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第四章 「奇跡」

小学校の時から同じ通学路を通い続ける月下(つきした) (とおる)とその幼馴染、七瀬(ななせ) (かなで)

 二人は大学生になった今もなお、その関係を続けていた。

 互いにいままで幼馴染として接し、つかず離れずの距離を保ってきた。しかし、亮は自分の気持ちが奏にあることに、少しずつではあるが気がついていく。

 数日後のクリスマス。亮は奏から手作りのパペットをプレゼントされる。翌日から二人の関係は変化を遂げていった。

 亮は、自分の気持ちに気づいているのにも関わらず、好きといえずに今の奏との関係にとどまっていた。

 ひょんなことでケンカした二人は、いつかのつかず離れずの関係に戻ってしまう。

 そんなとき、事故に遭いかける亮。

 奏は亮をかばい、命を取り留めたものの、植物状態に陥る。亮自身も、聞き手の右手を負傷し、動かなくなってしまい、絶望してしまう。

 奏への思いがつのり、一日中泣き明かす亮。

 奏がくれたパペットを胸に、亮は奏に問いかけるように語りかける。

 パペットをはめると、亮の頭から、奏の声が聞こえてきた。奏の口癖。人形のしぐさ。そのすべてを感じ取った亮は、その人形に奏の魂が宿ったことを信じる。

 亮と奏の新たな生活が、二人のたどり着く先に向かって歩き始めた。




「まだまだ寒いな…」

「そうだね…寒いよねぇ。」

 目を細めて俺と奏はあいづちを打ち合った。その姿はまさに、仲のいい老夫婦にもみえただろう。湿り気のある通学路を、俺と奏が肩を並べて歩いていた。いつものように、誰もいない通路を。それはもうゆっくりと。

雲はほとんどなかったが、やはり二月の中旬は、まだまだ寒い。むしろ、いまこそ冬本番といったところだ。度々、互いに肩をぶつけて、ぶつけられて。笑い声を交えながら足並みを乱す。

 冬休みを挟んだ俺たちの関係は、いままでとはまったく違うものになっていた。

 こうして毎日肩を並べて登校するようになったのもそう。何より会話がはずみ、俺の中での毎日が、楽しくて充実したものになっていた。ほんの少し前にあった二人の距離は、いつの間にかゼロに近いものとなっている。俺自身、自分の気持ちに気づき始めていた。

 ただ…奏にこの気持ちを伝える勇気は俺にはなかった。

 俺にはまだ、こうして奏の大切さがわかっただけで一杯で、満足してしまい、口元が釣りあがってしまう。そのことを口にした瞬間、俺たちのこの心地いい関係が、ないものになってしまうことを俺は常に恐れていた。だから、口にはできなかった。

 奏の肩に何度目かわからないが、肩をぶつけたとき、

「今日はお前どうするんだ? 残ってピアノ弾いていくのか?」

 言葉と一緒に、湯煙のような息を足跡の変わりに残しながら、俺は奏に話しかけた。今度は奏の口から湯気が上がり、お返しに奏も肩をぶつけてくる。

「うーん…そうだなぁ、わたしは残ってやっていくつもりだけど…亮くんはどうするの?」

 交互に息を交換する。ぶつかり合いはひとまず中断した。

「俺はやめとく。」

「どうして?」

「……面倒だ。」

「そんなんじゃ、コンクールでいい成績、残せないよ?」

「わかってるよ、俺はかげながら努力するほうなんだ。」

「エヘヘツ、亮くん…それをわたしに言ってる時点でダメなんじゃない?」

 奏は笑みを携えて俺の顔を覗き込んでくる。今日は右に結われた前髪がたれ下がる。

 その顔に弱い俺は、いつも視線をずらしてはぐらかすことしかできない。

 ふたたび俺は肩をぶつけて抵抗した。

「う…うるせぇ。」

 それを合図に、俺たちは駅まで交互に繰り返して歩いた。

 のんびりと登校する俺たち。いつもより、坂道ものんびりと登ることが多くなった。その分、朝の昇りたての柔らかい陽だまりを、全身に浴びることができる。

 こんな日々がいつまでも続くことを、俺は祈願してならなかった。

 午前中の講義をおえると、日もすっかり昇り、快晴の冬空のもと昼食をとるが、いつもの喫茶店には奏のファンがいるので、近頃奏と仲のいい俺は、出入り禁止の張り紙を設けられた。

