第一章 「朝」
耳先が痛くて、鼻先が冷たくて…俺は肩を小さくして朝の冷え切った通学路を歩いていた。
幾度となくこの季節を味わってきたが、その度に俺は指先や体のあらゆる末端を冷やされ、マフラーに鼻先を沈めたり、上着のポケットに手を突っ込んで見たりして、北風の侵入を食い止めようとしている。しかし、さほどの効果も期待できるわけもなく、バカらしく北風は入り込んできて、俺の体を冷たくしてくれる。
俺は苦し紛れに腹から息を搾り出して吐き出し、その吐息が白い湯煙に変わるのを利用して、マフラーに暖かさをもたらすことをただひたすらに繰り返していた。
この季節、軽くなった空気は、どこか湿り気を帯びている。空は重い雲が覆い、よどんで静かに漂っているが、目に届く範囲で太陽の光が何本かその雲に刺さっていのが見えた。
後方から足音がして、俺は振り向かずに足取りを緩やかなものにする。
「亮くん、待ってよ…。」
かろうじて聞き取ることのできる高い声。
聞きなれた彼女の高い声。
それは、俺の頭を撫でるように聞こえてきた。
足取りをしっかりとその場でとめ、俺は肩をすくめたまま面倒くさそうに振り返った。
彼女は毎朝俺の後ろにいて、いつでも、大体そこにいる。彼女とは…幼馴染、七瀬奏のことだ。
「お前が遅いんだよ…先にいくからな。」
「ま、待ってよ。」
奏は焦りをにじませ、駆け足で俺の後を追ってくる。
短く切った奏の襟足が微かに見え隠れし、対照的に伸ばした前髪を右側に結っている。いつもの白い髪留めがその前髪と一緒になって弾んで、それに連動するように長いスカートがヒラヒラと軽やかに踊るようにゆれていた。
俺は奏が距離を縮めるのを見届けると、冷たく湿ったアスファルトから足をあげた。奏は一定の距離を保って、俺の後をつけてくる。それが俺たちの朝の風景で、毎日繰り返してきたことだった。
物心もつかないうちから、俺と奏は隣り合う窓を介してよく一緒に遊んでいた。
引っ越してきた年が一緒で、年齢も同じで、部屋が隣合っていて、互いにまだ友達がいなくて。部屋に入って、気がついたときから俺たちは仲良くなっていた。奇妙な偶然が続くとおもったが、実は両親が友達だったことを、小学生になるころに聞かされた。
それから俺たちはずっと一緒に登校していることになる。
現在は音大に一緒に通っているが、正直、奏が俺と同じ音大に入学希望していたことには驚いた。腐れ縁とはこういうものをいうのだろうと、しみじみと感じる。
俺たちの通う大学は、丘の上に位置している。電車、バスを乗り継いで、途中、朝日が体を温め始める頃に差し掛かる坂道がある。通い始めた頃は、それなりに険しい坂道に見えたものだったが、通いなれるとそうでもなくなってくるものだ。
しかし、入学したての頃は、体力の皆無な奏が道中で疲れてしまい、その度に俺が手を引いて大学まで通っていた。体力に自信があるわけでもないのに、俺はその早朝強制的重労働に多少うんざりしつつも、幼馴染のよしみで奏の手を引っ張り続けた。
そのかいあってか、奏が少し慣れてきたような兆しを見せ始めたのは、今年に入ってからだった。一人でその坂道を、息も絶え絶え登りきるにまでになったことは、かなりの成長と成果だといえるだろう。結局、俺は奏がのぼりきるまで、大学の門を前にして待っているのだが。
大学についても、俺と奏は同じ講義を聴くこととなっている。
通学路の坂道で息を荒げる奏は、大体朝の講義を突っ伏して過ごしている。もちろんのことだが、俺はまじめに講義を聞いて、奏の講義終了後の質問攻めに備えることにしている。
午前中の講義を終えると、俺は数人の友人と大学の近くにある喫茶店に昼食をとりに向かう。そこには、さすがに奏の姿はない。
今日もいつもの昼休みがやってくる、はずだった。がしかし、少しばかり勝手が違ってしまったようだった。
一緒に昼食をとりにきたはずの友人の数名は、俺のそばから距離をとり、喫茶店内でいま進行形で繰り広げられている女同士の闘争と、その中心にいる俺の行く末を心底楽しんでいる様子だ。
「あんた誰なの?」
「あんたこそ誰なの?」
