青〈王子〉①
〈藍〉
続いてのニュースです。先日、警視庁宛てに郵送されたとされている犯人グループ色外の声明文一部を警察が公表しました。声明文は二年前の「銀火葬」との直接的関与を認める一文から、構成員一部の名を記した一覧表までが公表され、この件について、警察は現在、声明文に記載されていた人物の身元調査に全力を上げているとの事です。
古びたカーステレオが、雑音混じりに男性キャスターの野太い声を垂れ流している。
雨頃葵は窓の外に映り込む景色の流動をぼんやりと眺めていた。黄色い帽子がぽつ、ぽつと浮き沈みし、赤と黒のランドセルがぐらり、ぐらりと震えて見える。貧血だろうか。
彼女の父親である雨頃透が幼い頃に読み聞かせてくれたグリとグラが頭の奥に並び立って、心配そうに葵の事を見つめていた。
グリとグラはおっきなカステラの欠片を両腕に抱えて「大丈夫?」と交互に喋りかけてきている。
そういえば、朝から何も食べてなかったっけ。
五月初頭の連休を直前に控えた登校最終日。葵の通う中学は、なぜか午前授業の日となっていた。
平日の昼時ながら、彼女は同じ中学の少年と一緒に制服姿のまま多摩区方面へ向かっている。
量販店の駐車場隅に車を止め、休憩を挟んでいるのか、職務を怠っているのか区別つかないタクシーを見かけたのは、ほんとに偶然だった。
近付いて窓を叩くと、朝刊を顔の上に被せて仰向けになっていた運転手は、勢いよく起き上がり、次いで葵達の姿を見止めると、あからさまに眉根を寄せた。やっぱりサボリだったのかもしれない。
現在、葵達を乗せたタクシーは、車道と歩道の見分けもつかないような細い道路を器用に進んでいる。
行先を告げると、運転手は駅を抜けるならば地下道を通るより住宅街を迂回した方が早く着くとしゃがれた声で話した。
葵は果たしてそうだろうかと口に出さずとも怪訝に思っていたのだが、既に押切駅は後方へ遠ざかっているし、どうやら運転手の土地勘は信用に値するものだったらしい。
窓に薄く投影された自分の姿が目に入る。日本の伝統的な風情を写す黒髪は肩に掛かる程度に長く、前髪は綺麗に切り揃えられている。
ふと、初春新たに組み直されたクラス内においても、再び顔を見合わせる事となった級友の一人が、彼女の長い髪を手櫛で梳きながら、ばっさりと散発すればどうなの? と提案してきたときの事を思い出した。
葵はそんな級友に対して、どうしても首を縦に振ることができなかった。
昔、大切な人がよく似合うと褒めてくれた髪を大きく変えたくはなかったのだ。当時のままでいれば、たとえ身長が伸びても、顔付きが大人びても、胸元が膨らみ始めても、きっと気付いて貰える。と、己の感傷を分析してみても虚しいだけだった。
葵が首を預けて寄り掛かっているドアは後部座席左側になる。
一方で、運転手後ろの座席にもう一人の同乗者の姿があった。
二人の距離は、狭い車内にてぎりぎりまで離れている。しかし、その距離感も二人にとっては当たり前のものだ。然したる憂いも滲まない。
鳥の羽みたいにふわふわと弾んでいる淡い金色の頭髪、ガラス細工の様な繊細さを覗かせる蒼い瞳。日本人によく見る青白さとは異なる色素の薄い肌。
同乗者の少年の名前は、遠野・アメリア・ピノルークといった。第二世代の子供達からは王子と呼び親しまれている。
彼はイヤホンの白いコードを胸の内から耳元まで伝わせて、目的地までの空き時間を音楽に任せているようだった。視線は窓の外を向いている。葵からすれば、そっぽを向かれているようにも受けれた。
「ねぇ、ピノ君」
反応なんて期待してなかった。
「何?」
しかし、彼女の口の動きを横目に捉えていたのか、ピノはイヤホンを外すと、静かな車内に声を響かせた。高めの、透明感のある声音だ。
あくまで視線は窓の外に固定したまま、葵は小さく洩らす。
「また女の子を泣かせたでしょ?」
追及とも非難とも取れる葵の口調に、ピノは乾いた笑いを返す。
「泣かせるつもりはなかったんだけどね」
「もうちょっとさ、選べないの?」
彼の日本人離れした容姿が、年頃の女の子達を魅了するのは半ば必然の流れのようにも思われた。
また、ピノは容姿に限らず、丁寧な物腰から始まる落ち着いた雰囲気一つとっても、他の男児とは一線を画している。
ただ、その態度というのが所謂、処世術。表面的かつ側面的一部分に過ぎないと理解している葵だからこそ、彼を恋愛対象とする選択肢は絶対に有り得なかった。
この春、葵とピノが同じクラスになって、既に三回。彼は異性の告白を無碍にしていた。
