カエルが12匹 本音のかけら
無事に帽子が全部、子供たちへ行き渡ったことを確認した院長は、ちまちまと大きさの調整をしていたリヒャルダや、ブルーノ、この孤児院の所有者らしいエーデバルトを、食堂に招き入れました。
子供たちが使う大食堂ではなく、院長専用らしい小さな部屋でした。職員らしき人が飲み物を運んできてくれます。
食卓に下ろされたカルラには、エーデバルトがどこからか陶器の指ぬきを取り出して、そこに自分の分の飲み物を分けてくれました。
「おやぁエーディ様、非常食ですか」
「ぼくの友だちですよ。ね、カエルちゃん」
院長とついでにブルーノに紹介されて、愛想よくゲコッと片手をあげてみせます。ぜったいに失礼極まりないであろう、声への批評はべつに欲しくありませんでしたから、自己紹介は心の中だけで。
はじめまして、カルラです。非常食じゃありません。食べてもあまりおいしくないつもりです。
「隣国じゃカエル食うらしいよな」と心底どうでもいいことを、ブルーノが言いました。
おそろいの帽子をかぶった子供たちは、十ほどの組になり、あちこちの部屋や木陰に散っていったようでした。遠く近く、どこからか練習中らしい、いかにもかわいい多くの歌声が聞こえてきます。
古い歌から新しい歌まで、組ごとに歌っている曲は違うようです。ぼくが作ったくじを引かせて曲決めしたんだぁ、と院長が得意げに説明しました。
「エーディ様もお祭りまでブルーノといっしょに、子供たちの歌の練習を見てくださると信じていますよ。ぼくの仕事が減っちゃって減っちゃって……ぐふふ」
なんとも聖職者に似合わない、嫌らしい笑いかたです。リヒャルダが「あのね、エーディにはうちの修理の手伝いを頼んでるんだけど」と言っても、笑い出した院長はもはや聞いちゃいません。ぐふ、ぐふふ。
「ここに泊まらせてもらうから、店の修理をしながらでも、朝と夕食後になら歌の練習も見られるよ。ブルーノがいない時間だし、ちょうどいいだろ」
そう苦笑して、エーデバルトが院長の背後に視線を移しました。「新しい絵ですか?」と、さりげなく問います。それだけで院長が自分の世界から戻ってくると、すでに分かりきっているかのような口調でした。
陽光を透かした金色の髪をした若い娘の肖像画。
かすかに開かれた口もとだけでなく、いたずらっぽい両眼にも楽しげな、おもしろがるような光を踊らせて、額縁の向こうからこちらを見ています。
絵のことを話題に出された院長は、案の定、我に返ったようでした。ゆっくりと振り向いて、神のことを語るかのように神妙に頷きました。
「そう、また描いたんです。いなくなってどれだけ経ちましたか。この笑顔が記憶から消えてしまう日が来たら、それはぼくもこの世から消える日ですよ。……ぼかぁ今でも、コルネリア姫が生きていると信じているんですがね」
コルネリア。ローゼティーネ嬢の伯母だというひとです。エーデバルトの理想その二。カルラは顔を上げてしっかりじっくりとその絵を見ました。
確かに肖像画の娘は、美しい顔立ちといい春の空色の瞳といい、確かにローゼティーネ嬢に似ていないこともありません。でも
このひと、ローゼティーネ嬢というより……。
そこまで思って、カルラは無い眉を寄せたつもりになりました。あたしったら、変なこと考えちゃった。
静寂が落ちた食堂には、いちばん近くの部屋で歌っているらしい、子供たちの歌声が入り込んできます。
エーデバルトも先日歌っていた歌でした。
「生きる理由は ここになく
わたしの空も ここにない……」
隣に座ったリヒャルダが、こんな歌を子供に歌わせるなんて全くくだらない、というように鼻を鳴らして、飲み物を飲み干しました。
「帰るよ、エーディ。あたしゃとっとと直してもらって、まともに営業再開したいんだ」
娼館だというリヒャルダの家に戻ったエーデバルトは、ずっと住人たちと共に上階のあちこちから、とんてんかんと金づちの音を響かせたりと、忙しく動き回っていました。
そして、日が暮れるまでちっとも一番下には、下りて来てはくれなかったのです。
ものをよく壊すからと、修繕している店の女性たちに上階から閉め出されたリヒャルダも、今度はなにやら帽子の代わりに、店の女性たちが運んできた、燃えてしまったらしい枕やら服やらの繕いものをはじめました。
だから、ひとり悲しく手持ち無沙汰のカルラは、ひとりごとのように赤毛の伯爵夫人が話してくれる、街の話や孤児院の子供たちの話、店の人や知り合いのひとの話に、耳を傾けて過ごしたのでした。
「うちの娘たちの中にも、子供がいるのがふたりばかしいてね。あの孤児院に預かってもらってるんだよ。ルキももとはどっかの娼館から引き取ったんだって、前にあの院長が言ってたねえ」
語られる話はこんな具合です。
リヒャルダのおしゃべりのおかげで、カルラは先ほど行った孤児院が、第三王子が生まれた年に建てられたものであることや、現在もほとんどがそのエーデバルト王子のお金で運営されていることを知りました。