二人とも俺の今付き合っている女たちだった。
先に言っておいたほうがいいかもしれない。俺はそもそも、来る者は拒まない主義だ。浮気なんて認識は最初から俺の中に存在しない。むしろ浮気は男にとって、ステータスだとさえ思っている。結果、こうして度々俺を種に女たちが闘争を起こすというわけだ。
「この前からどうも変だとおもったのよ…まさかこんな女が他にもいたなんて。」
「あんたがこんな男だとは聞いていたけどね…」
どうやらこの二人は妙なところで意気投合を果たしたらしい。ふてぶてしく俺の顔を睨みつける女たち。俺は耳をかいて、あくびを一つ。だらしなく椅子にもたれかかった。
「あんたふざけているの? 目の前に女が二人こうしてあんたのせいでケンカしてるんでしょう?」
「何とか言いなさいよ! どっちが本命なのよ!」
「わかった…わかったよ。いいから静かにしろ。」
女どもの顔が迫るが、俺はそれをさえぎるようにスッと立ち上がり、その二人の肩を軽く二回ほどたたく。
「なにが静かにしろよ? あんたがこんなことするからでしょう?」
「余裕こいてないで言い訳の一つでも…」
俺は声を挟み、一言いった。
「ピーピーうるせぇんだよ、アバズレが。」
次の瞬間、俺はその喫茶店の天井を、仰向けになって見上げていた。
頬に痛みがじわりとじわりと脈打ってくる。口の中に鉄の味が広がっていった。
「いってぇ…」
天井の風景に一人の男が笑顔で現れる。
「ははははははは!」
俺が痛みに顔を歪めているにもかかわらず、俺の周囲で修羅場を楽しんでいた友人が次々と腹を抱えてこちらに寄ってきた。俺がのびている間に、どうやら女たちは出て行ったらしい。
俺は上半身の持ち上げる。
「うるせぇな…ぃってぇ…」
「ははは! でも毎度、毎度お前もこりなねぇな、女と付き合ってそんなになるのなら、俺なら女と付き合ったりしねぇな。」
「ほんとにバカ! 俺もそう思うぜ。」
「いやー、でもホントいいもの見せてもらいましたよ!
次々と言いたいことをぶつけてくる。
「お前らうるせぇっていってんだよ…」
うずく頬をかばうように覆いながら、俺は立ち上がった。ふと喫茶店の窓の外に視線を送る。
向かいの本屋に奏がいた。友人だろうか、数人の女子となにやら笑い合っている。
「はいはい。黙りますよ。プレイボーイな亮様がそうおっしゃるのなら…。」
奏が俺に気がついた。驚きの表情を見せたかと思うと、先ほどの友人になにやら話し始めた。
「ん? 亮? 無視するのか? お前無…」
奏は友人になにやら断りを入れ、急ぎ足で喫茶店に向かって走ってくる。喫茶店の扉を両手で開け、何もないのに転げるところまで、俺は終始奏を見つめていた。
こけた拍子に長いスカートがふわりと舞い上がり、盛大にこける奏。スカートがはだけて、店内にいた男という男が生唾をゴクリと飲み込んだ。汚れのないことを思わせるような細い太ももを、露出させていることに気を配ることもなく、奏はいち早く上半身を腕で持ち上げて俺と目を合わせた。
「亮くん! そのホッペどうしたの?」
店内が静かだったからか、その声はまっすぐ俺に飛んでくる。
「いや…どうしたって、お前こそどうしたんだよ? こんなところに走りこんできて…」
「え? あ…いや、私は」
最後まで言い切ることなく、奏は言葉を喉にもどした。視線をわずかに落とす。
「それより奏。」
「え?」
「お前スカート…。」
その言葉を発した途端、周辺にいる男たちからの殺意に満ちた視線が、俺の体の四方八方に突き刺さってきた。
「え? うぁあ!」
奏は赤面して立ちあがり、身だしなみを整えた。
一方、俺の背中を冷や汗が、かゆくする。
「ご…ごめんなさい、みなさん…あの、御見苦しいところを…。」
「いやいや、いいんです。全然、全然構わないんですよ。」
店中の男の声が重なった。付け加えるが、俺の声は除いて。殺意に満ちた矛が瞬時にやわらかくなるのを、俺はひしひしと感じずにはいられない。
奏は体中の血液を顔に集めたまま、逃げるように喫茶店のドアノブに手をかけた。
「あの…それでは…」
「はぁーい、じゃあね、奏ちゃぁぁん…」
