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カエルが28匹 ウソの終わり

「ごめん」


 怒りと自責をないまぜにしたような、ひと言だけのささやき。抱きしめられたのが先だったのか、ささやかれたのが先だったのか。どちらにせよ、それは一瞬だけのことでした。

 一瞬後には、エーデバルトはカルラを突き飛ばすようにして、幹の向こうに押しやりました。代わりのように自らは一本前に進み出て。


「王太子殿下」と長兄を呼びました。

「なんだ」と答える声には動揺がにじんでいます。


 エーデバルトに前に立たれたカルラには、どちらの表情も見えません。しかし、エーデバルトがきつくこぶしを握ったのは見えました。彼は言いました。


「ぼくはあなたが嫌いです」


 怒りと憎しみを込めた声でしたが、そのどちらも長兄に向けられたものではありませんでした。先ほどとは違う、自分自身を呪う声です。カルラにはそれがわかりました。うそつき。でも……さっきのは? あの怒りは誰に向けられていたものだったの。

 ブルーノ? 考え、否定します。


 ――そうよ、違う。彼が出てくる前からだったじゃない。王子はなにを、誰に……それに、いつから……怒っていたの。


 前にいるエーデバルトは、王太子に向かって「あなたがいると自分に王位が回ってこない」だの「目ざわり」だのと、バカバカしいうそを並べ立てています。

 ふいに中のひとつが、他のものと同じく耳を素通りしていくふりをして、直接カルラの脳に体当たりを食らわせました。その会話だけいやにくっきりはっきり耳に残ります。


「それから――そう、ぼくの婚約者を奪いましたね。ぼくの女性への態度については、いろいろおっしゃっておきながら、ご自分でその弟の婚約者を寝取るとはすばらしい」

「ねと……いっいや寝取ってはいないぞ」

「ローゼはなかなか美しいから気に入っていたんですがね。王太子妃の座を狙っていたとは驚きです。まあ清廉そうな顔をして、じつはしたたかな尻軽というのもそそりますけれど」

「なんだと」

「ああ、もちろんローゼは差し上げます。ついでに何人かおまけにお譲りいたしましょうか?」


 王太子が弟の言葉に、憤然として近付いてくるのを感じましたが、カルラが震えたのはその荒々しい足音にではありませんでした。それから、エーデバルトが兄に容赦なく一発殴られたからでも。

 いえ、実際にはそれにも驚いて立ちすくみながら、それよりも大きな衝撃に震えたのです。顔はよろめいた王子に向けて動かせずにいるまま、カルラは瞳だけを動かしました。

 交互に見比べたのは、よろめきながらも踏みとどまった第三王子のい黒髪と、木の幹と人びとの向こうにかすかに見える、ローゼティーネ嬢の淡い金髪。

 カルラは「そうだったんだ」とつぶやきました。


『あなたはとても大切なひとなのだから』という真摯な声が、『理想のひと』という声と連れ立って、頭の中を駆け回ります。ハエのようにぶんぶん飛び回るのは、彼が婚約者を呼ぶローゼという音の連なり。


 なんてことはない、すでにわかっていたことのはずです。魔法使いも、王子がとうの昔に自らの運命を見出しているのだと、言っていたではありませんか。


 ――――この王子は自分を初めて怒らせた娘と結婚するだろう――――


 そうです。王子は予言された通り、運命のひとに怒っていたのに違いありませんでした。王太子と婚約者の姿を見て、樹上にいたときから怒り続けていたのでしょう。その、運命の女性の裏切りに。

 裏切り! カルラはまた身震いしました。

 ああ、なんてこと。予言の内容が『結婚』でさえなければ、もうちょっと何かあるかもしれないけど。

 婚約者は運命によって結婚を定められたはずの女性で、でも彼女は尊敬する兄と両思いで……なんて来られるともうドロドロな予感しかしません。

 ううん、そんなことより。


 王子はあのひとを愛しているのに。


 彼が怒ったのならば、もうそれに間違いはありません。彼はどうするのでしょうか。王太子殿下に運命をゆずって、その後ひとり寂しく生きていくつもりなのでしょうか。ブルーノの言ったことを否定し、ありもしない罪を着て牢獄の中で。予言に逆らって。

 まだ長いはずの、残りの人生を。


「エーデバルト!」


 せっぱつまったような王太子の声と、金属音が耳を打ち、カルラは思考のふちから引っ張り上げられました。いつのまにか、すぐ目の前、五歩程度しか離れていない場所で、金髪と黒髪の兄弟が剣を打ち交わしていました。

