赤〈超人〉②
〈透〉
遠くでウェストミンスターの鐘が鳴っていた。
雨頃透は、砂混じりの剥げた芝が続く傾斜状の堤防に尻を据えて、多摩川の河川敷に散らばる子供達を眺めている。
束の間の安穏とした日々に呼応しているのか、物静かな川の水面は陽射しを浴びて、はしゃぐ子供達の汗と似たような煌きを放っていた。
昼時を告げる鐘の音がゆっくりと遠のいていき、再び子供達の遊ぶ声が耳に届く。
じわりと肌に滲んだ汗を攫って、透の脇を浅風が過ぎていく。姿なき風を目で追うように、川を挟んだ先へ視線を向けた。
一切の感傷を拒むかのようにして都市景観を遮って聳え連なる灰色の壁。あの巨大な壁の向こうに《災厄》の地が……中央区が隔離されている。
透が七色機関に復職して、もうすぐ二年が経つ。
「二年か……」
夕藤茜が失踪したのも、雨頃葵
が七色機関に保護されたのも、全ては二年前の《銀火葬》に繋がる事を、透は改めて噛締める。
二年前、七色機関は透に対して、彼の愛娘である葵を人質同然の手駒とした脅迫紛いの取引を持ち掛けてきた。
初めから選べる道など残されていなかったのだ。
現在、雨頃透はEins研究の第一人者として、身を粉にして働いている。
七色機関の出発点であった同期の姿は一人も見当たらなかった。夕藤守も、遠野浅海も、懐森檜士も、干鉛鉛治郎も。
凋落した七色機関の現状を総括する森堂玲とは、過去に面識があるにはあったが、透は彼女の事を信用していなかった。
雨頃透を筆頭に据えて再始動した計画は、《鬼因子》と名付けられている。
《鬼因子》とは、Eins細胞との適合率が……Einsと過適合する可能性が最も高い年齢層である十代半ばの子供達を対象とした人体実験を意味していた。
そもそもEinsとは、原子番号99の元素アインスタイニウムを金属として定着化させた末に生じる放射線が起源となる。
アインスタイニウムから発せられる放射線が、人の細胞を浸食し変化を促す。
その変化はEinsの頭文字の一つでもあるIncarnateと命名されていた。
放射線の濃度を操作する為、アインスタイニウムは一定の含有量で宝石や鉱石と合成されており、それが指輪型のEinsとして世に広まっているのだ。
用途は多少異なるが、指輪型のEinsには放射線を断線する目的で、押し込み型か声紋認識型の安全装置が内蔵されている。
だが《鬼因子》は違う。この計画は人体へ直接的にEinsを埋め込み、より密接的な適合を試みる計画だ。
結果、オーガ・チルドレンと呼ばれる子供達が誕生した。そこに安全装置は存在しない。
つまり、《鬼因子》の子供達は生きている限り、Eins細胞の感染拡大に抗えない。
Incarnateから発症するEins細胞は、いずれ人を喰う。
過去に怪人と呼ばれていた自我喪失の現象は、Eins細胞の侵食率に関係していた。個人差はあるが、一度Einsに手を染めし者は、例外なく破滅の一途を辿ることになるのだ。
またEins細胞には重度の依存性が潜伏しており、Einsは所有者との離別を許さない。
生まれ出る場所は選べないとよく耳にする。しかし、あの子達は育ち行く場所も、死に逝く場所ですら、自分自身で選べないのではないだろうか?
