青〈王子〉②
〈虎〉
「父さん、俺……ヒーローになるよ」
宣言通りヒーローとなった息子、古賀大臥が、そして、ヒーローとなり命を落として二年が経つ。
古賀虎継には、誰にも言えない悪癖があった。
換気扇の唸るような駆動音だけが耳に届く、化粧室の一角。
彼は仕切りに囲われた狭い個室で、蓋を閉じたままの洋式便器に座り勢いよく酒を呷っている。
「……っ」
言語体を成さない呻きをもらして、空となったスキットルに視線を落とす。口の端から琥珀色が線を引いていた。
ウイスキーの混じり気のないアルコールが喉を焼いて、肝臓と対決する。
死滅しかけていた脳細胞が潤沢を得て、思考の靄が徐々に晴れていく。
当時、高校三年生だった息子が修学旅行から帰ってくるなり警察官である古賀虎継に対して、堂々と「ヒーローになる」と言い切ってみせたのは、もう何年前の話だったろうか。
酒を嗜むようになったのは万人に漏れず、成人を迎えてからになる。そして、酒に溺れるようになったのは……息子を失ってからだった。
虎継は煙草を吸わない。ギャンブルにも興じない。ただ、アルコールに依存していた。
ウイスキーであれば銘柄にも産地にも拘らない。ニッカであれ、ジムビームであれ、フォアローゼスであれ、手頃にアルコールを摂取できれば上々だった。
「アル中はやめられないのよ。依存するような精神状態に陥った時点であなたの負けだったの。そして、そんなあなたと結婚した私もまた……負けたんだわ」
息子の遺体が消えて僅か半年後、妻とは離婚した。
「本当はあなたを救いたかったの。でも、あなたが求めているのは私じゃなくて……死んだ大臥だけなのよ」
その後、息子がヒーローとして派遣されていた押切区に家賃の安い部屋を借用した。
警視庁は災厄の影響で川崎市に移設されている為、通勤は随分と楽になった。
所々、塗装の剥げた、今や形状自体が珍しい折り畳み式の携帯電話が機械的な音律を奏で始める。この国の人間であれば、誰しも一度は耳にするであろう曲調である。
虎継は初めから内蔵されていた国歌を止めて、着信に応じる。
「あ、虎さん。大変っす!!」
相手は、この春に六課へ配属されたばかりの新人、大馬保則だった。
「おいっヤスてめぇ!! 今、どこにいやがるんだ!!」
虎継は酒気をおくびにも出さず、怒鳴り散らした。
「ちょ、ちょいと新台をですね……あ、いや、パトッすよ。パト……今日もこの国の平和を守るぞーって」
「寝惚けてんのか? 何回ぶん殴ればすっきりするよ? あぁ?」
「い、いやぁ、まじ勘弁っす」
「で……なにがあったんだ?」
「赤神っす。またやってくれました」
「粛清か?」
「はい。ついさっきなんすけど、押切駅西口前の交差点で過適合者が出現したみたいなんすよ。んで、目撃者の証言をまとめると、出現からおよそ二分前後で、赤神が到着。あとはいつもどおりっすね」
「つうと、過適合者は?」
「即死だったみたいっすね」
「……死人に口無し、か」
「それと、別件なんすけど……今、はってるんすよ」
「なにをだ?」
「色外の━━東雲紫於を見つけたっす」
「ヤス、俺達も合流する。今どこだ?」
「馴染みのパチ……ごほっ、ごほっ、押切駅西口から歩いて数分の所っす。ほら、最近、サブウェイの新店がオープンしたじゃないすか。あのすぐ近くっすよ」
「で、新台はどうだった?」
「いやー、でないっすねー……はっ!?」
「はっ、じゃねぇよ。色外は全員が過適合者である可能性が高い。無茶なまねはするな。俺達もすぐ合流するからよ……二重の意味で覚悟しておけ」
「りょ、りょーかいっす」
個室を飛び出し、化粧室から廊下へ抜けると、野猿幸太と蜂合わせた。
「虎さん、探しましたよ。ついさっき押切駅の方で」
「過適合者が出たんだろ」
「あれ、もう聞いてましたか?」
「たったいまヤスから電話があってな。いくぞ、現地でヤスと合流する」
「はい」
野猿幸太が咄嗟に腰の後ろへ回した右手には、虎継のものとは違う最新型の薄い携帯機器が握り込まれていた。が、虎継の目はそこまで届いていなかった。
〈鬼〉
「尋ね人ってもなぁ、堂々としてれば案外ばれねぇもんだべ」
とは東雲紫於の方便である。
彼が新台に座れたのは、普段は発揮しないであろう粘り強さの賜物だった。
押切駅最寄のビジネスホテルに宿泊していた紫於は、同室の代継高炉の目を盗んで、白昼堂々と街中へ繰り出していた。
そして、数分後、新台投入ののぼり旗がはためくパチンコ店を見つけると、彼は吸い込まれるようにして店内へ踏み入れた。
世間は平日だと言うのに、店内は騒音と紫煙に包まれており、新台コーナーに目をくれても、後頭部が隙間なく並んでいる。
