても、触っても、いいんだよ」


人形。表情のない、薄汚れた、けれどたぶんそれだけとても可愛がられていた人形がふたりいた。


「……えっと」


『あなたは、何を触っても良いんだよ』

『あの人が口にする食べ物だって、触れて体内に入っていく。私はとがめたことがない』


人形たちはそれぞれに繰り返す。


「あなた、たちは」


 外で、嫌うな、嫌うなと叫ぶ声がしている。けれどもう不思議と気にならなかった。


『何を嫌いになっても良いんだよ』

『私はとがめたことがない』


「……あの」


『姫が思いを込めた……もの』

『久々に、人と話した』

『恐れないで。私はとがめたことがない』

『私はとがめたことがない』


零れて来た涙を拭い、深呼吸する。よくわからないけれど、とがめたことがない。たったそれだけの言葉なのに不思議と気持ちが落ち着く。

もしかして、おねえちゃんのことなのかな。

 椅子さんと居るときの彼女の暖かい笑顔を思い出した。人形たちは暖かい気で満ちている。


「うん……わたし……もう一度、戦う!」


『それなら、私も』


『私も連れてってください』


「……一緒に行ってくれるの?」


『もちろんです』


『行きましょう』





(20214301804)
























──窓を開けると、空には一面青の空が広がっていた。じつに良い天気。


 私の住む44街の朝が歪み始めたのは、ちょっとまえ。

あちこちで過疎化が進み労働力の確保が難しくなり始めていたことを受けて、超恋愛世代の生き残り…………私より、前の前の前の前の前の前の……とにかくちょっと昔の世代の大人が決めてしまったのが『市民は全員恋愛をしなくてはならない』というものだった。

 昔、私は『椅子』に恋をした。しかし、当初、44街はそれを恋愛として認めなかった。理不尽な迫害にあって条例違反とまで言われた。条例を守ろうにも、相手が人でなければ無いも同然だったのだ。最初は殺されかけたり、役場に笑われたり、周りの人にも、相手が人間じゃないってだけで笑われたり差別されてきたけれど、今では良い思い出。人と物も通じあえるってことを、世界は今、ようやく理解している。


■■■■■年、

 椅子だけじゃなく、すべての物に対して恋愛が正式に認められ、パートナー制度がようやく確立された。



──今日も椅子と私の幸せな日が始まる。



「ねぇ椅子さん、何処に行く?」


──ガタッ!


まだ寝ぼけている椅子さんを起こしに部屋に行くと、椅子さんが照れくさそうにベッドから起き上がり、返事をした。寝ぼけているらしく少し慌てているような返事が愛しい。


──ガタッ!


「おはよう」


──ガタッ。


寝癖がついていると椅子さんに言われて、慌てて頭をおさえると、ぴょんぴょんと髪が跳ねていた。


「わ、ほんとだ! って、そんな笑うことないじゃない!」


 思わず椅子から目を逸らす。

ざらついた木の肌が、白いシーツに映えてなんだか眩しい。


「……なんか、変だな、いつも通りの朝で、いつも通りに椅子さんが居るのに、何か大事なことを、忘れている気がするの」


──ガタッ。


「ううん、なんでもない!」


扇風機が首を回す。風が肌に当たる。

「あー、すずしい。今日も、暑いね!」

誤魔化すように風を受けて、私は苦笑いする。何でだろう。こんなに幸せなのに、変なことを考えてしまった。



 44街にある私の家。三重の鍵を開ける先にある私の部屋。

ごちゃごちゃと壊れたラジコンとか謎の人形とかが本棚に乗っかり、くたびれてあちこち継ぎ接ぎされたソファーがあって、はだか電球風のライトがついている落ち着く空間。


──ガタッ?


椅子さんが心配そうに見上げてくる。


「──本当になんでもないから……ただ……ちょっと昔を思いだしちゃって。ほら、二人で街を歩いていたら、

爆笑した、とかって指をさされたやつ……椅子と人間が居たらそんなにおかしいのかって椅子さんが怒ってさ」


あれは信じられないよね、とべらべら話す私を見透かしたように、そっ、と触手が伸びてきて目元に触れる。

心配そうな椅子さんと目が合う。


──ガタッ?


「ありがとう、大丈夫だよ……」


自分の好きなものを、自由に好きに、嫌いなものを自由に嫌いになることが、こんなに大変だなんて……あの頃は思いもしなかった。


「私は、人間じゃない、人間じゃなくて、椅子のことが、好きなのに……って、なんでだろ、なんか、今、急に……言いたくなっちゃった」


朝ごはんはパンとご飯どちらが良いか聞きながら、台所へ向かう。椅子さんもガタッと言いながらついてくる。

「あ、だめだよ、まず顔を洗って来ないと……!」


──ガタッ。


「椅子さん……」

椅子さんが洗面所に向かう。

気にかけてくれている、早くいつも通りに振る舞わなくては、と服の裾を腕まくりして朝食準備にとりかかる。

 直後、バターン! と倒れる音がして廊下に飛び出た。

そういえば、椅子さん用に靴下を縫おうとして買ってきた布類を出しっぱなしだった……

「椅子さああん!」




 椅子さんは幸いにも軽く転んだだけで、無事だった。それだけなのになぜだかひどく怖かったし、安心した。

「椅子さん……」

椅子さんが、クスクス笑う。

──ガタッ。

「し、心配に決まってるじゃない!」

──ガタッ。ありがとう。

「どこか、痛く、ないの?」

──平気。

人間にはない、ひんやりした感覚の肌に触れる。傷は、無さそうだ。

「じ、じゃあ、朝ごはんの準備に戻るから!」

少し恥ずかしくなりながらも、台所に戻る。相手は椅子、わかっていても、椅子は椅子として素晴らしい表情を見せていて、私には人間以上に魅力的だった。

 再びなにかを誤魔化すように冷蔵庫を開け、まな板にのせた野菜を刻む。


「椅子──椅子──椅子さん……」



家が炎上したとき、身を呈して私を連れ出して、説得していたことがあったっけ。


人間との対話が辛いなら、椅子でいいじゃないかと、励ましてくれたりもした。

あれは何よりの支えだった。

出会ってすぐに、椅子さんは誰よりも大事な人になっていた。


 椅子さんと私に割って入ろうとしたヨウさんも、対物性愛者だったから過去の自分と重ねてしまったと言っていたっけ。

トントントントントン。

野菜を刻む音が辺りに響く。


「人間以外に好かれて、椅子さんと会えて、私初めてこんなに幸せになれたよ──」


トントントントントントントントントントン。包丁がリズムを刻む。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇















・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 そーっと廊下に出て聞き耳を立てる椅子に、市長の挨拶が聞こえてくる。

ウォール作戦は知っている。

総合化学会や一部の権力者が失敗『させた』作戦だ。

「残念ながら、大樹を伐採し直接街に用いても、なんの効果も得られなかったことは悔やまれますが……あのときは助かりました」

「壁ごときでは、人類が大樹の防壁の内部に立ち入るくらい出来たこと。元から守れなかったのよ


「…………」


 キラキラしたクリスタルの粒子が、椅子の周りで輝く。

市庁舎の周りにクラスターを発生させるべく、それは大気を漂って外へ向かう。



(──どうか……


この、非道で理不尽な接触禁止令のことを──)






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「ハハハハ! お前が生き残る唯一の方法は! 私に愛されることだ!」


 椅子のなかに、在りし日の情景が過る。

椅子が椅子になるよりも昔──まだ大樹だった頃だ。

 小高い丘の上に佇んで街を見下ろしていると、街の門の入り口で男が一人、ある女に絡んでいたのが見えた。


「もはや家も領地も指先ひとつで我が物。

お前が生き残る唯一の方法は! 私に愛されることだ!」


 いかにもそれが格好のいい言葉であるかのように卑劣で残忍な台詞を吐き捨てている。

 状況はどうやら、彼がどうしても欲しがった『宝石』が彼女のなかにしかないもので、その輝きを奪い取ることに目が眩んでいるということのようだった。

 スキダが視認されるこの世界において、

自分のクリスタルと、相手のクリスタルとのつり合い、輝きを見せびらかし権威にすることを考えるものも多く居るのである。

目が眩む、というのも自分にはない輝きをその権威に変えたいという欲求からだった。

 男はなかなかの領家の出で、ごく平民の彼女との身分は大きく違って居た。身に付けている服にもなかなかの勲章のようなものがつけてあった。

しかし彼女はそれを名誉には感じず、ただ屈辱のようにとらえると彼を睨み付けた。


「私は、そこまでしてあなたに愛されたくはありません。 あなたは人を見下している。生きるという権利が、俗物に劣るようなことをよくもぬけぬけと」


 彼女の『宝石』であるスキダというのもまた、その男個人に向けられて輝く類いのものではなかった。淡く澄んだ水色に輝いていて、他の結晶には大抵見られる、重く淀む(よどむ)ような濁りというものを感じさせない。

