C side JAM!
夏の始まったこの日、私は失恋した。
「昔、海の向こうで暮らしていた人魚の一人が、ある日荒波にのまれ流されこの海岸に流れ着いたの。
深い傷を負った人魚は息も絶え絶えだった。
そこに若い男が通りかかり、傷ついた人魚を見つけると若者はその人魚の手当てをしてあげた。
人魚は若者の手厚い看病により次第に回復していった。
そして、すっかり元気を取り戻すと、人魚はお礼にと毎日のように近海の海から貝や魚や海草や或いは真珠なんかを取ってきて若者に与えた。
そうこうして時が過ぎていくうちに、若者と人魚は互いに惹かれあい恋に落ちていったの」
「へぇ素敵」
「でもね、幸せはそう長く続かなかった」
「えっ!?」
「人魚は元々、海の向こうの深いところで暮らしていた生き物だったので、ここみたいな浅い海岸で暮らし続けることは人魚の体には毒だった。
人魚はまた徐々に衰弱していった。それを見ていた若者は涙ながらにこう言ったの。
『本心はあなたと別れたくない。ずっと一緒にいたい。でも、このままあなたが衰弱していくのを見続けることは堪えられない。
どうか、元いた海へお帰りください』と。
そして人魚も涙ながらに言う。
『わかりました。私は一度、元住んでいた海へ戻ります。
でも、人間になる方法を探し、きっとここへ戻ってまいります。
それまで、私のことを待っていてくださいますか?』
若者は黙って頷き、二人は海よりも深い口付けを交わし別れた」
「そんな……」
「それからというもの、若者は一人ずっと人魚の帰りを待ち続けた。
そして、しばらくして自分の異変に気づくの。
何年経っても自分が年をとらず若いままでいることを。
そう、若者は人魚と暮らしているうちに不老不死になってしまった。
だから、永い年月が過ぎた今でも若者は生きつづけ、人魚の帰りを待っているという」
「今でも?人魚さん、帰ってきてないの?」
「たぶん……ね」
暑い。くそ暑い。
こんな、お天道様がはしゃぎすぎて人様に迷惑かけてる日は、さっさと帰ってクーラーガンガンの部屋で涼むのが一番なのだが。
「なんで私がこんなことしなきゃいけないのかなぁ」
「ん?なんだ蝶子、不満か?」
暑さにイライラして口走った私の顔を鈴原先生が覗き込むようにして訊ねる。
かっ顔近いって……。
ぼさぼさ頭に無精ひげ、アイロンもかけてないカッターシャツによれよれの白衣を羽織ったおよそ教師には見えないこの男は、鈴原純太。
この高校の化学教師であり、私のクラス担任。年齢は―――知らない。教えてくれないし。
まぁ、見た目はそんなに老けては見えないけどけっこういい年であるのは確かみたい。
この高校でも古株っぽいし。
それで、終業式が終わって帰ろうとしたら、私は先生に呼び止められ化学室の掃除を手伝わされるはめになったという。
「だって、これって学級委員長の仕事じゃない気がするし……いや、まあその……それほど嫌ってほどでもないけど―――」
「よし。そうかそうか。じゃあ、あのダンボールを準備室に運んでくれ」
先生は満面の笑みを浮かべ、親指で後ろにある大きなダンボールを指差す。
「こんなの女の子に運ばせるかな、普通!」
「運べるだろ?だってお前、スポーツテストのとき俺より握力上だったし」
「それってセクハラ発言!」
「ん?そうか?まぁじゃあ一緒に運ぼうぜ。片方持つから」
「当然です」
はぁ〜。私、なんでこんな人好きになったんだろう。
世の中、わかんないことだらけだけど、自分のことが一番わからないんじゃないだろうか。
「よ〜し、これであらかた片付いたな」
「もう、普段からちゃんと整理整頓してないから学期末ごとに大変になっちゃうんですよ!」
「まぁいいじゃないか。ありがと、ありがと、お疲れさん」
先生が私の頭くしゃくしゃ撫でてくる。
女の子の頭、なんだとおもってるのかな、この人!
坊主頭じゃないんだからセットしてるっつーの!!
「じゃあ、お礼にいいものを上げましょうかね」
そう言ってから先生は化学準備室に引っ込んでいった。
そして戻ってきて、
「じゃん!」
と、得意げにアイスキャンディを二本突き出してくる。
「あ〜準備室の冷蔵庫にこんなもの入れて。先生の不良ぉ」
「ひっひっひっ〜他の生徒や先生には内緒だぞぉ」
いたずら小僧みたいに笑う先生。
私は先生の手からアイスキャンディを受け取り一口。
冷たくて甘くてちょっぴり痛い。
あ〜夏の醍醐味だなぁ。
「これで私も共犯かな」
「そうゆーこっとぉ」
『内緒だぞぉ』か。いいなぁこういうの。
『俺と蝶子、二人だけの秘密だぜ(キラーン☆)』なんつってぇ。
てっなに考えてるかな、私!
暑さで頭湯で上がってんじゃないの!?
「んーとにあちぃなぁ」
「先生、包みはプラゴミだよ」
先生がプラスチックのアイスの包みを可燃ゴミのゴミ箱に放り投げたから、私がそれをプラゴミ用のゴミ箱に入れなおす。
「あっわりぃわりぃ」
「あっアイス解けてる!」
「うわっ」
先生のアイスが解け滴り、白衣に零れ落ちる。
「あ〜もうしょうがないなぁ」
「わりぃ」
私は自分のハンカチを先生に渡す。
先生は苦笑いを浮かべそれを受け取った。
「先生、そんなだから結婚もできないんだよぉ」
「うっせ」
先生は口を尖らせる。
「…………」
私は先生から目をそらし背を向けてから、思わず口が滑ってしまう。
「まっあれかな。私が卒業して、スキな人いなかったら先生と結婚してあげてもいいかな」
げぇっ!!なに言っちゃってんの、私!
コレって告白になんの?いきなりこんな……どうしよう!
そうだ!!『なんちゃって』って言うのよ。
なんかの漫画にも書いてたし。発言をチャラにする魔法の言葉『なんちゃって』って!
「なん―――」
「…………」
私が振り返って『なんちゃって』って言おうとしたら―――先生が床に目を落として打ちひしがれてる!!
なんで!?影がいつもより濃くなってるのは私の気のせい?
