カエルが21匹 泉はどこに?
何日も居座っていたくせに、エーデバルトは、帰ると決めたら行動の早い人間でした。
最初に着ていた将校服に着替え、孤児院の客用寝室を掃除し――とはいえじつは来たときからそうだったのですが、あちこち私物だらけで、私室のようなのは変わりません――鍵を閉めて、院長に返却します。リヒャルダの店に寄っての挨拶も簡単なものでした。
意外なことにいちばん長かったのは、子供たちとのお別れでした。大きな布袋いっぱいの、手紙や細々とした子供らしい宝物を受け取るエーデバルトを、肩から見下ろして、カルラは目をぱちくりさせました。
おお、人気者。
けれど渡されたもののほとんどが、実際はエーデバルト自身へ宛てられたものではなかったのです。それを彼女が知ったのは、お城に帰り着いたあとのことでした。
「おかえりなさいませ殿下」
「やあ、ただいま」
数日ぶりだということに加え、変装らしきものをして、怪しい布袋まで抱えてこそこそ帰宅した第三王子を、家令は顔色ひとつ変えずに出迎えました。気付いた召使いたちも、不審がることなく次々に寄ってきます。
集まってきた召使いたちにも明るく「ただいま」を言ったエーデバルトは、驚いたことに抱えてきた袋の中身を、彼らに配りだしたのでした。
なんと、子供たちが書いた手紙の真実の受取人は、ここの召使いたちだったようなのです。
「十六歳になって孤児院を出る子達のうち、とくに優秀な子や気に入った子は、ここで働いてもらってるんだよ。離宮の主としての権限で雇ってね」
信頼の置ける良い子たちなんだよと、王子はカエルの頭をなでました。「素性の知れない者たちなんて言われたりして、申しわけなくもあるけどね」
それからエーデバルトとカルラは、遅い昼食をとりました。カルラはいつ「泉に連れて行ってほしい」といをお願いしようか、ドキドキ機会をうかがっていたのですが……。
どうも機会はなかなか巡ってきませんでした。
エーデバルトは食事中も食後も、家令や召使いたちに不在中の出来事を聞いたり、何かの書類を読んだり指示をしたり、忙しそうにしていたのです。
とくに食後は「疲れたただろカエルちゃん、休んでいていいよ」なんて言われて、お久しぶりの東の寝室に、置き去りにされてしまったのでした。
とはいえカルラの周囲には水浴び用の水やお菓子、さらには色とりどりの小さなまりや、おもちゃの人形なども用意され、いたれりつくせりでした。
「あの王子、あたしのこといくつだと思ってんのかしら。お人形あそびするほどちっちゃくないわよ」
ボヤいてはみたものの、案外ヒマつぶしにはなるものです。カルラは等身大の木の人形を、よいせっと立てて並べ、そこにおりゃっと黄色いまりを転がして倒す、残酷でカエルには体力の必要な遊びを考案しました。
……しばらくして様子をうかがいに顔を出した王子には、倒れかかってきた靴屋人形に、無理やり口付けを迫られているところを発見され、笑われてしまったのでしたが。
ようやくカルラが、例の泉に連れて行ってもらうことができたのは、翌日の朝食の後のことでした。
『ねえ王子。あたし、じつは行ってみたいところがあるんだけど、連れてってくれない?』
『もちろんだよカエルちゃん。きみが望むのなら世界の果てだって、どこまでだって』
セリフと、この会話が寝台で交わされたというのをとると、熱々な恋人同士のようにも聞こえますが、もちろん実際はそんなことはありませんでした。
この会話が交わされた朝のカルラは、またもや夜中に、子供大金髪カエルになったため不機嫌でしたし、王子のほうはあくびをかみ殺していたのですから。
――そもそも役者の片っぽがカエルでは、どうやってもちょっと熱々には見えそうもありません。
とりあえずエーデバルト王子は昨夜も、孤児院で使っていたものより立派な籠ごと、カエルを自分の広い寝台に引き入れて眠ったのでした。
「それで……べつにかまわないんだけどね、カエルちゃん。なんだって誰かが亡くなった泉に、わざわざ行きたくなんてなったんだい。知り合いでもないだろ」
エーデバルトが近道だという緑に囲まれた小路を歩きながら、肩の上のカルラに聞きました。カルラは困ってしまいました。なんでと聞かれても、魔法についての話に聞く耳をもたないひとに、素直に話せるはずもありません。
「え、えーあー、ほら、ローゼティーネ嬢の伯母さんで、すごく綺麗なひとだったんでしょ。ちょっと興味が湧いて。お墓参りというかなんというか。そう、一度見てみたっていいと思って」
「お墓なら別の場所にちゃんとしたのがあるよ。遺体が見つからなかったそうだから空だろうけど。……それにきみ、あの泉行ったことあるじゃないか」
なんてこと。あたしの母さんってばかわいそうに、生きてるうちにお墓までつくられちゃってたのね。なんて同情していたカルラは、話の後半が頭に届くまでに、ちょっぴり時間がかかりました。
行ったことが、ある?
