カエルが26匹 運命を見おろし……
隣国からの大切な客人であるはずの王女様と、自分の婚約者が危ない目に合うかもしれない日だというのに、エーデバルトは余裕しゃくしゃくでした。
少なくともはた目にはそう見えました。
慌てることなく冷めた朝食を食べきったあと。彼は部屋の中のものを見て回ったり、床に散らばっていた贈り物たちを、のんびり片付けたりしていたのです。
ようやく行く気になったとき、エーデバルトは一度伸びをしてから、困ったように首をかたむけてカルラの顔を見ました。
「……やっぱりきみも行くのかい」
「とうぜん」
「危ないかもしれないよ」
「じゃ、やっぱり助けに入るの?」
「いいや。高みの見物のつもり」
カエルを連れた王子は、質素な服の上に飾り気のない薄い外套をまといました。用心のためか、いちおう剣も持って徒歩でお城を抜け出します。
途中、街で昼食らしい食べ物を買い込んで向かったのは、都の外れの明るい森の入り口でした。
「ここは狩猟用の森だよ。最近はあまり使われないところだけど……」
エーデバルトは木立のあいだの、少し開けたところで立ち止まりました。きょろきょろとあたりを見回して、ここかなと小さく首をかしげます。
なんのこととカルラが聞くより早く、エーデバルトは肩から下げた布のかばんを軽く叩きました。中で食べ物をつまみ食いしていたカルラに「ちょっと気をつけてね、揺れるから」と声をかけてきます。
そうしてやはり返事も待たずに、近くのひときわ高い木の幹に手をかけ、あろうことか、リスのようにするすると登り始めたのでした。
「あんたってじつは王さまじゃなくて、木こりとかの子なんじゃないの……」
またたくまに登りきって、枝に座り込んだエーデバルトに、かばんから顔を出したカルラが呆然としました。ご先祖なら木こりだったかもね、と手袋をはたきながらの返事が返ってきます。
「ここで待っていれば、そのうちいろいろ来るはずだよ。なかなか悪くはない場所じゃないかい。ひとが来たら静かにしていなくちゃいけないけどね」
「見つかると危険?」
「ぼくはね」
「……ふうん」
白い指がかばんを探って、唯一小さな歯型のついていない、魚の燻製を抜き出していきました。
「ねえ王子、悪いひとたちはいつ来るの」
「悪いって決めつけるのはかわいそうだけど。これを食べ終わるころには来るんじゃないかな」
楢の木ばかりの森はとても穏やかで明るくて。これから、恐ろしい誘拐劇が始まるのを予感させるものは、どこにもないように思われます。
「ほんとに来る?」
「来ないはずはないさ。護衛の三分の二と侍女、御者はみんなまとめて王太子派に買収されてる」
「へ……なんか、よく知ってるわね。そんな計画ダダもれしてると、さっぱり成功しなさそうじゃない。あ、もしや今ごろとっくに阻止されてたりして」
「まさか。これはぼくの……っと、静かに。来た」
食べかすのついていた唇をぺろりと舐めて、エーデバルトが口の端を上げました。わくわくしているような笑みです。ひとの現れた木の下の空き地から、視線を戻したカルラは「こっちのが悪人なんじゃないの」などと思わず考えてしまいました。
それも仕方がなかったかもしれません。
武器を持つ人びとを見下ろす黒髪の王子の目は、ネズミを見つけた猫のように、みょうに生き生きとしていたのです。それに空き地に集まった十騎ほどの人馬、覆面の集団の中心にいるのは、どう見てもまだ十二、三歳の少年だったのでした。
「ここにフェオドラ王女が来るの、ですか?」
耳をすませば聞こえる音量でしたが、おどおどした声に、ややなまりのある発音は聞き取りづらく、木の上で聞き耳を立てるには向いていませんでした。
もちろんですともと首肯した男の声のほうが、布越しでくぐもっていても、発音のよさのために聞き取りやすいくらいです。
「ご案じなさいますな、閣下。われらにも益があると感じたからこそ、お力になると申し上げたのです。失敗などいたしません」
「うん。でも良いのでしょうか。こんな盗賊のようなことをして……嫌われてしまったり、しませんか」
「お気持ちはきっと王女殿下に通じましょう」
「そう、ですね」
会話から察するにこの少年こそが、フェオドラ王女を追いかけてきた、王女様に恋い焦がれる隣国の貴族なのでしょう。大胆な行動のわりに、情熱的に見えないお坊ちゃまです。
覆面の男たちは、その王女と自国の王太子との結婚を阻止したい、王太子派(のくせに王太子には無断)の貴族と配下たちでしょう。彼らはやがて散らばって、森の中に身を潜めたようでした。
それからまた、かなりの待ち時間。
黙ってるように指示されたために、食べ物がなくなってしまったあとのカルラは、ひまでひまで仕方がありませんでした。心のどこかで緊張しているのか、なんとなく自然を楽しむ気にもなれません。
頭を撫でられる気配にエーデバルトを見上げると、秀麗な横顔にもう笑みはなく。黒い瞳は、黙考するように木の葉を見すえているだけでした。
――ローゼティーネ嬢を心配しているのかしら。
カルラはふとそれに思い当たりました。なんてことない顔をしているけれど、心配なのには違いないわ。エーデバルト王子は、ローゼティーネ嬢を『大切なひと』だと言っていたじゃない。
理想のひとで、運命の相手かもしれないひと。
でも……ローゼティーネ嬢は、エーデバルト王子を好きじゃない。あのひとが愛しているのは、焦がれているのは、王子のお兄さんの王太子殿下なのだもの。
心とは、なんと複雑で、難解なものなのでしょう。本物の王子たちなのですから、もっとおとぎ話のように、夢のように生きてはいかれないのでしょうか。
悄然と目を伏せたとき、頭をなでていた長い指がぴくりと跳ねました。
カルラははっとして森の入り口を見ます。
――来た!