しばらくの沈黙。いや、私の脳みそが活動停止してたのかもしれない。
ついでに煩く合唱している蝉もちょっと全滅してくれないかな!とか思ってると、先生が一言、
「すまん」
とだけ口にした。
そして、眉間に皺を寄せ目を瞑る。
「なっなに真剣になってるのかな!冗談ですよ、冗談!」
「そうか……冗談か……」
先生は私の言葉に力なく笑みを返した。
なにこの展開。まったくヨソウガイです。
だって、いつもの先生なら『冗談か、コノヤロー』とか言ってチョップとかして笑ってすませそうじゃん。
なのに、なんで……。
「あっあの、せ―――」
「お前さ、この町に伝わる『人魚と若者』の話、知ってるか?」
先生が真剣な顔をして訊いてくる。
こんな真剣な先生の顔はじめてみるかもしれない。
いつも先生はボケーとしてるか、笑ってるかおどけてるか、そんなんばっかりだし。
いや、あのとき一度だけ見たかも。
一年のとき、私がドジで階段から転げ落ちたとき、一番に駆け寄ってくれたのが先生だった。
そのときはこんな顔してたかも。
「あっうん、子供の頃おばあちゃんに教えてもらったことがあるような」
愛のために不老不死になった孤独な若者の話。
「あの話はな、実は俺が子供の頃にできた話なんだよ」
「えっ!そんな―――」
だって、おばあちゃんはずっと昔からある伝承だって……。
「あれは俺がまだ、今のお前と同じ年齢のときの話だ」
先生は化学室の窓から空を見上げ、ぼそりぼそりと語り始める。
真っ青な空には、大きな入道雲が立ち昇っていた。
「そう、あれは夏休みの―――
「ランランラン♪今日から楽しい夏休みぃ♪」
終業式が終わった帰り道、まなは調子はずれな歌を歌いながらスキップしていた。
「ちょ、お前高校生にもなってスキップとかすんなって!」
俺は駆け足でまなに近寄りその行動をいさめようとする。
「えぇ、別にいいじゃん。楽しいことは体で表現しなきゃ」
まなは踊るようにクルッと回ってキラキラした笑みを浮かべて俺に言う。
「スカートがふわふわなったときにパンツが見えててもか?」
「えっ!うそっちょっ」
まなは慌ててスカートを手で押さえた。
いまさらだっつーの。
「純くんのえっちぃー」
「ちょっ俺は別に見たくて見たんじゃ―――」
「えへへぇ〜。むきになっちゃって可愛い。
私はべつに純くんにパンツ見られても恥ずかしくないもんね」
まなはペロっと舌を出す。
「なっそれって俺を男として見てないってのか!?」
「さぁ〜てどうでしょうかね、純太少年」
そう言って俺の肩を軽く小突くとまなは走り出した。
俺は溜息を吐いてから彼女の後を追う。
「んじゃあね、純くん」
まなはこの町にしては大きな私立病院の娘で、家が近所でこの病院で生を受けた俺とは兄妹然として育ってきた。
俺たちは幼なじみで兄妹みたいで恋人みたいだった。
少なくとも、俺はそう思っていた。
「おう!あっまな、後でうちにスイカ喰いに来いよ」
「えっ!それって純くんちの親戚の家で作ってる黒いやつ?」
「そう、今年も贈ってくれたんだよ」
「いくいく!あれ、凄く美味しいもんね!」
「はは、いやしんぼめぇ」
俺はそうおどけてから家まで駆けだした。
わくわくしていた。ときめいていた。
俺はこのクソ暑い夏の日に汗でびしょびしょになってもずっと走りつづけていたいような、押さえきれぬ思いと溢れるエネルギーを持て余して生きていた。
「おじゃましまーす」
俺が縁側でだれてると、まなが玄関からズカズカ上がりこんできた。勝手知ったる他人の家というやつである。
「かーさん。まな来たぁ。スイカ切って」
「はーい」
俺は大声で台所にいるお袋に呼びかける。
「ん?そのワンピース、初めて見る」
「えへ。これこの間、デパート行ったときに買ってもらったの。可愛いでしょう」
黄色いミニのワンピース。
例によってスカート長が短すぎやしないかと気になるところだが……。
「うん。まぁ、似合ってる似合ってる」
「なにしてんの、純くん」
俺が寝そべったまま、持っていた団扇でパタパタまなを扇いでいると、まなは怪訝そうな顔で俺を見下ろす。
「いや、パンツ見ようかと思って」
ゲシっ
「いっ!」
まなが思いっきり俺の顔面を踏みつけてきた。
「なにすんだよ!!」
「純くんが変なことするからでしょ!」
「さっき、俺にならパンツ見せてもいいっていったじゃんか?」
「恥ずかしくないって言っただけで、見せてもいいなんて言ってない」
「どう違うんだよ」
「全然違うよ!」
「はいはい、二人ともスイカ持ってきたから休戦、休戦」
俺たちが言い合ってるところにお袋が台所からスイカを切って持ってきた。
「かーさん、こいつ俺の顔面踏みつけたんだぜ」
「あんたがバカなことするからでしょ!」
「げっ」
聞かれてた。親に「女のパンツ捲ろうとしてました」とか知られるとかめっちゃ恥ずい。
「ほんと、ごめんねぇまなちゃん。まなちゃんが日に日にべっぴんさんになっていくもんだから、こいつ年中発情しちゃって」
「発情言うな!」
「そんな、おばさん『べっぴんさん』だなんてほんとのこと……。あっスイカ頂きます」
「…………」
お袋からスイカをもらい早速食べ始めるまな。
こいつもけっこうずうずうしい奴だよな。
「ぷっ!」
俺は縁側から庭に向かってスイカの種を飛ばす。
「不思議。毎年、そうやって純くんが種飛ばしてるのにスイカ全然生えてこないね」
「あのな、後で掃除してんだから当たり前だろ」
「えっ!そうだったの?」
まな、心底驚いた顔してるし。
「それにさ、栄養とかちゃんとやらなスイカは生えないんじゃねぇの?」
「そっかぁ。ここで生えてきたら面白いのにねぇ」
「お前はさぁ、種ごと食べる癖、なおんねぇよな」
「だってさぁ、種と果肉を分離して食べるの難しんだもん」
「難しいかぁ?」
ただ面倒くさがってるだけのように思えるけど。
でも、あれだなぁ。よく、さくらんぼの茎を口で結べたらキスが上手いとか言うけど。
もしそれが本当なら、こいつはキス下手なんだろうか。
「あっヤバ。垂れた」
スイカの果汁がまなの鎖骨に垂れた。
「ホラ。不器用」
俺はお盆の上にあった布巾をまなに投げわたす。
「純くんほどじゃないよ。さっきから下にボロボロ零してるじゃん」
「俺は蟻に餌をやっているのだ」
「ふーん」
「…………」
俺は鎖骨を布巾で拭いているまなを横目で見る。
まなが顔を上げそうな気配がしたらすぐに目をそらした。
「そういえばさぁ。小学生のとき純くん、お父さんに騙されてスイカの種食べたらおへそから芽が出てスイカ人間になっちゃうって泣いてたよね」
「あん。覚えてねぇ」
「あったよぉ。それにほら、ひまわりの種が―――」
「…………」
夏で、夏休みが始まった。
暑い中、この縁側でまなとスイカを食べ、まなが横でひっきりなしにしゃべっている声を聞くと、心底俺はそう実感する。
夏は他の季節以上に俺たち二人を応援してくれる。
この圧し掛かってくるような青い空も、目もくらむほど強い太陽の日差しも、ときおり夕立を降らせる入道雲も、みんな俺の味方をしてくれているような気がする。
だから、夏は大好きだ。
なのに―――。
「純くんち、海岸が目の前にあっていいよね」
「そうか?お前んちもすぐ近くだろ」
俺の家の前には道路と堤防を挟んですぐのところに小さな海岸がある。
「まぁね。でも家からじゃ病院の屋上に上がらないと見れないもん。ここからだと波の音も聞こえるし。私、波の音好きだから」
「まぁな……」
でも、俺はあまりそんな風に思えなかった。
この海だけは―――なぜだかよくわからないけど―――俺を受け入れてくれない、そんな気がする。
子供の頃から親しんで泳いできた海なのに、いつの頃からか波の音を聞くと、ふとしたときに急に寂しさが込み上げてくるようになった。
沈む日を照らす様を見ると、どうしようもない不安にかられるようになった。
それも、この季節はとくに。
ほんとになぜかはわからないのだけども。
次の日の午後。
俺は朝からずっと夏休みの課題に勤しんでいた。
「…………」
あ〜、集中力が切れてきたぁ。
昼食を食べて再開した辺りから、時折貧乏揺すりするようになり、今ではそれが止まらない。
「はぁ〜」
あ〜アレだな。こういうときはいっそ―――。
俺は机の引き出しの一番したをそっと開けようとした―――そのとき、
「純く〜ん」
「うわぁぁぁぁぁ!!」
部屋の襖が開き、まなが飛び込んできた。
俺は慌てて引き出しを閉めて絶叫する。
「お前!人の部屋入るときくらいノックくらいしろよ!」
「えっ?なんで?どして?」
うぐぅ。純水無垢な目して訊いてきやがる。
「そっそれは、そのぉー……」
いえるわけねぇ。
「で、なんのようだよ」
「一緒に宿題しようと思って」
そう言うとまなは自分の勉強道具を俺の部屋の座卓に並べ始める。
「とか言って、俺の写したいだけだろお前」
「え〜そんなことわ〜な――わぁ、すごい!純くん、もう数3の宿題終わってるじゃん」
まなは俺の済ませた課題を手に取り目を輝かせた。
「俺はお前と違って、寝ぼすけじゃねぇし、怠け者でもないからな」
「とか言ってるわりにはずぼらなんだよねぇ」
まなは俺の部屋の散乱状況をみて言った。
う〜、確かに、漫画雑誌やら作りかけのプラモやらで散らかってはいるが。
「うっさい。手を抜けるところは手を抜く、コレ必要なときに集中するための鉄則!オヴァ?」
「ふ〜ん、そんなもの?まぁいいや、私は宿題写せるから」
「…………」
こいつ、結局俺の課題目当てに来たんじゃん。
まぁ、まなが写しに来るの見越して、課題を片付けてる俺も俺だけど。
「うへぇ」
俺の宿題を写していたまなが突然変な声を上げて床に寝転がる。
そして床に転がっていたロボットのプラモデルを手に取り弄くり始めた。
「写すだけにゃのにしんど〜い」
「お前なぁ……」
「バンバンっ!コッペパンをよこせぇ!さもなくば―――」
「…………」
俺が呆れてると、まなはプラモのロボット二体を使ってなんか寸劇をはじめた。
こいつ、完全に宿題放棄モードに入るつもりか!?