 しかし他とは違うということは、他とは違う感情を持ち得て初めて輝きを増すということである。

「お前のスキダは、他とは違う! だから、お前しかいない!」


 と言われたところで、それはあまりにも当然のことであり、他と並んで特別にされることがこれに限ってはありがたくないというものだ。


「そう感じられるのなら、『あなたと私は異なる生き物』という意味です! 自分自身に憧れの輝きを見いだす人はほとんど居ませんからね!」


 彼には、彼女が激昂する理由も、言葉の意味もよく理解出来なかった。

 特別とは素晴らしいことであり、自らがそれを認めて誉めているのだ、それを否定するなどと彼のなかにはあってはならなかった。


「どうしてもならぬのか……? 良いのか、家が、土地が、どのようになっても」


「それも困りますね。そういえば、月でしか取れない鉱石があるというわ……それを使うととても美しい耳飾りになると思いますの。まあ月まで向かう方が居るとは思わないけれど、せめて、それさえ見ることが出来れば」

 

 まだ宇宙どころか、ほとんど航空技術の少ない時代にも関わらず、男はわかった、と言って一度帰っていった。

 条件をつけているように見えるが、実際のところは断るところでプライドを傷付け、むきになられるのを遠ざけるためという判断だろう。


「……はぁ、空はこんなに広いというのに、人は皆、心が狭いですね」


 自分自身を含めて皮肉るように彼の背中に呟き、彼女は門の外に抜ける。

 背中まである淡く桃色の長い髪を靡かせ、一目散に丘の方に向かって走ってくると、壁を抜け、大樹の根元に座り込んだ。



「落ち着く──あなたの周りの空気は、なんて清々しく、透き通っているの」


──………………


「良いの。言葉などなくても。私は、ただ、スキダに本当は、美しさ以外の価値があるのではと、そう思います……あなたはその真価のようだわ」



──…………



「ふふ、そう思いますか?

本当は私、あの月から来ましたの」


──………………


「えぇ。本当ですとも。いつもあなたを照らし、守っている────何よりも大きな宝石。誰の浮かべたものだと思います?


人間は皆、あの星たちの、ほんのクラスターに過ぎない」








・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


『カグヤ』







 祖母が死んだ。


──今は、ただ、それしかわからないけれど、とにかく、死んだんだ、と思う。

 面会だけはしたけれど、本当に眠っているみたいだった。

ベッドにのせられた祖母の体は眠っているみたいだけれど、祖母の背中についている黒いキカイが、ごうごうと音を立てて死体を清潔に保っているから──やっぱり死んだんだと思う。そういえば、近付くとかすかに、死体の特有の臭いがする。


 死体を見たのは、ずいぶん久しぶりだ。


 数日置いてから葬儀のために色々とあるらしい、けれど、とにかく、なんだかわからない疲れとかで、病院を抜けた私はただ呆然としていた


「──おばあちゃんは、熱心な信者だった、なのに……」


 急に様態が変わるような持病はなかったような気がするのだが、確かに歳とは言え、こんな不安定なタイミングで亡くなるのが信じられない。

すっかり日が沈み始めた道は暗くて、私の不安を煽っていた。


「急に、いろんなことが起こるなんて、私が──リア充撲滅運動をしていたからなのかな……邪魔に、なった?」


 これであの家には家具屋の祖父と私だけになった。祖父ももうかなり高齢者だし、祖父を支えていた祖母が居ない今となると、家具屋のほうも祖父もなんだか心配だ。

 心配、と言うより、危惧というべきなのか……?

なぜだろう。

なんだか、いやな予感がする。



 病院を抜け、坂道を下り、道なりにふらふら歩いていると、近くの電気屋のビルに人だかりが出来ているのに気付いた。

「なんの騒ぎだろ?」


 遠くから伺ってみたところ、テレビモニターに大写しになった市長が、異常性癖の持ち主の住所や名前を勝手に発表している。

 集まった人々は勝手に決めるなとか許可なく個人情報を公開してまで訴えることかとか口々に批難する。

確かにこんな無理矢理に個人情報を晒すなんて正義でもなんでもない。

相手は善良な一般市民だ。多くは犯罪をしたわけでも国民の税金で雇われた連中じゃないのに。


「え? え?」


人を、誰かを、愛しましょう、それは思いやり、幸せを享受する為ではないのか、なぜ、こんな風に──


 途中で速報が流れた。

歩道に溢れる人だかりに近づいて、近くの歩道のブロックの上に乗って背伸びをすると、ギリギリ人々の頭越しに速報が見えた。


『きこさんが殺害された事件で、馬路容疑者は『恋人にしたいからやった』と容疑を認めており、異常性癖の持ち主と見られています』



 私が祖母と別れている間に、何が起こったのだろう。

寒気がする。おぞましい何かが背後に見える。やっぱりいやな予感がする。速報が次々に流れたが、どれも事件に異常性癖が絡んで居た。


『増える異常者、この課題に44街はどう取り組むか──この時間から討論していきたいと……』


どうして、こんなものを平然と映して居るのか。テレビが訴える国民って誰のことなのだろう。

わからない、なにも、わからない。

こわい、こわい、こわい、なんだこれ。どうしてこんなことになっているのか。

 走って家に向かう。


 途中、サングラスをかけた大柄の男とすれ違った。喪服にも見える黒いスーツを着て腕に数珠を巻いている。片腕が特殊な義手らしく、金属のような固い音がしていた。


「お嬢さん、この度は、残念でしたね。御悔やみを申し上げます」


「あの──」


「私、カグヤのお祖母さまには、お世話になったものでしてね……」


サングラスで表情 はわからないけれど、少し目元が赤い、ような……泣いているのだろうか。

でも──


「どうして──まだ、何も知らせを出していないはずなのに」


「おっと。これはこれは。先ほどお祖父さんにお聞きしたんです」


「祖父が?」


「では、失礼します」


男は一礼すると足早に横断歩道を渡っていく。咄嗟にあの、とか待って、とか呼び止めそうになったけれど、そのあとなんて言えばいいかわからなくて、ただ、立ち尽くしていた間に、距離だけが開いていった。



 なにを確かめたいのだろう?

なにか、なにか大事なことが──

 引き返して病院の方に向かった。




中に入ると、走らずに急いであちこちの受付を探す。

「……お祖父ちゃん」

ただ、聞きたい。

あの男は誰──

さっき、此処に来たってこと?

なんだか、いやな感じがする。

 トイレにでも行っているのか、パッと見た限り祖父の姿は見つからない。



 廊下の向こう側に、担ぎ込まれる誰かが見えた。

 体に数ヶ所穴が空いて血が出ている男性が止血を施されながらどこかに向かっていく。まるで映画かなにかで見た、爆発か銃撃でもあったときの怪我人みたいだ。


 背後で待合室のテレビが、速報を流す。

『44街で爆発がありました』

『恋人届をまだ提出していない44街の女性が行方不明になっています』


ニュースが異常性癖の持ち主に集中している。こういうときは、何か裏がある……気がする。

 ぽよぽよと歩いてくる患者とすれ違う。病室で着せられる服を着たまだ幼いスライム。


「いけませんねぇ、実にいけませんねぇ」ぶつぶつ呟きながら、車椅子に座ったゴブリンが付き添いの人と会話をしている。咳き込む人間、熱を測る人間。


「さっき、爆破があったらしいよ」

「どこら辺?」

「すぐ近く」

誰かが噂を始めると、たちまち広がる噂。


「思ったより異常性癖を持つ人や、恋愛を望まない人が居たんで、やけを起こしとるな」

新聞を広げながら、どこかの老人が呟く。強制恋愛政策は表向き高い支持を得ていたけれど、いくらかの人々はどうしたって気持ちに嘘をつけない。仕方がないことで、これが真実だった。


 (この不穏な空気に触れていたら、叫び出してしまいそうだ。めぐめぐ……みずち……みんなに、会いたい……)