 剣光がひらめき、流れ星のようなきらめきが、王子たちを飾るように宙に華麗に散りました。

 殴っただけで弟を捕らえない兄に、エーデバルトがしびれを切らして襲いかかったのでしょうか。

 見ていると、どうもそのようでした。

 英雄が悪者と剣を交えたり、姫君を巡って決闘したりなどは物語のおいしいところですが、この場合はどちらでしょう。ローゼティーネ嬢を巡っての……? というより、たんに兄弟ゲンカというのかもしれません。

 なんにせよ、切りかかられている王太子のほうは、明らかに困惑していました。


「おまえ……なぜ……」

「あなたが憎いからですよ、当然でしょう」

「そういうことじゃない、わ、待てエーデバルト」


 ふられてヤケになっているとしても、兄弟げんかに刃物を持ち出すのは危険です。いいえ、夫婦げんかでも酔っ払いのけんかでも、何げんかでも刃物はいけません。暴力もだめ。

 かといって止めようと、うかつに声をかけるわけにもいきませんでした。それこそ狙いがそれて、どちらかが怪我をしたらたいへんです。


 け、ケガですんだらいいほうだわ。


 剣戟の音と刃のきらめきに、カルラはどう止めればいいのか思案もできません。冷や汗をかき、手にも汗を握ってハラハラしているうちに勝負はつきました。叩き落とされた剣が、木々のあいだから射し込む陽光にひときわ強く輝き、すぐに光を喪いました。

 ぽた、と赤い血が一滴地に落ちます。


「殿下!」


 叫んだのはローゼティーネ嬢でしたが、駆け寄ったのが早かったのは近くにいたカルラでした。

 おたがい呆然としている兄弟の間に割り込み、武器を失ったほうの王子の頭に手を伸ばして、闇色の髪を無遠慮にわしずかみます。

 そのまま自分が頭を下げるのに合わせて、エーデバルトの頭を前に押しやりました。


「ごめんなさい!」


 うちの子が、と前につかないのが不思議なほどの謝りっぷりでした。魔女殿の頭に剣先が触れそうになった王太子が、慌てて自分の剣を引きます。

 その腕をローゼティーネ嬢が引き寄せて、半ば無理矢理ハンカチーフシュトッフタッシェントゥーフを当てました。

「大丈夫、かすり傷だ」と王太子が蒼白な顔のローゼティーネ嬢に言ったのは、格好をつけたわけではなく事実のようでした。「だが、ありがとう」ハンカチを受け取って剣を鞘におさめます。

 王太子は頭を下げているふたりに向き直り、まずカルラに苦笑しました。


「魔女殿、あなたが謝る理由はなにもないだろう。頭を上げてくれ」


 そして顔を上げたふたりのうち、背の高いほうを見やって、少し逡巡するような素振りを見せました。結論が出たというよりは、ちいさな子猫に触れるような態度で、おそるおそる末弟に声をかけます。


「ええと……ほらエーデバルト、この通りわたしはかすり傷だから安心しろ」

「安心?」


 エーデバルトは、皮肉げに見せようとしているらしい、笑みともいえない笑みを浮かべました。


「どういう意味です。それじゃ、まるでぼくが心配でもしてるみたいじゃないだ。ぼくはあなたが軽傷で残念がりはしても、安心したりはしませんよ」


 言いつつもエーデバルトの白い頬は、カルラの見たところ、いつもより血の気を失っているようでした。もとが白いために、もはや生者の色合いではありません。指で弾いたら磁器と同じ音がしそうです。

 とにかく反抗期みたいなウソをつくのは、かなりきびしい顔色でした。かすり傷だろうとなんだろうと、敬愛する兄に血を流させてしまったことが、彼にはずいぶんこたえたようでした。

 それでも素直にならないエーデバルトに、カルラはあきれましたが、王太子ももうだまされはしませんでした。刃を向けたことをさらなる口実に、自分を捕らえるようせまる弟の要望を、迷わずしりぞけます。


