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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

もうここに君はいない

その人の終わった物語

作者: 沙羅泉

前を歩く背中を見やる。

今朝、天気予報で見た通り、背後から分厚く暗い雲がにじり寄ってきている。

遥か遠くから見下ろしていた太陽は、地上を這う雲によって隠されようとしていた。

今日ここに来たことを、目の前のこいつは偶然だと思っているのだろうか。

耳に迫るセミの音は、なぜここに来たのだ。と、その心を知っているくせに。と、こいつの代わりに詰っているのだ。

ちらりちらりと振り返りながら歩くこいつは、なぜか遠く昔を思い起こさせて、柄にもなく感傷に浸ってしまう。

こうやって、その日を呼び覚ますようなことをしたのは自分自身であるのに。









その日は今日のように暑い日で、遠くの空には雨を抱えた雲が大きく翼を広げていたのだと思う。

近づいて来る影には気付きもしないで、暑さから逃れるために屋敷の裏手にある山の奥、魔の住むといわれる森にやってきていた。

欝蒼たる密林は小さな生命を取り込んで隠してしまう。

八百万の神々を信仰する者共にとってこの森は、魔であり、神であったのだ。

標のない森の中を導かれるように進む。向かう場所は魔の住む家、まさしく己も魔に魅せられた者共のうちの一人であったのだろう。

生家の柵から抜け出し、煩わしい些末なことから解放される、行く先を塞いでいた木々は開け、大きな杉の木が悠々と枝葉を伸ばす、ここがお気に入りの場所だった。

太い根に腰をおろして、いつも持ち歩いている美しい黒の横笛を懐から取り出した。

心地よい風が髪を攫ってはくすくすと笑う。

この空間には己以外のものはいない。息を吸い込んで笛に唇を乗せた。

あらゆる場所を旅してきた。望んだものではなかったけれど。

いつだって己は救える立場にいて、それはつまり、切り捨てなければならない立場でもあって。助けたくて、なくしてしまったこともあった。

記憶に残る音色は、祈りの唄だ。残して逝く者を思う唄だ。

今の己には何の因果もないのだけれど、時々こうして記憶に甦らせるために奏でるのである。

なにより、彼らが望んだことは、忘れないでいることだけだったから。

約束を守るために奏でるのである。

薄れないように、消えてしまわないように、奏でた音色は魔物に吸い込まれていってしまうから、すべてが吸い込まれる前に、次を、次を、つぎを、


血のにおいがした。忌々しく、懐かしく、それは罪の香りだ。

閉じていた眼を開けると、すでに空は薄暗くなって遠くに見えた雲はすぐ近くまでやってきているのがわかる。

いつからいたのだろうか。罪を運んできた者。血まみれの男が正面の木に凭れかかっていた。

腹部を押さえているがあふれる血は周りに赤を振りまいていて、息も荒い。

落ち武者ではないだろう。近くで戦など起こっていない。

赤黒く変色してはいるが、そこらにあるような布で縫われた着物ではない、それなのに手に持つ刀は不釣り合いにも業物ではないことが明らかで、使い物になりそうもない。

年のころは己より少し上だろうか。

何があったのか聞くまでもない。お家騒動などこの時代でなくともありふれたことだ。兄か、弟か、殺されかけたところを、刀を奪って逃げたのだろう。

静寂があたりを包んでいた。

ふと視線が重なる。


もう吹かないのか?


血反吐に交じりながら聞こえた声に首をかしげ、納得する。

笛の音の引き寄せられて来たのだろう。奏でていたのは残して逝く者の唄だったから。

つまり、こいつはもう、生きることを諦めている。助けを乞うこともしない。


あれは、生きるものの唄だ。お前には勿体ない。

ならば、生きてる間は聞けよう?

すでに諦めているではないか。

否、受け入れているのだ。

死は受け入れるものではない。

では、死とは何か。


虚ろだった目が意志をもって己を射抜く。

ぽたり、ぽたり。

雨がそいつを濡らしていく。雨も血も混ざりあって地面を侵していく。森の神に守られながらその様子を眺めて待っていた。次の言葉を。


もう一度笛の音を聞かせてくれまいか。


気まぐれだった。

同じような境遇にあることを察して憐れんだのかもしれない。

一度死を受け入れたのに、死に惑わされて、投げかけた言葉に否定されて、そういうように導いた責任を取らねばならぬと思ったから、かもしれない。

いきたいと言った目が迷子のように不安に揺れたのを見てしまったから、かつての己を重ねて見たのだ。

死に際を助けられたものの執着など知りすぎていたのに。


今のお前では荷が重すぎよう。助けてほしいならば、生きたいならば、そういえばいいのだ。命を乞うことは恥ずべきことではないのだから。


生きることを望みながら死を乞うたものもいたのだから。

だから、お前には勿体ない。今は守るべきものもありはしないのだろう。

百のために一を捨てたものが捨てられた一を拾うだなんて、なんたる喜劇か。

ならばきっとこの結末も救いがないものに違いない。


ついて来い。最後まで着いてこれたとして、幸福な最期はむかえられないだろう。それでもと願うならこの手を取るがいい。迷子の道案内くらいさしたる労もないのだから。

俺は、親とはぐれた子供というわけか。

違わないだろう。

あなたが言うならそうなのだろう。しかし、..._______。

なるほど、違いない。ならば、____________________。









覚えていますか?


いつかのように血にまみれたそいつがこちらをのぞき込んでそうたずねてきた。そいつが纏うのはすべて返り血だったけれど。

今まさにその記憶を見ていた。答えようとして出てきたのは口内に溜まった血で。

これじゃあまるで、あの時と全く逆ではないかと笑いがこみ上げる。

突然に笑い出したのが気にいらなかったのか眉を顰めて今にも泣きだしそうなそいつを見上げる。いつの間に連れてきたのだろう。ここがお前の言う記憶の場所だろうに。

この時代には奇襲や暗殺なんてよくあることで、いつかは起こることが今日だっただけで、あの時と違って生きるという選択肢さえ用意されていなかっかただけで。

覚えているかなんて聞いたのは、思い出してほしいということなのだろう。

そんなこと心配しなくても覚えていると、伝えたくて血にぬれた手で頬を撫ぜた。


幸福な最期は訪れないとあなたは言いました。これがその最後だというのなら、なんとありふれた、なんと残酷な最後なのでしょう。


重力に逆らわずに落ちてきた雫が頬をつたって、流れてきた。

雫は次から次へと頬を濡らしてゆく。

これ以上零れ落ちないように目元をぬぐってやった。

泣いてないですよ。雨が降ってるんです。なんて、確かに雨は降っていたけれど、どっちにしたって同じことだ。

もうほとんど感覚はなくなっていたから。


守るべきあなたがいない世界などに意味はありません。これが最後だというのなら、もう一度を願いましょう。もう一度この場所で、そうすれば死を生としてのぞむことができるから。


それが、お前の最後の望みなら、受け入れよう。

しかし、それは叶うまい。

受け入れたとて、叶えるのは己ではないのだから。

もしも願いがかなって、もう一度があったならその時は...______。








最初にそいつと会った場所に座る。

別れを予期しているのは自分だけに違いない。

お前の願いはかなえられたけれど、あぁ、残酷な運命とやらは、やはり幸せなど運んでくれない。

いつか言った最後とやらが月日をこして、今訪れようとしているなんて。

せめてお前は幸せになってくれ、なんて。


じゃあな。さよならだ。









最後まで読んでいただき有難うございます。


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