 祖父が見つからないし、だったら降りて、家に向かおうと改めて玄関の方に向かっていると、祖父の声がした。

「おぉ、そっちに居たか。トイレに行ってたんだ」


 少し悲しげではあるが、落ち着いた声で話す祖父。

私は単刀直入に質問した。


「ねぇ、さっき、サングラスをかけた義手の人とすれ違ったんだけど」


「あぁ、幹部の……」


「え?」


「お前、それは学会の幹部だぞ、婆さんが亡くなったって、どこから聞いたんだか挨拶に来ていた」


「お祖父ちゃんが、幹部の人に言ったんじゃないの?」


「さあ知らん。救急車とか来てたから、なんか目立ってたんじゃないか?」

「そうなんだ」


(お嬢さん、なんて、まるで私を把握していると、遠回しに圧を かけているみたいだった……)

胸騒ぎを誤魔化すように、手続きが終わったかを聞く。祖父は大体はなと言った。


(わざわざ圧をかけに来たことが、何か意味を持つのだろうか、それに……めぐめぐは、接触禁止令をかけられそうになっていた、まるで誰かが後ろから手を回して居るみたいに、不自然なことが起きてる……)


 そっとポケットから出した端末を開く。みずちと何回かやりとりしたメールの返信が来ていた。接触禁止令は回避したらしいがまだまだ不安があるのだという。

 ひとまずは良かった、けれど、確かにこんな速報やニュースを見せられている44街の人々に平穏はまだ戻らない。


圧をかける理由があるとすれば、私が学会に反対してることや、あの子たち──悪魔と呼ばれて偽物を用意されて迫害されていたあの子たちの真実……学会やカルトがのさばる裏では罪のない子たちがあんな扱いを受けていたと私たちが知ってしまっていること、それとも恋人届を出さないこと、いろいろなことが脳裏に浮かんでくる。


 私まで、口封じする気なのだろうか……けれど、あの日を後悔したことはない。

迫害が起きていて、誰かが裏で消されている。誰かが戦っている。

 関わってしまったからかもしれないけれど、目の前にその現実があってもなお、見て見ぬふりをするだなんて、きっと私には出来ないだろう。

だったら、最後まで戦う。



「ごめんお祖父ちゃん、ちょっと友達んとこ行って来る!」


 会話を切り上げて、とにかく外へと急いだ。





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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・















「俺のスキダは────あいつと共にある。だから、発現しない」


「どういうこと?」


「誘拐、されたんだ……行方不明だが、犯人はわかる」


「誰なの?」

私が聞くとアサヒは少し悲しそうに答えた。


「恋愛総合化学会」


驚き、はしなかった。

他の人もそうだったのかもしれない。


「まだ、ハクナの活動をそんなに力入れてなかった頃に、嫁市場って闇市場が出回ってて、それがハクナが隣国と手を組んでるってずっと言われてた」


カグヤが真剣な顔つきになる。


 それにしても目から鱗が落ちる。スキダ、発現しない要因は、相手が行方不明ということ。好きな相手の存在がわからない場合に、うまく現れないことがあるだなんて。

「誘拐に、手を回してたってこと?」カグヤが聞く。

学会員が、とは彼女は言わなかった。

「なんで、関係あるみたいに言うのよ」

「彼女は、44街に、突如恋愛総合化学会みたいなのが政治のバックにつく前から、強制恋愛に、反対していたんだ──

そして、対外的な要因で恋愛的判断に狂いや乱れが生じる、今でいう恋愛性ショックが、

病気である可能性について論文を発表していた。

やつらが動く動機は充分あった」

「私の、病気だ……」

女の子が、目を丸くする。

「その人って」

「マカロニって名前だったかな」

 女の子の瞳から、雫がぽたぽたとこぼれた。

「お──おかあさ、ん……おかあさん……」


「おかあさん、マカロニさんなの?」


カグヤが聞くと、女の子は首を横にふる。昔っていってたから確かに時系列があわない。

「でも──わかる……おかあさんは、たぶん、そこにいる……」


 あの日、爆発した家の瓦礫の下から、彼女の家族は見つからなかった。だけど彼女は直感したのだろう。彼女の母親も活動家で、同じ病気の話をしていて、ハクナに目を付けられていたのだから。

 爆破された家、さらには観察屋があそこまで執拗に、私の家を見張り、探り続けていることも含めて、そこまでするハクナに可能性が充分あることを感じ取っている。

「なんで? その論文がなぜ狙われるの」

カグヤが首を傾げる。

「恋愛総合化学会が、

恋愛を感情論だけで謳っているからだ」 









──速報です。

椅子との届けを出しにきた女性に対して全国に向けた画面の前で笑ったことについて、市長が謝罪しました。


 目が覚めたときに見たのは、視界の、遠いところで起きている火災と、なにやら騒がしく出動してる消防車。

さらにビルの大きなモニターにそんなニュースが映っている、不思議な光景だった。

……いや、意味がわからない。そもそもどうして自分が眠って居たのかもわからないし、あの速報もわからないし、なにもわからなかった。


「……うぅ」


身体を起こそうとして頭痛に呻いた俺に、誰かが声をかける。


「あ、気がついた」


「ゆっくりでいいんだよ、ゆっくり、起きて……」


複数の、人の声。

 この声は確か……改めて意識を覚醒させると、目の前を歩いているみずちと、めぐめぐが目を覚ました! とはしゃいだ。おはよう、とそれぞれが挨拶してくる。


「あぁ……おはよう」

そこで再び、ハッと気が付く。

「そうだ、あいつは!? 俺は、どうして、こんな……」


「いったい誰に謝罪してるのかしらね?」 

急に、自分のすぐ下から声がして、思わずうわああああと情けない声をあげる。


「あら、私が担いであげたのに。おはよう、アサヒ」


「お、おは……よう、ございます」


万本屋の背中から降りて、改めて目の前の44街を見る。


「あのニュースはね、今、恋人届けを出さなかった人を対象に、異常な性癖を持っていたり、種族が変わってる人々を市長直々にさらしあげてるの」

「はあ!? なんでいきなりそんな──民の反感をかうようなまねを」 


椅子との届けを出しにきた女性に対して全国に向けた画面の前で笑ったことについて、市長が謝罪しました、という速報を改めて思い返す。


「あいつ、44街と、和解できたのか?」


「勝手に騒いで勝手に謝罪してるだけ。だってあの子──まだあのなかに居るんだよ、市長に会うなんて出来るわけないじゃない」


めぐめぐが少し怒ったように答えた。

……あのなか、ぼんやりと記憶が戻ってくる。

そうだ、確かに、俺が意識を失ったのもあの市庁舎の前に向かったあたりからだ……


「さらしあげて、今度はちょっと度が過ぎたものは形だけ謝ってるとこ。あっきれた……」


 よく見るとちらほら画面に集まって来ている民の輪の中心や、視線の先──44街の恋人届担当職員、そして44街の恋愛推進委員会とかいうなぞの委員会の人たち数名がテーブルを囲む姿が映し出されていた。

『 緊急事態宣言です。

今後、恋人届けを出していない者は理由を問わずに発表していきます。

異常性癖や嗜好があっても、

44街の担当審査員によって、社会的影響が出ることが認められるほどのハードさである、と認めなければ

公表していきます! 強制恋愛条例ですので、恋人届けが3ヶ月以内に出されない場合はこちらから強制的に相手を指定させてもらいます!』



「しばらくは、謝罪ラッシュが続くかな……まあ、最初から今に至るまで、茶番しかやってないわけだけど」


みずちが苦笑しながら言う。

続けて、端末を見せてきた。

「……ところで今、さっきからこそこそと連絡を取り合っていたカグヤから連絡が来た。学会幹部と見られる義手の男と接触したらしい」



「……義手の、男──」


何故だか、胸騒ぎがする。

幹部。義手の男。

それだけじゃないか、まだ、奴だとは決まっていない。なのになんだこの落ち着かない気持ちは。

_



 もしも、もしもその義手が『キムの手』だとしたら――!!

この暴動も『あいつら』が扇動してたのだろうか?

 カグヤの祖母のことも、もしかすると――椅子や俺たちのことを嗅ぎ付けて、情報を知るものを減らすために……?

ありえない話ではない。

だが、そうだとしても、カグヤに接触するのは何故だろう。俺達をかばったから?

カグヤに何かあるのか。それとも、学会への抗議活動が目をつけられているというのも有り得るし……


 黙り込んで居ると、せつのあの悲痛な声を思い出した。


――痛みだけでも!!痛みだけでも刻んでやる!!彼女のなかに!!私を刻んでやる!!!