ガラガラと幅のせまい小路をやってきた馬車は、矢を受けて空き地で止まりました。あっというまに木々の合間から飛び出してきた、覆面の集団に取り囲まれます。馬は隠したのか、今度は全員が徒歩でした。
王女の護衛らしい、馬に乗った者たちが剣を抜きましたが、その切っ先の三分の二は同僚に向けられていました。先ほど王子が言っていた通りです。
「お前達、なにを……」と護衛そのいち。
「すすすすみません先輩」と護衛そのに。
「あっバカここで泣くなよ」と護衛そのさん。
とりあえず一対二の護衛たちに、切り合いをはじめる様子はありません。
それを見やって、覆面の男のうちひとりが、窓の内側にぴっちりと目隠しの布が閉められた、装飾過多の馬車に近づきました。扉に手をかけます。
「失礼いたしますよ」
しかし失礼なことをされたのは、どちらかと言うと覆面の男のほうでした。扉に隙間が開いた瞬間、内側からぶち破られたからです。したたかに扉に顔を打たれた覆面そのいちは、ばたんと地面に倒れました。
あっけにとられている護衛と周囲の覆面たちを見回して、衣装の裾をなおした淡い金髪の淑女は、紅薔薇色の唇を開いて静かに問いました。
「これは一体なにごとです」
本物の王女よりも王女らしい――というよりむしろ、女王のように威厳たっぷりの空色の目に気圧されたのか、声もでない様子の一同。
そんな中、覆面たちの奥から意外にも自ら進み出てきたのは、あの隣国の恋する少年貴族でした。
「あのぅ、おさわがせしてごめんなさい。でもあの、こちらにフェオドラ王女はいらっしゃいませんか」
「あなたは?」
「ぼく――いえ私は」
「あら公爵!」
侍女らしき女性に止められながらも、ローゼティーネ嬢の横から顔を出したフェオドラ王女が、ぱあっと明るい笑顔を見せます。呼ばれた少年公爵のほうも「あっフェオドラ」と嬉しそうな声を上げました。
「ひどいよフェオドラ。あと五年したら、ぼくのお嫁さんになってくれるって言ったのに」
「む? そうだった?」
「そっそうだよ、なのにちょっと綺麗な伯母さまに誘われたら、さっさとついていっちゃったりしてッ。そりゃ確かにこの国の王太子殿下は素敵だし強いし大人だし……しょうがないからかけ落ちしよう!」
おどおどしたところが消えて、きっぱりと言い切りました。「まあ、いいわね」と王女様。侍女の腕から抜け出して「かけおちって一度やってみたかったの」とやる気を出しています。
馬車から飛び降りようとした王女様を止めたのは、ローゼティーネ嬢でした。
「なりません、フェオドラ様。王女というものには責任がございますのよ。ここでかけ落ちなんてなさったら、どれほどの者が困った状況になるのか、どうかお考えになってくださいまし。――もっとも」
冷ややかな目で覆面集団を見回します。「それを望んでいる者たちもいるようですけれど」
先ほど少年と話していた、いちばん偉そうな覆面男が進み出てきました。物騒にも抜き身の剣を手にしています。
「同乗者は王后陛下だとばかり思っておりましたよ。王女殿下をお離しくださいませんかね、お嬢さん」
「もちろんお断りいたしますわ」
「では仕方がありませんな」
男が指を鳴らして合図をしました。覆面集団が動いて、無理やりローゼティーネ嬢と王女を引き離そうとします。彼らは今しがた馬車の扉をぶち破り、仲間のひとりを昏倒させた強者が誰だったか、綺麗に忘れていたようでした。
素手の美人に返り討ちにあった覆面たちが、きゅうと倒れ伏すのを見て、王女様と少年公爵が思わず拍手を送りました。近くの木の上でもカエルが一匹、心の中で惜しみない拍手を送っています。すごいすごい!