それを知ってか知らずか、奏はタイミングよく俺に弁当を作ってきてくれるようになった。どうやら奏はいつも友人とは弁当を持ち寄って食べていたらしい。最初は抵抗もあったが、食べてみるとこれが結構うまい。大き目の弁当に入れられた色とりどりのオカズたちを、俺は遠慮なく頂戴する今日この頃。

結局、奏の友人の仲間に入れてもらい、昼食の時間を有意義に過ごすようになった。

こちらも、もちろん抵抗がないはずがない。むしろ、望んでなどいなかったと言った方が正確だろう。

最初はひとりで奏の弁当を堪能していたのだが、その現場を奏に発見され、確保された挙句、奏の友人と昼食をとることになったのが、そもそもの始まりだ。

慣れてしまえば、以外に悪くないと思うのはなぜだろうか。

「亮くんはいいねぇ…奏の愛妻弁当か?」

「…その台詞はもう聞き飽きたぞ、宮路。」

 奏の友人の中でも男勝りな女が俺に話しかけてくる。

 髑髏をモチーフにした服装からは想像もできない、聖歌隊のメンバーだ。細身ではあるが、出るところは出ている。そんな体のどこから聖歌隊に入るほどの声量を持ちえているのかが常々疑問だ。

「いつも、いつも奏に弁当作ってもらっているからだよ、この幸せモンが。なぁ、奏ン…わたしにも作ってくれよ? わたしも奏ンの弁当がたべたいぃぃ…」

 猫なで声で奏に頼みこむ。その声を聞いて背筋に氷が通ったように俺は身震いした。

奏は箸をとめて笑いかけ、

「遼も? いいよ、明日作ってきてあげる。」

「さすが奏!」

はるかとは、宮路の下の名前だ。初対面で名前を奏に見せられた俺は「りょう」と読み間違えて、そのことが勘に触ったのか、遼に思い切りひっぱたかれたことを思い出す。

「奏さんはやさしいですねぇ…わたしも作ってもらいたいです。」

 宮路のとなりでいかにもお嬢様な風間さんがさりげなく奏に頼んだ。

「奈々も? いいよ。じゃあ明日はわたしがみんなのお弁当つくるね。」

 奏の機嫌がなぜか上々だった。俺はだまって三人のやり取りをおかずに、次々と口に箸を運んだ。

 奏によると、この二人とは大学に入ったときからずっと行動をともにしている仲らしい。宮路と風間さんは、同じ聖歌隊のメンバーらしく、出会いのきっかけは奏のドジが原因だそうだ。どんなドジを踏んだのか気にはなったが、奏はかたくなにそのことを話したがらなかったので、結局聞きそびれてしまった。