痛みだけでも!!!私を見なさい!!忌ま忌ましい悪魔!!


 それは狂気だった。まるで彼女に成り代わることに生涯をかけているかのようにあまりにも強い執着。

孤独が彼女に与えたのは、それほどまでの虚無感だったのだろうか。

けれど、同情するほどにせつに、いや、アーチに関わることなど知る由もない。

そしておそらく、そのほうが良いのだろう。無駄な情は結局誰のためにもならないのだから。



「あ、そういえば、せつは」


「居なくなったよ。でも、たぶん、悪魔、を諦めていないと思う……」

ぼそっ、と呟いたのはみずちだった。

「悪魔の子――」

万本屋北香が続けて言う。そういえば彼女は悪魔の子、について何か知っている様子だった。

「なぁ、気になっていたんだが、悪魔の子のことを知っているのか? あれって、ほとんど表に情報が出ていない――」

「えぇ、知っている」

 万本屋は間髪入れずに答えた。外で、またけが人が出たらしい。近くの商店から、腹を抱えた男性が担架に乗せられて運ばれていくのが見える。パトカーが数台側をすり抜けていく。

「悪魔のことも、薬のことも。だって、私も抽選に応募したことがあるから」


「抽選……? 何を、言っている」

いきなり福引か何かの話題だろうか?

 ぽかんとしていると、警戒するように辺りを見渡しながら、万本屋は小声でこぼした。


「抽選は、希望者が多いときね。普通は、面接、そして採用」

だから、何の、と言おうとしたとき、彼女は周りを気にしながらも続きを話した。


「今は、あるか分からないけど、学会関係に、スパイ組織であるネオ・コピーキャットっていう会社があって私もそこの企業に応募したことがあるの。その、お金が欲しかったから」


「……」


「隣国を中心に集まった人々が、オーディションによって選ばれて、成り代わりの偽者として指導され、多くの著名人になっていった。悪魔の子の代わり、つまり時期の影武者――代理と言っていたっけ、それとして日本に送られる子も居た。

するのは勿論潜入と、情報操作。保険会社もそこの伝に過ぎない。

そのバイトのときに、聞いたのよ。あの家の子は代々悪魔が生まれるって」


「成る程な。密かに潜入して情報を操作し、首を切って成り代わると地位や名誉をリサイクルしていた……それが、本当の、クロだったのか」

脳裏に過ぎるのは、彼女、の家族だった。彼女の家族はクロによっておそらく成り代わり、居なくなったのだという。


「さぁ。一体化しているところもあるし。信じるかは貴方たち次第。」

万本屋北香は、ふうっと長いため息を吐いて言う。

「ただそのバイト、私は不合格だったんだけど」


「そうか……」


「演技にコケて成り代わりに失敗した私に、しばらく、恥をかかせないようにっていって、必死に人を動員して、評価を集めてくれたり、推薦署名を作ってくれた、採用担当の西尾さん達が……懐かしい。もういい私が悪かったから、成りすましなんかもともと向いてないんだから、って大泣きして断ったな。それでもしばらく万本屋北香の悪魔を推してくれていたんだけど」


今でも、せつになにかあれば万本屋に召集がかかるかもね、と彼女は朗らかに言う。アーチがやけに彼女のことにこだわっているのは体感した通りの事実だが、その会社としてはひとまず、彼女本人に成り代われさえすれば良いという部分もあるのか。


「でも、どうしてそんなことを教えてくれるんだ」


「……わからないの」


「え?」


万本屋は悲痛な笑顔を向けた。めぐめぐたちも黙っているが、聞き耳を立てているらしい。けれど、万本屋に視線が集中しないようにしているのか、背を向けて、車を背にモニターを眺めるようなしぐさを続けていた。

「もう、わからないの、あの場所がどこに向かおうとしているのか。学会は、恋愛総合化をいつしか盾にして、私欲に走るようになった。もう、私が知る頃の、あの学会じゃない……私を、みずちを、のけ者にした、あの日のクラスと、おんなじ……何もかもわからなくなってしまった。だったら、わずかにでも、自分の中の良心を問い直すしかない気がした」


みずちが少し離れたところから切なそうに彼女を見つめる。

「誰かを、想うことがいつからこんなに、崇高なものになってしまったんだろう……」

 恋愛を感情論だけで謳った世界が生んだ、彼女たちの劣等感や社会から隔絶されるような孤独。

それはほんのひとときの触れ合いで簡単に埋まるものではない。

 ある者は救済と理解を求め他者を殺害し続けた。ある者はすべての感情を投げ出し感情そのものを消した。何かを想う度に孤独な病に苦しみ続ける者も、自我を問われる苦しみから自ら命を絶った者もいる。今も、押し付けられる答えに苦しんでいる者もいる。本当に感情論だけで解決するようなものなら、両思いなどさほど重要ではないし、側にいる必要もない。番などと呼ばれる仕組みもそもそもさほど意味を持た無いだろう。


 アサヒが何か言おうとしていると、めぐめぐが近寄ってきて言った。

「あれ? 確か、あの人44街の神様は自分に近い孤独に触れられる者にしか心を開かない。『あの家』を、学会や街の連中が隠したのはその為だ。悪魔だなんて言って、掲示板や至るところにお触れを出してまで、って言ったじゃん?」


「……あの人?」


「あー、アサヒはあのときちょうど寝てたか……」


 めぐめぐはぽん、と手のひらを打って、カフェに居たときの話を簡単にした。

確かにそのときハクナの指揮の男が入ってきた、辺りまでは記憶にある。

コクったかとか聞かれたあと……確か、寝てたのか。

あの話って、なんのことだったんだろう。


「なるほどな――クロと、そのための、観察屋と、ハクナか。あの家に、代々昔から悪魔と呼ばせて張り付いている。なんとなく繋がりが見えてきた」


そこまで言ってから、すぐに、『彼女たち』のことを思い出す。


「おい! あいつらは……」


「だから、あの場所に居るままだってば」


めぐめぐがそのときの話とアサヒが倒れたことを改めて言う。

 そうだった、けれど、それって……

脳裏に浮かぶロボットは、どこか見覚えがあった。どこで見たものなのか、うまく思い出せないけれど、ずっと観察屋をしていた自分の記憶にあるってことは、おそらく学会関係の……雑誌か何かの撮影のときの記憶だろうか。

とにかくあんな兵器を、堂々と動かせるのは幹部クラスしかいない。なんとなく、だけれど、そんな気がする。

『キムの手』かはわからないが、義手の男はカグヤの方に居るとして――

他の、誰か幹部クラスの者が『彼女』に目を付けた? 冷静になって考えるととんでもなくまずい状況だ。

兵器、兵器……何かで見たぞ、何か……


「アサヒ、カグヤのところに行こう」


万本屋がぐいっと俺の腕を引こうとするのを振り払って、額に手を当てる。

「待ってくれ、もう少しで思い出せそうなんだ」

なんだっけ、なにか、やばいものだった気がする。


「そうだ、雑誌記者の南川の……」


 何年か前の雑誌のことを思い出す。

総合化学会は『呪いが出来上がる現象』を再現することに関心を持っている、というものだ。度重なる非人道的な実験を行い、現場再現をする装置を作っている噂があったのだ。

それで、全身にフィットさせて微弱な電磁波? みたいなのを発生させるスーツになるという話までは聞いた気がするが、それが完成するんだかしないんだかで、圧力がかかったのかぱったりと雑誌に載る話が途絶えていた。


(彼女達が心配だが、今の自分にはその再現空間?に入るすべがない……)


はっ、と顔を上げるときには、めぐめぐたちはさっさと車に乗り込んでいた。クラクションが鳴り、あわてて返事をした。

「今行くってば」



義手の男――!

 

 キムの手かどうか、確かめてやる。



(2021.0514.2215加筆)





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『器と人形』







「ふざけないで! おねえちゃんに何をしたの」


《交渉していただけだ》


「交渉?」


 《あの力は、本当に彼女の持ち物なのか?

違ったらもらい受けたい。

 すごく気になったから、孤独が生れた一番濃い空間を再現したまでだ。

これは私のものであるということを、彼女が示せなければ幹部の勝ち》


それは脅迫だ。


「力が欲しいから、嫌な空間を外から強引に開いて

無理矢理入らせたっていうの!?

