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夢無し王子のカエル姫  作者: 水月 裏々
二十年前
34/37

4 いく年もたって

 さて、それから、二十回目の春が過ぎ、夏が来て、秋に手がとどきそうになるころ。真夜中姫はまれにそうするように、たったひとりでかの泉の庭に向かいました。

 夜のことでした。月は消えそうに細く、星は天を埋め尽くすかのようでした。姫の手に角灯はなく、木々に囲まれた小道にも灯りはありません。

 泉に行くときはいつも、真夜中姫はそんな場所ばかりを選んで通って行きました。そしてたどり着いた後は、何をするでもなく泉のほとりに腰をおろして、長い夜のうちの、ほんの少しの時間を過ごすのです。

 しかしこの夜は、なにかが違っていました。

 真夜中姫は、かの庭に続く木戸の手前に月を見たような気がして、少し手前で足を止めました。陰になり闇に沈むその場所で、明るい色が見えるはずもないのに。

 でも誰かがいるのは確かなようです。

 姫は目を丸くして、まじまじとその人影を見つめました。気配を感じたのか、月色の人影が振り返りました。

「真夜中姫」と王様はひそめた声を驚きをのせてから、彼女が何かを言う前に、静かにというしぐさをしました。


「こちらへ」


 王様が言ったので、真夜中姫は黙ったまま近寄りました。木戸は開いており、星明かりに照らされて、夜の庭と奥の泉の様子がかすかに見て取れました。姫はふたたび、驚愕に目を見開かねばなりませんでした。泉のほとりには、すでに先客がいたのです。

 大理石のように星々に、ほのかに白く照らされている仕立ての良いドレスシャツと、どこか異国風の雰囲気のある横顔。加えて、彫像のように動くことなく地面に座る彼は、夜そのものの髪をしていました。


「エーデバルト……」


 真夜中姫が末息子の名を小さくつぶやくと、同じ方向を見ている王様がうなずきました。


「わたしは十五分前からここにいるのだが、あの子はずっとああしているな。夜釣りをしているわけでもなかろうに」

「どうしたのかしら」


 コルネリアみたい、と真夜中姫はつぶやきます。泉の向こうに焦がれて焦がれて、ついに行ってしまったいちばんの友だち。

 でも末王子の横顔は、それを想い心配するには、あまりにも真夜中姫に似すぎていました。神秘的な力を動かそうとしているのではなく、いなくなってしまった大切なひとを、一心に待っている表情に見えるのです。姫や王様が声を潜めなくとも、聞こえやしないような雰囲気でした。

 真夜中姫の友だちは、一度だって戻ってくることはありませんでしたが。


 ――あの王子は、いったい誰を待っているというのでしょう? それとも実際は、誰のことも待っていやしないのでしょうか。


 開きっぱなしの木戸の横に立つ王様は、だまって末王子のいる庭をながめていました。だからそのとなりに立つ真夜中姫も、やっぱりそうすることにしました。本当は息子に声をかけて、誰を待っているのか聞いてみたいとも思ったのですが。

 泉の庭は暗く、絶えずかすかに水音がしていて、そのせいでよけいに静かでした。星を散りばめた夜空にふたをされ、庭はまるで夜のつり鐘の中に閉ざされた、ひとつの小さな世界のようでした。

 天を埋め尽くす星々は、きっと泉の水面にも自らの姿を映し、刻んでいるのでしょう。姫にとっての闇夜の星は、いつもこう歌っているようでした。


 ――いずれ太陽が顔を出したら、あふれる光に私たちは追いやられてしまうけれど。どうか私たちを、夜を忘れてしまわないで。沈んだ日を惜しみ、昇る日ばかりを恋わないで。


 そんなささやきが聴こえているのかいないのか、夜に包まれた夜そのものの末王子は、じっと泉に視線を向けて座っていました。

 と、ふいに下方から明るい光がその白皙の横顔にあたり、夢のように浮かび上がらせました。光は金の色をしており、泉から発せられているようでした。

 最初細くポゥと周囲を照らし出した円柱型の光は、見る間にどんどん太さと輝きを増していきました。そして、やがてバシャンという激しい水音とともに、唐突に消え去ったのです。無言で見ていたエーデバルト王子が、水音に弾かれたように動きました。

 激しく音をたてている水面に両腕をつっこみます。水中に現れた何かを、ためらうことなく引っぱり上げました。


「がぼっ!」


 しばらくは引き揚げられた人影が、はげしく咳き込む音だけがひびきました。やがてだんだんと治まってゆき、けれど恥ずかしかったのか、何やらわざとらしい咳が続きます。ぜーはー本気で息を切らせながら。