「明日はなにがいいかなぁ。」

 一人ごとなのか、尋ねたのか曖昧なことを口走った奏。それでもこの二人は奏の発した言葉に食いついていくので面白い。

「わたしはとりあえずミートボール丼にしてくれ!」

「うん、わかった。」

 遼の発想の展開にはいつも驚かされる。パックのお茶が、俺の口から飛び出そうになる。

それを易々と了解する奏も奏だと思う。器がすごいのか、それともこいつのお弁当メニューの中に、すでにミートボール丼が存在していたのか。

次に、風間さんが小さく手を上げて発言する。

「わたしは、奏さんの得意料理を所望したいです。」

「わかったよ、明日楽しみにしてて。あ、亮くんは?」

 三人の視線が俺に釘付けになる。とくに、遼はなにか面白いことを言えといわんばかりに、ニヤついてこちらを見ている。

「奏と一緒で。」

「はぁぁぁぁぁああ?」

 案の定、遼はつまらなさそうに体をひねった。俺はそれを無視する。

「わかった。じゃあ決まりだね。」

「おい、おい奏ぇ! いいのかよ?」

 遼がどうにか自分が楽しい方向にことを運ぼうとしたが、奏は笑って流すだけだった。それを見て俺は思わず鼻で笑う。

「おい、亮!」

 遼の指が俺の目と鼻の先に突き刺さる。

「なんだよ。」

 そっけなく答える。

「笑いを求めるお笑いの魂はどこにやったんだ!」

「そんなモン俺にはない!」

 昼食は時々滞り、笑いを交えて、時間と共に流れていった。

 今日の奏の弁当もうまかったが、「ごちそうさま」としか俺は言えずに、奏に弁当を手渡すことで、俺の新しい昼食も終わりをつげる。

 昼食をとり終えた俺たちは宮路たちと分かれ、午後の講義に向かうのだった。

今日一日の講義を終えた俺は、久しぶりに一人で帰った。

 いつもは門の前で奏が待っていてくれる。それも、今日はない。

 唐突に吹き付ける風が、今日は妙に冷たく思った。話しながら降りていく坂道も、今日は早歩きで降りていく。電車の中でも俺は暇をもてあましてしまった。奏がいないそのひと時。その小さな孤独を俺はかみ締めるようにして楽しんだ。

 帰宅をした俺は、ピアノに向かう。

 ガキの頃からやり続けたピアノ。俺にはもうこれしかない。

 今まで多くのコンクールで賞を受賞。このままプロを目指すか、講師を目指すか。今の俺には選択肢が存在する。ガキのころの俺からはまったく想像することのできない出世だ。

一時期、マスコミにすら騒がれたこともあった。一応、うちの大学でも今回のような小さなコンクールがあるが、一応はコンクールはコンクールだ。手など抜くことはできない。求めるのは、最優秀賞のみだ。

 俺は鍵盤に指をはわせ、確かめるように撫でる。指が勝手に動いていく。これはCANONだ。

 『複数の声部が同じ旋律を異なる時点からそれぞれ開始して演奏する曲』…。二つの音が、始まりは同時だが、まったく違う音色を演奏し、かつその音色は絶妙に絡み合う。

俺はこの曲を選んだ。俺がもっとも好きな曲。昔、奏と二人で習った曲だった。

 あの頃は一緒にコンクールにも出ていたのに、奏はいつの間にか俺の出るコンクールを客席から見るようになっていた。なぜそうなったのか、俺には見当もつかなかった。奏に聞いてみても、俺の演奏を聞きたかった、としか言わない。

 というのも、俺にも思い当たるフシがあるからだ。

 一度奏とコンクールに出たとき、俺は奏に負けた。最優秀賞は奏に持っていかれたのだ。もう覚えていないが、俺はそのとき奏にひどいことを言った気がする。言葉にはしないが、あのときから俺と奏は離れ始めた気がする。少しずつ、時間をかけて。そしていま、俺たちはまた、互いに歩み寄り始めたのかもしれない。

 思考と共に、ピアノを弾き続ける。自分が満足のいく演奏を求めて、俺は何度も何度も繰り返して弾いた。

 途中、奏の家が騒がしくなったのを微かに聞いたが、俺は練習に没頭した。

 気づいた頃には日もすっかり落ち時計は既に九時を指していた。

俺は自分の部屋に戻って、ふと窓に眼をやる。奏の部屋のカーテンは閉まったままだった。電気もついていない。奏の家自体、いつもの平日の賑わいを感じることはできなかった。