それじゃあ、ここは……おねえちゃんの……」


《殺人事件の現場だ。

ここに、俺にあの力が彼女のものだとわかるような、そうだな、血のついた凶器じゃなくてもいいが、

ここから直接持ち出してくれればここを奪うのをやめる……かもしれないな!》


遠くからそっと壁越しにリビングの方を見る。

床のあちこちから根が伸ばされ、部屋の中ではどたどたと複数人の暴れる音がしている。相変わらずの荒れようだった。

時折、幼い子供じみた声が笑ったりはしゃいだりしている声もする。

「だーるまさん」「だーるまさん」


 リビングに近付くと、何かがどたばたと動き回る音が大きくなる。

やっぱり少し怖い、不安だ。

あのだるまさんも、わけがわからない。わけがわからないものは恐ろしい。あれらはなんのためにあそこに居る?

どうして、あれが居る?再現される空間にこんなものが普通閉じ込められるものだろうか?

 それでもポケットから顔を覗かせている人形は、無邪気に部屋を眺めているようだった。

人形……姫、と呼ばれていた彼女の。

 彼女の願い。それは、この空間でもまっすぐに輝いている。

 素直にすごいと思った。

彼女の願いが、彼女の力が与えたものは、過去から今にまでずっと生き続けている。背中を押している。

誰にも汚されない祈りの具現。

それは嫌いを否定し、嫌いと憎しみが溢れ変えるこの世界における神様に等しい。


「……なんだか、勇気が沸いてくる」


 そう。力はやっぱり、彼女のものだ。

 関わる相手の怪物化によって頼れる人が極端に居なかった彼女は、願いを紡ぐことでずっと呪縛から逃れて居るのだろう。


「──すこし、違うよ」


「──すこし、違うよ」


人形が、会話らしいものを始めたのでわたしはすこし、驚いた。


「違う?」


なにが、なのか、どこまで、なのか、わからずに聞き返す。


「祟りだとか、憎しみじゃなくて」

「そう、憎しみじゃなくて」


「……よく、わからないよ」


頭のなかで、それぞれがいっぺんに話す言葉を反芻する。


「怪物だらけで、彼女が人間としてまともに対話ができる人はほとんど居なかった」


「肉親もそう、誰も居なかったから」


肉親も──クロに消された、彼女の家族。家族、といっても彼女は、怪物と戦うことばかりだったのならどんな気持ちだったのか。


「でも生まれたときから、一緒に居るのよ」

「生まれたときから一緒に居るの」



──何を好きになっても、嫌いになっても良いんだよ。


「ああ、そっか」


何を違うと言われたかやっとわかった。わたしも、車さんが居なかったらパパの我儘な態度に耐えられなかっただろう。ママと──おかあさんと同じ病気を抱えて、ずっと生きてゆくことすら、耐えられなかった。

「じゃあ、あなたちが、彼女にとっての大事な人なんだね」


道具でも使役された式でもなく、

生まれた頃からずっと一緒に居る大事な人なんだ。だから願いに利用している道具のような言い方を否定した。



 今、に彼ら?のいる様子が見えて無いのは何故なのだろう。それも、何か意味があるのだろうか?



 わたしが何をしようと、恩なんか本当はなくたって、わたしを嫌いになっても、良い。

今度は、救ってみせる。おかあさんは救えなかったけど、せめて彼女は、わたしが。

 暗がりであまり足元が見えていなかったが、ふと下を向くと足元に投げられていた廊下を歩く為のスリッパが目についた。

──わぁっ!

愉快そうな声をあげて黒い影が飛び出してきて思わず悲鳴をあげそうになった。リビングに集中しているだけで、あれは何処からでも生れているらしい。


「び──っくりした……」


人形たちはポケットに居るまま静かに微笑んでいる。用事があるときくらいしか話さないタイプなのか。

 部屋の真ん中にどたばた走り回るのは男の子のような影だった。時折少年のような声が「……ぁ!」「だぁあ……」というように何やら話しているのかいないのか所々で聞こえるがあまり意味のない羅列にも思える。彼?の視線の先には一回り小さな影があり、彼から逃げるようにぐるぐると回り続けている。鬼ごっこをしてるんだろうか。キャハハハハと甲高い声が響く。

部屋中に張り巡らされた根を感じさせないほど、なにかを避ける様子はなく、まるで、すり抜けているかのように走り回るので、ぼんやり見ていると遠近感がわからなくなりそうだ。

 背後で、包丁?を振り回す男のような体格の影がが何かを叫び続けている。頭上のだるまさんたちはいつの間にか伸ばされた根によって釣り上げられ、首を絞めた状態になって浮いていた。

 代わりに、雨のように家庭用の刃渡り15センチほどの包丁が上から降っては消え、降っては消え、を繰り返している。

半狂乱になった髪の長い女の影が、引き出しのそばで「ない!」 「ない!」と泣き叫びながら暴れている。走り回る子どもの影が、時折降ってきた包丁で歪んで、顔を切り落とされて溶け、また生まれてを繰り返す。

「ない!」「ない!」

女の影が暴れている。走り回る子どもの影が、次第に血まみれになってあちこちに手形や形をつけていく。

頭上から包丁が降り注いでいる。

 だるまさんたちが首を吊られて天井にぶらさがって揺れる。

「ない!」「ない!」

「だーるまさん♪」「だーるまさん♪」


 部屋に──入ったまま、入り口で立ち尽くした。


「……っ!」


 《あの力は、本当に彼女の持ち物なのか?

違ったらもらい受けたい》


もらい受けたい、だって?

これを──?


《すごく気になったから、孤独が生れた一番濃い空間を再現したまでだ。

これは私のものであるということを、彼女が示せなければ幹部の勝ち》


「この家から──ここから、直接……」


これを、示せるかと、本気でそんな提案をしているのか。


走り回る黒い子どもと、目が、合う。 影、なのに、そんな感じがした。じっ、とわたしを見て、動きを止めたのだ。彼らはどこからか、小型のハンマー……トンカチのようなものを取り出して、にたっと笑った。


「ぁ───だぁあああ……ぁ!」


何かを言っているが、よくわからないが、殴りかかって来たことは理解した。

 わたしは咄嗟に背後に車さんをつかせる。

走りだそうとした瞬間、それがスイッチになったのか、いきなり包丁が実体を持ったかのような形に変わり、降り注いできた。

キャハハハハと高い声が響く。


「うわぁっ!」

 子どもに詰め寄られ刃物が床に突き刺さっていくなかでは、咄嗟に後ろに下がるしか出来ない。

子どもの影は包丁を気にすることはなく一緒に遊ぼうというように手招きしているが、入り口から外には近付いてこない。

「どうしようさっきまでと違う……!」


けど──



《殺人事件の現場だ。

ここに、俺にあの力が彼女のものだとわかるような、そうだな、血のついた凶器じゃなくてもいいが、

ここから直接持ち出してくれればここを奪うのをやめる……かもしれないな!》

血のついた凶器──もしかしたら包丁が、鍵なのだろうか。


「でも、こんなに降り注ぐなんて……」


──包丁、なら、台所か?

でもここはいうなら事件の後の場所だ。台所から包丁を持ってきても血はついていないだろうし、正解ではないかもしれない。

 部屋の奥には、ほとんど根に取り込まれている彼女の姿があった。

虚ろな目が宙を見ている。


「こ……わい……」


怖い、戦うと決心しても、守りたいものがあっても、何度決意しても、怖いものは怖い。


「怖い……」


 震えが再発しそうだ。からだが動かない。シミュレーションと違う。

自分の弱さに目が回りそうだ。


──好きになっても、

好きにならなくても、


「でもそれと、今と、どう関係があるの? 動かなきゃ、って思ってるのに──」


 ここまでの苦痛を強いてまで彼の決めた勝手で一方的な基準を満たさないとならないのか?

彼はこの痛みを背負うことすら出来ない、トモミからさえ逃げていて救えないのに、力だけが、結果だけが手に入ると思っている。


「うぅ…………」


痛い。悲しい。怖い。

あれと──対峙しなきゃならないのか。本当に、倒せるのだろうか。


『あ、姫だ!』


『久しぶり!』


ポケットから顔を覗かせている人形は、のんきにも遠くから挨拶なんてしている。


「無理! 近付けない! うぅ……」


思わず部屋のなかから目を背けてしまう。なんであんなに沢山いるんだ。いっぺんにあれと戦うなんて、嫌だ。怖い。こんな、自分が、一番。

  振り向くと、トンカチを手にしている男の子が女の子の影の頭を叩きつけている。

《お前なんか、死んでしまえー!》




「……なにを──やめて!!」



 好きなものなんか──なくなってしまえばいいのよ。

 男の子の影が、次第に根の形に変わっていく。

女の子の影も口からおびただしく血を吐きながら根の形になっていく。

 様子を見ているうちに、再び形を変えだした根は長く細くなり、首を吊れそうな頑丈な紐に変わると辺りに振り回すように揺れ始めた。

 あの影は幻だった。

けれど、どの程度までが幻?

