カエルが9匹 王子様の外出
もしかして……あたしの声って、エーデバルト王子にだけ――というか、父さんの言う『運命のひと』だけにしか分からないように、できていたりするんじゃない?
そうカルラが思い当たったのは、図書館で王太子とローゼティーネ嬢に会った日の夜、眠りにつく寸前のことでした。だからといって、べつに真剣に悩みに悩んで、その時間までかかったわけではありません。
図書館の外で再会した末王子に、すぐその場で相談してみようとも考えたのですが、その前にエーデバルトに王太子たちのことを聞かれてしまったのです。
おかげでつい間近で見たふたりの素敵さや、ローゼティーネ嬢が怒っていたことについて長々と語り、すっかり夕食後まで話す機も悩む機も、仲良く逸してしまっていたのでした。
目を閉じかけながら、カルラはつぶやきました。
「うーん、この仮説が正しいとすると不便だわ」
翌日は、王妃様が隣国に出立する日でした。
エーデバルトは起きてすぐに支度をし、見送りに行きましたが、カルラは離宮に残っていました。
自説を証明するべく召使いたちに、ちょっぴり話かけてみたりしたかったのです。
「……ちょっとそこのひと」
「ぎゃっ、なんつー鳴き声!」という感じで。
実験の結果は予想通りでした。
やはり末王子以外の誰にも通じません。
「間違いないわ」
さらに翌日、青空に向かってカルラは叫びました。
「父さんたら魔法をケチったのよ!」
「……なんの話だい、カエルちゃん」
どこから盗んできたのか謎の、黒い将校服で変装した末王子が、肩に乗せたカルラに視線をよこしました。首をかしげるついでに、すれ違った男性が抱えた巨大魚を、なれた様子でひょいと避けています。
「うーん、あのね……ぎゃ!?」
答えようとしたカルラは、今度は、自分のすぐ横を通過していった酒樽に飛び上がりました。ころげ落ちかけて、すぐ近くにあった漆黒の髪のひとふさに、命綱か何かのようにしがみつきます。
「っちょっと痛いな」
エーデバルトが苦情を言いましたが、ちょっと痛いくらいが何よと無視します。うっかりカエルが酒樽なんかに当たったら、人生(?)終わってしまうに違いありません。
とりあえず、カルラはがっちり髪にしがみついたまま、装飾品のように沈黙することにしました。話は後です。
するすると器用に人混みを縫って、歩いていくエーデバルトに感心しながら、心のなかでひとりごちます。そもそも、こんなところで会話をしようとすることからして、間違ってるのよ。
ふたりがいるのは、王都の大通りでした。
宮殿から港までずっと続くというこの太い石畳の道には、馬車からネズミまで、様々なものが通っていきます。特に今いる場所は、港に近いこともあり、いくつもの露店が軒を連ね、活気が満ち溢れていました。
町に行くと言いだした王子に、ついていくことにしたのはカルラでしたが、この人混みは予想外でした。
確かに、エーデバルトにつぶれるからと言われたため、今日はご婦人に悲鳴をあげられるの覚悟で、上着の中ではなく、肩に乗ることにしたのですが。
アリだってここを通るのは躊躇するに違いないわ!
飛び交う商人の売り声、値切る客の声。何百種類もの物であふれ、何千ものにおいが混じり合っています。どこからか楽器の演奏や歌声も聞こえました。
ちなみにカルラは、変わった飾りだとでも思われているのか、今のところ誰にも悲鳴をあげられてはいません。
「いつもここらへんは賑やかなんだ」
田舎育ちのせいか、人混みに目を回しそうになってきたカルラに、気付いたらしいエーデバルトがいたずらっぽく笑います。
「もうちょっとだから、我慢して」
そのちょっとって、あたしの感覚の「ちょっと」と同じくらい? というどうしようもない質問を、するべきかどうするか悩んでいるうちに、エーデバルトはするりと小径に入っていきます。
結論から言えば、カルラとエーデバルトの「ちょっと」の感覚には、それほど違いはないようでした。
たどり着いたのは、横より縦に長い、木組みの素敵な家でした。いえ、お店でしょうか。吊り看板には『トレーネ館』とあります。
開け放された扉の二段だけの階段に、ひとりの女性が座っていました。
「おやエーディ。来てくれたのかい」
女性がエーデバルトを見て、ひらひらと小さな帽子を持った片手を振りました。むき出しの肩にかかる巻き毛は、見事な赤色をしています。……赤?
