カエルが10匹 夕暮れの幻影
男の子のかわいいえくぼは、おばさん呼ばわりに憤慨したリヒャルダに、頬ごと容赦なく引き伸ばされ、たちまち消え去りました。
「おばちゃんとお呼びと何度言ったらわかるんだいっ。せめて伯爵夫人! 帽子はあと十二個さ」
慌てて「ごめんおばちゃん」と謝る男の子と、よしと開放する女性を見て、カルラは思います。
――基準がわかんない!
どう考えても、オバなんとかより伯爵夫人のほうが偉そうですし、たぶん一般的には「ちゃん」より「さん」のが上です。たぶんというか絶対そうです。
赤毛の夫人は、よほど「ちゃん」にこだわりがあるに違いありません。カルラはそう結論付けようとしました。……そういうことよね、こだわりよね?
だって、いくら都は進んでるもんだとか言ってみたって、そこまで田舎と都で常識が違うなんてそんなこと。でででも王子は初対面の人にキスするのが普通みたいなこと言ってたし……。
混乱中のカエルをよそに、この不思議に慣れているらしい男の子は、開放されたほっぺたをさすりながらもへこたれず、またえくぼを見せていました。
「あと五個かあ。じゃ、オレ待ってるよ。院長様がそろそろできるだろうから、持ってくるのを手伝うようにって」
「自分で荷物持ちにこないところがヤツらしいね」
「うん『ぼかぁ忙しいんだよ、きみ』って。あくびしながらね。ここ座ってていい? あっカエルだ!」
男の子は、椅子の上に危なっかしい様子でよじのぼり、カルラを覗き込みました。十歳くらいの子です。
針仕事を再開していたリヒャルダが手を伸ばし、小さなまるい顔を囲む巻き毛を軽く引っ張って、しっかり椅子に座り直させました。
それでもやはりめげずに、そこから男の子は身を乗り出して、カルラの前で頬杖をつきます。大きな目は緑の皮膚に釘付けです。
「ねえ、このカエルなに? なんて種類かな、こんなのオレ初めて見たよ。もらっちゃだめなの」
「エーディの友だちだからね、エーディに聞きな」
「えっエーディ来てるの。どこどこどこ。この家がったんどっかん工事中だから、お祭りまでとーぶん来ないでしょう、ってテオ先生言ってたのに」
「上だよ。でもジャマするんじゃないよルキ。ここで少し黙って、おとなしくしてな」
じゃなきゃ手が滑りそうだよと、次の帽子にとりかかりながら、リヒャルダが言いました。それは困ると思ったのか、ルキはぴたりと口を閉ざします。
でも、じっと黙っておとなしくしている、というのは、この男の子の性には合わないようでした。やがてパタパタと足を動かし始め、時を移さず仲良く口も動かしだしました。
「あのね、おばちゃん。昨日ブルーノさんがみんなに縦笛を教えてくれたんだ。今はダニーたちに剣術教えてるんだよ。院長先生も『タダでぼくの休み時間が増えるというのはイイねえぐふふ』って喜んでる」
「……そりゃよかったね。ぐふふなんて笑いかたの男が、孤児院の院長やってるのが不思議だけど」
「たまにうへへって笑ってるよ」
リヒャルダは、ルキを静かにさせておくのをあきらめたようでした。孤児院から来たらしい巻き毛の男の子は、しゃべりながら帽子作りを観察したり、カエルをつついてみたりと忙しそうにしています。
物を取りに来たり、水をくみに来たりで、何度か上階から人が下りてきたりもしました。忙しそうにしながらも、みんなルキにひと声ふた声かけていきます。
エーデバルトも一度だけ水くみに下りてきました。
「やあルキ。お祭りの帽子作りの監督に来たのかい。ぼくのカエルちゃんをいじめないでくれよ」
「この子くれない?」
「だめだよ、特別なカエルちゃんだからね」
なんだか生き生きしてるわ、と階段を上っていくエーデバルトを見送りながら、カルラは考えました。
まるでここが本当の家みたい。
彼の着ている服は、なにやら短時間で薄汚れたものに変化していましたが、真っ黒い目に光が踊って、宝石で着飾っているときよりよほど魅力的でした。
やがて、お昼を知らせる鐘が鳴り響くころ。リヒャルダが残りの帽子の飾りつけを終えました。ぞろぞろと上階からひとが下りてきます。
少し前にもふたりほどが下りてきていて、奥の台所で昼食の準備をしていました。そのひとたちが出てきて、いくつも並べられた丸机の上に、どんどん料理の乗った皿が置かれていきます。
時間がなかったために、どれも残り物を温めただけのようでしたが、充分おいしそうなものでした。
「カエルちゃん、何食べる?」
ルキの隣に椅子を引っぱって来た王子が、子牛肉の揚げ物の皿を引き寄せながら聞いてきました。水入り皿から出ながら、カルラはそのまま目の前に差し出された肉に、かぷっとかぶりつきます。
興味津々といった様子で見ていた周囲のひとたちが「わあっ食べた」と声を上げたり、手を叩いたりしました。しかもなんか丸呑みじゃない!
