カエルが1匹 魔法使いの娘
むかしむかし――まだ世界に魔法使いが大勢いて、ほとんどの人々が、小人や人魚、魔法の靴や鏡を実際に知っていたころ。
そのころの魔法使いは、人びとに王様よりも尊敬され、また恐れられていたものでした。
生意気な王子や王女に呪いをかけたり、不幸な目にあっている女の子を救い出してあげたり…………。
たまに悪いやつが賢い兄妹や、勇敢な王子様などに倒されることもありましたが、その時代は間違いなく、魔法使い達にとっての『良き時代』でした。
しかし、そんな夢そのものの時代も、いつしか終わりを迎えます。魔法の使えない人々は、しだいにその力を持つ者たちを、うとましく思うようになっていったのです。
だんだんと魔法使いに弟子入りするものも減っていきました。不思議の力も道具も、夢の生き物も、徐々に姿を消してゆき。
今や『古き良き時代』は遠いおとぎ話の中。
ですが、それでも本当の魔法使いは、絶滅してしまったわけではありませんでした。善き魔法使いも、悪しき魔法使いも世界のあちこちに散って、人々に混じり木々に混じり、細々と、けれども脈々とその血を繋いでいたのです――――
〜*・*・*〜
――――さて、黒ぐろとした森に囲まれたヒュプシュ王国にも、ひとりの魔法使いがおりました。この魔法使いもたいていの魔法使いと同じように、ほとんど人と関わることなく、娘とふたり、鈴蘭の咲く小さな谷にひっそりと住んでいました。
娘の名前はカルラといいました。太陽の金髪に魔法使いの緑の目をした可愛い子でしたが、残念ながらまったく魔法を使うことのできない子です。母親が、ただの人間だったことが原因かもしれません。
でも、亡き妻を愛していた魔法使いは、娘のことも同じように大好きでしたから、カルラが魔女でなくともちっとも構わなかったのです。
お菓子の家も空飛ぶほうきも銀の靴も、みんなみんな彼女のために作られました。長いあいだ、カルラもその父親もとても幸せに暮らしていました。
晴れた日には洗濯をして、家中を花で飾り
雨ふりの日は本を読んで、古い歌をうたい
春も夏も秋も冬も…………どんな日も
しかし、カルラが成長し年頃の十七歳になったとき。魔法使いは古い慣習に従って、娘を「運だめし」に出すことに決めたのです。めでたしめでたしの結末のため、より大きな幸せをその手に掴ませるために。
ですから魔法使いは、ある日の朝、家のそばの古井戸のへりに娘を座らせて、その話をしました。「おまえは行くべきだよカルラ」と魔法使いは言いました。
「成功するのはたいてい末っ子だが、ひとりっ子の場合も多々あるからな。きっと大丈夫だ」
唐突な話にカルラは目を丸くして、父親の顔をまじまじと見つめ返しました。
「それって、本気なの。あたしに今すぐ旅に出ろってこと?」
「ああ。おまえのような娘は、運だめしに向いているよ。おまえを世界一の男と結婚させる、という母さんとの約束もきっと果たせることだろう」
そんな約束、初耳でした。そもそも、幼いころに亡くなった母さんのことを、ほとんど知りません。
でもカルラだって、魔法使いの父親とずっと共に暮らしてきたのです。幼いころから、大きくなったら自分はお話の中の人たちみたいに、やっぱり運だめしに行くことになるだろうと、思ってはいました。
ですから、いきなりの旅立ちに少し驚きはしましたが、すぐに納得して「わかった」と頷いたのでした。
「それで、あたしはどこに行けばいいの?」
聞きながら、カルラは竜や人魚や小人など、まだ見たことのない生き物や、行ったことのない町や森の先の国々のことを考えました。いったい、あたしを待っているのはどんな物語なのかしら。
魔法使いは親子でおそろいの緑の目で笑いました。
「わたしの最愛の娘。自分がどこに行くべきかなんてこと、人に聞くものじゃない。だが、そうだな……おまえはこれからその井戸に飛び込むんだ。井戸は魔法の井戸で、みっつの場所に繋がっている」
「一本だけが正しい道なのね!」
カルラが興奮して口を挟みました。
「お城に続く黄金の道なんでしょう!」
違うな、と彼女の父親はさらに笑います。
「確かに一本は城に繋がる道だが、それが正しい道だとは限らない。三本はそれぞれの場所、それぞれの人間に繋がっているのだから。――おまえが自らの運命の道を選んだ瞬間、おまえは呪いにかかる。どの道を選んでも、呪いの種類が違うだけでそれは同じだ」
呪い! メルヘンに呪いはつきものです。カルラはわくわくしてきました。呪いを解いてくれるのは王子様や素敵な若者に決まっているのですから。
「おまえは道の先でひとりの若者に出逢うだろう」
ほら、やっぱり。
「その若者に付いていきなさい。その者こそがおまえの運命となるだろう」
そうこなくっちゃ! 父親の話を聞いたカルラは大きく頷きました。すでに立ち上がっており、後ろの古井戸に飛び込む気まんまんです。
「わかったわ、父さん」
「呪いの解きかたはわかっているな。若者に」
「キスしてもらうこと!」