「くっ!卑怯だぞ!みんなで作ったコッペパンを!お前ら人間じゃねぇ!!ズキャンドキャン」
「…………」
「ふっなかなかやるな!だが、俺は後三回のイースト菌を残している」
「…………」
「くそぉ、マーガリンおじさんが覚醒してしまった。ズドーン!!まずいわ!このままじゃあ第三次―――あっアルバム発見!」
まなは劇の途中で本棚にあるアルバムを見つけ、ロボットを放り投げてそれを引っ張り出す。
くそっ!今のわけ分からん劇がどう展開していくのか、ちょっと興味あったのにぃ。
「わぁ〜、なつかしぃ!ほら、見て純くん」
まなは起き上がり、座卓にアルバムを広げた。
それは俺たちが小学生の頃の写真を収めたもの。
まなと俺は大概一緒に遊んでいたので、当然まなと一緒に映っている写真も多い。
「ほら、これ小一くらいの頃だよね。私の方がまだ背高いし」
「ああ……」
ん?なんか違和感が。
まなが―――。
「まなさぁ―――」
俺は目の前にいるまなと、写真の中のまなを交互に見比べて言う。
「なんかちょっと顔変わったな」
「う〜ん。そうなんだよねぇ。ほら、このころの私って―――」
まなは写真の自分の顔を指差す。
「ちょっと鼻が丸っこかったんだよね。今はちょっととんがってる感じでさぁ。私、この頃の丸っこい鼻、けっこう気にってたんだけどなぁ。可愛くて」
「…………」
そうだった。今、思い出した。
俺もあの頃、まなのこの丸っこい鼻が好きだったんだ。
たぶん、凄く徐々に変化していったんだろうから、気づかず忘れてたんだろうけど。
「まな、もしかしてこっそり整形した?」
「殴るよ!」
「殴ってからいうな……」
「そんなこと、するわけないじゃん。ばか」
まなはむくれてそっぽを向いた。
「ごめん」
俺は肩をすくめて謝罪した。
「…………」
「…………」
沈黙。
俺の部屋の扇風機、けっこう音大きいんだな……。
などと関係ないことを考えるいると、まなの方から口を開いた。それも少ししんみりした声で。
「ねぇ、純くん」
「ん?」
「純くんは医大受験するんだよね」
「ああ、そのつもり」
「あ〜あ……じゃあ大学は一緒にいけないかぁ」
「お前は三流大もあぶないじゃん。すぐ俺に頼って勉強してないから」
「いいもん。私は専業主婦になるんだから」
「…………」
俺の?―――とか、訊いたらこいつなんって言うんだろう。
まぁ、訊くきないけど。
「ねぇ、医大を受けるのは私のお父さんのせい?」
「ああ……まぁ、そのぉ〜な……」
俺もまなの親とは家族ぐるみの付き合いをしている。
それでよく、まなの父親は人に俺を紹介するときなんかに『こいつは家の跡取りだ』とか、本気とも冗談ともとれることを言うのだ。
「まぁそれだけってわけじゃねぇし。ほら、この町に医者が増えるのはいいことだろ?やっぱ、そういうことは考えてるしさ、俺も」
「ふぅ〜ん。そっか……」
まなは立ち上がり窓から外を眺める。
たぶん、目の前の海を見てるんだろう。
ざわ……
「二人でこんな風に過ごせる夏も最後かもね」
「―――っ!!」
まなの言葉を聞き、急に動悸がし始める。
「それは―――」
『べつに、そんなことねぇだろ!!』そう叫ぼうとした瞬間、お袋がジュースとスイカを俺の部屋に運んできて阻まれた。
くそっ、スイカか!このクロ丸野郎!おいしいけどさぁ……。
ごめんね、私はもう―――
いやだあぁぁぁ―――俺は―――
「はっ!?」
なんだ、今の―――夢……?
初め認識できたのはやたらでかい扇風機の音。
カーテンのゆらめきに、青い月明かりをみ、そして波の音。
「…………」
なんか、嫌な夢を見ていた気がする。
よく、思い出せない。
ぼぅとする頭で俺は布団から這い出て、きちんと閉まってなかったカーテンを閉めようと窓に近づいた。
ふいに、月明かりでぼんやり照らされた海岸が目に入る。
誰かいる。あれは……まな?
「お―――って……」
思わず大声を上げて窓から呼びかけようとしていた俺は、今が就寝時間だということを思い出し慌てて口を閉ざした。
パンツとシャツ姿で寝てたので、急いでそこらへんに転がったジーパンをはいて表へ出る。
満ちかけた月とところどころにある街灯。慣れれば明るいとさえ感じる夜。
それでも、毎日見ているその場所がどこか知らない異空間であるかのように思える。
波音。薄っすらとさす自分の影。シンとした空気。
恐怖より好奇心の方が勝る世界。
しかし、そんな情緒を感じている余裕はなく、俺は海岸へ駆けた。
低い堤防を滑り降り砂の上へ着地する。
「…………」
俺は目を凝らして周囲を見たが、まなどころか人っ子一人いない。
勘違いだったか。
俺は砂浜に座り込んでため息を吐いた。
ザァ……ザァ……
なんでだろう。
海で泳ぐのは嫌いじゃない。寧ろ好きだ。
海を見るのだって、嫌いだったらとっくに発狂しているはずだ。家の目の前にあるのだから。
なのになんで……。
月が……にじんでいく……。
あぁ、陸地にいるのに、溺れている―――そんな感じがするんだ、いつも。
帰ろう。
俺は両目を腕でごしごし拭ってから立ち上がる。
海に背を向けようとしたとき、黒い海の中に何か見た気がした。
「……あれは……人の手―――」
まさか―――まな―――!
「まなっ!まなぁあぁぁぁ―――まなぁぁぁぁぁぁっ―――」
世界が真っ赤に染まる。
自分の体、空気、海水―――世界がこんなに重いなんて。
速く―――速くっ!!
手が見えた部分まで水を押しのけるように泳ぎ、下にもぐる。
黒い。何も見えない。
まなっ!まなぁぁぁ!!
誰か!誰か助けてくれ!!力を―――。
俺だけの力じゃあ、この黒い海からまなを―――。
ガシっ
「―――っ!?」
この感触は―――手!
俺の腕を掴んできた!!
俺も腕を掴み返し、上昇する。
くそぉ。なんて永いんだ。
俺はほんとに上に進んでるのか?
速く―――
黒い―――黒い―――
まなを―――
光を―――光が―――
「ぐはっ―――」
海面に出た。
「はぁはぁはぁはぁ―――」
まな―――じゃない?
それどころか、男で……。
「あぅぁ―――」
一瞬、気を失いそうになり、危うく命がけで救出した男と黒い海へと逆戻りするところだった。
「うーむ、特に外傷はねぇな」
まなの父親、すなわち鈴原病院の院長が気絶している男を診断しながら呟いた。
あの後、俺はなんとか男を抱えて陸にたどり着き、応急処置し、それから背負ってこの病院に駆け込んだ。
先生は男の胸に聴診器を当てる。
「肺に水が溜まってる様子もなし。純坊の応急処置が的確だったおかげだな」
「うぅ……まさか、まなより先に野郎と口付けするはめになるとは思わなかったすよ」
俺はバスタオルで頭をごしごし拭きながらぼやいた。
「はは、そいつはけっこう。いい予行練習になったじゃねぇか?」
「…………」
ケラケラ笑う先生に俺はぐうの音もでない。
「しかし、こいつどこの誰だろうなぁ?」
先生は男を睨むように見下ろしながら言った。
白髪色白で華奢な体つきの優男。俺より少し年上だろうか?