「奏、まだ帰ってないのか…」

 俺は本棚に向かい、読みかけの本を一冊手にした。ベッドに腰掛けて、奏が帰ってくるのを待つ。

 十時を過ぎ、十一時、十二時を過ぎても、奏の部屋の電気がつくことはなかった。さすがに俺も心配になり、気をもみ始めた。

「なにかあったのか?」

 携帯電話に電話をかけてみたが、なんの応答もない。ますます焦りがつのる。

 俺は家を飛び出して、奏の家の玄関を何度も叩いた。返事はない。すると、俺の携帯電話が震えだした。ポケットから迅速に取り出すし、液晶画面に視線を送る。

「奏か?」

 電話番号だけが画面には表示されている。見たこともない番号だ。震え続ける携帯電話。とりあえず電話にでてみると、電話の向こうから聞き覚えのある声が耳に入ってきた。

「……亮か? 亮だな? お前今どこにいる!」

 声の主は奏の父親だった。野獣じみた声に焦りが混じっていた。ただならぬその声の様子に、俺も生唾を飲み込む。

「ぁ、あぁ…亮だ。どうしたんだおじさん? みんなどこにいるんだよ?」

俺の声も焦燥がにじみ始める。手にも汗が。

「いまか…いま、病院にいる…」

「え?…」

 奏の父親の声が徐々に小さくなっていく。嫌な予感がじんわりと俺の心の中に染み渡っていくように広がる。俺はつまりそうな声で、

「病院?…なんでそんなところにいるんだよ?…」

「………」

 おじさんは、押し黙ったまま答えなかった、何度か言葉を発そうと息をつまらせているのが聞こえてくる。

「お…おじさん、何とか言ってくれ。奏はどうしんだよ? 何で病院にいるんだよ? なぁ…」

「…………奏が…」

 嫌な予感なんてものは、どうしてこうもあたるのだろう。

「……事故にあった。」

 俺は走り出した。

 上着を羽織ることもなく、マフラーをすることも忘れて。病院はすぐそこだ。おじさんの電話から放たれた声が俺の中に何回もこだました。

「…今日、学校のかえりに車にひかれたらしい…いま…緊急手術をしているところだ…お前にも知らせるべきだとおもってな…病院は近くの……」

 できれば、ギャグであってほしかった。病院に行けば、実は嘘でしたとか、今日がエイプリルフールならよかった。すべてが嘘なら、そんな嘘なら、俺はきっと笑って受け入れただろう。奏と一緒になって笑っただろう。

 足を何度も、何度ももつれさせながら、俺は必死に走った。息を荒げて、なりふりかまわず走って病院をめざした。

 奏のことしか頭になかった。奏の笑顔を何度も想像した。勝手に頭に浮かんできては、消えていった。

 人に何回もぶつかり、肩からこける。周囲の視線はひどく痛いものがあったはずだ。無理に掻き分けるように俺は走りつづけ、何人目だろうか、三人ほどの集団を掻き分けた瞬間に首根っこをつかまれ、なにやら俺に文句を言ってきた。耳には入ってこなかった。

「お前なに急いでんだよ?」

「ふざけんな、こっちは機嫌損ねちまったぜ!」

「おい、兄ちゃん聞いてんのかよ?」

 三人がかりで俺は押さえつけられて、路地裏に連れ込まれる。俺はなおも三人を無視し、一秒でも早く奏のもとに行こうとしたが、男たちはそれを阻んでくる

 路地裏には人っ子ひとりいなかった。暗くて冷たいコンクリートが周囲を囲う。三人のうち一人の拳が俺の頬をとらえる。無心に俺は反撃した。あたりにあった鉄パイプを手にして、振り回し、言葉もなく俺は暴れた。

「お、おい! こいつ頭イってやがる…」

 危うく一人の大柄な男の顔面をとらえそうになる。攻撃は男の額をかすめて、コンクリートをわずかに砕いた。

「マ…マジでこいつやばいって…」

 三人のうちの背が一番低い男が俺の背後に回りこみ、ナイフを俺の右腕に突き刺してきた。激痛はあったが、すかさず俺も鉄パイプをその男の眉間に突き刺す。

 鈍く、骨が砕けたような音が路地裏に轟く。鉄パイプは眉間からわずかにはずれ、鼻を強打していた。刺さりこそしなかったが、俺はそのまま鉄パイプを振り回して、その男の首もとを、持ちえる力のすべてを込めて振り抜く。

 小柄な男はノビてしまい、地面にうつぶせに倒れる。俺は残った二人に向かっていく。逃げる男たち。俺は鉄パイプを投げつけるが、当たることはなく、切なく空洞の音が響いた。

