カエルが8匹 眠たい午後には
カルラは図書館にいました。まるでどこぞのお屋敷に侵入した泥棒のように、誰も見ていないにもかかわらず、こそこそと移動をしています。
よたよたヒョコピョコとカルラが目指す先には、金の髪がありました。いちどだけ振り返って、自分が入ってきた窓を見ましたが、そこまで運んでくれた手の持ち主はもういません。
……ほんとうに、いいのかしら?
いないということは、本人の申告通り黒髪の王子はどこかの茂みの奥で、昨晩の舞踏会(もしくはその後)の疲れを癒やすべく、眠り込んでいるのでしょう。
昼食の時間に帰ってきたエーデバルトは、彼の寝室で食事をとっていたカルラの皿から、いささか行儀悪く肉団子をかっさらい、飲み込みながら寝台に倒れ込みました。
『こんな時間まで、ほったらかしにしてごめん、カエルちゃん。でももう少しだけ許して…………』
確かに疲れているらしく、着替えもせずに目を閉じたエーデバルトは「もう少しだけ」という言葉通り、食べ終わった昼食の皿が下げられてしばらくしたころ、目を覚ましました。
目覚めたエーデバルトは、着替えながら、何かしたいことがないかと聞きました。とはいえ、うまくボタンをはめられず失敗しつづけていた彼は、まだそうとう眠かったに違いありません。
だからカルラは、なんとか再び寝かせようとしたのですが、黒髪の王子様は「そんなわけにはいかないよ」と言って聞きませんでした。きみにわるいもの。
『じゃあ王太子殿下を見に図書館に行く! あたしがウットリしてる間寝てるといいわ』
しばらく押し問答をした末、カルラはそう提案しました。おとといエーデバルトが、王太子殿下は図書館によく通っている、というようなことを言っていたのを思い出したのです。
提案は受け入れられ、ふたりは図書館に向かうことになりました。
しかし、エーデバルトは意外なことに、図書館の中に入ることはしませんでした。
『あとで迎えに来るから、踏まれないように気をつけて行っておいで。すぐそのあたりにいるから、もし何かあったら呼んでね』
開いていた窓から中に入れてくれた彼に、カルラは一緒に行かないのと聞きましたが、エーデバルトはあくびをしながら首を振りました。
『むり、今は女の人を口説く気分じゃないから。きみのお言葉に甘えて、そこらの茂みで熟睡してくるよ』
保護色のような若緑色の上着に包まれた背を見送りながら、意味が分からない、とカルラは思いました。なんで女の人がどうのって話になるのかしら。
きっと眠気のせいで変なことを口走ってるのね、と結論付けて、図書館の中を見回します。少し離れた場所に金の髪が見えました。
王太子の暗い金ではなく、とても淡いローゼティーネ嬢の金色です。ためらいながらも、カルラは光につられる羽虫のように、そちらに向かいだしました。
ローゼティーネ嬢は侍女らしき女性のほか、人のいない一角で、難しげな本を広げ、真剣な表情で読んでいるようです。
どこまで近付いていいかしら。
考えて、カルラはふーふー言いながら、いちばん近くの書棚をよじ登りました。ローゼティーネ嬢の横顔が見える場所です。
ふうん、このひとが王子の婚約者なのね。
自分がカエルなのをいいことに、じろじろと無遠慮見つめました。こんなにも近付いたのは初めてですが、これで顔を見るのは三度目です。
綺麗なひとだわ、とカルラは改めて感心しました。
エーデバルトや王妃様とは、また違った美しさのあるひとでした。あの黒髪の母子の容姿には、どこか甘い糖蜜を思わせるところがありますが、このひとにあるのは涼風のような清々しさです。
カルラは内心で、うぅん、とうなりました。
よく見ると、あたしとほとんど同い年くらいなのに。同年代どころか、同じ生き物とも思えないような、この美しさと雰囲気はどこから湧きでてくるものなの? やっぱり本物の童話のお姫様みたい。
昨夜の舞踏会でエーデバルト王子が、このひとと一曲しか踊らなかったなんて、カルラには信じられません。いったい何が不満だっていうのでしょう。
緑のカエルは、自分に寄せる眉がないのを、とてもとても悔しく思いました。
「……いったい、どこから入ってきたんだ?」
「うぎゃっ!!」
いきなり後ろからつまみ上げられ、のぞき見カルラは思わずカエルらしからぬ悲鳴を上げました。