一度目は、便箋を本人の目の前でゴミ箱に捨てた。彼は期待に応えられない意を明白に伝えているし、言い方も優しかった。赤ペンで付け足すとすれば、それは返事を休憩の最中、クラスの面前ですべきではなかったことだろう。
二度目は、隣の席の子に告白された翌日。お昼休みの給食中に、それこそ昨日の夜に見たテレビ番組の話題を持ち出すかのような軽い扱いで、彼は拒絶の言葉を吐いた。
そして先週には、どこか陳腐な響きではあるが、入学時よりマドンナと持て囃されてきた才色兼備の強気なお嬢様によるアタックを、その場で一刀両断だ。
想像もつかなかったマドンナの泣き姿はあまりにも気の毒で、葵としても、余計なお世話だと自覚していながら、なお咎めずにはいられなかった。
「選ぶって?」
「時と場合を」
「たとえば?」
「たとえばって……」葵は唖然と、声を詰まらせる。
「選ぶっていうなら、僕に恋人なんて選択肢はないよ」
「恋ぐらい、してもいいと思うけど」
「葵ちゃん。僕らにそんな暇があると思う?」
「それぐらい許されるよ」
「価値観の相違だ。僕にとってくだらないものだよ。学校そのものがね。義務教育だから通ってるだけ。ほんとに無駄な時間でしかない。煙草を吸ったとか、チューハイ飲んだとか、いいエロサイト見つけたとかさ、馬鹿ばっかり。笑顔を作るのも楽じゃないよ」
それがピノ君の本音なんだね。
葵は、既に諦めている問い掛けを無言で投げ掛ける。
「ところでさ、葵ちゃん」
と、ピノは背凭れに預けていた上半身を起こした。
ぬくもりの欠けた冷たい眼差し。それは彼が唯一、葵の前でのみ晒す……葵だけがしっている王子様の本性の片鱗。
「さっきのニュース。君はどう思ってるの?」
聴こえていたのか……。葵は嫌悪感が顔へ表れそうになり、堪らず奥歯に力を込めた。
イヤホンで音楽に浸っている彼には聴こえていないだろうと思い、あえて素知らぬ顔をしていたのに。
触れられたくない心の距離へ、容赦なく踏み込んでくるピノ。
「葵ちゃん……茜さんと再会したとき、君はあの人と戦える?」
それは、葵が返答に窮することを知ってる上での王子からの詰問であり、尋問だった。
「僕達はもうさ、対決するしかないんだよ。悩む段階なんて二年前に終わっている。七色機関が僕達に求めているのは、揺るがない勇気なんだ」
「勇気って。昔のピノ君ならまだしも、今の君からは絶対に聞けない言葉だと思ってた」
「勇気はいつだって必要になるものさ。知らないでいる勇気も、見て見ぬふりをする勇気も、あえて嫌われるのもまた……勇気だよ」
「だから君はパーソナルスペースに誰も踏み込ませないわけだ。あ、でも、ほたるは例外かな?」
「あの子は……」
ピノは、自分の事を王子、王子と呼んで、いつもべったりとくっつく少女。屈日ほたるの陽炎のような姿を脳内に描いて、黙り込んでしまう。
「満更でもない?」
「そういうのじゃないよ。ほたるだけじゃない。あの世代の子達は、僕達とは経緯が違うから、そう……同情するよ」
「そういう言い方。もうしないで」
「葵ちゃんだって、内心は僕と同じだろ? 憐れんで、悲劇的な子供達に手を差し伸べて、君は自分が聖母様にでもなったつもりじゃないと言い切れるの?」
「私、ピノ君のそういうところ大嫌い」
「好かれるつもりがないからね」
それきり会話が途切れてしまう。
こんなの、別人だよ。葵は昔のピノの笑顔が日毎に霞んでいくのを自覚していた。
たった二年。されど二年。人が変わるには充分過ぎる期間なのかもしれない。そして、それはきっと彼女自身にも言えることだった。
雨頃葵は忘れられずにいる。ピノからしてみれば、引き摺っていると言い換えても差し支えない遠い日の約束をだ。
「……っ」
その時、葵の様子が急変するのを、ピノは確かに感じ取っていた。
窓の外へ無関心な視線を投げっぱなしであった彼女が、まるで……生き別れた兄妹を偶然にも街中で見かけたかのように大きく瞠目していたのだ。
「あの、ここで止めてくださいっ」
「葵ちゃん?」
突然の呼び止めに、駐車場で一眠りしていた人と同一人物とは思えない機敏な反応をみせる運転手。
ちか、ちかっとハザードランプを点滅させて、車体が端に寄る。
「ピノ君。ごめん。あとお願い」
料金の支払いと、子供達との約束との二重の意味でピノへ謝ると、葵は勢いよくドアを開け、そのまま飛び出していた。
━━絶対に見間違える筈がない。
葵は、垣間見えた面影を追って来た道を戻っていく。
けたたましいサイレンの音が、どこからともなく近付いていた。