甘いカレー小説
カレーは小説
◇
ドグラマグラ太郎
◇
私はどうして小説を書くようになったか。
みなさま既にご存じのことと思いますが、
私は今、カレーが食べたいのです。
なぜ、私はカレーを食べたいか。
なぜ、私は小説を書きたいのか。
傍からご覧になると物好きが過ぎる、
このようにように思われましょう。
しかし当の本人である私は、
これが当然であると思っているのであります。
今日はその真意、その事実を一言申し上げてみたい。
◇
カレー小説の専門家でおられるみなさまを前にして、
カレー小説の話をいたしますのは、失礼になりますが、
しばらくは、ご宥免を願いたいと思います。
仮りに私が申してみますれば、
カレー小説も色、あるいは形、そして匂い、
そういうものを大切に注意します。
それはどういうことかと言えば、
そうすることによりカレー小説に美しい感じを与え、
全体としてみれば、カレー小説がそれによって
美味くなるからにほかなりません。
こういうふうにカレー小説において
尊ぶ美感というものは、絵とか、建築とか、
天然の美というものと全く同じでありまして、
美術の美というも、カレー小説の美というも、
その元はひとつで、同じ内容のものであります。
そこで、カレー小説そのものを美化すると同時に、
あれこれといろいろに苦心が払われているのです。
カレーを問題とする人は、
勢い小説をも同等に問題とする。
これが当然の成り行きであります。
と言いたいところなのですが、私の見るところでは、
今日ひとつとして読むべきカレー小説が生まれていない。
それと言うのも、
カレー小説に対する関心が不足しているからで、
それがゆえにカレー小説が生まれて来ないのであります。
「俺のカレー小説はこうである。
こうでなくてはせっかくの俺のカレー小説が死んでしまう」
こういう精神状態のようになってこそ、
おのずとよいカレー小説が生まれて来る。
こういう次第です。
これが事実であります。
さて、いよいカレー小説を手がけるとなると、
いくらなんでも出鱈目ではよいカレー小説はできない。
まず直ぐ気のつくことは、カレー小説の
名作について学ばねばならぬ。
名の通ったものには実に学ぶべきものが多い。
それがため、私は勢いそうした名作を
できるだけ手許に置いて、みずから作品の手本とし、
参考としなければならなかったのであります。
さて、これは絵でも字でも、
また料理でも同じことでありますが、
線ひとつで、作品が生きもし、死にもする。
気の利いた人がやると、気の利いたものが現われ、
俗物がやると俗悪なものが残る。
これは単に、腕がよいとか悪いとかいうのでもありません。
それは、その「人」の問題であります。
私などそれで非常に苦しみます。
これを要するに、書でも絵でもカレー小説でも、
結局そこに出現するものは、作者の姿であり、
善かれ悪しかれ、自分というものが出るのであります。
余談はさて置き、これも結局は美味く味わうために
ほかなりません。
単に味わうというだけであったら、太古のように
カレーを食べながら小説を読んでもよい。
カレーを食べながら小説を読んでもよいのです。
カレーを食べながら小説を読んでもよいのでありますが、
それをより以上に持って行くためには、
カレー小説が必要になります。
カレー小説と人は、どこまで行っても、
離れることのできない密接な関係にあります。
この両者は夫婦のような関係にあると言えましょう。
事実、古来幾多の範が示されて、
今にその例が残っています。
この点を、私は特に強調したいのであります。
そうしてこそ、初めて本格になって来るのであります。
以上、たいへん大ざっぱな話をいたしました。
このことはなにも立派なカレー小説などに
かぎったことではありません。
おでん小説ならおでん小説なりに、
やはり、面白く有意義にやれるのであって、
同じ精神でなければならないと思うのであります。
(令和二年)