赤〈超人〉③
〈赤〉
「勧善懲悪。必滅無常。この世に蔓延る悪へ正義の鉄槌を」
子供達に大人気の戦隊番組《色即是空シキレンジャー》で、赤色のリーダーが言い放つ決め台詞だ。
赤神つがなは、そのリーダーの変身姿を模倣した安っぽい覆面を常に付けている。
Eins絡みの犯罪が日常を脅かす。ヒーローが駆け付け、諸悪の根源を断罪する。彼にとっての単純な行動原理であり、唯一の自己表現であった。
燃え盛る紅蓮の如き赤いマフラーが、右往左往する人の垣根をするすると器用に這っていた。
彼の存在に気付いた人々が、まるで緊急車両のサイレンを耳にした自動車が左端へ車体を寄せるように、滑走路を空けていく。
眼前が開けると、彼はより一層、爪先に力を込めた。
マフラーが首元を占める勢いで背後へはためいている。しかし、赤神つがなは怯むどころか、ぐんぐんと速度を上げていく。その加速はさながらジェット機のようだ。
そして、交差点の横断歩道を直前にして、彼は遂に大地を蹴った。
皮靴が火照った路面から離れ、滲んでいた汗を吹き飛ばす風圧が全身に圧し掛かっていく。人々は目を丸く見開いて、彼の跳躍を追っていた。
蒼い空を滑空していく真紅のマフラー。《超人》と呼ばれる過適合者の赤神つがなは空を飛ぶ。その姿は正にスーパーマンそのものだった。
誰かが、その症状を《末鬼》と呼んだ。
変身を繰り返すたびに蝕まれていく自我。Eins細胞が主人を喰い尽くした果てに残る人外を、末期症状と掛け合わせて《末鬼》と。趣味の悪い言葉遊びだった。
その男は、かつて七色機関の派遣課に所属する一人のヒーローだった。
だが、面影の見つけられない変わり果てた彼の相貌から、誰がその過去を覚れるのだろうか?
罅割れた灰褐色の皮膚。赤黒く変色した網膜。剥げ落ちた頭髪に代わって、頭部を覆う剣山。
醜い咆哮が、ありふれた日常を壊す。
突如として街角に出現した過適合者が理性を失っているのは、誰の目から見ても瞭然としていた。
怯えが瞬く間に伝染していく。
世間には《末鬼》などという固有名詞は浸透しておらず、Einsの毒性も公表されていない。
多くの人間が抱く共通の認識。それは彼がEinsの変身で暴れようとしているという極めて表面的かつ暴力的な一点に尽きる。
プログラミング言語を理解していなくてもソフトウェアが扱えるように、テレビジョンの映像信号を読解できなくてもニュース番組が視聴できるように。
Einsの変身とは、言わばそういう認識である。
過程や仕組みなど二の次で、結果だけが目に留まる。
とはいってもEinsによる変身、即ち過適合者の存在は命に危険を及ぼす。だから、七色機関は隠蔽していた。企業秘密と銘打って、一緒くたに隠し通す。
「セ、セイギ、オレハ、ヒー、ロー」
ほとんど語形を成さない言葉遣いではあったが、男は必死に主張していた。
しかし、断罪の時は刻一刻と迫る。
男が次の言葉を発する暇はなかった。
大地が振動する。男の視界に真っ赤なマフラーが線を引く。
赤神つがなは着地と同時に押し蹴りの動作に移っていた。
男が、赤神つがなの介入を認めるよりも先に、骨の砕ける生々しい音が脳内に反響した。
常人離れした動体視力を有する赤神つがなの眼球には、苦痛で歪んでいく男の表情がありありと投影されていた。
蹴りを受け止めた腹部が湾曲し、次いで全身が逃がしきれない力の反動ではち切れるように吹き飛ぶ。
自動車が交錯する片側二車線の車道上を、一瞬の隙を突くようにして横切る男の影。