「……えっ、うそ、いつ、どこで、だれが」
なにを、なぜ、どのようにまで言い切らなかっただけ、賢明だったのではないでしょうか。エーデバルトは律儀に答えました。
「ほんと、最初の日、出逢った泉、きみとぼくが」
カルラはあんぐり口を開けました。うそ。
「げ、原点回帰、古巣に帰る?」
巣は泉ではなく、おそらくその向こうです。
しかしコルネリア嬢が泉を通って、魔法使いのもとに行ったというのなら、魔法の道を通ってきたカルラが、あの泉に出たというのも道理でしょう。
「ちなみにぼくが昔落っこちたのもそこ」
「王太子殿下に助けてもらったとこ?」
「そう。みょうな縁があるよね」
エーデバルトはおかしげに笑いました。
「乳母がぼくを泉の近くで遊ばせたのは、当時母のお気に入りだった自称なんとか師の、『そこで遊ばせた王子は王になりますぞ』なんて怪しい言葉のせいらしいけど。……あの泉でぼくは将来を決め、あの泉で亡くなった人の姪を婚約者とし、きみと出会った」
いったいきみは何なのだろうね。
聞かれても、カルラには答えられるはずもありません。呪いとはそういうものなのですから。――相手に気付いてもらわなくては、どうしようもないものなのですから。
やがて王子は小路を抜け、茂みを抜けて、そこにたどり着きました。一気に視界が開けます。
陽光がてっぺんで砕けて舞い散るような、三角形に整えられた木々や、四角く刈り込まれた生け垣、光をきぬのようにまとった真白い彫像たち……
カルラが見たのが今年最後の晴れ姿だったのか、美しかった白と黄の水仙の群れは、姿を消してしまっていましたが、間違いなく最初の場所でした。
「ほら、落ちないでね。カエルちゃん」
澄んだ水をたたえる泉の、つるつるした石の囲いに下ろされれば、近くに忘れな草が見えました。前にはなかった花です。
エーデバルトも、すぐそばの地面に腰を下ろしました。黒ぐろとした瞳を見上げれば、何かを見透かそうとするように、まっすぐに見つめ返されます。
「それで? ここで何をするつもりなんだい」
「え、えーと、若くして亡くなった美しいご令嬢のこととか、静かに過去に想いを馳せようかと。そう、だからちょっと一人にしてくれないかしら」
「いやだよ」
いつも通りに微笑みを浮かべ、耳に心地よい声で、珍しくエーデバルトが頼みを断りました。「いいよ」を聞き間違えたんじゃないかと、耳のほうを疑わずにはいられないくらい、普段通りの口調です。
しかし立ち去る素振りのないところを見ると、やはり断られたということで間違いなさそうです。
立ち去らない黒髪の王子は、手袋を外して、お風呂の温度でも確かめるように、ちゃぷんと長い指の先を水につけてかき混ぜました。
伸びをするように広がっていく波紋が、水面に映る彼自身の姿を歪ませてしまいます。
「きみは忘れているようだけどね。ぼくはいちおう、昨日のテオと院長の話を聞いていたんだよ。あの質問は、きみがテオにさせたものだろ」
「あ……」
そうだった。カルラは両前脚を動かして、ぽんと手を打ったつもりになりました。失念していました。
しかも何かバレています。
「コルネリア・グラナート嬢……ね。テオに協力させてまで院長には聞くのに、きみはぼくには、なんにも言っても聞いてもくれやしない」
うしろめたさに顔を背ければ、さらに良心の呵責にさいなまれそうな、哀愁に満ちた目で、じっと見つめられている気分になります。王子の視線はすでにカルラから外れ、波打つ水面に注がれているはずなのに。自意識過剰でしょうか。
「友だちだと言ったのはきみだったよ。なのにテオと内緒話ばっかり。友だちより下僕のほうが大切?」