「あのな、エーデバルト」


 地に転がっている弟の剣を拾ってやりながら、王太子が表情を引き締めて、生真面目に言いました。


「もしかすると、わたしたちは話し合うべきなのかもしれない、という気がしないか」


 エーデバルトは自分の剣を受け取らず、兄の視線を受け止めかねるようにそっぽを向きました。


「なにをです?」

「いろいろと。わたしは誤解していたのだろう」

「なにをです」

「剣、いい腕だな。近衛の中でもお前に勝てる者はそうはいまい。それに……殺気がなかった。憎しみも」


 あまりにまっすぐで、後悔に満ちていて、優しい声でした。エーデバルトがそれ以上うそを吐くことができなくなる、尊敬する長兄らしい声でした。

 黒髪の王子は目を伏せかけ、自分の視線の先に、珊瑚色の目があるのにようやく気付いて瞠目しました。彼はそっぽを向いたつもりで、カルラのいるほうを向いていたのです。

 カルラは何も言いませんでした。

 この場にいるその他大勢と同じく、こういうとき、口をはさむべきではないと知っていたからです。先ほど手と口を出してしまったのはうっかりです。


 ――そう、うっかり……あんまり王子がつらそうな顔をしていたものだから。


 つらそうに見えるのは、今も一緒でした。

 真っ白な顔と、わずかにだけ寄せられた眉。昼間でも光のささない常夜の瞳。……なんで。


 どうしてこのひとは意地を張って、王太子殿下をきらいなふりをするのかしら。意地を張る必要ってなにかしら、なんでたくさんうそをつくのかしら。


 疑問をぜんぶ瞳に込めて、真っ黒い目を見上げました。ねえ、どうしてなのよ? おどろいたことに、黒い目の持ち主はちょっと笑いました。

 白い手が伸びてきて、緑の髪に指先でかすかに触れるようにして、すぐに離れます。きれいな指は、握ったこぶしの内側にしまい込まれました。

 王太子に向き直ったとき、エーデバルトの顔からはつらそうな影が払い落とされていました。代わりとばかりに、不真面目そのものの笑みが貼り付けられています。


「あーあ、バレちゃったのならしかたないかな」


 彼は急に開き直った悪党よろしく言いました。悪役ならば、この後に「いかにも自分は黒幕である」というようなことを話しだせば完璧です。

 しかしエーデバルトは肩をすくめただけで、大胆不敵にもそのセリフを省略しました。


「でも、殺気はなかったっておっしゃいましたけど、ぼくは本気だったんですよ」

「当然だ。そうでなくては、わたしに傷を負わせられるはずがない。今度あらためて勝負してくれ」


 黒い瞳が少年のような素直な喜びに輝いたのは、半瞬にも満たぬあいだだけのことでした。ほどなく瞳の色は星夜から、変わらぬ闇夜に沈みます。


「……むりですよ。ぼくがそこの侯爵たちと、あなたをおとしいれようとしたのは事実です。たぶん王位継承権を剥奪され、どこかに幽閉ということになるでしょう」


 夜の明け初めのような色の瞳をした王太子は、それをしばし宙にむけました。言葉を探すように、左右の手で交互に剣を持ち替えています。


「――お前は王になりたいか?」

「いいえ、むいていませんから」

「そうか。わたしもだ」


 王太子はしかつめらしくうなずきました。


「なのにわたしは引き受けるんだ。お前は今まで好き勝手した、わたしは今後も好き勝手できない。だから今回ばかりは好きにさせてもらう。苦情はあとで言うように」


 は、と珍しくあっけにとられるエーデバルトに、今度こそ剣を弟の手に握らせると、王太子はきびすを返しました。

 ローゼティーネの手を取りながら、部下たちに捕らえた者たちを、馬車へ詰め込むようにと指示を出しています。乗り物を追い出された王女様と少年公爵は、とくにもんくも言わず仲良く馬に相乗りし、王太子は弟のもと婚約者である恋人を馬に乗せていました。


「では、わたしは仕事があるので先に戻る。人の多いところを通るつもりなら、スリやヒッタクリなどという不思議な妖精が出るらしいから、気をつけて帰ってくるんだぞ」

「ぼくは逃げるかもしれませんよ」

「行くところがあるのか」

「……いいえ」


 王太子は笑いました。


「わたしもだ。だから城でまた会おう。そのうち父上からの呼び出しがあるだろうが、心配するな。では魔女殿も、また。弟をよろしく頼む」


 空き地を占領していた人びとは去って行き、しばらくすると、森はもと通りの静寂につつまれました。鳥が歌い、風に梢がさらさらなるのが聞こえてきます。

 後ろ手に縛られたまま、おいて行かれたブルーノが「スリもひったくりも妖精じゃねえよな」といまさら言いましたが、うなずいたのはカルラだけでした。

 エーデバルトはブルーノをまるきり無視して、ひとつ息を吐くとカルラに向き直りました。柔らかいながらも、どこか心ここにあらずのような、ぎこちなさのある笑顔を浮かべて。


「よくわかんない事態になっちゃったけど。じゃあ帰ろうか、カエルちゃん?」


 カエルちゃん、と呼ばれるとカルラも表情の選択に迷いました。迷って、それから、ただ「そうね」と自分よりよほど白い手をとったのでした。

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