車道反対側の雑居ビル壁面に亀裂が生じ、遅れて轟音に街中が軋む。
亀裂の中心部には、絶命した男が埋没していた。
その間僅か数秒。
醜く変わり果てた男の死体を間近に見止めた女性の甲高い悲鳴が上がり、騒ぎが人伝いに拡がっていく。
たった一撃で悪を成敗する必滅の超人。
赤神つがなはただの一言も……シキレンジャーの決め台詞さえも口にせず、男の事切れを確認すると再び空高く跳躍し、空へと消えていった。
後始末は彼の役割ではない。放っておけば七色機関か、或いは六課が処理してくれるだろう。
赤神つがなは、悪を成敗する以外の所作に意味を見出せない。
情状酌量の余地もなく、刹那に断罪する赤き超人。その姿は見るものによってはスーパーマンなどではなく
〈灯〉
「まるで死神だな」
夕藤灯は、偶然にも赤神つがなによる一瞬の決着を遠目に望んでいた。
男が衝突した雑居ビル側の歩道の先で立ち止まっていた灯、その周囲で停滞していた人の濁流が時間を取り戻していく。
「……あのマフラー」
喧噪に紛れて灯の隣に立つ少女がぼそりと呟いた。
少女の名は東雲命琉。元七極彩の紫であり、現在は夕藤灯と同じく色外の一員だ。
飾り気のない質素な黒いワンピースに、麦藁帽子を深く被っている。
容姿に似合わない暗色の背広を好む夕藤灯と並び立つと、まるで葬儀に赴くかの出で立ちである。
人の手によって造形された人形のように欠点の見当たらない美を秘めた命琉は、その小さな唇を開閉させて続ける。
「……灯真の変身姿と同じ」
「赤神灯真って奴は死んだんだろ?」
「……七色機関の発表だと」
元七極彩の赤こと赤神灯真は二年前の《銀火葬》の後、死亡確認と発表されていた。
「……もしかしたら」
「思い当たる節でもあるのか?」
それきり命琉は口を噤んでしまう。元より口数の少ない少女だ。灯もそれ以上の追及は諦めて、本来の目的を声に出して再認識する。
「とにかく、さっさと紫於を捕まえるか」
「……うん。私のセンサーびびっときてる。すごく近い」
夕藤灯、東雲命琉、それに東雲紫於と代継高炉。色外の四人は、拠点となっている山荘を離れて、中央区近辺まで接近していた。
彼等の目的は中央区への侵入経路の下調べである。
本来は人相を知られていない夕藤灯と代継高炉の二名で赴く予定だった下調べに、紫於があれこれと口実を並べて同行を申し出て、次いで紫於が山荘を離れるとなると、命琉も黙っておらず、結果、この四人での出発に落ち着いたのだ。
「あかりー。しおってば、ただ遊びたいだけだから、目を離しちゃだめだよー」
気の抜けるような語調だったミニスの警告を、真に受け止めておくべきだったと悔やんでも後の祭りだった。
夕藤灯は二年前まで中央区に潜伏していた。だから当時の情勢には疎い。
また幼少時より隠し子として夕藤守と楓の愛情から遠ざけられていた彼女には、本来、年相応に育まれているべきである様々な感情が欠如していた。
夕藤灯の生い立ちと、夕藤茜の生い立ちは表裏一体である。
両者の関係を双子と表現するのは正しくない。灯と茜の間にあるのは、父親の歪んだ愛情だ。
だからこそ、父である夕藤守の真意を確かめるため、二人は再び中央区へ足を踏み入れねばならなかった。
数年前に七色機関が本部を構えていた中央区、その地下に夕藤守の研究施設が眠っている。
夕藤灯は、自身の手で父親を殺害したことを後悔はしていない。
一緒に潜伏していた代継高炉の庇護を受けずとも、彼女は己の行いが正しかったのだと信じていた。