カルラが叫びました。それ以上話も聞かず魔法使いに抱きつきます。
「大丈夫よ、父さん。絶対に成功させてみせるわ。待っててね、すぐに帰ってくるんだから」
そしてその頬にひとつ口付けて、魔法使いがなにか言うより先に、井戸の底、いかにも魔法のかかっているらしい光る水面に飛び込みました。
娘思いの魔法使いは、まだなにか言いたげな表情をしていたのですが……。
「じゃ、いってきます」
井戸の水はカルラの髪と同じ金色でした。太陽の光に透けるはちみつ色。でも、なんの味も匂いもしません。冷たくも温かくもないし息もできます。だからカルラはただ、その中をどこまでもどこまでも沈んでいくような気がしました。
そう、本当に沈んでいるのです。上を向くと、すでに水面はずっとずっと上のほうにありました。
「父さんたら、魔法を失敗したんじゃないかしら」
水面がただの白い点に変わり果て、ついに見えなくなったころ、カルラはついそんなことを呟きました。どこまでも続くような金色の水の中、三本の道なんて見当たりません。
もし失敗だったらどうなるのでしょう。そんな運だめしなんて聞いたこともありません。ちょっとゾッとしたカルラは父親がするように、水に話しかけてみることにしました。魔法の鍵はときどき言葉だったりもするものです。
「ええと、開け……じゃないわね。いでよ? 現れよ、かしら。もしくは……おいで道?」
どうやら正解でした。ほっとしたことに、突然目の前にみっつの扉が現れたのです。それらは上がまあるい可愛らしい木の扉で、それぞれ色が塗られており、こんなことが書いてありました。
『ひとりは笑わぬ者』――これは左がわの赤い扉。
『ひとりは怒らぬ者』――これは真ん中の黒い扉。
『ひとりは嘆かぬ者』――これは右がわの青い扉。
カルラは一瞬も迷いませんでした。こういうものは直感で選ぶものだと知っていたからです。自分の直感を信じて、真ん中の扉を開きました。たんに、そこがいちばん近かったとも言います。
けれど、『怒らぬ者』の扉の中に入った瞬間、カルラは立ちすくんでしまいました。なんと、気付けば、彼女は知らない豪華な寝室にいて、目の前には父である魔法使いが立っていたのです。
でも、これは現実のことではないのでしょう。
「魔法使いどの」
寝台の上にいる女の人がそう声をかけた父親は若く、今のカルラと同い年くらいに見えましたし、部屋にいるふたりとも、カルラの存在に気付いていないようなのですから。さらに、部屋にある何もかもが、触ろうとするとスッと手をすり抜けてしまいます。
……これは過去のことなんだわ。とカルラは思いました。じゃなきゃ父さんがこんなに若いはずないもの。
「魔法使いどの」
女の人がもう一度呼びかけました。繊細そうな美しい声は少し震えています。
「本当なのですか、この子への予言は」
その言葉でカルラは寝台の向こうのゆりかごと、そこで眠っている赤ちゃんの存在に気が付きました。女の人の子供なのでしょう。問われた魔法使いは、ちらりと赤ちゃんに視線を向けます。
「それがわたしが予言をしたかどうかという質問ならば、わたしはそうだと答えよう。だが、予言が実現するかという問いならば、わたしが答えられることではないし、答えるべきことでもない」
このよく分からない言いまわしは、間違いなくカルラの父さんでした。若いころから今とまったく同じ中身だったようです。魔法使いって、そういうものなのでしょうか。
「その子は自身の運命を自身で選択するだろう。他の人間達となんら変わることなく」緑の瞳の魔法使いは続けました。
「運命とはそうあるべきだ。また……」
くどくどと長ったらしい父親の話は聞き飽きていましたから、カルラは寝台をまわって、ゆりかごの中の赤ちゃんをひょいと覗き込みました。
窓の前に立ったのに、不思議と赤ちゃんに影は落ちません。
「わあ、かわいい!」
赤ちゃんのぷくぷした手を見たカルラは思わず歓声を上げました。そして確かに、ひらひらした帽子を被り、柔らかな布団からちっちゃな手を出して眠っているその子は、世界中の妖精が祝福を贈りたくなるような、とびきり可愛らしい赤ちゃんでした。
でも、声を出したのは失敗だったようです。
ぐにゃりと寝室の景色が歪みました。歪んで、金色に霞んできた世界の中で、まだ魔法使いがしゃべっていることだけはわかります。
ただ内容は途切れとぎれで、さっぱり理解することができません。
……王子……予言……怒ら……娘……結婚……
世界がぐちゃぐちゃになる寸前、カルラは赤ちゃんの目が開くのを見ました。そのぞっとするほど黒い瞳が確かにカルラを見て、小さな顔が不快そうに歪むのも。そのままいかにも赤ちゃんらしく泣き出すのも。
「あわわ泣かないで」そんな声が届くはずもなく。
カルラは再び金色に戻った世界から、ぽんっ、とどこかに放り出されるような感覚を味わいました。ゆっくりと真っ暗に閉ざされていく視界の中、最後に見たのは、緑色に染まっていく自分の両腕でした。
最後に聞いたのは、パチャンという水の音。