どこかで見たことがあるひとだ、とカルラは首をひねりました。どこでだったっけ。
「手伝ってほしいことがあるから、来てくれって言ったのはリヒャルダだろ。こんなところで何してるの」
エーデバルトは、王宮の淑女や貴婦人相手にするような、貴公子らしい笑みではなく、どこか下町育ちの若者っぽい笑顔を浮かべました。
口調も、よほど親しいひとなのでしょう、カエルに対するのと同じくらい砕けています。
リヒャルダは階段の下から、いくつかの小ぶりの帽子と、今までせっせとそれに縫い付けていたらしい、造花や羽根の入った籠を引き寄せて立ち上がります。
貴婦人にしては短い丈の裾から、白いふくらはぎがのぞきました。
「追い出されたてたのさ。手伝ってやるって言ったのに、どいつもこいつも、あたしがいると邪魔だそうでね。――ちょいと、みんな! エーディが来たよ」
最後のセリフは、家の中に向けてです。とたんに「きゃあ」とか「まあっ」とか「ええっ」とか小さな叫び声が聞こえて、上の階のあちこちから、重い物を置いたり、勢いよく走る音などが聞こえてきました。
リヒャルダの後に続いて家の中に入ったエーデバルトは、とたんに五、六人の女性に囲まれてしまいました。一緒に誰かの服に染み込んでいるらしい、きつい香水のようなにおいが漂います。
「すっごく待ってたのよエーディ! 模様替えしようとしたらたいへんなの」
「掃除し続けてもう三日……四日目? お祭りも近いっていうのに、どうにかしてちょうだい」
「手伝うとか言ってブルーノと伯爵夫人が、無駄に手を出してあちこち壊すからもう大惨事」
「もともとは壁紙変えようってだけの話だったの。それがどうしてか、こう面倒なことになったのよぉ」
「壁紙だって、伯爵夫人が寝室の壁に葡萄酒なんかぶちまけるから、張り替えるはめになったのに」
ほうきやらハタキやらを持ち、ほっかむりと前掛けをした女性たちは、口々に言いつのります。階段の手すりからも、「そーよそーよ」と二、三人の女性が顔と口を出していました。
女性たちの年齢はさまざまで、十代後半くらいから、三十代くらいまでいるでしょうか。
「……つまりぼくに、掃除やら修理やらしろって? ぼくなんかより、きみたちのがうまいと思うけどな。テオはどうしたの」
手渡されたハタキをおもしろそうに受け取りながら、エーデバルトは、誰かをさがすように周囲を見回しました。返事は落ち着いた男の人の声で、階段の上から返ってきました。
「ここにいますよ。おれもたいして役に立ちませんがね。上がってらっしゃい、廃墟よりすごいですから」
「そんなにすごいの?」
リヒャルダを除く周囲の女性たちが、いっせいに頷きました。赤毛のリヒャルダのみ、片手で帽子をくるくる回しながら、ヘタな口笛を吹いて、あらぬ方角を見つめています。
ぞうきんを持った女性のひとりが、滑らかにエーデバルトの肩(カルラがいないほうです)に手を置き、ぽってりとした唇を耳朶に寄せました。
「まず、あのかたの寝室の壁が殺人現場みたいな様相なったのが、四日前の夜。ブルーノが壁紙を剥がそうとして壁までぶち破ったのが、おとといの朝。それに驚いて伯爵夫人が熱々の髪コテを放り出し、燃え出した絨毯に水差しに入っていた蒸留酒をぶちまけ、ようやく鎮火したころにはあちこち灰やら水だらけ。その間に慌てたブルーノが近くの部屋から箪笥やらなにやら避難させようとして、扉やら窓やら壁やらと一緒に片っ端から壊してまわり、伯爵夫人は慌てふためくあまりあちこちで物にぶつかり、しまいには香水の棚を倒して瓶を全部割ったわ」
エーデバルトは吹き出しました。
「なるほど。それでシャウエルテ伯爵夫人リヒャルダ殿は、自分の家から追い出されたってわけか」
「帰ってきてからも悪化させてくれたわ」
「もうそれ、悪化しそうなところに近寄らせたほうの責任じゃないかな。まあこれで、おとといのリヒャルダが、茂みの奥で気持ちよく昼寝してたぼくを、うっかり発見するほどヒマだったらしい理由はわかったよ」
その言葉でカルラにもようやく、この赤色の女性をどこで見たのか思い出しました。おとといの宮廷図書館で、エーデバルトと一緒にいたひとではないでしょうか。
伯爵夫人などと、偉そうな肩書きのひとだったとは驚きです。三十代にはなっていそうですから、夫人の名前自体はそれほどおかしくはありませんが。