こんな奴、俺も見覚えがない。そして、町の顔である先生もないところを見ると、この辺の住人ではないのだろう。
「こいつが目覚めてから訊くしかねぇか」
「目覚めそうにないっすね」
「少し、衰弱してるだけだろ。点滴打てば明日には目覚ますさ。純坊はもう帰っていいぞ。あと、俺やっとくから」
「あっはい。お疲れ様です」
俺はそう言って診察室の入り口まで来て、一つ気がかりなことを思い出し立ち止まる。
「あの、先生。まなは今、自分の部屋で寝てますよね?」
「ああ、寝てるだろ。なんでだ?」
「いえ、なんでもありません。おやすみなさい」
やっぱりあれは俺の見間違えだったんだな。
「記憶喪失?」
次の日、俺が昨日救った男の病室を訪れると、男は朝方目を覚ましたのだが、なんと記憶がなくなってしまっているのだという。
「ああ」
「自分がどこの誰かも思い出せないんすか?」
「そうらしい」
俺の問いに先生が渋い顔して頷く。
問題の男はベッドで半身を起こし居心地悪そうに俯いていた。
しかし、こいつよくみるとえらく綺麗な肌してるな。
シミも皺も傷もアザも何一つ見当たらない。
こちとら、でこの生え際にできたにきびがジンジンしてるってのに。
俺がそんなことを考えていると、俺に引っ付いてきたまながとんでもないことを口にする。
「すっごーい!私、記憶喪失の人なんて始めてみた。漫画のせかいだけじゃないんだね。名前も覚えてないの」
「はっはぁ」
「へー、珍しい。おもしろーい」
場が凍りつくとはこの事だ。たいへんな事態に陥ってる人捕まえておもしろいとな。
先生は一つ咳払いをし、
「こら、まな!面白いとはなんだ!本人にとっては深刻なことなんだぞ」
「そっそれもそうだよね。ごめんなさい、私思ったことすぐ口にしちゃって」
「すまんな、きみ。まなは悪い子じゃないんだが、どうも感性が人とは違うところがあって」
「あっいえ」
困惑気味で返答する男。
そらそうだ。面白がられたことは否定してないし。
「それにしても、記憶喪失だなんて。脳の損傷もなかったんすよね?」
「レントゲンではな。ただ、脳のことはまだよくわかってないってのが現状だし。記憶障害の場合、心因性って可能性もあるしな」
確かに先生の言うとおり、現状ではこいつの自己申告を鵜呑みにするしかないわけだが。
ただ、なーんかこいつ引っかかるんだよなぁ。
昨日の人工呼吸のせいか?
或いは、俺より男前なのが気に喰わないとか。
けっクソくらえだ!
「とにかく、まだ体力も完全回復してないようだから、とりあえず静養してもらって様子見だな。警察には俺の方から身元がわからないか訊いとくよ」
「御迷惑かけます」
申し訳なさそうにお辞儀する男に、先生は快活に笑って返す。
「なぁに、困ったときはお互い様!いいってことよ」
「先生はホント筋金入りのお人よしっすからね」
「純坊、医者はお人よしじゃねぇとつとまらねぇ職業だぜぇ。憶えとき」
「へいへい」
「ねぇ!そんなことより、この人のとりあえずの呼び名決めようよ」
まながはしゃいだ様子で提案してくる。
「ポチ」
「タマ」
と即答する、俺と先生。
「だめだよ!そんな、犬猫じゃあるまいし!そうねぇ、うーん」
まなは俺たちの考えたステキネームを却下し、考え込む。
とりあえずの呼び名なんだから、こんなやつポチタマでじゅうぶんだっての。
「うん!アンドレーヴェラルーシツァラトゥストラえもん♂(おす)なんてどうかな?」
『却下!』
俺と先生は同じように胸の前でバッテンを作った。
「え〜なんでぇ」
「長い、無意味、言いにくい!てか、スラスラ言えたお前がすごいよ」
「我が娘ながら、どっからそんな発想が生まれてくるんだ?」
「ぶ〜」
あきれ返る俺と先生に、まなはほっぺを不満そうに膨らませる。
正直、ちょっと可愛い。
「じゃあ、トラえもん」
「それもダメ。なんか危ないから」
「じゃあ、なんならいいの〜」
口を尖らせるまなに、それまで黙っていた当人が提案する。
「じゃあ、こうしたら。本名がアンドレーヴェラルーシツァラトゥストラえもん♂(おす)で略称をアルスにするとか」
「それだ!それに決定!!本人が言ってるんだから、依存はないよね」
「まぁ本人がそれでいいなら」
「かまいません」
優しく微笑む男。
かくして、今ここに誕生する。
本名・アンドレーヴェラルーシツァラトゥストラえもん♂(おす)、略称・アルスの記憶をなくした謎のアルビノイケメンが。
てか、この男もスラスラ言ったな。この名前、案外言いやすいのか?
「アンドレーヴェラルーシズラ……」
痛っ噛んだ。
「アンドレーヴェラルーシテラ……」
俺は病院から家に戻る途中、どうにか奴の本名(?)が言えないか口にしているのだが、どうも言えない。
「やはり、ツァラトゥストラが曲者か。おのれ、ニーチェめ」
「ねぇ純くん」
「単体なら言えるんだが、ツァラトゥストラ」
「ねぇ純くんってば!」
「ん、なんだ?てか、お前堤防の縁を歩くな!落ちるぞ」
例によって俺の宿題目当てで付いてきたまなだが、こいつが堤防の縁を歩いているのに気づき俺は慌てふためく。
「そんなへましないもーん」
「いいや、お前が中一のとき同じように堤防の縁を歩いていて海側に落ちて溺れそうになったのを助けたことを俺は生涯忘れない」
「ふーんだ」
まなは不機嫌そうに道路に下りた。
「純くんさぁ。昨日、アルスさんとキスしたって本当?」
「ブッ」
なに言い出すんだこいつ!
てか、先生しゃべっちゃったんすかこいつに、よりにもよって。
「ねぇ?」
「いや、それは人工呼吸であってだな」
「でも、口付けは口付けでしょ?」
「それは……」
そうなんだが、でも違う―――だろ?
「あーあ、純くんのファーストキスは私のものだと思ってたのになぁ」
「おい、それは―――」
ほとんど愛の告白と同義では?
「純くんはアルスさんと結婚しちゃうのかぁ」
「それはチガウダロ!!」
「え?」
「だいいち、キスと人工呼吸とは別物だ!『神は滅びた!されど、人工呼吸はキスにカウントされない』とニーチェ先生も仰ってるじゃないか!」
「ホントにぃ?」
「ああ、ほんとうだともさ」
「じゃあ、試してみようか?」
えっなにを?
「キスして」
「へっ?」
思考が完全に停止する。
「なーんてね。うそぴょん♪」
まなはそう言ってペロっと舌を出すと駆け出した。
「…………」
なんだったんだ、今の?
頭が上手く回らない。
しかし、次第に脳が活動再開を初め、
「てめぇ―――」
怒りがふつふつと湧き上がり始める。
このアマ、宿題見せてやらんぞゴラァ!
とはいえ、家につきまなに頼まれると断れないヘタレな俺。
扇風機が生暖かい風をかき回す俺の部屋で、俺は課題に勤しみ、まなは俺の課題を写す。
「ねぇ、やっぱキスしよう」
「お前なぁ―――」
また、まなの悪ふざけが始まったかと思い俺が顔を上げて抗議しようとしたら―――なんということでしょう。
まなが目を瞑り、あごを少し上げている。
コレは本気か!?コレが世に言う『キスして♪状態』というやつなのか!?
