カエルが6匹 軽薄者のキス
「図書館? それってなに」
さっさと目的地を決めて歩き出したエーデバルトに、ふたたび上着の中に入れられたカルラが聞きます。
「書物を貯め込んで、読ませてくれたり写させてくれたり、貸し出したりしてくれるところ」と王子。
「外には一般に公開されている図書館もあるけど、今ぼくら向かっているのは、学者や貴族にしか立ち入りの許されない宮廷図書館。――王太子殿下は、このくらいの時間になると、よくそこにいらっしゃるんだ」
長兄のことを話すとき、その弟の声には、無垢な少年のような、緑風に似た純粋さがありました。
「宮廷図書館にいらっしゃる理由は、たんに空いているからってだけだよ。王太子殿下は民を愛し、いつも民のことを考えておられる。先日も、陛下にもっと学校を増やすよう進言してらしたそうだし……」
嬉しそうに、そんなことを話します。
立派なひとなんだね、と感心したカルラが心からの相づちを打つと、末王子はちょっと目を見開いてから、自分のことのように誇らしげにうなずきました。
宮廷図書館の白い建物に、エーデバルトが足を踏み入れたとき、上着に隠れたカルラは父親のことを思い出しました。
立ち並ぶ背の高い本棚と少ない窓のおかげで、昼間でも薄暗い宮廷図書館。立ち込める古くなった皮や紙のにおい…………父親の書斎とよく似た、懐かしいような匂いでした。
ただし、家の書斎にあったのは、この図書館のような冷やかな荘厳さではなく、いつだって暖かい陽光と魔法使いの娘の、明るい笑い声や話し声でしたが。
「カエルちゃん」
足音もたてず歩いていたエーデバルトが、ふと周囲を見回し、小さくささやきます。
「黒と金茶、どっちか好き?」
質問の意図はまったくわかりませんでしたが、厳粛な雰囲気に気圧されていたカルラは、真面目に金茶と答えました。エーデバルトも「わかった」と重々しく頷きます。そして一架の本棚の前で、高いところにあるらしき本に手を伸ばす、小柄な若い女性にまっすぐに近付いて行きました。
「奥の窓のほうを見てごらん」
ひと言カルラに言い残して、エーデバルトは女性の横に立ち、すっと本を抜き取って彼女に手渡します。甘い微笑の気配がしました。
「どうぞ、お嬢さん」
「あ……ありがとう存じます、殿下」
顔を赤らめる女性の髪は、金茶。そのまま女性と小声で話しだした王子に、カルラはあぜんとしました。砂糖の大盤振る舞いです。歯が浮いて空を飛んでいってしまいそうなセリフしか言っていません。
もしや黒というのも、黒髪の女性なのだろうかと思わず見回しましたが、書架にさえぎられて見つけることはできませんでした。しかし、その代わり。
「…………す……わ」
「……な………だ」
窓から零れる陽光の中に、そこだけ別世界から切り取られてきたかのような、金色の空間がありました。明るく淡い金と暗く濃い金。――金の髪。
エーデバルトの婚約者であるローゼティーネ嬢と、王太子殿下が立ち話をしていました。カルラが見とれずにはいられない、童話の中の王子様と王女様のようなふたりです。
うっとりと見とれ、こういうのが眼福っていうのね、とカルラは密かにひとりでにまにましました。
すてき……。
しかし彼らは、せっかく置いてある椅子に座ることはなく、やがてお互いにお辞儀をして、それぞれお付きの人を連れて立ち去ってしまったのでした。
「あーあ……」
見えなくなった二種類の金髪に、失望のため息をもらしたときです。ふと今までしゃべりっぱなしだったエーデバルトが前かがみになるのを感じ、カルラはうっかりボタンから足を滑らせました。
ずるずるとベルトの上まで沈み込み、なんとか再びもとの場所までよじ登ったときには、もうエーデバルトは姿勢を戻していて、金茶の髪の女性に別れを告げているところでした。
「じゃあ明日、楽しみにしてる。きみみたいな可憐な女性は、どんな男だって誘わずにはいられないものだけど、どうかぼくのことも忘れないで」
「……は、はい……エーデバルト様……」
カルラは女性のうっとりと赤くなった顔を見上げて首をかしげ、歩きだしたエーデバルトにこそっと聞きました。
「何したの?」
「キスだよ」
「ふぅん、キスね。……キスぅ!?」
なにしてるのこのひと! 思わず半眼になります。
「…………ローゼティーネ嬢がいたわよ」
「そうだね。兄上もいたろ、ちゃんと見えた?」
「うん。素敵だった。………ってそうじゃくて。キスって、なに。なんで」
「あのお嬢さんがして欲しそうだったから」
「して欲しそうだったからって」
カルラは混乱してきました。
「え、なに、あのひとあなたの恋人なの?」
「まさか。ほぼ初対面だよ」
「そ、そうなの」
もしや都の常識は自分の常識とは違うのだろうか、と悩みだしたカエルに、くすくす笑いながら、黒髪の王子は図書館の扉を開けて外に出ました。
「あのお嬢さんとは、明日の舞踏会で一曲踊ってくださいって約束をしただけ。キスはおまけかな。結婚前のお嬢さんにそれ以上のことなんてしないよ」
言いながら、カルラを懐から出して肩に乗せます。
「ぼくだってちゃんと相手は選ぶからね」
相手だけでなく行動も選ぶべきでは。先日婚約者に悪いからと、頭にキスしてもらったカルラの気遣いは、いったいなんだったのでしょう。