本物みたいに見えるうちは、本物?

おいで、おいで、と子どものような声がする。

 あの紐が幻で誘っているのか。


《好きなものなんか──なくなってしまえばいいのよ》



 いや。最初から──この空間に強引に捕らわれた彼女を助けないと意味がないんだ。

でも……でも……遠い……

「ない!」「ない!」

引き出しに張り付いた女が、半狂乱になりながら何か探している。

「ない!」


「ない!」


女が引き出しを探し続ける横で、『医療保険・devil』とかかれたチラシがひらりと舞い、足元に落ちてくる。床で散乱していたチラシ類のひとつらしい。

「これ──このときから、ハクナは居た……そっか、そうか! わかった!」


 一目散に部屋を出るとわたしは玄関の方に向かう。人形たちはポケットから顔を覗かせているままなにも言わなかったが、どこか微笑んでいるみたいだった。

 玄関には乱心するヨウに戸惑う、二人のクラスターが居た。


《……イカナイノか?》

右側に居た一人が聞いてくる。

いくらか落ち着いていた。

《イカナイノカ》

左側に居た一人も聞いてくる。


「うん。わかったの、わたし。帰る

から外に行かせて」


《ダケド──!》


 クラスターたちは何か言おうとしたが、ポケットの人形を見た途端になぜか黙った。


《──そう……》


わたしは、恐る恐る玄関から外へと向かう。倒されたプランターや植木、綿がはみ出た人形が置いてある。

 部屋に充満していた肉と油の濃い空気が少し薄まるだけで、すごく気分がすっきりする。ロボットがまだトモミと言い争っているうちに、わたしは走った。なるべく捕まらないように走って、走って、家の裏側に回る。


 そう、リビングのすぐ裏側の壁だ。一番、彼女に近い場所。

バカだなぁ。どうして気付かなかったんだろう。

すぐそばに行くことなんて、こんなに簡単だったのに。

 受け入れたくないものを無理に受け入れてまで、自分に合わない道を無理に使ってまで前に進むことばかり考えていた。

怖さから逃げないことだけに、プライドにとらわれていた。



 「お姉ちゃん!! お姉ちゃん、起きて!」


窓ガラスを叩いて、わたしは叫んだ。ガラスを叩いて、ガラスを叩いて……たら、らちがあかない。


「車さん、いい?」


車さんはなにも言わなかったが黙ってエンジンをかけている。

纏ったオーラの輝きが強まる。

「行くよ!」


腕を振り上げて合図すると、車さんは勢いよくガラスに飛び込んだ。

ガラスが散る。こうして見るとなんて脆弱なのだろう。

 根に捕らわれたお姉ちゃんにも、ここからなら、声が届く。


『目を覚まして!』

ポケットから人形が浮き上がり、

彼女に叫んだ。わたしも、叫んでいた。


「おねえちゃん!」


 何故か、ここにきて、抑えていた感情が溢れた。何度も涙をぬぐいながら、リビングに向かって話しかける。ロボットが何かやっている声がする。

 改めて見ると、根はほとんど部屋中に溢れていて、そのうち空間がわたしごとのまれるのもあながちあり得なくはないと思った。


「あのね。この子たちと……迎えに来たんだよ。

なにを、どれだけ嫌いになっても、わたしを嫌いになっても!

それは、悪いことじゃない!

わたしはとがめたりしない!

だから!」


なにを、言えば良いんだろう。

改めて考えたら言葉が出てこない。

虚ろな目が、彼女の痛みを、悲しみを伝える。


「うぅ……おねえちゃん、あのね……あの……ね、わたし……」


 うまく言えなくて言葉につまる。

ポケットから、ひらりと紙飛行機が舞って部屋の中に入っていく。


「あ──」


紙飛行機はふわりと広がって

根の側に降りると紙となり、宙に浮いた。その中から目映い光が漏れると、中で騒いでいた影たちがおとなしくなる。




ご無事でしょうか。

 辛い思いをさせてしまい、

何故わたしが来てくれないのかと責められているかもしれない、申し訳ありません。本当は直接伺いたいのです。

 しかしどうしてもどうにもならない事情があって、このような形で、人を通してしか空間に触れられぬ椅子をお許しください。

この紙はわたしの身体から出来ていますので、わたしの存在の一部です。


 空間に接触出来る形のわたしというのが、どうにか譲歩してこのような形というので精一杯でした。



 椅子は椅子として──あなたの愛する人として、誰が何を言おうとも、ずっと側に居ります。』











『ご無事でしょうか。

 辛い思いをさせてしまい、

何故わたしが来てくれないのかと責められているかもしれない、申し訳ありません。本当は直接伺いたいのです。

 しかしどうしてもどうにもならない事情があって、このような形で、人を通してしか空間に触れられぬ椅子をお許しください。

この紙はわたしの身体から出来ていますので、わたしの存在の一部です。

 空間に接触出来る形のわたしというのが、どうにか譲歩してこのような形というので精一杯でした。



 椅子は椅子として──あなたの愛する人として、誰が何を言おうとも、ずっと側に居ります。』


「あなたの……すきなもの、なんて──」


なくなって  ────


 自分の声で、ハッと気が付いた。

そういえば、朝ごはんのあとから何をしてたんだっけ。


「すきなものが、なくなってしまったら、椅子さんに会えない……」


無意識に声が震える。


「わたし──」


 椅子さんと、それから、アサヒや、女の子と、カグヤたちと……

短い間にもいろんな体験をした。

いろんな暖かい思い出があったはずだ。

 そうだった、私はいじめられてる椅子さんを追いかけて来たんだっけ。後悔はしてないけれど、せっかく来たのに椅子さんに会えなくなるのは嫌だなと思う。

今まで何をしていたんだろう?


「椅子さん……」


周りを見る。真っ暗な空間、見慣れたリビングが広がっている。

でも、あちこちに根が張られていてなんだか不気味だ。油や血みたいな匂いが濃くて、吐きそうになる。


「おねえちゃん!」


 身体が、足が動かず顔だけで振り向くと、傷だらけの女の子が、立っていた。

私は首を横に振る。


「その呼び方は、家族を思い出すから、あまり好きじゃなかったの」


 目を丸くしている彼女に、私は繰り返した。


「私は、ノハナ。月と大樹の血を引く母と人間の父のが交わった子よ」


「月と大樹の──え? っていうか、これもお姉ちゃんなの?」


「うん。月の光と大樹が子どもを作ったのが母なんだって。あまり信じてなかったけど、この身体を見る限りそうみたいだね」


「……」


女の子はぽかんと口を開けて唖然としている。


 「ごめんね……こんなことになるから、いつも笑ってなくちゃいけなかったのに」


私は苦笑と、本気での謝罪を込めて

謝る。

しかし女の子は初めて、私の前で声を荒げた。


「……いつも笑ってる必要なんかないよ!」


「え?」


「わたしこそ、ごめんなさい──戦いが、こんなに辛いなんて、思ってもいなかった、痛くて、痛くて……こんなに痛いのに、弱いからって、目をそらしていた、いつもこんなことばっかり、してたんだね、背負わせて、ずっと……」


 こんな不気味なところに一人で来るなんて、なんて勇敢な子だろう。

さすがはグラタンさんの家の娘というべきだろうか。でも家族の話が好きじゃない私は、どう声をかけていいかわからなかった。


「ありがとう。きっと、すごく、大変な想いをして迎えに来てくれたんだね、それだけで、うれしい」


「わたし、いつも見ているだけだったから」


「当たり前だよ。私は私の家の使命があるけど、あなたはまだ、学校に行ったり、遊んだりしなくちゃいけない」


「でも、決めたの、

これからは……わたしも、戦う!」


 あまり危ないことはしてほしくないけれど、そのまっすぐな目を見て、本気なのだと確信した。

止めたところで無意味だろう。


「ありがとう」


 感謝を述べて、改めて自分の身体を見た。身体中から根が張られている。別に痛くはないけれど、動けないのは動けない。


「ところで──なんだか、空間に耐えようとした身体が、随分と同化してしまって……るみたいで。

しばらくしたらもとに戻る、気がするんだけど……あなたも、私にされないうちに、此処からでたほうが良いよ。私、こんなだから」


「私にされる、って、どういう意味?」


女の子は悲しそうに顔を歪めた。

そんなに不安がるなんて、よほどこの先に何か恐ろしいものがあるのだろうか。彼女は、なかなか一人で先に行こうとはしなかった。


「そのままだよ。せっかく来てくれたところ、うれしいけど、ずっと此処にいたら、じきにあなたも私になってしまうよ──私なら平気。すぐ追い付くから、先に行って。

送ってあげられなくて、ごめんなさい」


「でも! この先も、あいつが……」


「そっか、そういえば、そとにはあのロボットさんが居たんだったね……まだ暴れてるんだ、不安だよね、わかった、じゃあ、しばらく此処で待っててくれる?」


不気味な場所ではあるけど、私がそだった場所だ。そこに、独りじゃない。なんだか変な気分になる。


「うん。その間、少しでいい、何か聞かせてほしい……」


「わかった」


なんの話がいいかな、と考えていると、女の子の服のポケットから人形が飛び出してきた。


──久しぶり!