「…………」
いいのか?本当にいいのか?
やはり、高校生の領分、清い交際というものを―――。
いや、しかし据え膳喰わねばお股に悪い―――もとい、男の恥!
えっと、キスってどうやるんだっけ?
あーそういえば、こいつキスが下手なんだけっけ?いや、それは俺が勝手に思っただけか。
しかし、いきなりディープってのはどうなんだ?
やっぱ、ここはファーストキス。(断じて人工呼吸はキスにカウントされません)
可愛く、チュッてやるべきか。
されど、ここは千載一隅のチャンス。
やはり、ここは―――。
蝉が『キスキスキス―――』と大合唱しているように聞こえますます俺を焦らせる。
ええい、儘よ!!
「むー」
「あんたたち勉強はかどってる?」
「うぎゃあああああああ」
ママぁ―――!!
「ん?あんたなに壁に向かって正座してんの?」
お袋がいきなり俺の部屋に入ってきた。
人間ってすごい。正座したまま、半回転ジャンプできるもんなんだ。しかも御丁寧に座布団まで一緒に。
「なんの用でござんしょう、お母様」
「はぁん?何ゆえ敬語?スイカ切ってきたのよ。ほら。まなちゃんも息抜きに食べてね」
「はい、いただきます」
まな、なんでそんなに平静に対応できるんだ?
てか、またスイカか?スイカの野郎か!名産地か!!
この野郎、もう頭にきた。てめぇら、皮まで漬物にして喰ってやるから覚悟しろ!?
「ねぇ」
お袋が去り、グデンと倒れこむ俺をまなが突っつく。
「純くん、キスはぁ」
「もう、せん」
「えぇぇ」
不満そうな声を上げるまな。
もう、知らん。
どうせ、しようとしても誰かが邪魔しに来るんだ!スイカ人間とかが!!
そういう運命なんだ!
俺なんかアルスの野郎と結婚すればいいんだ!!
いや、それはチガウダロ、俺。
ゴボゴボゴボ
海?違う、ここはどこだ?
私はもう―――
俺に―――
これは幼い頃の俺の声?
俺に何か出来ることはないのかぁぁぁ―――
「くはぁっ!」
夢?なんだったんだ?今の……。
次の日、朝方勉強を済ませ、午後にアルスの病室に向かった。
正直、いけ好かない感はあるが、将来医者志望の俺にすれば、自分が助け出した人間くらい最後まで責任を持ちたいと思う。
だからといって、何ができるわけでもないが、様子見くらいはというやつだ。
腐るほどある、スイカを持って。
けっけっけっ。スイカめぇ!!てめぇなんかアルスに喰われてう○ちになっちまうがいい。
アルスが入院している病室に入ると、
「あっ純くん」
まながいた。まながアルスとおしゃべりしてたらしい。とーても楽しそうに見えた。
ムカッ!
なんだ、この全身の筋肉をプルプル痙攣させてしまうグロドロッとした感情は。
ふふふふふっ、この黒丸を大砲の弾に見立ててやつの顔面にぶつけてやろうか、え?
その上で『ごちそうさま』を言うことを強要してやろうか、あん?
いや、まて。おちつけ、俺。なにを血迷ってるんだ。
アルスは記憶喪失の病人で、まなは病院長の娘。
傷心の病人の心のケアを行っている麗しのナイチンゲールってだけじゃないか。うん、きっとそうだ。そうに違いない。
そんな尊い行為を、将来医者志望の俺がむげにしてどうする。
冷静だ、冷静になれ、俺!
「冷えたピッツァはいかがかな?」
「はい?」
「ああ、いえ。お見舞いに来たのですよ。ほら、おスイカをはなむけ―――もとい、お土産に」
俺は自分で思う最上級の爽やかな笑みでスイカを掲げる。
思春期、鏡に向かって笑顔の練習の一つもしておくもんである。
「それはどうも、ありがとうございます」
「なんか純くん、今日は無駄に爽やかだね」
「なにを仰るナイチンゲール。さぁ、キミはこのおスイカをズタズタに切り裂いてくるがよろしい。さっきまで冷や水を浴びせておいたからちょうど食べごろのはずだよ」
「うっうん」
まなは怪訝そうな顔をしながらも、スイカを受け取り包丁のある給湯室に向かった。
「その後、お加減はいかがですか?」
「はい、おかげさまで体の方は大分よくなって。記憶の方はまだですが」
「そうですか。記憶、早く戻るといいですね」
そして、俺とまなの前からさっさと消えてくれるといいですね。
「あっそうだ。あなたにはまだちゃんとお礼を言ってなかったですね。
この度は、私のことを命がけで助けていただいたそうで。
あなたは命の恩人です。なんとお礼を申し上げていいか。本当にありがとうございました」
アルスはベッドに手を付き俺に深々と頭を下げてきた。
ふっ勝った!
そうだよ!俺はこいつの命の恩人なんだった。
確か、法律では『命の恩人には絶対服従しなければならない』と六法全書にあったはず。
つまり、こいつは俺に一生頭があがらない。
鉄砲玉にでも、丁稚にもできるってもんだ。
まぁ大人な俺はそんなことしないけどね。
「いやぁなに、それほどのことは。人間として当たり前のことをしたまでですよ」
「あなたは本当に素晴らしい方ですね。まなさんが仰ってた通りだ」
「えっ?」
「まなさんとしゃべってると、彼女、あなたのこと自分のことを自慢するように楽しそうに話すんですよ。純くんが―――、純くんが―――って」
「へぇ〜そうなんですかぁ。まながぁ。ふ〜ん」
イヤッホイ!!な〜んだ、そうだったのかぁ〜ららららら〜ん♪
「純くん、スイカ切ってきたよぉ」
まながスイカを切って病室に戻ってきた。
こいつめ、可愛いやつだ。今すぐ抱きしめてやろうか。
「さぁさぁ、アルスさん。ジャンジャン食べてくださいね。まだ、家にいっぱいありますからぁ。あっなんだったら今度、家に来ますぅ?」
あ〜なんか楽しくなってきたぁ〜♪
私は、ここで死んだ方がいいの―――
まな?でも、じゃあなんで俺は……。
そんなの……そんなのってないよぉ―――
俺が―――。
「くはぁっ」
夢?
また……。
首を振る大きめの音を立てる扇風機。
うすぼんやりとした夜。
「くそっ……」
波音が……うるさいっ―――。
また次の日、俺はアルスの病室を訪れた。今日は手ぶらで。
すると、また昨日と同じようにまながアルスとしゃべっていた。
「…………」
なんでだろう。昨日はまなが俺のことをしゃべっていたと聞いてあんなに心躍っていたのに。
今日は全身の血液が重くなり足の方へ下がっていくような、そんな嫌な感じがする。
昨日の爆発する怒りと違って、もっと重症のような。
「まな、ちょっといいか」
「なに?純くん」
俺はまなを病室の外に連れ出す。
「おまえさぁ、あんまりアルスさんと二人っきりで話したりすんなよな」
「ん?なんで?」
「それはその……。俺もさぁべつにアルスさんのこと疑ってるわけじゃないよ。いい人だとは思うし。でも、やっぱ素性の知らない人には変わりないしさ。男女七歳にして席を同じゅうにせずっていう、ありがたい言い伝えもあるわけだし」
「えっ?男の人と女の人は、七歳過ぎたら一緒にいたらいけないの?じゃあ、私と純くんは?」
「俺たちはほら、その―――」
特別だから?恋人同士?俺が勝手にそう思ってるだけじゃないのか?