でも、生粋のお姫様らしいローゼティーネ嬢などと違い、とても庶民的な雰囲気なのに。
「そんなにひどいなら、倹約精神発揮してないで、どこかで本物の職人でも呼んでくるべきじゃないかな。巻き込みたかっただけで、ぼくが役に立つなんて、じつはだれも思っちゃいないんだろ」
笑って言いながらも、上着と手袋を脱いで、カルラと一緒に近くの机の上に置いています。食堂か何かのように、ここには何脚かの円卓が置かれていました。
「さあ、お姐さんたち、そのすごいとこに連れてってよ。あ、リヒャルダはこの子の相手をしてて」
指し示されたカルラに、お姐さんのうち数人が「げっ飾りじゃなかったの」と後じさります。カルラはちょっと傷付きました。気付いたエーデバルトが、指輪のはまった指で、軽くカルラの頭を撫でました。
「大丈夫だよ、ここには悲鳴をあげて倒れるお嬢さんはいないから。カエル嫌いもいないはず。――でも上が言うとおりにすごいなら、危ないだろうから」
ここにいてねと言い置いて。
彼はカルラを残して、前掛けとほっかむりの集団と共に、上階に行ってしまいました。
上からはすぐに、「おや」とか「わあ」とか「これは見事だね」とか感嘆(?)の声が聞こえてきます。
「……感想だけじゃなくて、状況も一緒にしゃべってくれないかしら」
カルラは思わずつぶやきました。「おお」とか「これは」とかだけ聞こえると気になるじゃない。
「あんた、ヤな鳴き声してるねえ」
近くからの失礼なあきれ声に、上階からの声に集中していたカルラは、そういえば自分がひとりで残されたわけではなかったのだと、思い出しました。
視線を動かせば、リヒャルダが腰をかがめて、カルラをじろじろ眺め回しているのが分かりました。品定めをしているような、でもそこそこ好意的な目です。
息子が恋人を連れてきたときのお母さんみたい、とカルラは思いました。そんなお母さんを、実際に見たことがあるわけではありませんでしたが。
噂に聞く、ってやつです。
「カエルちゃんとはまあ、このリヒャルダも盲点だったわ。うっかり子猫ちゃんでも拾って、可愛がりそうな顔だとは思ってたけど。カエルちゃんとはねえ」
結論が出たらしいリヒャルダが、わっかんない趣味だねえ、と妙に感心したように自分にうなずきました。声には親愛らしきものが入っているようでしたが、カルラは密かに厶っとしました。
わっかんない趣味ですって? カエルだって、使い魔ランキング(父選)の十位以内に入っているのに!
しかし、よく考えたら猫は二位でした。魔法使いは猫好きなのです。ちなみに一位は飛竜。カルラは密かに落ち込みました。なんで私カエルなのかしら。
それから
子猫ちゃんとカエルちゃんって……もしかして、王子がカエルちゃん呼びなのは、この人の影響?
どちらも性別を一瞬で判断する特技があるのでしょうか。全部にちゃん付けするのでしょうか。竜ちゃん熊ちゃん狼ちゃんとか――? どことなく弱そうです。そしてオスだった場合はどうするでしょう。
疑問は尽きません。
「あたしカエルちゃんなんて飼ったことないんだけどねえ。なんだっけ、湿らせとくんだったか」
やれやれと、リヒャルダは奥の台所らしい場所に入って行きました。ほどなくしてガラガラッガン! という不吉な音がかすかに聞こえましたが、戻ってきたときには、何事もなかったような顔で、手には木皿を一枚持っていました。皿には水が張られています。
「ほれ、好きに入っていいよ」
カルラはゲコっとお礼を言いました。人間の言葉だと、離宮の召使いたちいわく『まるで地獄から這い出てきた亡者の声』のように聞こえるようですが、つとめてカエルの鳴き声っぽいものを出せば、それなりにそれらしく聞こえることが、昨日の召使い相手の実験で実証済みでしたから。
ぱしゃぱしゃと水遊びを始めたカルラに満足そうにして、リヒャルダは近くの椅子を引きました。
帽子に飾りをつけるのを再開します。
針を持つ手の動きは迷いなく速く、その腕が職人のように確かなことを証明していました。
気が付けば上階からの主な音は、人声から、何か作業しているようなものに変わっていました。
ぱたぱたぱたっと軽い足音が外から駆け込んできたのは、しばらくしてからのことです。
「おーばーさんっ帽子できた?」
外から飛び込んで来た男の子は、息を弾ませながらまあるい頬にえくぼをつくって、そう聞きました。