 右腕の傷がひどく痛んだが、俺は病院をめざした。

 傷を隠して、できるだけ早く走る。おびただしく俺の右腕から紅い血液がしたたっていた。額に汗が拭えども、拭えども流れてくる。体が冷たくなっていくのが分かって来た。

 奏の笑顔が、瞼の裏にある。

 薄れそうな意識の中、俺の景色はゆがんでいく。病院の入り口にはいると、俺はひざを折ってしまった。頭蓋骨が地面に抵抗なく落ちる音が、病院中に響いたことだろう。

 冷たい病院の廊下から、俺は人が地を踏みしめるごとに織成す振動音を、鼓膜にジンジンと感じた。目の前の景色が、少しずつ漆黒に包まれていく。俺はただ見ていることしかできなかった

 暗い世界の中に、俺の両親の声がした。俺の枕元で母さんが泣いているのがわかる。洗いたてのシーツのにおい。何かが俺の上にかけられているのがよくわかった。目が開かない。俺は手を母さんに持っていきたくて、できるだけ力を入れようとしたけど、なぜかこの体は動こうとはしてくれなかった。耳と、鼻が妙に周囲の状況を伝えてくれた。

「亮…なんてかわいそう…」

 母さん、そんなに泣かないでくれ。その言葉すら、俺の喉から出てこない。

「奏ちゃんも…本当にかわいそう…。」

 奏…。そうだ、奏だ。

「なんで…こんなことに…」

 親父の声も震えている。その他にもたくさん。おじさん、おばさん、みんなが泣いている。鼻を大きくすする音。

俺の瞼が次の瞬間開いた。

「奏!」

 俺は勢いよく状態を起した。母さんが俺を抱きしめる。周囲の安堵した表情が目に入ったかと思うと、刹那のうちにその表情は悲しみに変わってしまった。

「親父…奏は…」

 静かに俺の隣のベッドをみる。そこには静かに眠ったままの奏が横たわっていた。俺は母さんに左手を添えて離れるよう促そうとした。そのとき、俺は右腕に包帯がまかれていることに気がついた。

「奏…」

 ベッドから出て、母さんの制する手をそっと振り払う。奏に近づき、包帯の巻かれた右手をかばいながら左手を白い頬に添えた。あたたかい。

「奏は?…」

 息はしている。

「奏はどうなった?…」

 においもあった。奏の母親がわっと泣き崩れてしまう。それをおじさんが支えるのを横目で見ていた。

 親父が口を開いてくれた。

「昨日夜、事故にあったんだよ…」

「………それは知ってる…」

 俺は親父に向き直った。

「……もう……起きないらしい…」

 どういう意味か、理解できなかった。

「…起きない?」

「そうだ…奏ちゃんは…もう起きない…」

「なにが?…」

 つらそうな親父に、俺は当たるように問い続けた。

「……分かってくれ、亮。彼女は…もう」

「………奏は…起きないのか?…」

 心が壊れるときの音を、俺はそのとき確かに聞いた気がした。

 俺と両親は、奏とおじさんたちを残してひとまず帰ることになった。

帰りの車の中で、俺は、明るくなりかけた空を見上げる。

 雲が、昨日と同じく一つもなかった。鳥たちが行き交っている。きっと、今日は天気がいいのだろうと思った。風間さんと宮路に説明しないといけない。残念がるいかもしれないが、仕方がない。なんなら、俺が作るのもいいかもしれない。ミートボール丼、だったか。あれなら作れそうだ。俺はごめんだから、奏と同じ弁当をたべたい…。