勝手に嫉妬して、まなを自分のものみたいに考えて、まなを独占したいって器の小さいこと思って。
キスだってできないってのに。
「私たちは何?」
「…………」
まなが無垢な目を向けて俺に訊いてくる。
俺は……怖いんだ。まなと、これ以上距離を縮めたら、まなと俺のいままでの関係が壊れてしまうんじゃないかって。まなが、俺の知っているまなじゃなくなるんじゃないかって。
「おう!まな、純坊」
先生がやってきた。
正直、ほっとする。
ただ問題を先延ばしにしているだけかも知れないけど。
「お前ら暇ならアンドレーと散歩につきあってやってくれないか?」
「散歩っすか?」
「ああ、体調もいいみたいだしな。少しくらい体動かすのがためだろ」
「わかりました」
「おう、たのむな」
先生は俺の肩をぽんと叩いてから、アルスの病室に入っていった。
散歩か。少しは気晴らしになればいいが。俺にとっても。
「ねぇ、海岸沿いを歩く?」
三人で病院の玄関を出ると、先頭を歩いていたまなが振り返りながら訊いてきた。
日差しを背にして振り返るまなを見て、改めてまなには夏が似合うと思った。
あまり日焼けしないその肌が、かえって夏を味方にしているかのように見える。
麦わら帽子を被るその笑顔がとてもいとおしい。
やっぱ、こうやって友達ごっこしてるのが性にあってるのかな、俺たち。
「いや、森林公園の方にいこう」
俺が言う。
今は、あまり海を見たくなかった。
俺たちは、公園とは名ばかりの、病院の裏に広がる森の中を歩く。
鬱蒼ととまではいかないかも知れないが、木漏れ日ができるくらいには木々が茂っている。
「あれ、クヌギだよね。小さい頃、カブトムシ取りにいったの覚えてる?」
「ああ、憶えてる、憶えてる。誰かさんが、『私、カブトムシ取りに行くから明日絶対つれてってね』とか言ってたくせに、次の日の朝ぜんぜん起きなくて、たたき起こすのに苦労したっけかな」
「ええ?そうだっけ?」
「あの……このジージーいってるのはなんですか?」
俺たちが昔話に花を咲かせていると、後を歩いていたアルスが変なことを訊ねてきた。
「えっ?蝉のこと?」
「あんた、蝉のことも忘れちまったのか?」
俺が驚いて訊きかえすと、アルスは珍しそうに辺りを見回しながら言う。
「いえ、たぶん知らないんです」
「はぁん?蝉を?」
「やっぱり、外国の人なんだよアルスさん。髪の毛も白いし。外国なら蝉のいないところもあるかもしれないじゃない?」
「ふーん。アルビノじゃなかったんだな」
「あっあれが蝉だよ。アルスさん」
「へぇこれが……」
まなが木に止まった蝉を指差すと、アルスはそれに近づき素手で蝉を捕まえようとする。
当然、蝉は飛んで逃げるわけで。
「うわぁ」
小便のおまけつきで。
「まいりましたぁ」
「あははははははは」
大笑するまな。俺も釣られて笑っちまう。
「近くに川があるからさ、そこで洗えばいいよ」
「ありがとうございます」
アルスは苦笑いを浮かべながらぺこりと頭を下げた。
「川の水、きっもちぃー」
まなはサンダルのまま川に足をつけてはしゃぐ。
「ほんと、冷たくて気持ちいですね」
アルスも川の水で顔を洗ってから言った。
「ほれ、タオル」
「どうも」
「純くん、ナップザックになに入れてきてるかと思ったら、タオルだったんだね」
俺がアルスにタオルを渡していると、まなが驚いた声で言った。
「ああ、こういうところに来るときは持ってくるようにしてるんだ。誰かさんがすぐ―――」「きゃあ!」
「水に落ちたりするから」
って言ってるそばから、まなが足を滑らせ川に尻餅をつく。
「ほらー、もう。タオル」
俺はアルスからタオルを返してもらいまなに渡す。
「まっこんだけ暑いし、すぐ乾くだろ」
「ほんと、純くんが用意周到なおかげで助かったよ」
「タオルはさ、いざとなったら包帯のかわりにもできるからな」
「純くんとだったら、世界が滅びても二人だけで生きていけるかもね」
「俺がストレスで死ぬ。お前と二人っきりだと」
「もう」
冷てっ!
まなが俺に水をかけた。
「あー見て、アルスさんとこ魚がいっぱい寄ってきてるよ!」
「うわっほんとだ!!」
靴を脱いで水に足をつけたアルスのところに何故か魚が群がっている。
アルスはどうしましょうといった表情で頭をかいている。
「これだと網で掬っても取れるんじゃね?持ってくればよかったなぁ、オイ」
「素手でもいけるかもよ」
「ええ?さすがにそれはぁ」
「純くん、やってみてよ」
「ああ、わかった」
俺はそーとそーとアルスの方へ近づく。
俺は熊だ!魚掬い名人だ!野生の力を呼び覚ませ!!
「―――っ!!」
ジャボン
はい、さすがに無理でしたぁ。
「まぁ当然だよね」
すこぶる冷静な口調で言うまな。
「こんにゃろ」
今度は俺がまなに水をかけた。
なんか楽しいな、こういうの。
小さい頃はここが俺たちの遊び場だったのに。
最近は勉強ばっかりで。
遊びでも、水族館やら遊園地やらが多かったからな。
まぁそれはそれで楽しんだけど。
やっぱこういう方がいいや。夏を生きてるって感じがする。
「そういえばさ、この近くに洞穴があるんだよ」
小さい頃、誰にも内緒で、まなにすら内緒で、俺だけの秘密基地にしていた場所。
「洞穴?」
「そう。防空壕かなんかの後だと思うんだけど」
「行ってみたい!」
まなが目を輝かせる。
そう言うと思った。
「ああ、言ってみようぜ」
今日、初めて自分以外の人間と行く。
すげぇ楽しかったから、ほんのお礼の気持ち―――って、そんな大げさなもんでもないけど。
「ここだ」
川から少し奥に入り、更に道から外れたところにその洞穴はあった。
入り口は草なんかでカモフラージュしておいた。
俺はそれをかきわけて得意げに我が秘密基地を紹介する。
「へぇこんなとこあったんだぁ。初めて知ったぁ」
まなが興味津々で入り口から中を覗き込む。
「ふーん、けっこう中広いんだね」
「だろ?俺の子供の頃の秘密基地だ」
「えー、じゃあなんで今まで教えてくれなかったのぉ」
「そら、秘密基地だからな。秘密だよ」
「ぶー。あっアルスさんもおいでよぉ」
「あっはい」
アルスが入り口から洞穴に入ろうとした瞬間、
「うっ―――うわぁ……」
彼は頭を抱えて蹲った。
「どうしたの?」
「大丈夫か!?」
「頭が……痛い。ガンガンする―――」
悶え苦しむアルス。
これはちょっとやそっとの痛みじゃなさそうだ。
熱射病か?小まめに水は飲ませていたんだが。
「病院へ戻ろう。俺の背中に乗れ」
「いえ、自分で歩けます……」
「いいから!そっちの方が早い」
「すいま……せん……」
アルスをおぶって俺たちは急いで病院に戻った。
病院につく頃にはアルスはぐったりとなっていた。
「先生どうですか!?」
治療室から出てきた先生に俺は興奮気味に訊ねた。
「ああ、とりあえず痛み止めを注射した。今は眠ってる」
「熱射病にですか?」
「いや、それはないだろ。体温も正常だったし」
「そうですか」
とりあえず俺はほっとする。
熱射病だったら完全に俺の責任だった。
「でも、じゃあどうして」
「うーん、正直俺もよくわからん」
先生は渋い顔をして頭を掻く。
「明日にでも、知り合いの大学病院の先生に相談してみる。必要とあれば転院だな」
「そうですね」
大学病院ならここでわからなかったことも何かわかるかもしれない。
俺はまなの方を見る。
まなは廊下にある窓から外を見ていた。
そこから見える景色は、今の時間海に沈んでいく夕日であろう。
「まな」
「ねぇ純くん、私……」
まなは俺に背を向けたまま声をかけてきた。
「ん?どうした?」
「ううん。なんでもない。私、もう帰るね」
まなが振り返り笑ってみせる。
ただ、夕日を背にしたその笑みはどこか疲れているように見えた。
「まな、大丈夫か?」
「うん。じゃあね」
「ああ」
そういい残してまなは行ってしまった。
どうしたんだろう。
普段からころころ表情が変わるやつだけど、あんな風に疲れを誤魔化す顔は珍しい。
アルスのこと、責任を感じていたりするんだろうか?