「さて、と」
令嬢にぎろりとにらまれた護衛そのにとそのさんは、もはや無言で剣を捨てました。そのにはベソベソ泣いて、そのさんと剣を突き付けられていたがわの、そのいちとの両方になぐさめられています。
うえーんここ怖いよう……ばか泣くなって……でででも先輩ぃ……わかった気持ちはわかるから……。誰ひとり護衛の職務をまっとうする気はなさそうです。
ローゼティーネ嬢は、あきらめたようにため息を吐きました。転がった覆面男のひとりの手から剣を奪い取り、偉そう覆面に向き直ります。最後の覆面男は少年を盾にするように、今度は数歩下がりました。
「な、なかなかやりますな」と覆面男。「だが、貴族の姫君らしからぬ特技とも言えますぞ」いちおう剣を構えながらも、自信がないのかすでに逃げ腰です。
ローゼティーネ嬢は得意さ半分の顔をしました。残りの半分は切なさか寂しさです。
「むかし、あるかたにあこがれて習いましたの。騎士を目指そうと考えたこともありますのよ」
彼女が動いたのと、覆面男が少年を突き飛ばしたのは同時でした。隣国の大貴族を、慌ててローゼティーネ嬢が抱きとめます。その間に、覆面男は木々に紛れて、いちもくさんに逃げ出したのでした。
すぐにどこかで馬のいななきが聞こえました。馬車が来た道のほうに向かって、馬を走らせていく気配もします。追いなさい、とローゼティーネ嬢は護衛のひとりに命じました。「いいかげん泣きやんで」
指名されてしまった護衛そのには、鼻をすすって馬を走らせて行きました。
しかし彼は、姿が見えなくなってそれほど経たないうちに、全力で駆け戻って来てしまったのです。
「たたたたた大変です!」
なにが大変かは聞く前にわかりました。馬蹄のとどろきと共に、彼の背後に三十騎ほどの騎影が現れたのです。隣国王女の護衛とは違うそろいの軍服。
突風のように表れて、空き地まで駆けつけてきた集団の先頭、誰より必死な顔をした男性の髪が、陽光に王冠のように輝きました。
信じられないほど青ざめた王太子殿下は、倒れ伏す覆面の集団を一瞥すると――しただけで――馬から滑り降りました。
「ローゼティーネ!!」
部下たちに指示を飛ばすの忘れ、隣国の貴族も王女も何もかも無視して、彼がとった行動は驚くべきものでした。ローゼティーネ嬢が持っていた剣が、カランと落ちる音が小さく響きます。
きつく抱きしめられた令嬢の目が、茫然と見開かれました。でんか、とかすかな声。王太子はもう一度彼女の名を呼びました。ローゼティーネ……
「死ぬかと、思った」
「……あの……わたくしが?」
「そうだな。あなたと――わたしが」
王太子はやや腕を緩め、春の空色の瞳をのぞき込みました。「無事で良かった」たぶん、その吐息のような声よりさらに、深い色の目のが何倍も多く語っていたのでしょう。
殿下、とローゼティーネが王太子の首に抱きつきました。何度も王太子の名を呼びます。呼ばれたほうも名をささやき返し、ふたたびきつく抱きしめました。
王太子の部下たちはたいへんに優秀でした。彼らは自分たちの上司が、弟の婚約者と恋人同士らしく抱き合っている間も、隣国の貴人たちと話している間も、ずっと仕事をしていました。
逃亡していた偉そう覆面が捕えられ、戦闘不能状態の覆面集団とまとめて、きゅっと縛り上げられています。やましいことがありそうな態度で、こっそり逃げようとしていた御者も捕らえられました。
隣国の少年公爵に覆面の数を確認させていた王太子に、覆面をとった偉そう覆面が「すべてはあなた様を思ってのことなのです」などとわめきます。
「こんなことをせなばならぬと、お前たちが思い詰めるほどわたしは頼りないのか」
わめかれたほうはそう悲しげに頭を振りました。共に馬を走らせてきた中で唯一、軍装ではない男性を振り向いて自嘲気味に笑います。
「ともかく侯爵、あなたが情報を掴んで来てくれたおかげで助かったな。勇敢な女性のおかげで、わたしたちの出る幕など無かったわけだが。感謝する」
侯爵と呼ばれた初老の男性は、あまり面白くなさそうに頭を下げました。「もったいないお言葉です」
そうして、なんの危険もなく茶番劇が終わろうとしたとき。――――馬車の中で何かが動きました。
「危ない! 後ろ!」
声は天から降ってきました。
魔女めいたしゃがれ声の警告に、王太子は瞬時に反応して動きました。ローゼティーネを部下たちのほうへ突き飛ばしてから、銀の刃を手に馬車から躍り出てきた侍女を取り押さえます。
ほぼ同時に――後方。近くの木の下に転がしてあった覆面男たちのうち、運の悪いひとりが、転がった姿勢のまま天を見上げて小さく声を上げました。
「ぎゃっ」
悲鳴に視線を向けた人びとが目にしたのは、華麗とは到底言えない着地。そのくせ無傷な娘の姿を、続いて降ってきた外套がふわりと覆いました。