さらに本当は抗議の言葉を発しようとしたのですが、のぞき込んできた濃紺の瞳に、貝のようにぴったりと口をつぐみます。暴れかけていた手足も、硬直したようにかっちり固まりました。
カルラをつまみ上げていたのは、なんと憧れの王太子殿下だったのです。
「殿下? どうなさったのですか」
エーデバルトが竪琴のしらべと称した美声と、椅子を引く音が小さく響きました。衣擦れの音と共にローゼティーネ嬢が近付いてきます。
「いや、カエルがいただけだ」
王太子によって、ローゼティーネ嬢の目の前に差し出されたカルラは、悲鳴を上げられるのを予想して、ぎゅっと目を閉じました。しかしぷるぷる震えていると、やがて、ふわりと透かし編みの手袋の上に乗せられるのを感じました。
恐る恐る目を開けてみます。
――間近に空の色の瞳がありました。
「赤珊瑚の目ですね、綺麗な子」
摘んできたばかりの紅薔薇の花びらを、そっと一枚くわえたかのような、みずみずしい唇が驚くほど優しく微笑みを形作ります。
ローゼティーネ嬢の柔らかな手に乗せられて、王太子にも覗き込まれ、どぎまぎしてしまいます。
「そうだな。それに普通より大きくて、綺麗な色をしている。もしかしたら珍しい種類なのかもしれない」
「あら、では飼われますか?」
「ふむ……」
髪と目に色素を全部奪われたような、白皙の末王子とは違う、健康的な色のついた指が、ちょんちょんとカルラの頭をなでていきました。剣だこのある硬い手には、手袋もしていません。
王太子の指の一本には、エーデバルトがいつも付けているのに似た、金の指輪がはめられていました。
「いいや、やめておこう。カエルは、幸せをもたらしてくれる生き物だそうだから。閉じ込めたりはしたくない。お前も自由に跳ね回るのがいいだろう?」
ほほえみかけられて、カルラは思わず、かくかくと首を縦に(ただし下に向けてではなく、上に向けて)振ってしまいました。なんだか顔が熱い気がします。
「おや、不思議な色になった。喜んでいるのかな」
「うなずいたようでしたし、まるで言葉がわかるみたいですわね。もしかしたら、どこかの王女様が悪い魔女の呪いで、姿を変えられているのかも」
「王様とか王子様じゃないのか」
「呪われるのが男性ばかりとは限りませんのよ」
照れて妙に暗い色になったカエルは、金色のふたりの会話に、今度は思わずまばたきます。……あれ?
「わたしは泉に落とし物などしていないんだがな」
「むしろ殿下は、誰かが落としたものを、無条件で拾ってきてくださるかたですものね。落ちた子供も助けにいかれる」
「グラナート嬢だって、じつは飛び込むひとだろう」
ローゼティーネ嬢も王太子も、どうやらメルヘンも「いけるくち」のひとのようでした。どちらも、いたずらっぽい目をして、楽しそうに話しています。
……どうしてかしら。
おとぎ話にかかわる話は大好きなカルラでしたが、なんだか不思議でたまりません。脳裏に、魔法も魔法使いの存在もぜんぜん信じていない、どこか軽蔑してすらいるような、真っ黒の双眸が浮かびます。
金色のお姫様と王子様は、おとぎ話を愛しているようなのに。どうして黒色の王子様は、あんな目をするのでしょう。――――どうして、夢みる心を失くしてしまっているのでしょう。
「ん? あれはエーデバルトか」
思い浮かべていた王子の名前を口に出されて、カルラはぴょっと跳び上がりました。見透かされたのかしら、と考えたのですが、そんなはずはありません。
ローゼティーネ嬢と共に、王太子の視線の方向を辿ります。確かに、通路の向こうに、エーデバルトの姿が見えました。次いで赤毛の女性の姿も見え、ひとりではないことが分かります。
眠たくて、女性を口説く気分じゃないと言っていたくせに、いったい何をしているのでしょう。
「まあ。おとといもいらしたようですのに、お珍しいこと。狩場を変えたのかしら」
清々しい涼風のようだった声が、吹雪のように変わりました。ぞっとするような響きです。
王太子もぞっとしたらしく、やや顔を引きつらせて、おそるおそる未来の義妹の顔を見下ろしました。ローゼティーネ嬢は女性にしては背が高いため、長身の王太子でもそこまで下を向く必要がありません。
「いや、あのな、グラナート嬢。あれは」
「何もおっしゃらずとも結構」
亭主の浮気現場を押さえたおかみさんのように、ぴしゃりと婚約者の兄の言い訳を切り捨てます。