「うっ」
寂しそうな横顔で、そんな「アタシとアノ子のどっちが大事なの!」みたいな質問をされても。比較対象に仕事とかお金とか奥さんとかでなく、下僕が持ち出されるのは、かなり珍しい例かもしれませんが。
「…………ええと」
カルラは迷いました。ここは「もちろんあなたヨ」とか言ってみるところでしょうか。続けて「でも下僕も大切なの……」なんとなくイヤです。
しかたなく本音を言いました。
「だってエーデバルト王子、あなたは魔法使いを信じてくれないじゃない」
「魔法使いやおとぎ話を無邪気に夢見ていていいのは、それが許されていいのは、幼い子供だけだよ」
「大人になったら夢見ちゃいけないの」
「ひとは、次の子供たちに夢を見せてあげるために、いつかは魔法の夢の翼を捨て、地に足をつけなければいけない。結局魔法使いはもういないのだから」
ぴちゃん、と王子の指が水を弾きました。
「魔法以外にも色々夢はあるさ。富や権力、愛する人の夢。ぼくだって夢を見ないわけじゃない。――魔法使いがいなくなったのは、さいわいなことだよ」
でも……とカルラはうなだれました。
「魔法使いは今も確かにいるのよ」
エーデバルトはカエルに目を向け、淡く、哀愁をおびた微笑みを形づくりました。
「きみはここに沈み、どこかの奥で未だに眠っているはずのコルネリア・グラナート嬢が、じつは沈んだんじゃなくて、魔法で消えたんだと思ってる?」
「あの、思ってるというか」
たぶんそれが事実なのでした。でもそんなことを言っても、王子にはやっかいなだけでしょう。
――このひととは、わかりあえない。
しょんぼりして、たえられなくなって、カルラは石の囲いのふちに歩み寄りました。泉の水面は王子のせいでまだ揺れており、カルラの顔をまともに映しはしません。映ったとしても、カエルでしかなく。
カルラは呪いや魔法のことをすべて置いて、ただただ父親に無性に会いたくなりました。あの緑の目で笑って、頭をなでてもらいたいと思いました。
水に顔を近付けて、こんなふうな気分で試すつもりでは、ぜんぜんなかった言葉を口にします。
「……ハルプアオス」
それがカルラの父親の名前でした。
魔法の鍵は回され、変化は起こりました。もともと揺れていた水面に、べつの不自然なさざなみが立ち、腕を掴まれるように引きずり込まれます。
「ぐえっ!?」
渦を巻く奔流にのまれ、水にもみくちゃにされて、中央へ、その先へ、吸い込まれるように流されていきます。意識がかすみ、何もわからなく寸前に。
金の指輪をはめた、ま白い指を見たような気がしました。――誰かに名前を呼ばれたような気も。
……ラ……ラ……ルラ。
聞き覚えのある、誰かの声がしていました。歌っているのでしょうか? いいえ、違います。
「カルラ」
「うへっ」
今度こそ確実に呼ばれたのがわかり、カルラは慌ててまぶたを開けて跳ね起きました。行きと違って、出口は水の中ではなかったようです。目の前にはもうなつかしいような気がしていた、焦げ茶色の髪と緑の瞳がありました。
鼻孔をくすぐる空気はすずらんの香りです。
「あ、父さん!」
「久しぶりだね。わたしの娘」
帰って来たのだと喜んで、ピョンピョンと飛び跳ねようとしたカエルの娘の動きを、魔法使いが次のひと言で止めました。
「お客さんを連れてきたのかね」
何言ってるのよと答えかけて、はっとしました。おそるおそる、父親の視線の方向へと体を向けます。
まさか。
「これは…………城の抜け道?」
「魔法よ」
古井戸の横に、びしょ濡れで座っていた王子様の黒い目と、カエルの赤珊瑚色の目が、合いました。