 お前の弁当が…俺は食べたい。

 お前と…今日も…弁当を…一緒……

 喉が痒かった。明るい空がにじんでいくのを、俺はとめることができなかった。こらえきれない声が漏れてしまう。

 昨日、目の前にあった今日は…昨日、立てたはずの予定は…今日もあるはずだった奏の姿は…いったいどこにいったのか。

 あの独特な笑い方がかわいかった。

 あの鞄が似合っていた。

 あの髪型は毎日変わっていた。

 ベージュのジャケットはお気に入りだったのだろうか。

 あったのに…すぐそこにあったのに…手の届くところに…抱きしめられるところに、奏はいたのに、俺は何で抱きしめなかったのだろうか。

 いいたいこともたくさんあったのに、言わなきゃいけないことも、これから言いたいこともあった。なのに、急にこんなことになるなんて、誰も考えたりしないだろう。

 こんなことになるのなら、俺はどうしてもっとはやくあいつに言わなかったのだろうか。

 好きの一言で、俺は何を失うことを恐れていたのか…。

「奏…」

 お前を失うことになるのなら、俺は何を他に恐れたというのだろうか。

 部屋に帰ってきた俺は、開かない窓に手を押し当てる。奏はそこにはいない。

 昨日のままの部屋が、俺の目の前で静かに奏の帰りを待ち続けている。それを見ていると、俺は切ない気持ちを抑えきれない。

 俺の右手の指も、まったく動こうとしなかった。ピアノはもう弾けないのだろうか…帰りに両親からは、ピアノを弾くことをあきらめろという言葉を貰ったが、ありがたいことこの上ない。

 奏を失って、俺のピアノを失って。他になにが俺にできる。なにが、残る。

 ふと、ピアノの上に置いてあった、パペットが目に入った。

 それをやさしく抱きしめる。奏の、あの夜の笑顔。それがよみがえってくる。

 思えば、あの夜から俺たちは近づいていけたように思う。このパペットが、俺たちをここまで近づけてくれた。奏の声がよみがえってくる。

「わ、わたしね、パペットを作るのが好きってい言うか、得意って言うか、手芸は全部好きなんだけど、その中でも一番好きなのは、やっぱりパペットをつくることで…だからその…」

 ドッと涙が再び溢れ出した。パペットを強く、強く抱きしめる。

 何でつらいことはここまで思い出してしまうのか。そのときの奏の表情を、照れくさそうな仕草を…もう一度、何度でも俺は見たくなってしまう。窓を見ると、

「エヘヘヘッ…」

「か、奏…」

「あ、あれだね…はずかしいね。」

「…………」

「じゃ、じゃあもう寝るね…おやすみなさい…。」

 キスをされた頬に触れる。いまは、俺の流す涙でぬれた頬。俺はさらにパペットを抱きしめ、背中を丸くして嘆いた。

「ごめん…奏…ごめんな…」

 人形から奏のにおいが、微かに香った。その香りは俺の心をひどく締め付けてくる。

「おれ…お前にいえなかったことが…言いたいことがたくさんあった…」

 今思えば、お前は楽しかったのか…ほんとうに笑えたのだろうか…俺といて嫌じゃなかったのだろうか…。

「…もっと…もっとお前といたかったのに…」

 お前は、俺の気持ちをしっていただろうか…俺は…お前にいえなかったこと、いまならきっと言えると思うんだ。もう一度だけでいいから、お前に会いたいんだ。どうか…神様。

 俺の頬を伝って、涙がパペットにしみこんでいった。

「お前のこと…好きだったかもしれないのに…」

 肩を落として俺は言った。

「…………………ほんと?」

 ちょうど俺の高等部から声がした。それは確かに…

「!」

 周囲を見回した。確かに、奏の声だった。

「奏?」

「亮くん…今言ったこと本当?」

 頭の奥底から、奏の声が確かに聞こえてきた。俺は窓に駆け寄る。息を整えて何度も見直したが、そこには誰もいない。必死に俺の部屋を隅々まで探す。

「亮くん?」

「どこだ奏!」

 すると、手元のパペットがもぞもぞと動くのを感じた。思わず俺は人形を目の前に突き出して構える。

「……まさか」

 申し訳なさそうに、奏の声にあわせてパペットが小さな両手で人工的な頭を触っていた。俺の顔中の汗腺から汗が噴き出し、冷たくなる。左手に携えられたパペットは、再び奏の声にあわせて動き続けた。

「亮くん…なんか…これ…って…」

「………ぉ…ぁ…」

 一人と一つは息をのんだ。

「えええええええええええええええええええええええええええぇ!」

 声が朝の月下家に響き、両親が俺の部屋にかけてくる足音がした。

 その日、俺たちには奇跡が舞い降りたことは、疑いようのある事実になった。


最後まで読んでいただき、ありがたく思います。

ぜひ感想を添えていただければ、今後の参考にもなります。

どうかよろしくお願いいたします。   夕 結花


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