ここまで声が重なると、練習をつんでいることを疑いたくなる。何かの異教徒のように奏が店から完璧に退室するまで、俺以外の男たちは手をふり続けた。
「何をしに来たんだよ、あいつ。」
俺は肩の力を抜きながらつぶやく。
ドアが閉まった瞬間、俺はむさ苦しい男に囲まれた。暑い息がかかる。
「な…なんだよ。」
「お前…まさか奏ちゃんに手ぇ出したんじゃないだろうな?」
恐ろしい形相だ。よくみたら胸元にこの店のマスターの名札がついている。
「俺たちのアイドル、奏ちゃんに何であんなに親しげに…しかも、お前の傷のことを…」
拳を握っているやつがほとんどだ。
「い…いや、親しいもなにも、あいつ俺のすぐ隣に住んでるし…。」
「な…」
一人の男が声を上げたが、男は踏みとどまり、一息おいて周囲の同士を見渡し、小さな声で「せーの…」と合図をとると、
「なにぃぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいいい!」
男の声が重なるとこんなに耳鳴りがするとは思わなかった。合図を聞いた時点で、耳に手を当てておいてよかった。
「合わせなくてもいいだろうが…」
その後、俺は講義が始まるギリギリまで、そいつらが語る奏伝説を聞かされることになった。
講義を終え、帰り道。俺は昼間、奏伝説を聞かされ続けたおかげで疲労しきっていた。奏は心配そうな表情を横からのぞかせてくる。
「なんだかとても調子悪そうだよ? それにそのホッペ…すっごく痛そう…大丈夫なのかな?」
「あぁ…絶好調だ。心配いらない。まったく問題ない。お前のドジッ子っぷりを延々と聞かされたから、俺はもう元気満天だ…」
「な…なにかな? それ…」
思い当たるフシがいくつかあるのだろう。うつむいて声が小さくなっていった。
「ん? 知らないのか? かの有名な奏伝説を。確かあれは奏伝説第二十話だったかな…」
奏の顔が高揚していく。夕日で照らされた顔が必要以上に赤くなっていた。
「基本的に、ノートを持たせるときは、抱えるほど持たせてはいけないらしいな。でないと、今のところ確実にこけるドジを起こす。」
「………」
さらに肩を落とす奏。もはや言葉も出ないといった感じだ。
「それ以外にもたくさん聞かされたなぁ、奏伝説…」
喫茶店の男たちの顔が眼に浮かんでくる。徐々に眼に破棄がなくなっていくのが自分でも分かった。
我に返り、思い出したように俺は奏に問いかけた。
「…そういえば、今日は何で喫茶店に来たんだ?」
「あぁ、あれはあの…」
顔をあげた奏だったが、どうやら言うか言うまいか迷っているようだった。
「どうしたんだよ?」
迷子に道を尋ねるように俺は聞いた。背丈の小さい奏の顔をのぞくと、上目遣いでこちらをとらえてきた。
「…亮君がホッペを赤くしていたから…その…あれだよ…だ、大丈夫かなって。」
俺は殴られた頬をそっと撫でる。口元を緩くなるのを隠すため、マフラーを口元に巻きなおし、背筋を通す。冷たくなりはじめた空気と、茜色に輝く光をその頬にかすらせた。
「そっか…。」
そう言って俺は奏の肩を軽くたたき、歩くよう促した。
「そうなんじゃないかと思ったけどな。」
奏の顔を見て俺は笑った。
安心したのか、奏の緊張は解けていた。
「……うん…。お節介だよね。」
「うーん…あぁ。たしかに、お節介だ。でもまぁ、気にはならない。」
隣には奏の微笑があった。
足並みをそろえることなく、俺たちは大学の門へと歩いていた。途中俺はかすれるような小さい声で一言ささやいた。
「あ…がと。」
「え?」
「なんでもない。」
奏は不満そうに頬を膨らませたが、俺はその顔を見て笑う。ごまかせたかどうかは分からないが、俺たちはいつもより距離を縮めて歩いていたと思う。
その日の帰り道は、なんだか温かくて、寒さに肩をよせる事もなかったのだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
連載になりますので、ぜひ感想をお聞かせください。次回作の参考になります。
二人の行く末になにがあるのか、ニヤけたり、笑ったりしながら読み進めていただければ幸いです。