星見のエンデール
「どうしましょうか。あれを狩ればいいのですよね?」
行儀よくお座りしたジーイェさんが問うてくる。わたし達は今、共に草むらに身をひそめて機会をうかがっている状態だ。咆哮と地響きが微かに聞こえる程度には近くに、緑色の巨大な竜がいる。きっとあれがワイバーンなのだろう。
ゲームやアニメでモンスターを見たことはあるけれど。視界に映るあの竜は生きている。声がびりびりと空気を震わせるものだなんて体験したことがなかったし、魔物側の命がけの抵抗がここまで切ないものだと思わなかった。あの竜だって生きているのに、これは人間の勝手?
とはいえ怖いものは怖かった。湿った鼻先を摺り寄せてきてくれる狼さんの温かさがとても嬉しかった。
「ノノカ、長い歴史の中で人間は知恵を、魔物は強大な力を手に入れました。もしあの竜が雛を攫われたならば人間を殺そうとするでしょう。やられる覚悟がなければ狩りはしてはならない。お互い様……そういうことです」
「うん……」
わたしだって動物の肉は食べる。それに今ここで負けてしまったら、逆にノエルさんや公爵様やアンブロシアさん、ロロやユーグさんが危ないのだ。だから、みんな戦っている。
ぱちんと両手で頬を叩いて気合いを入れ直す。へんちくりんな理屈かもしれないけど、それでもいいのだ。
「ありがとジーイェさん」
行こう。そう思って腰を浮かせかけた時だった。
「……待って。誰か来ます」
早口の囁き。お城の人か誰かだろうか。この緊急事態なら見つかってもそこまで大事にならないような気もするのは甘いのかな、と思いながらも一緒になって茂みを見つめる。ちょうどワイバーンの方角にあたる場所だ。
「魔物ではなさそうですが……何か、嫌な感じがします」
と、その言葉が終わると同時かそれより先か。
まさしく上機嫌な白衣姿の女性?が姿を現したのだ。高く結い上げた黒髪と、印象的な金の輪っかのイヤリングが揺れる。糸のように細い目だから瞳の色はわからないけれど、笑っているように見えるのは気のせいか。この戦場にそぐわない格好で、ひとりで、しかも何故だか軽やかな足取りで。た、確かに怪しい!
「……」
「……」
目が合った、のか?
わたしらの方を向いて歩みを止めた白衣の人は、あろうことか道端で知人に会った時のような歩調で近づいてくる。ジーイェさんが唸り声をあげつつ、庇うように前へ数歩出た。それすらも怖くないのか、まったく白衣の人は動じる様子もない。この世界の人は狼も見慣れている?
なんだか豪奢な着物とかの方が似合いそうな雰囲気だ。黒髪だし。なんて場違いなことが頭の隅に過ったあたりで、
「やあやあ、君らのことを指していたのか、星のお導きは!」
「えっ? えっ?」
そのあまりの気安さに、咄嗟にジーイェさんの顔を見やってしまう。彼はますます目を細めていた。というか、星のお導きってなんだ?
「これならあのワイバーンを血みどろになりながら調査しなくても済むね。さ、じゃあ向こうへ行こうか。あの魔法使い共に文句も言ってやりたいしね!」
「ちょちょちょたんまたんま!」
そのまま腕を引かれそうになり慌てて振り払う。声と腕力で確信したが、この変人さんは男性に違いない。
まあそりゃこれだけのことをして、わたしを女神と崇めるジーイェさんが黙っているはずもなく。「ノノカから手を離せ」とそれは恐ろしい低温(いや、低音でもあったのだけど)ボイスで仰った。
しかしそこからが早かったこの変人さん。割って入った狼からさすがに手は引っ込めたものの、懐から名刺サイズの紙を取り出してわたしの手の中に押し付けてくる。
「なるほど、喋るガルムも一緒だなんてさらに面白いね! さすが、“千年の大星”が観られただけあるよ。あ、それは僕の名刺ね。あとで星見の塔に来ておくれよ、出来れば二人一緒に。絶対だよ! さ、というわけだからさっさとあの竜の調査も済ませないと」
と、ここまで一気にまくしたてる。ばかりに留まらず、勝手に先導してワイバーンの居る方向へ向かって歩き出したのだ。
渡された名刺はサイズこそ日本のものと同じだったが、羊皮紙のように歪で褐色がかっており、良く言えばどこか味がある。おまけに異世界の文字が読めない等という以前に、幾何学模様みたいなものがたくさん描かれていて、さながら高架下の落書きの如しだった。これ、どうするの?!