「…………王太子殿下も、簡単に誰かとキスするの」
「いいや、しないよ。しない。高潔なかただから」
「あなたは?」
「ぼくが高潔そうに見えるのかい、カエルちゃん」
緑のカエルにさぐるようにじっと見つめられても、エーデバルトは柔らかく微笑むだけでした。
だから高潔がどんな感じなのか、いまいちよくわからないカルラは「じゃあべつに、誰彼構わず簡単にキスするのが常識ってわけじゃないのね」とまで安心しきることはできなかったのです。
でも、少なくとも自分はこのひとよりはまだ、王太子殿下とのほうが気が合いそう、とほっとすることはできました。
「ねえ王子」
「ん、なんだい」
「王太子殿下とローゼティーネ嬢がいっしょにいたとき、空気が金色に染まってるみたいに見えたの。とっても綺麗だったわ」
「そうだね。……ぼくもそう思ったよ」
カルラの背中を指先で撫でながら、エーデバルトが別の庭に続いているらしい木戸を開けました。どこに行くのと聞けば、散歩、と返ってきます。
「夕食の時間までひまだからね。案内してあげるよ、カエルちゃん。王の庭園っていうのは、その気になれば一日で世界中の花が見られる場所なんだ」
そうして王子はふたたび歩きだし、夕食の時間になって離宮に戻るまで、カルラとたわいない話をしながら、ほとんど休みなく歩き続けたのでした。
よく運動すれば、お腹がすくものです。
ほとんど肩に乗っていただけのカルラも、離宮にもどるころには、お腹がぺこぺこになっていました。
エーデバルトはなんと、あらかじめ、夕食をふたり分用意するようにと言っておいたらしく、晩餐室の長い食卓の端と端には、それぞれ銀の食器と豪華な料理が並べられていました。
その食欲をそそる匂いに、思わず歓声を上げそうになったカルラでしたが、周囲に給仕のための召使いたちがいることを思い出し、ぐっとこらえます。でも、そんな必要はなかったもしれません。
「さ、食べよう」
にっこりと笑う王子に食器の前におろしてもらったカルラが、食器を使わず(当然ですが)もぐもぐと皿に直接口をつけて食べ始めても、ほとんどの召使いたちは、無言無表情を貫き通していたのですから。
しかし、中には例外もいて、ひっ、とか、ぎゃっとか小さな悲鳴をもらして、部屋から駆け出していった者たちもいました。ただ幸いなことに、カルラは食べることに夢中で、ちっとも気がついてはいません。
エーデバルトは優雅に食事を口に運びながら、笑顔でカルラを見ています。そっと近付いてきた家令にも、変わらぬ微笑みを向けました。
「かわいいだろ、あのカエルちゃん。しばらく客人としてぼくの部屋に滞在するから、そのつもりでね」
「承知いたしました。……しかし」
「うん、怖がってる者たちには、なるべくカエルちゃんに関わらない仕事を与えてあげて。それで咎めることはしないように」
「はい殿下。ありがとう存じます」
頭を下げて戻っていく家令から、エーデバルトは食卓の向こう側にいるカエルのほうに視線を戻しました。そして、そこにスープ皿のふちから足を滑らせ、じゃがいもの上を跳ね回るはめになった緑色の姿を見つけ、思わず吹き出したのでした。
その夜、ヒュプシュ国の第三王子の寝室からは、しゃがれ声の不気味な歌声が響いていました。
「いっしょに水浴び いっしょに水浴び
王様のいちばん下の王子様
私が食事をしたときに
私が苦労をしたときに
笑ったじゃない 笑ったじゃない
いちばん下の王子様」
スープまみれになったカルラが、深皿に入り、じゃばじゃばと水差しの水を注がれながら、ふてくされてそう歌っていました。
服の袖をまくり、片腕に銅製の水差しを抱えたエーデバルトは、もう片ほうの手でカルラの体を洗いながら、苦笑しています。
「ごめんねカエルちゃん。あまりにも見事な飛び込みと飛び跳ねだったものだから」
「うん、べつに助けてくれてもよかったのよ」
「きみがおぼれでもしたら助けるつもりだったよ。あれ冷製だったから、やけどはしなかっただろ」
エーデバルトは一旦カルラを布を敷いたひざの上に移し、汚れた水を窓から捨てながら、たしかにカルラに怪我がないかさっと確認します。見たところ、つやつや緑色のカエルはまったくの無傷のようでした。
「それにしても、目だけじゃなく皮膚も宝石みたいで綺麗だね。ぬめぬめもしてないし、きみが本当に特別なカエルちゃんだってことが分かるよ。……なぜかほとんど肺呼吸だけで生きてるみたいだし」
むすっとしたままのカルラは、褒められても、素直にお礼を言う気になれません。
「許してよ、カエルちゃん。明日の舞踏会に行ったら、なにか君の好きそうなものをくすねてくるから」
ふたたび深皿にカルラを入れ、新しい水を注ぎながら、黒い目の王子は、まあるい金の目を覗き込みながらなだめます。
「舞踏会って、一緒に行っちゃいけないの」
「夕食の後からだから、眠くなるよ」
「でも王太子殿下も来るんでしょ」
「うん。盛装してね。素敵だよ」
「じゃあ行く」
「そう?」
エーデバルトはちょっと首をかしげただけで、水差しをおろし、伸びをしました。
「じゃあ一緒に行こう。きみがいれば、ああいうところも、ちょっとは楽しいかもしれないしね」