──会いたかった!


「わぁ! 久しぶりだね!」


根元に降り立った人形たちは、相変わらず記憶のままの愛しい姿をしていた。

「まだ私のこと、覚えててくれてたんだ……感激だなぁ。物も、記憶力が様々だからさ」


「その子たち、此処に来るまで、魔除けというか──わたしを守ってくれてたの。たぶん居なかったらもっと酷い悪夢を見ていたと思う」

と女の子が頬笑む。


「そっか──良かった……この子たち、あの日を思い出すのが辛くて、タンスの奥にずっとしまって居たんだけど、やっぱり、再会も良いものだね」


「殺人事件、って聞いた。

これがあのロボットさんが──学会の幹部たちが、脅迫してまで、入りたかった事件なの?」


「──そう、そっか、幹部なんだ……

そっか…………どうしようかな、

どこから話せば良いんだろう。

前提として、私は、普通の子じゃないのよ。それは、母も同じで、その前もそうだと思う」


「うん……」


「──人を、愛する苦しみ、嫉妬、寄ってくる醜い穢れに耐えられなくなった先祖が、一度、か何度か、樹と結ばれた、うまく言えないけど、そこから血が別れていったのかな……そう、その前に、えっと……」


すうはあと深呼吸する。

なんだか、これから言うことを思うと、胸が痛くなった。


「私になる、って言ったけど──これも、うちの、変わったところで──ね……あの、昔話、でたぶん、そうじゃないかって思ったりしたんだけど、私は、神様と、対話しながら、ずっと、紡がれてきたの。これって、私の意識と神様が同時に居るのね」


ここまで言って、既に、話すのをやめようかと考えた。べつに無理をする必要はない。けど……


「だから……うちはずっと、男性が短命なんだ。結婚したってすぐに死んじゃう、それか、器が破壊されて終わり」


「器? えっと、だから、って、ことは──」


はっ、と女の子は察した顔をする。


「まさか……器っていうのは」


泣かないように、私はせめて、笑った。

「私、アサヒを巻き込みたくなんかない……アサヒが器になったって、きっと、耐えられなくなったら、また、殺しあいになってしまう……」


笑って、居たのか、わからない。やっぱり視界がぼやけてきて、気が付くと泣いていた。女の子が私を抱きしめる。あたたかい。木だけど。ぬくもりはなんとなく伝わる。


「器って、対話のための器よ! 

アサヒの精神を犠牲にして、死ぬまで、私が、ずっと、縛ってしまう。


──昔、私の母にも力が手にはいると勘違いした人が何人も言い寄って来たんだって……

今もその座を、狙ってる人が居るらしいけど、全部、死んだか、病んでおかしくなった。

修業でも積んだか、適正がないと無理よ。じゃなきゃ身体を乗っ取られて、精神が破壊されるのがオチだわ。

 バカみたいだよね、力だ力だって言って、みんな何にも知らないで寄ってくるけど、本当は、こんな──残酷な。たぶん、44街が悪魔だ、っていうのも……本当は──」


「違う。おねえちゃんは、人間だよ!」


「ふふ。殺人事件に、なってても?」


「え……」


「お父さんとお母さんはいつも喧嘩してた。俺が好きなのか、神様が好きなのか。俺は俺自身だ、って」


「……」


「当たり前よね……人を、愛するとはきっとそういうことだもの」


物心ついたときには、嫉妬にかられてほとんど怪物になりかかった父と、母の争いが、全てに及んだ。着るもの、見るもの、食べ物に至るまで──


「普通の家じゃ考えられないね、疑心暗鬼で、父の世界は、きっと、すごく歪んでしまった。

母もまた、そうだった。

自分が愛するもの全てを責められて、おかしくなっていった。

おかしくなっていったということは、どちらにも愛情があったのね。


──母が神様を責めることはなかった。

 神様って不思議なのよ、本当にあたたかくて、やさしくて……一目見るだけでスッと疲れなんて吹き飛んじゃうような……ずっと、守って居たくなるような、命に変えても、って人が居ても頷けてしまう。

 人間の感情じゃ言い表せないけど、私も、神様のこと、すごく好き。どうしても憎んだり出来ない。

神様はただそこに在るだけで、悪いことをしようとしてるわけじゃない。先祖が命がけで守って、一緒に暮らしたのも、尊いことだと思う」


「そっか……」


「でも、父はただの人間。選ばれただけで、他の価値はなかった。

案外周りの妬みや根回しがあったかもしれないね。

そして母の愛だけじゃとても父の孤独も補えない。神様はそういうものだから、だから──父は母を殺そうとしたのかな。

 此処はそれを見ていた私と、私以外の記憶が混じった場所……」


足元の人形たちと目が合う。

暗闇のなかでも、明るく励ましてくれている。少し気が紛れた。


「人形さんたちは、崩壊しそうな家の中でもずっと、私を気遣ってくれた。私は人間が怖かった。

 自分が一番に愛されようとしたり、それのために醜く争って、見るものも食べ物もさわるものも全てがその争いの元になって──そういう煩わしいのがないのよ、木や物や、死んでる相手だと、考えかたが違うし……神様が身を落ち着かせやすい身体でもある」


「えっと、わからないことと、わかったことが、沢山あるけど、幹部の話は」


「──あぁ、そう、幹部。

昔はきっと、あの44街の昔話が今よりは知られていたのだと思う。

 母は昔話の家の子として学会に目をつけられてもいた。どうにか取り入ろうと、器になろうと母に付きまとっていたのかもしれない。けど、母はもともと誰とも付き合う気がなかった。関わる人間を器にしてしまうことを自覚していた母は、

それがどんな意味を持つか知って居たから。家うちは、ただ取り入れば良いなんて生易しいものじゃなかった」


「でも、結婚したって」


女の子がきょとんとする。こんな愉快でもない話を真面目に聞いてくれるなんてちょっと変わった子だと思う。


「──そう。誰とも付き合う気がなかった母が、何度断っても、学会がいろんな手を使えば、外堀から埋まっていく。小さい頃はよくわからなかったけど今はなんだかわかる気がする。

偉大な力を手にしようとして、それがどんな代償を払うかまでは彼らは理解出来なかった。宗教家のくせに」














・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・








『薬』



 その話を聞きながら、わたしは、ぼんやりと思い出していた。

それはうちに伝わるお話で、ママが小さい頃に読み聞かせてくれたものだ。



 ××××年のある医院ともないささやかな規模の診療施設の診察室に、ある女性の姿があった。その患者、薄い水色の髪の女性は今日で、何度目かの問いかけをする。


「あのぉ、経過は──どうでしょうか?」

彼女はある病気から具合がよくなく、ずっと勝手に体が暴れだしたり魘されたりに苦しんでいた。

 それは恋という難病──今で言う恋愛性ショックだったのだが、当時はみんな気の持ちようだと言って笑うのでなかなか病気として認められることすら珍しい。

 しかし彼女の知人に変り者の医者が居た。この話を聞いた知人の医者というのが、この話に興味を示し、やがて小さな製薬会社のツテで研究手伝いと治験を頼んだのだ。

何度も何度も治療と称してあらゆる薬の成分を試して数年の月日が流れたその日、彼女の体に良い変化が訪れていた。

「良好です。素晴らしい回復力ですよ」

 医者、と呼ばれる白衣の老男性はびっしりと患者の脳の写真の貼られたモニタからくるりと椅子を回転させて向き直る。そしていつになく目尻にしわを寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。