話の中には、エーデバルトの少年時代のことなどもありました。
「エーディはいいやつだよ。あたしが、たまたま伯爵夫人――今は未亡人なんだけどさ――なんて名を手に入れてなきゃ、一生会うこともなかったようなお方なのにさ。あたしたちはみんなあいつが、弟や息子やそう、家族みたいに好きなんだよ」
それで、エーデバルト王子もあなたたちが好きなのね、とカルラは思いました。まだ出会ったばかりではありますが、あの黒髪の王子がここを大好きで、みんなを慕っているのは感じていましたから。
お城ではほとんど付けっぱなしの手袋を、簡単に脱いでそのまま、というのも、その証拠に思えます。
カルラをみんなに見せたのも、ここの人たちをカルラに会わせてくれたのも、離宮の召使いたちに紹介されたときより、大事なことのように感じました。
しかし、少年だったころのエーデバルトの話を聞くうち、カルラは、だんだん違和感のようなものを覚え始めたのでした。
――――その夜。寝静まった孤児院の客用寝室で、エーデバルトは簡素な椅子に座って、花びらのような形の弦楽器を抱え、小さくつま弾いていました。
「……剣と楽器、王子はブルーノさんに習ったんだって、リヒャルダさんが言ってたけど、ほんと?」
問われたエーデバルトは手を止めることなく、歌うように、向かい側の椅子の背もたれにへばりついているカルラに答えました。
「そうだよ。彼がぼくの剣と音楽の師。ブルーノは騎士になったけど、彼の実家には、もともと音楽の才がある人が多いんだよ」
「院長さんとテオさんに勉強も見てもらってたって」
「うん」
「ふぅん。でも」
リヒャルダの話を聞いて、今までずっと気になっていたことを、カエルはつとめて興味なさげにつぶやいてみせました。
「教師の話は十歳以来聞いてなかったんじゃないの。能無し王子だから」
黒髪の王子は手を止めて微笑みました。
「――そうだよ、カエルちゃん」
それだけ言って、美しい旋律をかき鳴らしたので、カルラはなんとなく話の接ぎ穂を失ってしまいました。響くのは切ないような、知らない曲です。
でも、しばらくして手袋をしていない長い指が止まり、今度は王子のほうが口を開きました。
「ぼくにはきみが何なのかさっぱりわからないけれど、たぶん、わからないままでいたいくらいには、気に入り始めてるんだ」
なにそれ。半眼になったカルラに、エーデバルトはふっと目を細めて、うわべだけのような、楽しげに見える笑みをつくりました。
「たとえば、カエルちゃんがしゃべってるっていうのが、ぼくの幻聴だったとする。……うん、わかってるよ違うって言うんだろ……でもちょっと怒らないで聞いて。そう――――幻聴っていうのも最悪な部類に入るけど、ぼくは今それでもかまわない気分だよ」
むしろそのほうがいい。と言わんばかりの口調でした。だって、と彼は楽器に向かってささやくように続けます。だって、もしも、万が一
「きみが魔法使いなんてものと関係があったのなら、ぼくは…………」
続きは音になりませんでした。淡い色の唇が動いて、なにか言葉をかたち作った気がしましたが、読唇術なんてできないカルラには、わかろうはずもありません。
「なんて言ったの?」
聞いても、もうエーデバルトはカルラの頭をなでるだけで、答えてはくれませんでした。
楽器を置いて、カルラを小さな寝台に移してくれます。離宮で使っていたような果物籠に布を敷いて、あまりの造花までたっぷり飾った素敵なベットでした。……それだと花籠と呼ぶのが正しいでしょうか。
「――そうだ。ねえカエルちゃん」
カエル入り花籠の持ち手をつかんで、ひょいと持ち上げたエーデバルトが、先ほどとガラリと変わった、ずいぶん明るい調子の声を出します。
「フリーダーの賛歌祭が終わるで、城には帰らないつもりなんだけど、きみはそれでいい?」
「うん、平気よ。べつに困ることもないし。……ちょっと王太子殿下が見られないのが残念だけど」
「よかった、それじゃお願いがあるんだけど」
ろうそくの炎を遊ばせてなお黒い瞳が、赤珊瑚の目を覗き込みました。気付けばカルラは、籠ごと書き物机に下ろされています。
「ぼくは当日まで、修理やら歌の先生やらできみの相手ができないみたいなんだ。だから、その間ちょっと誰かと遊んでいてほしいんだけど――かまわない?」
「かまわないわ」
それから、ふたりはおやすみの挨拶をして、それぞれのベットにもぐりこみました。
眠りに落ちるまで、布製の紫の小花たちのすき間でカルラが考えていたのは、いったいエーデバルト王子は、どういうひとなのだろう、ということでした。
何考えてるのか、さっぱりわかんないわ。……。お祭りって、お城で何かやったりしないのかしら。……そういえば、王太子殿下だけじゃなく、ここにいたらローゼティーネ嬢にも会えないんじゃない――王子ったらいいのかしら――どういう思考回路で生きてるんだろ。……やっぱりわからない。
まあいいか、なんでも。そう思うころには、すでにカルラの意識の船は、ほとんど夢の大海へと乗り出していたのでした。