「放ったらかしにしてごめんね、何してたんだい」
「水遊び。このお皿なかなかいいでしょ、リヒャルダさんが用意してくれたの」
ますます興味に拍車がかかった顔になっていた、近くの女性たちが、今度は「わあっ不気味な声」とびっくりします。ルキなど椅子の上で後退りしています。
気付いたエーデバルトが片方の眉を上げました。
「女の子の声にひどいこと言うね」
「あの王子、じつは」
「うん。じつはぼく以外のみんなには、きみの話がわからないっていうんだろ」
カルラは瞬きました。
「なんで知ってるの」
「家令に昨日、きみがやたら悪魔みたいな声で鳴いてたって聞いて、そんな気がしてたんだ」
エーデバルトはいたずらっぽく「実験してたんだろ、カエルちゃん」と言ってほほえみます。
「うん……じつは王子ってなかなかするどいのね」
「そう? ああ、これもおいしいよ、食べてごらん」
「ありがと。むっ――おいしい!」
「それはよかった」
春告魚の燻製を食べていたリヒャルダが、あきれたように「あんた、カエルちゃんと会話できるのかい」と口を挟みました。
「できるよ。この子は特別だからね」
へええっと、別の机でひょいひょい料理をつまみに行っていた女性たちが、珍しいエーデバルトの得意げな表情につられ、カエルを覗き込みます。注目を浴びたカルラは、しゃべりかけると不気味だと言われるので、 挨拶代わりにちょっと手をあげてみました。
「ゲコッ」
「あらほんと、あいさつしたわ」
「手まで上げてる」
「賢いのね。ほらあなたも見てご覧なさいよ」
「えー、なんて種類なのよその子」
「何だっていいじゃない」
「可愛いものね」
「なんか作り物みたいじゃない?」
口に野菜を運びながら、エーデバルトがリヒャルダ以外の七人の女性たちの名前を、順番に教えてくれましたが、到底覚えられるものではありません。彼女たち七人は、ここで住み込みで働いているようでした。
「それであっちがレニーで…………あれがテオ」
王子は女性たちの紹介の後、ひとりで横に並べた机たちの、一番向こうがわの椅子に座っていた男性を、ちょうど空になったグラスで指し示しました。見えるようにと体を持ち上げてもくれます。
相手も気付いたのか、ふっと顔を上げたので、目が合ってしまいました。カルラは片手を上げるべきか迷って…………――赤と金の夕暮れを見ました。
――――しかたがない、これも運命だ。
沈みかけの太陽を背にして、燃えるような海の上で、船の上で、若い魔法使いがうんざりしたように言いました。目の前には、やせ細って薄汚れた、小さな傷だらけの男の子がひとり。
魔法使いはその頭に手を伸ばし…………
「カエルちゃん?」
「はへっ」
はっと我に返ると、エーデバルトが眉を寄せて、カルラの顔を覗き込んでいました。周囲は先ほどと変わらず、食べ物と女のひとだらけです。もう海も魔法使いも子供も見えません。幻覚だったのでしょうか?
とりあえず手近にいる男の子として、ルキを見てみました。食べ物を口いっぱいに頬張りながら、リヒャルダに何かしゃべりかけています。……やはりあの男の子ではありません。
船の上の男の子はもっと小さくて、雰囲気もぜんぜん違いました。あの子の引き結ばれた唇には、微笑むことを知らないような、かなしい気配がありました。
「ううーん?」
カルラは首をひねりました。もちろん、家で娘の帰りを待っている父魔法使いが、こんなところにいるはずがありませんし、あんなに若いはずもありません。そもそもここは海でも夕暮れでもありませんし……。
あの光景は何だったのでしょう。過去、なのでしょうか? 過去ならば、見たのはこれで二度目でした。
でも、どうして今。
原因を探ろうとして、カルラはあの過去らしき光景を見る前、最後に目が合った男性に視線を向けます。
しかし肝心のテオとかいう男性は食事を再開しており、二度と彼女を見ることはありませんでした。
テオがあの男の子に似ているか考えてみても、さっぱりわかりません。黄昏の男の子は、十にもなっていない年ごろのようだったのに、この人は三十歳も越えているようなのですから。やせ細ってもいませんし。
「……わかんない」
「ぼくにとっては、分からないのはいつもきみのことだよ。なんか食べるかい」
「うん。ちょうだい、その白いのがいい」
エーデバルトに食べ物を取り分けてもらいながら、カルラはまあいいか、とあきらめました。
一度目に見た過去はこの王子のものでしたが、そんなに重要なことのようにも感じませんでしたし、きっと今回も大したことではないのでしょう。
もしかしたら、父による魔法や呪いにかかっているため、何かの影響で、同じ年頃のころの父魔法使いの記憶の映像が、ひょっと顔を出すのかもしれません。
父さんたら、ほんっとに雑なんだわ。
魔法使いの娘はこっそりとため息を吐きつつ、気を取り直して、目の前に盛られた食べ物にかぶりつくのに専念したのでした。