ともかく、なんだか変な人に出会ってしまったけれど為すことは変わらないのか。わたしとジーイェさんは互いに顔を見合わせて、それからわずかに迷ってマイペース変人の背を追いかけた。
道中、白衣の男は出会った時よりもずっとご機嫌で、スキップでもしかねない勢いの歩みだった。が、移動するのはなかなかに速く、ウキウキと独り言をまき散らしながら進んでいく。
わたしに寄り添うジーイェさんは終始不機嫌で、従ってくれたことに感謝はしつつも、近くに居る身としてはちょっとどころでなく怖い。そのオーラが臨界に達しようかというとき、変人がいきなり駆けだした。
「青いの! 黄色いの!」
叫ぶ。青と黄色で表されるような人々といえば、と期待を込めて追い付くと、やっぱりそこにいたのは二人の魔法使いだった。良かった、無事だったんだね!
すっかり地響きが腹に響く距離で、でも魔法使いというのは遠距離からの援護が多いのか、まだ少し会話するくらいの余裕はあるみたいだった。ワイバーンの足元は氷漬けにされて動けないようだったし。
果たして振り返った二人はわたしの顔を見て唖然として口を開けた。一般人がこんな場所にいること自体とっても迷惑な話なんだろう。わかってる、すみません――ごめんなさい成り行きなんです申し訳なく思ってます悪気はないので許してください!
結局わたしが浮かべられたのは、言い訳しようかしまいか迷った挙句に相手の反応を伺おうという、下手に出ようとしたが失敗した曖昧な作り笑いじみた表情だけだった。
「え、ええっと…………どう、も?」
「どうもって……! なっなんでお前がここにいるんだよ?! エンデール、てめえのせいか!」
エンデール。それが白衣の彼の名前なのだろうか。しかしここまで口調を荒らげたユーグさんは初めて見る気がする。湖の件の時と似ているかも?
「失礼だなぁ、青いの。この子らは元から近くにいたよ。僕が見つけたんだ」
「この子、らァ?」
不満からか沈黙したままだった狼さん。顔色をうかがうように横を見やると、「ノノカ」とアイスブルーの瞳もこちらを向く。
「これが、ノノカの友人ですか? 危害を加えない?」
「そう……うん、大丈夫」
たぶんね。
「この人たちはわたしを助けてくれたの。だから、」
出来ることがあるのなら力になりたかった。最後まで言う前に彼は視線を逸らし、何故かノエルさんの方を向いた。それまで真剣な表情で狼さんを観察していた彼女は、一瞬ぎょっとしたような様子を見せて、それからどこかぎこちなくうなずいてみせる。
どうしたのかと問う暇もなく、狼さんはキッと顔を上げて竜を見上げる。ぞわりと背筋が粟立ったのは殺気というもののせいなのか。気高く美しい“夜の狼”は跳躍のために身を縮めた。
「女神。依頼を、こなします」
ただ一言。――それは野生の瀬戸際だったからこその事務的な口調だったのかもしれない。
ともかくその獣は文字通りの疾風となって、一足飛びに魔物へと飛び掛かった。
「ジーイェさんッ!」
いくら巨大とはいえあの体格差だ。思わず叫べば腕を引かれる感覚。見上げると、青の魔法使いがわたしを背から抱くようにして引き寄せるところ。
「見んな!」
ユーグさんが手で両目を覆ってくれる直前。それは赤い赤い花火が咲くのが見えた途端、わたしの脆い心はぽっきり折れたみたいで。
怒りに震えるような咆哮を聞きながら、ぐるりと視界が暗転した。