俺にできることは本当になにもないの―――
まながとけていく。
ごめんね、純くん―――
まなが俺の前からいなくなる。
幼かった俺は、なすすべなく途方に暮れるしかできなくて。
まなは待ってたんだ。あの男が来るのを。
なのに―――。
「くはぁっ!」
なんだ……いまの―――。
何かを……俺は、忘れてる?
また、夜中に目が覚めた。
「うぐぅ」
急に吐き気が―――。
俺は慌ててゴミ箱へ駆け寄って、反吐を吐く。
そのとき、扇風機にぶつかって倒してしまった。
気持ち悪い。
波の音がうるさい。
カーテンが風で半分近く開いていた。
空が見える。月が満ちていて―――。
「あっ」
流れ星。
次の日、俺は何もする気になれず、夕方まで自分の部屋でぼうっと過ごしてしまう。
日が傾きかけた頃、アルスのことが気になり病院に向かう。
「…………」
病院の玄関の前にアルスと―――まながいた。
なにかしゃべっている。
殺気が……。
「あっ純くん―――って、なに?」
俺は無言でまなの腕を取り、ぐいぐい病院の裏手まで引っ張っていく。
「なっなに?なんなの?」
まなが怯えた声を出す。それでも、俺は、
「なんなのはこっちだろ!?なんなんだよ!なんで、家来ないんだよ!!宿題しに!待ってたんだぞ!」
怒鳴り散らす。大嘘を。
「ごめん。でも、今日はそんな気になれなくて……」
「だいたいなんだよ!昨日、言ったじゃないか!!アイツと二人っきりでしゃべるなって!え?」
「違う。しゃべりかけられたから、ちょっと挨拶しただけで……」
「嘘だぁ!!」
「嘘じゃないよぉ。ほんとぉ……どうしたの……純くん、怖いよぉ」
「…………」
まなが半泣きになっている。最低だ、俺。
「わけがわからないんだ。最近、ずっとおかしな夢見て。まながまなじゃなくて。俺、おかしんだ。ごめん」
俺はまなの前から逃げ出した。
その日の夜、俺は眠れず部屋の隅で膝を抱えていた。
寝たらまた、あの変な夢を見てしまう。
波の音が―――扇風機の音が―――。
「うるさいんだよってめぇはさっきからぁ!!」
俺は扇風機を掲げ床に投げつける。
扇風機のカバーがはずれ、羽が見事に粉砕する。
「はぁはぁはぁはぁ」
ごめん、扇風機。さんざんお世話になっておいて。でも、うるさい音を立てるてめぇが悪い。
『やめて!』
「ん?」
『ここ、純くんちの前だからぁ』
まなの声?
俺はカーテンを開けて窓から外を見る。
砂浜に二つの影。あれはまなと―――アルスっ!
俺は家を飛び出す。
「ナスル。私、あなたが助けに来てくれるのをずっと待ってた。でも、あなたは一向に来てくれなかった」
「仕方がないだろ!僕は肉体改造中でずっと眠っていたんだから」
「でも私は私を助けてくれた、ずっと支えてくれた純くんを……」
「リュラ。キミが僕ではなく、あの地球人を愛するようになったというなら、それは仕方がないことだ。だが、同胞を裏切ることは断じて許さない!」
「なにをやってるんだ!?」
「純くん!!」
やはり、まなだった。そして、アルス。
「キミには関係のないことだ」
アルスは俺に言い放つ。
昨日までの温和な彼とは全く別人のように。記憶が戻ったのか?
「関係ねぇことねぇ!こいつは俺のこ……俺の幼なじみだ!」
「幼なじみ?違うね。その女はキミの幼なじみに成りすましているだけだ」
「何を―――」
「もっと言えば、キミの幼なじみだった『まな』を食い殺してだ」
「なっ!?」
「もう、やめて!」
まなは耳をふさぎ砂浜にへたりこむ。
「彼女がいつから本当の自分のことを忘れていたのかはわからない。恐らく、僕と同じで対地球人用に用意していた記憶妨害因子の不具合で自分が記憶を失っていたんだろう。しかし、昨日の洞窟の中には彼女の本体の残骸があった。それが我々の記憶妨害因子の作用を打ち消し全て思い出したんだ。僕と同じように」
「なにを言ってるんだ?」
「だから、さっきから言ってるだろ。その女はキミの幼なじみではない。ずっとキミの幼なじみに成りすましていただけだって」
「そんな、わけのわからない話―――」
いや、わかっている。俺は最初から知っていた。ただ、忘れていただけだ。
この目の前にいる女は、俺があのとき助け救えなかった人魚だったてことを。
小学生の頃、俺は夜中に目を覚まし海岸をぶらついたことがあった。
そのとき、海岸に女が倒れているのを発見した。
女には足がなかった。いや、正確には足がゲル状になって一つにくっついていた。
俺が呼びかけると女は気がついた。俺が助けを呼びに行こうとすると女は懇願するように言った。
「お願い、だれも呼ばないで」
俺はそのとき思った。
この人は人魚なのだと。人間に見つかれば、見世物にされたりするかもしれないから、知られるわけにはいかないのだと。
俺は病院に忍び込み、手当ての道具と車椅子を持ち出し、人魚を森林公園の洞穴へと運んだ。
「ここは俺の秘密基地なんだ。だから絶対、誰もこないんだよ」
「ありがとう」
「ほら、手当てしてやるよ」
「上手なんだね」
「俺、将来医者になるんだ。だかさ」
「よかった。出会ったのがあなたみたいな子で」
人魚の微笑みに俺は胸が熱くなる。
今思うと、それが俺の初恋だったように思える。
俺は暇を見つけては人魚の手当てを続け、食料を運んだ。
食料は川で魚を取ったり、家や病院からかっぱらったりして、それでも足りないときは自分の貯金をはたいて用意した。
人魚は出会った頃に比べれば徐々によくなっていったけど、でもここが人魚にとっていい環境とはとても思えなかった。
「ねぇ、人魚さんはこれからどうするの?」
「待ってるの」
「誰かが来るのを?」
「うん」
「その人は人魚さんの恋人?」
人魚は答えなかった。でも、それが肯定の意味だと幼いながら俺は感じた。
失恋だった。
だが失恋の意味もよくわかっていなかった俺は、ただ純水に人魚の待ち人が来ることを一緒に願った。
しかし、その待ち人が現れることなく、
「ごめんね、純くん」
人魚は体のゲル状部分がどんどん広がっていった。
そしてとうとう、足の先から髪の毛の先までゲル状になったとき、
「人魚さん、病院に行こう!先生に見せたら助かるかもしれない」
「私は人間じゃないから……」
「でも、じゃあ俺になにかできることはないの!?俺はどうしたらいいの!?ねぇ、本当に俺には何も―――」
「…………」
俺は無力だった。
「純くん、ありがとう」
「いやだあぁぁぁ―――俺は―――人魚さんのことが―――」
人魚は俺の腕の中でとけて泡になった。
その瞬間、俺は―――、
「あれ?俺、なんで泣いてるんだっけ?」
人魚に関する全ての記憶をなくしていた。
「そうだ、今のまなの姿は、あのときの人魚そっくりだ」
俺はへたりこむまなを見下ろしながら呆然と呟いた。
「人魚?ちがう、僕らは人魚なんかじゃないよ」
「えっ?」
「僕らは地球外知的生命体だ。姿かたちは地球人とは似ても似つかないゲル状の生き物だけどね」
「ゲル状の!?」
「僕らの星は大規模な地殻変動のため大気の成分が激変し、僕らの人体構造では住める星ではなくなった。かなりの仲間が死んだけど、それでも宇宙船の中に逃げ込み助かったものもいた。でも、いつまでも宇宙船の中で暮らしていくのも限界だった。絶望している中、変化した僕らの星とそっくりの星で暮らす知的生命体の存在を発見したんだ。そこで科学者だった僕とリュラ、そこにいる女は二人で地球にやってきて宇宙船の中から地球人の研究を始めた。僕らの人体構造を地球人と同じに改造するために。ある日、地球人の人体構造をすっかりと解明し、僕らは自分たちの体を改造するために改造ポットに入り眠りについた。でも、何かのアクシデントで彼女のポットだけ宇宙船から海に投げ出されたんだ」
「…………」
肉体改造中……だから、彼女は―――。
「リュラが死んでしまった以上、僕らは死に絶えるしかないかに思えた。でも、奇跡が起こったんだ。キミたち地球人にとっては最悪の奇跡が」
最悪の奇跡?