それでも紫於は諦めず、新台の出玉事情を探るように何度も何度も通路を往復していた。色外の仲間達が彼の脱走に気付くまで、あまり猶予はないだろう。なかでも命琉は、紫於の行動傾向を知り尽くしている。
自室で事足りる椚やミニスのネットゲームと違って、紫於の好む娯楽には人目が付き纏う。故に、普段から厳しく制限されていた。
「あ、そこのお兄さん。よかったら、ここどうっすか?」
パチンコが鳴らす騒音に負けじと大きく張り上げられた声が紫於を引き止める。
「いいんだが?」
彼に声を掛けた青年は、紫於と同じ背広姿だ。
ただし、色合いも着こなしも大きく異なっていた。
皺のない紺色のスーツに薄い水色のシャツ、ストライブ柄のネクタイは結び目を緩めてあるが、紫於からすれば許容範囲になる。
組み合わせの良し悪しはわからないが、紫於の瞳に映る青年は真っ当な社会人にしか見えなかった。
一方で、常にボタンは留めず、首元に鎖骨と銀細工の首輪をちらつかせている紫於の着こなしは、さながらホストである。
「いやー、いきなり上司に呼ばれちゃったんすよー」
「気の毒だべな」
「まぁ、仕事サボッて新台打ってる自分が悪いんすけどね」
「そりゃそうだ。んなら、遠慮なく座らせて貰うべ」
念願の新台は、鬼のような面相をした黄金の騎士が活躍する特撮作品を題材としていた。
鬼……連想されていくのは、昔、悪鬼の渾名で彼を呼び慕った仲間達との日々である。
東方地方で《鬼祭り》と呼ばれる紛争が起きたのは、災厄から二年後。銀火葬の二年前。つまり現在から数えて四年前の出来事になる。
通説として、鬼祭りは当時、七色機関に所属していた命琉を除いて、過適合者は全滅したと語り継がれていた。
しかし、実際、紫於は死んでいない。或いは、彼の仲間内の何人かも、しぶとく生き永らえているかもしれない。
あの日は鬱々とした雨粒が、終始、路面を濡らしていた。
紫於の良き理解者であった遠野浅海の絶命に蜂合わせた妻子の引き攣った表情が、今も網膜に焼き付いたままでいる。
それから二年後。押切区の七色機関支部にて遠野浅海の子供、遠野・アメリア・ピノルークと再会した時、彼は罵られながら安堵していた。
━━元気そうでよかったべ。
《鬼因子の第一世代(当時は鬼の末裔と呼称されていたが)の被験体に選ばれた子供達の内の一人であるピノの存命は、紫於にとって朗報に他ならなかった。
《鬼因子》の元を辿れば、鬼の文字面からも察しがつくように東雲紫於の加担が歯車の一つに数えられる。
Eins細胞を生命維持の補助として機能させたいとの口車にまんまと乗せられて、人体実験の片棒を担いだ紫於。
彼は今でも後悔している。常に負い目を感じている。
「……み、つ、け、た」
段々と見飽きてきた演出に目を細め、過去の回想に耽っていた紫於の肩が突として掴まれた。
騒々しい店内においても、彼の潜在的な恐怖を呼び起こそうと耳朶に這い寄る囁き声。
「……っ!?」
がばっと振り返った紫於の眼前には、黒尽くめの少女が二人立っていた。
色外の夕藤灯と東雲命琉である。
両者とも表情に呆れが滲んでいた。
「言い訳、あるか?」
灯がぶっきらぼうに訊ね、紫於はしおらしく項垂れる。
「なんもねっす」
「……おっとー。ペナルティひとつね。みっつカウントされたら、私の言うことなんでもひとつきく」
命琉は紫於の事をおっとーと呼んで、制約を設けた。
「はい」
二人の怒りを抑えるためには従順に謙るのが最善であると判断し、素直に応じる紫於。
冷房の効きすぎた店内から外へ出ると、先頭に立つ夕藤灯の視界に見覚えのある人影が飛び込んできた。
「あいつはっ」
「……どうしたの?」
唐突に足を止めた灯の背中へ、命琉がぼそぼそ呼び掛ける。と同時に、人影が大地を蹴った。
「避けろっ!!」
灯が叫ぶ。
「んだ!?」
反応の遅れた東雲紫於の視界に真っ赤なマフラーが翻った。
そして、次瞬、紫於の全身をダンプカーにでも轢かれたのかと錯覚する程の衝撃が襲った。
吹き飛ばされた紫於が、パチンコ店の磨かれたガラスを粉々に砕く。
命琉の視界に煌く破片。灯が口ずさむ。
「変身!!」
声紋認識により断線が解除されたEinsが極光を発する。
しかし、広がる光ごと……赤神つがなは、灯の横腹を蹴り飛ばした。
━━変身するまで襲われないのは、あくまでテレビ画面の向こう側だけの話だ。
無言で佇む覆面の死神。赤神つがなの首が曲がり、小さな背丈の命琉を見下ろす。
「……」
麦藁帽子に目元を隠す命琉にも、必滅無常なる断罪の瞬間は迫っていた。