「ああいうかただということは、とっくに承知しております。ちゃらちゃらふらふらしてらして、年上好きなのかなんなのかあちこちの未亡人のところを渡り歩き娼館には入りびたり怪しげな者たちと付き合って離宮の使用人にまでどこの誰とも知れぬ者たちを引き入れ女性と見れば口説かずにはいられない! まさしくろくでなしのお手本のようなかたですわよね」
なんで婚約者をやっているのですかと、うっかり聞きたくなるような、嫌悪感丸出しの口調と表情でした。しかし一瞬後には我に返ったのか、ほんのりと顔を赤らめて、申し訳なさそうに眉を下げます。
「ま、あ……わたくし……失礼をいたしました、王太子殿下。つい口がすべりまして」
「いや、謝罪せねばならないのはわたしのほうだ」
弟がすまないと言って王太子は、カルラが乗ったままのローゼティーネ嬢の華奢な手を、下からそっと握りました。
「あなたには感謝している。あの愚かな弟を、それでも見捨てずにいてくれていて、とても嬉しい」
「いえ、その、それは……」
恥ずかしさからか、ぼっとローゼティーネ嬢の頬の赤みが増しました。カルラも王太子殿下の真摯な口調に、うっとり赤面したい感じです。
王太子は弟の婚約者に向かって、ひそやかに、どこか哀しげに言葉を続けました。
「あの末弟は、わたしをうとんでいる。憎んでいるような視線をよこすこともある。――しかし、わたしとあなたは善き友だ。あなたがあれの妃になってくれれば、いつか和解もできるだろうか」
「ですが、わたくしは……」
婚約者の消えた通路の向こうを見て、ローゼティーネ嬢は眉根を寄せました。頬はもとの色に戻り、その瞳は王太子と同じような悲哀を浮かべています。
でも、ローゼティーネ嬢が続けて口を開く前に、我慢できなくなったカルラが割り込みました。
「エーデバルト王子は、王太子殿下のこと、ぜったいに嫌ってなんかいないわ!」
「「え?」」
よっつの瞳が、驚いたようにカルラを見下ろしました。同時に王太子の手が、ローゼティーネ嬢の手から離れていきます。
「……鳴いた」
「鳴きましたわね」
「不気味な鳴き声だな」
「オスなのでしょうか?」
……しゃがれ声でわかんなかったのかしら。
ひそひそと頭上で交わされる会話に、カルラは抗議するようにてしてしと前脚を振って、もう一度声を出しました。
「あたしは、鳴いたんじゃなくて、しゃべったの」
王太子とローゼティーネ嬢は視線を交わします。
「クアーククァークというより、グガーグググウァーグ、って感じですわね」
「亡者の叫びのようだな。夢に出そうだ」
失礼な。カルラは苦情を言い立てましたが、やはりふたりには鳴き声にしか聞こえないようでした。未来の義兄妹は顔を見合わせるばかり。
――聞こえてない?
背筋に悪寒が走りました。いきなり言葉が通じなくなったなんてこと、あるでしょうか。てしてしてし、と前脚で薄い手袋を叩きます。
「もういいわ、帰る、おろして」
ちょうど窓の向こうに、いつの間にか図書館から出たらしいエーデバルトの姿が、ちらりと見えたのです。王子はその一瞬で、カルラに微笑みかけたようでした。
あのひとになら、と思います。
突然通じなくなるなんて、冗談じゃない。エーデバルト王子なら、あたしの言葉をわかってくれるに違いないわ。いつも通り。
「もしかして、外に出たいのでしょうか」
察しのいいローゼティーネ嬢がつぶやきます。
そうそう、とばかりにカルラがうなずくと、「本当に言葉が分かっているみたいだな」と王太子殿下が苦笑して、窓を開けてくれます。
「どこに住んでいるのか知らないが、鳥などに襲われないよう、気をつけて帰るんだぞ」
「またいらっしゃい」
窓枠におろしてもらったカルラは、ゲコっとカエルのようにひとこと返事を返しました。
窓から勢いよく茂みの中につっこみ、勢いがよ過ぎたせいで止まれず、さらに突っ切って枝から落ちかけると、やや厚手の白い手袋が、ひょいとカルラを受け止めてくれました。
「王子!」
「やあカエルちゃん、跳ねる練習かい」
「あたしの言葉わかる!?」
「なに言ってんだい」
黒髪の王子は目をしばたたきました。その表情に、カルラは心から安堵します。彼が続けてこう言ってくれることが、それだけでわかりましたから。
「もちろん、わかるに決まってるだろ」