「僕らにはゲル状の体の中に人間で言うところの脳みそに当たる核がある。その核を人間が摂取したらしい。やがて、核はその人間を完全に侵食し、そしてリュラは蘇った。そんなことが起こるなんて夢にも思わなかったけど」
「核?それは真珠みたいな?」
「真珠?」
「乳白色の球体」
「ああ、そんな色だ」
「っ!!」
俺だ!俺がまなに!
あのとき、洞穴で拾ったものを真珠と思って。
『純くん、最近全然遊んでくれなくてつまんない』
『えっ?そうだけっけ?』
『そうだよぉ』
『うーん。じゃあこれで機嫌直せ』
『わーい、ミルキー!いただきまーす』
『わぁ、それミルキーじゃねぇ!真珠だ!!』
『ゴクリ。ごめん、飲んじゃった』
俺が、まなを―――まなを消してしまった……。
けして美人ではなかったけど、愛くるしい顔して俺に引っ付いていたまなを―――大好きだった、まなを―――俺がっ……。
「あぅ」
俺もその場にへたり込んだ。
「純くん、ごめんなさい」
そうだ。あのときの人魚さんの姿だ。あの美しかった人魚さんの。
「私、こんなつもりじゃ」
人魚さんの核が、まなを徐々に消していって、人魚さんに。
「私、最初まなの体を支配してしまったときはリュラとしての記憶があった。でも、言い出せなかった。次第に記憶が薄れていって。昨日までは完全に忘れてた。私なんかが純くんとこんなに楽しい人生を送れるはずなかったのに。私がまなを―――」
「ちがう、人魚さんのせいじゃない。俺がまなを消したんだ。俺がまなを人魚さんにしちまったんだ」
「…………」
ザァ―――ザァ―――
波の音がうるさい。でも、全部この波と一緒に流れてしまえばいいんだ!
「純くん。私、行くね」
まなが―――いや、人魚さんが立ち上がる。
「いやだ、行かないで!」
俺は人魚さんの腕を取った。
人魚さんは首を振り静かに告げる。
「私はまなじゃないから」
「違うんだ!確かに俺はまなのことが好きだったし、まなのことを消してしまった自分のことも許せない。でも、俺は人魚さんのことも―――本当は人魚さんのことがずっと好きだったんだ」
「…………」
「ねぇ、人魚さん。憶えてる?俺と過ごした日々のことを」
「っ!」
「夏休みが来るたびに人魚さんは俺の宿題を写してた。
人魚さんのくせに、海で溺れそうになって俺が助けたこともあった。
俺が作文のコンクールで賞をとったとき、一番に喜んでくれたのは人魚さんだったよねぇ。
ずっと一緒だった。ずっと好きだった。ずっとあなたの声が俺を何倍も男らしくしてくれた。
あの楽しかった日のことを、あのときめいてた日のことを、人魚さんは覚えてる?」
「忘れる……わけ、ないよ……」
人魚さんが泣いている。また、泣かしてしまった。
「だったら、俺と一緒にいてくれよ。ずっと一緒に」
「純くん」
「それは出来ない。雄・雌両方のサンプルを―――」
アルスが口を挟んでくる。
「ちょっと、てめぇ黙っとけよ!馬に蹴られて死んじまえってんだ」
「ムゥ」
「人魚さん。いや、まな!俺はお前が大好きだ。だから―――」
「純くん、私も純くんのことが大好き。
それに、私を育ててくれたお父さんやお母さん。
この町のみんなや学校の友達。
この星の動物や植物もみんな好き」
「だったら!」
「でも、ごめんなさい。やっぱり私は私の星のみんなを裏切れない。私が行かなきゃみんな死んじゃうもの」
「…………」
そりゃそうかもな。俺だって人類の滅亡がかかってたとしたら―――いや、俺なら好きな女を選ぶかもしれない。
「だったら、戻ってきてよ。まなの星のみんなが救われて、お前が役目を終えたとき俺のところに戻ってきてよ!」
「でも、何年かかるか」
「何年でも待ってる」
「ほんとに途方もない時間がかかるかも」
「長生きして待ってる」
「うん、じゃあ戻ってくる」
よっしゃー!アルスに勝った!!元恋人に勝った!!
「毎日手紙書くよ。届かなくても書くよ。
毎日、まなの名前を呼ぶよ。
毎日、大好きだよって言うから」
「それはムリだ。最初に言ったが我々は対地球人用に記憶妨害因子を放出していて―――」
「じゃかしい!アルス、元恋人の負け犬!!豆腐の角に頭ぶつけてちょっくら死んでろ!」
「ムゥ」
「誰が忘れようと俺だけはどんなことをしても憶えているよ、まな」
「うん、ありがとう純くん」
そして、まなは少しだけもじもじしてから俺に囁いた。
「純くん、キスして」
「うん」
もう、迷わない。これを逃したら何年後になるかわからないから。
「ん」
俺たちは海よりも深い口付けを交わした。
俺のファーストキスは涙と鼻水と潮風でうーんとしょっぱかった。
アルスとの人工呼吸は断じてキスにカウントされない。
「と、いうわけでまなは俺を置いて宇宙へ旅立ってしまった。
その日の翌日、アルスの言ったとおり誰も彼もみんなまなのことを忘れてしまった。
だが、俺だけは何故か忘れずにすんだんだよ。しかも、不老不死のおまけつきで。
だから、俺は長い年月が過ぎた今でもまなの帰りを待ち続けているんだ」
先生は遠い目をして話を締めくくった。
「うぇ〜ん。先生にそんな悲しい過去があったなんてぇ〜」
私は涙が止まらない。もう、ハンカチが絞れるほど泣いている。
「しかしな。この話には続きがあってぇ」
「えっ?」
「後々聞いたんだがなんと、俺のファーストキスは親父……院長先生だったらしい」
「はっ?」
「なんでも、俺がガキのころ、あのくそ親父酔っ払って、俺に盛大なディープキスをかましたことがあるんだと」
「いい話で終わってくださいよ、もう」
ほんとこのクサレ教師が。
「なーんてな」
先生が背伸びをしながら立ち上がる。
「俺の作り話は面白かったかなぁ?」
「はぁ?今の話、全部作り話だったんですか!?」
「さて、真相はいかにぃ〜。あっ職員会議があるんだった!やべぇ、教頭に怒られる!」
先生はドタバタ化学教室をでていった―――かと思うとすぐ持ってきて、
「あっここ閉めといて。あと、気をつけて帰れよ。じゃな蝶子」
と、早口で言って去っていった。
ほんとにせわしない人だ。
「ふぅ」
なにはともあれ、先生のしたちょっと不思議な恋物語がほんとであろうとなかろうと、
私が失恋したことには変わりないことで。
「う〜」
その日の夜、私は自分の部屋でちょっぴりヘコみモード。
「やっぱ、あれかなぁ。この丸っこい鼻がいけないかな」
私は鏡を見ながら自分の鼻の出来の悪さに辟易する。
「この鼻がもうちょっとしゅっとしてたら、けっこういけると思うんだけどぉ」
ふう、卒業したら整形でもするかなぁ。
そんなことを考えながら、ふと窓から夜空を見上げると、なんと流れ星が!
「ステキな恋人!ステキなゴミ人!図的なゴミ人……」
って、噛むしぃ。
何よ、図的なゴミ人って!
もう、最悪。
その後の話。先生は、新学期に入る前に学校を辞職し、どこかへふらりと姿を消した。
更に後々、風の噂で耳にしたのだが、先生はめちゃくちゃ美人な奥さんをもらって幸せになったらしい。
ふーんだ。先生なんかよりもめちゃめちゃステキなゴミ人―――もとい、恋人見つけて幸せになってやるんだから!!
(オワレ)