「本当ですか!」

彼女は、座っていた椅子から立ち上がり歓喜の声を上げる。

「ニギさんたちの──あのお薬のお陰です!」

「こちらこそ、協力をしていただいて、なんと感謝して良いか……」


治療がうまくいきそうだということから、薬に携わる医者と、彼女の被験者としての日々はまさに終わろうとしている。少しもの寂しくも、明るい毎日が待っている予感があったので互いに喜んだ。


「この研究がうまく運べば、世界中の病に苦しむ人間が救われるでしょうね」


「だとすれば、とても素晴らしい! 私も、こんなに健康的な気持ちは随分と久しぶりなのです。あぁ……なんだか、涙が……」



しかし、争い、マウントの取り合いというのは何処にでも存在するのである。


 難病を治す、それはときに偉大な功績として歴史に刻まれる重大なテーマだ。

製薬会社や、彼女の周り、医者にはどこから嗅ぎ付けたのか普段は表に出ないくせに、びっしりとマークしている組織があった。

 研究がうまくいくかには関わらず、病院のこと、研究のことというのを常日頃に盗聴する、いわばスパイ行為を常に行って居たのだ。

当時の44街のあちこちに存在していたその組織は、あらゆる会社に手を伸ばし、裏で操っていたと言われている。

現代でもひそかにクロと呼ばれているのもその残党だ。

隣国、カルト組織がその母体とも噂されるが詳しいことはわかっていない。


 薬は、彼女の健康状態をもってようやく成分がわかってきたという段階だったが、まだ様子見しなければならず、認可が降りる段階にいっていなかった。アレルギーなどが見つかる可能性、副作用を彼女以外からもよく検証しなくてはならない。


「うまく、いったようです!

」 

 そんな話はお構い無しに、木の上から医院を見守っていた一人が、双眼鏡から目を離して無線に呼び掛けると、「難病を治せる薬か──ふふふ。これがあれば、今よりもっと我が血筋が立派な病院を建てることが出来る」

と、ボス、は喜び、たちまち上空にヘリが飛んだ。

無線に答えた男が、証拠を撮影するために寄越したまだ若い観察屋が乗っている。


 研究や発明は戦いだ。

誰より早く、そしてしっかりと名を売ることで生き残る会社とそうでない会社が生まれていく。

 この段階からでもとにかく早く申請をしよう、先に特許をとったが勝ちと動き出した組織は、次の日には一人、医者めいた男を医院に尋ねさせた。


「こ・ん・に・ち・はー!」

「おや……? 今日の診察は終了したのですが」


時間外に来たその男は、明るくはつらつと挨拶するまだ若い男だった。がたいが良く、品の良いスーツを着込んでいる。

普段受付嬢が追い払うはずなのにな、と不思議に思いはしたが、受付嬢が1、2くらいしか居ない田舎の小さな施設のこと。のんびりとした場所柄だったので、こんなこともあるかと医者は彼にとりあった。


「いえいえェ~、わたくし、診察してもらいたいんじゃありませんよホォ! ただね、ちょっと小耳に挟んだんですけれどねェ~? あの、お嬢さんのお薬のこと……」

「はぁ、ええと? と言いますのは」

「あぁ、わたくし、こゆものなんですが……」


スーツの胸ポケットから名刺を出すと、男はある製薬会社の懇意にしている研究所の名前の名刺を見せた。


「お薬のことで、力になれたらと思って~、小林ちゃんとかからすごいすごーいっていう話を伺ってェ~それで、ウチからも支援させて欲しいなってことでして」


キャッ、と体をくねらせ、両手をぎゅっと握りながら乙女のような目で医者を見つめて頬笑む。


「はぁ……」

医者は勝手に話が漏れていることに驚き、呆れ、嘆いた。しかし、小林は口の軽い男だからな等と恨み言を思いながら、彼に向き直る。

「支援、というのは」

「特許申請を早めてあげるし、あと、口座に振り込ませて欲しいのホォ。うち、すごい気に入ってて~、他に取られるわけにはいかないじゃない?」


はい、これ、と

彼は手にしていた四角い鞄から今度はなにやら書類を取り出す。椅子に座っているままの医者のデスクにその紙を並べた。

「これは推薦書、これは支援の申請書。ここに、お名前と、口座番号、あと押印ね」


確かに、大企業の後押しがあれば宣伝効果も見込める。

販売するための研究となれば、費用だってばかにならないのだから、支援があるならそれに越したことはない。

 医者は少し悩んだが、小林も言うことだと思って、何より民のためを考えてみて書類にサインをし、印を押した。


「そのあと、だった……聞いたこともない会社が、治療薬を世に出した。けれど、ニギさんの名前は何処にもなかった……なにも、見つからなかった」


 ──某有名会社は、そうして生れて今日に至っている。けれどこれは、44街の民が知る必要はない。闇に葬られた、優しく悲しい物語。


「彼が、突然に病気を悪化させ死んだことだけが、明らかになった。医院は無くなり、どこに聞いても、誰に聞いても、真実はわからないまま。


 けれど、お前は、せめて覚えておいて──歴史に載るものが正しいとは限らないって、声を、上げられなかった人、声を上げようとした人が、本当はその裏に何人も居たんだということを」


ママ──おかあさんが、わたしに言い聞かせていたそれをぼんやりと、思い出して、思い出して彼女を見上げる。

いつも真実は痛くて、辛く、悲しい。


 力を──得ようとして、他のものを殺して、蹂躙し、支配して、それでも、変わらないものが、確かに残るものがあって、それはずっと続いていくのだと、そう思った。


「殺人事件なんか、関係ないよ、それは、あなたのせいじゃないから」

──

「そ……て」


説得のようなものを試みるみたいに、そんな言葉をかけるわたしの耳に彼女の、微かな呟きが聞こえた。よく、聞こえない。

近付いて、静かに聞き耳を立てる。

「なに?」


「あはは、そうやって……そうやって、私だけ助ける気なんだ。その手には乗らないわよ」


「え──」


「お願いだから早く、此処から出て行ってよ!!」


彼女が叫ぶ。

悲痛な声だった。


「私だけが助かったって意味ないの!! 私は、まだ……えっと……ごめん……」


彼女は顔を覆うことすらままならないまま俯く。


「……」


「あなたの心配をしているだけよ。

私自身は別に、何にも思っちゃいない。

悪役だって罵倒だってどうでもいい、その程度は安いものだわ……どう思われたところで今更失くすものなんかとっくにない、だって生まれたときから何も無いんだから。


そうじゃないの……

ただ、私が、嫌われなくなる世界が、恐ろしい、それだけ……だから……もう少し、あぁ、そっか、えっと…………うーん、そうだな」

 

彼女はぶつぶつと呟くとそのまましばらく考え込んだ。

 そうか、彼女はただ単に、自分が嫌われなくなる世界が恐ろしいから聞いたのだ。

そんな世界が存在することが信じられないのだろう。

 畏怖するか、軽蔑するか、単にそのために心配という名目で問いかけた。

話しかけないくせに、椅子さんだけ笑った、この街と同じことをするところだった。


「どちらみち、此処から動くにはまだ時間がかかるし、やっぱり、髪飾りや包丁を代わりに持って行ってもらうしかないのかしら……」

「ねえ、私だけ、って、言ったけれど──他に誰か、来ているの?」

聞いてみると、彼女はきょとんとして言った。

「ううん、最初から居るよ」


「最初から?


「そう、少し、お願いしてみるね……」


彼女はなにか祈り始めたまま黙ってしまったので、わたしはひとまず、会話を思い出していた。

包丁。髪飾り。


「あのロボットさんの脅迫に乗るっていうことなの?  自分の好奇心の実験のためにこんなことをしている人なのに……」 


足下を小さな足取りで人形さんたちがついてくる。


「さぁ、行きましょう!

まずは、虐待のあった凶器探しです!」


「次は、殺人の凶器探しです!」


「…………」


「早く、行きましょう!」


「ゴーゴー!」


「…………」


「やっぱりどんなふうに死んだか想像するのがいいのかな」

「どんなことがあったのか、想像するのもいいかもね」


「それって──ロボットさんに、納得するまで説明させて、理解してもらって、それで……そうやって、好奇心なんかのために晒し者になって───」


「大丈夫。国の認可くらい降りるんだよ」

「そうそう、このまま戻らないと、44街が被害に合うとき、誰も戦わなくなる」


 急いで急いで、とせかされ、わたしは歩く。

動悸が激しい。

目が回りそうだ。

急いで急いで、急いで、誰のため?

なんのため?



(5/2917:50加筆)




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