「げ、げーほげほげほげほげほ」


 王子はそれにひとまずほっとした様子で、彼女を抱き寄せましたが、笑った様子はありませんでした。


「……きみ、泳げなかったのかい」

「げほげほげほ!」

「そうだね、ごめん。突然水の中に出されたら、上も下もわからなくなって当然だね」

「げほ、げほごほっ」

「うん。だけどどうして水の中だったんだい」

「ごほげほごほ」

「井戸? ふうん、いろいろあるんだね。でも二度とその道は使っちゃだめだよ」

「げほげほ!」


 おそろしいことに、末王子は咳語がわかるようでした。どうやって修得したというのでしょう。咳娘もいいかげん、キッとばかりに顔を上げました。


「なんでわかるのよ!」

「愛かな。……テオは?」

「もう一泊するって。父さんとテオって一緒に置いといても、全然楽しそうに見えないんだけど、あれであのひとたちなりに楽しんでるのかしら。……ってちょっと待って、愛ってナニ」


 愛で謎の言語を理解できるようになるのなら、世界を救うぐらい確かにできそうです。


「恋は?」

「きみと目が合うたびに落ちてるよ」

「まばたきの前後で別の恋!?」

「きみを見ているときは、一瞬だって目を閉じたりなんかしたくないって、いつも思っているんだよ」

「…………あのね……寒くない?」

「びしょ濡れだからだよ。かぜをひく」

「そうじゃない! いえまあ、たしかにあたしはびしょ濡れだけど……って王子も濡れるじゃない。この前もこんなことなかった? ああ、ほら水がしみてる。離してよ」


 王子の胸に手をついて、体を引きはがす咳娘。王子はそれを引き戻しながら立ち上がりました。


「離宮に戻ろうか。着替えないと」

「じゃあ離してってば。歩きにくいでしょ」

「いやだ」


 しばらく体を離そうとする娘と抱き寄せる王子の間で、無言の争いが起こりました。とうとう腕力で負けそうになった娘が、はたと気付いたように王子の顔を見上げます。


「待って、やけに力入ってるけど、もしかしてあなた怒ってるんじゃ……」

「まさか。心配していただけだよ。きみ、夕方には帰るって言ってたじゃないか」


 それが夜中に帰ってきたあげく、出てきた瞬間溺れかけたとは、心配のあまり怒っていても、当然のことのような気もしますが。


「魔法の道で迷ってたのよ! 父さんたらまた増やしたらしくて、井戸の中に扉が十三。ど真ん中に突撃したら、三兄弟なブタが狼とレンガ吹き選手権で対決中で……卑怯にも三対一よ……仕方がないから狼に味方したの……お腹空いてたし……でも吹いても吹いても動かなくて……」


 それは大変だったねと末王子。


「部屋に食事がとってあるよ」

「えっほんと?」

「冷めちゃったけどね」

「……やっぱり怒ってるでしょ」

「うしろめたいと思ってるのかい」

「ぐ……ちょっぴり……ごめんなさい」


 娘がうなだれるのと同時に、王子の明るい笑い声が夜の庭にひびきました。「いいよ。きみは戻ってきてくれたからね」と一度強く抱きしめて。彼らは、離宮への近道らしい茂みをかき分けて、その向こうに消えていってしまいました。

 あれほど星々の下、夜の中に溶け込んでいた末の王子は、星にも月にも庭にも、つゆほども未練を感じていないようでした。ちょうど朝に太陽を手に入れた空が、あっけなく夜を忘れ去ってしまうみたいに。


 王子と娘の気配が遠ざかり、庭に静けさが戻ってきても、木戸の向こうに隠れたふたりは、息をひそめたままでした。しばらく動きもしなければ、なにかを言いもしなかったのです。

 ようやく動き出したのは、どちらも、口よりも足が先でした。ふたりは木戸と奥の庭と泉に背を向けて、同時に来た道を引き返しはじめたのです。歩きながら、先に口を開いたのは真夜中姫のほうでした。陛下、と王様に声をかけます。


「陛下はどうしてここに?」

「あなたを探していたんだよ。月が消えそうになると、姫は夜の散歩をするようだからね」


 ついさっきまで見ていた末息子についての話題でなくとも、王様は気にしませんでした。前を見たまま、ちょっと首をかたむけます。


「だけど、どうして月のない夜じゃないんだい。いつもこんな細い月が出ている」

「こんな夜が、いちばん闇と月が近いような気がするからです。それにとても綺麗ですもの。……満月は、明るすぎて、まぶしくて、近寄りがたいのです」


 ふうんとつぶやいた王様は、いくらか意外そうな表情をしていました。


「姫は月より太陽が好きなんだと思っていたよ」

「月のほうが好きです。夜のものですもの」


 あの子は太陽のほうが好きそうですけれど、と真夜中姫が付け足せば、王様は「そうかもしれない」とうなずきました。


「わたしは月のない夜が好きだけれどね」


 それ以上は、どちらも何も言いませんでした。

 真夜中姫と王様は、夜の小道を並んで歩いて行きました。見つめ合うことも腕を組むこともしませんでしたが、同じ歩調で――ずっと。



 誰もいなくなったあとも、泉は変わらずとろりと闇を映して深い水面に、きらきらと月と星々の影を優しくたゆたわせていました。

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