二話
春休みというのは中途半端な時間だ。
学生にとっては次の学年に上がる前の段階。
卒業して、入学を待つ身である私はさらに不安定。どこにも所属していない時間。人生にそんな時間はどれくらいあるだろうか。
学校が終われば普通は就職だ。そしてそこから何十年も働く。人生という道で、人はいつも何かに所属している。
まぁ、私には関係ない話だけどね。
そんな事をつらつらと考えながら私は歩いていた。
私の体は弱いけれど、運動そのものが嫌いなわけじゃない。できないことは多いけど、それでも無理しない程度に運動はしている。
動かしすぎると壊れる体は、動かさなくても壊れてしまうんだ。面倒な話。
だから日課である散歩の目的地は私の行く予定の高校。これから毎日通うようになるのだから下調べは必要だろう。
中学校は少し距離があったからこれまではお母さんが毎日車で送り迎えをしてくれた。高校からは歩いていくと宣言しているのだけど、この徒歩7分の距離に不安がまったくないわけではない。だからこその登校の練習だ。
――登校の練習かぁ、私らしい貧弱な発想だ。
歩くときは一歩一歩を踏みしめるのが私の習慣だ。ちょっとでも他の事に気をとられてしまっては転んでしまう可能性がある。派手に転んで受身に失敗すれば、色々と問題が発生する。
だから私はゆっくり、慎重に向陽高校の正門に到着した。
春休みだからだろうか。正門から見る学校の中はガランとしていた。
門には関係者以外立ち入り禁止の看板が見えたけど、私だって立派な関係者だ。多分。ちょっと早いけど。
看板は無視してそのまま校舎をぐるりと回りこんでグランドのほうへ進んでいく。
たとえ休日でも部活動は行われていてグラウンドのほうは賑やかだった。高校の運動場は私が通っていた中学校よりもだいぶ大きい。
でも空いているスペースはどこにもない。たくさんの人でひしめきあっていた。
陸上競技、サッカー、テニス、ハンドボール……。中学では存在しなかったような競技の部活がある。
あれ? ハンドボールって室内競技だった気がするけど……。まあいいか。
いろんな種目で賑わう運動場を、私は少し離れた場所から眺めていた。この距離って大事よね。近づきすぎてはいけない。
だってあそこは私の場所じゃないから。
「青春してるなぁ……」
溜め息が漏れる。
ここに立っている私という存在は、なんだかとっても場違いなものに思えてしまう。運動部という世界は私を拒絶しているからだ。
今日が休みだから、あの汗を輝かせて走り回っている人達が眩しく見えるのだろうか。……いけないいけない。私よ、勘違いするな。学生の本分は学業なんだから。
そう自分に言い聞かせてみて、ちょっとだけ虚しかった。
すると後ろからどたどたとした足音と掛け声が聞こえてきた。柔道着をきた集団がこちらに向かって走ってくる。武道場で走りこみは出来ないでしょうから外を走っているのだ。柔道着に運動靴の組み合わせは少しシュールだけど。
邪魔にならないように脇に引っ込んで集団が通り過ぎるのを待つ、と……。
「へぎゃっ!?」
目から星がでたっ! ……かと思った。
いきなり目の前に黒い影が飛び込んできたかと思うと、顔に激しい衝撃を感じた。たまらずその場に座り込んでしまう。
何かが顔に当たった。一緒に瞼の中ににゴミが入ってしまったみたいで、目が開かない。必死に両手で擦ると、痛みと目の不快感で涙が出てきた。
痛い。顔が、とても、痛い。あと目も開かないしゴミのせいで涙が溢れてくる。
「おーい」
声が聞こえる。おもいっきり目をこすってようやく少しだけ開けた視界で私は声の主を追う。
まだ涙でかすんでぼやけた姿だが、私は抗議の意味を込めて睨みつける。
「聞こえてんのか~? ボールだよ、ボール。こっちに投げてくれ」
私の顔面を強打した物体はすぐそこに転がっていた。サッカーボールだ。
「どうした、早くボールくれよ」
最悪だ。こいつは最悪だ。
人の顔にボールをぶつけておいて、最初の言葉の選択肢を間違えている。まずは謝るべきだ。
ボールに罪はないけど、私は今とってもムカムカしている。
そうだ。サッカーボールは蹴られてこそのサッカーボールだ。両手で落ちているボールを抱え込んで、ぽいっと浮かせる。
タイミング良く右足を後ろに引いて、思いっきり蹴り飛ばした。
礼儀を知らないサッカー部員のいるほうとは反対方向に向かって!
ボールは大きく大きく弧を描いて、遠くまで飛んでいった。失礼な相手は唖然としてボールを目で追っている。
それを見届けた私は、悠々とその場を立ち去る。
そうなるはずだった。そうしたかったのに……。
あろうことか、私の足は宙を蹴っていた。全力で空振りした勢いはすさまじく、私はすっ転んでしまう。
あぁっっもうっ! 最低の最悪だ。なんで思い通りにちゃんと動いてくれないのよ私の足は。
私は無様に地面に転がりながら、あまりの恥ずかしさと悔しさで、さっきまでほんの少し滲んでいただけの涙が目からあふれ出してしまった。
こんな場所で涙を流していることすらも悔しい。でも、涙って一度流れ出すと止まってくれない。
「森島ぁっ! お前なにやってんだ!」
「え? 俺なんにもしてないっすよ」
なんだか人が集まってきた。顔を見られたくない。もうホント最低。
「何もしてないのに、相手が泣くかよ! まったく……。保険の先生は着てるだろうから、お前、ちゃんと連れて行けよ」
「は? なんでそうなるんですか?」
「うるせーよ。任せたからな」
サッカーのユニフォームを着た部員が私を起こしてくれた。恥ずかしくて顔を上げることはできなかったから顔は分からないけど、さっきのありえないヤツだ。
「あーめんどくせえな。おら、さっさと行くぞ」
私の手が取られる。
ちょっと、勝手に人の手を握らないでほしい。このまま連れてかれるのは嫌だったけど、うまく声がでない。
「ちゃんと歩けよな」
動かない私の手を引いて行こうとしている。馬鹿にしてる。私は子供じゃない。それに私はそんなに丈夫じゃない。転んだ後ですぐに移動できるなんてそれは普通の人だ。
私は『普通』じゃないのだ。
「何だ、動けないのか? 本当にめんどくせえ奴だなぁ」
乱暴で無礼で失礼で最低な男は、あろうことか、私の腰に手を回した。そのまま宙に浮いたのは私の心と軽い体。
まだひりひりする顔に手を当て、泣き痕の残る顔を隠しながら何がなんだか分からないまま、私は運ばれていった。