経緯はともかく、現在の雨頃透はEinsの研究に生涯を捧げる決意をしていた。
彼は愛娘である葵や《鬼因子》の子供達を、この忌まわしき呪縛から解き放ちたい一心で、七色機関を利用している、つもりだった。
「透さーん。王子達はまだ来ないんですかー?」
河川敷で遊んでいた子供達の内、三人が透の元へ駆け寄ってくる。
息を切らしながらも真っ先に到着したのは、淡い桃色の頭髪が珍しい女の子、穂純春だ。
「透さん。ほたるが、王子に会えなくて泣きそうです」
大人びて抑揚に乏しい口調と、普段からも鋭い目つき。栗色の髪をさらりと風になびかせている少女の名が久々宮斜世で
「……そんなことないもん」
と唇を尖らせるが、くりくりとした両の瞳を潤ませ、頬を赤く染めている子が屈日ほたるという。
「そろそろお腹すいたよなー」
春達に遅れて透の元へ近付いてきた男の子二人は、直前までキャッチボールをしており、それぞれ片手にミットを付けていた。
先に口を開いた子は、小麦色の肌に坊主頭がよく似合っている柳瀬かれはだ。
「春もお腹すきましたよー」
「姉ちゃんはいっつもじゃん」
と、実の姉である穂純春へ茶々を入れているのが穂純友だ。友の短髪は、定期的にピノ君から黒染めして貰っているのだが、その生え際からは既に姉と同じ淡い桃色が見え隠れしていた。
この子達は揃って《鬼因子》被験体だ。
そして、穂純春を除く残り全員が《七極彩》に括られており、度々、戦地にも立たされている。
《七極彩》は、二年前まで七色機関を代表したヒーローの最高峰の名残りだ。
現在の《七極彩》は公表されておらず、いわば七色機関内部独自のコードネームともいえる。
「そうだね、ピノ君に電話してみようか」
今日は雨頃透にとって貴重な休暇であり、《鬼因子》の子供達と前々から約束していたファミレスへ、ピノと葵の合流を待って、皆で足を運ぶ予定になっていた。
「ファミレスってあれですよね。サラダとかスープとかおかわり自由ですよね?」
「店舗による」
「王子、なにかあったのかな……」
「ほたる。心配症」
「なに食べよっかなー、やっぱステーキかなー」
「僕あれ食べてみたいんだ。ハンバーグが重なってるやつ」
「友、食べきれるの?」
「食えなかったら、姉ちゃんにやるよ」
「し、しかたないですねー。春はお姉ちゃんだから、しかたなく食べてあげますよー」
「春、よだれ」
「じゅる」
周囲で騒ぎ立てる子供達に微笑みつつ、透は遠野・アメリア・ピノルークへ、子供達が王子と呼び親しむ少年へ電話を掛ける。
しばらくコール音が続き、ほたるがいよいよもって泣き崩れるのではないかと心配していたら、無事に通話が繋がった。雑踏にのまれているのか、通話先からは絶え間ない喧噪が漏れ聞こえている。
「もしもし、遠野です」
「あぁ、ピノ君。今どこだい? みんな待ちくたびれちゃって」
「すみません。運良く暴動を起こしている過適合者と遭遇してしまって」
運悪くではなく、運良くか。透は名状しがたい不安を覚えつつも、会話を続ける。
「手荒な真似はしないようにね」
「ご心配には及びません。つがなさんが真っ先に駆けつけて解決してしまいましたから」
赤神つがな。《七極彩》の《赤》である彼の素性は、一切が謎に包まれていた。
かつての《七極彩》のリーダー。完璧超人こと赤神灯真と同じ姓を名乗り、似た系統の過適合をみせる青年だ。
現状、赤神つがなは正義に準じている。寡黙一貫、颯爽と現れては、融通無碍、瞬く間に障害を一掃していく。
その様をもってして、赤神つがなは絶対的正義の象徴して、世間からスーパーマンなどと呼ばれもしている。
「混み合ってない所まで出たら、タクシーを捕まえますので、もうちょっとだけ待っていてください」
「子供達には言い聞かせておくから、あまり焦らないようにね」
「わかりました」
「ときにピノ君」
「なんです?」
「君にとって、色外は……」
「敵です」
透の疑問を遮ってまで、ピノははっきりと告げた。
「透さんや葵ちゃんの心情はお察しします。それでも、茜さんや菜子さんも含めて、色外は僕達の敵です。透さん。お願いですから、あの子達を惑わすような事は喋らないでくださいよ」
「……もちろん。わかっているさ」
「では、切ります。また後ほど」
一方的に通話を切られた透は、動揺を押し隠すように小声で子供達へ内容を伝えると、再び、中央区を囲う壁を見つめた。
透は自問自答を始める。
ピノ君はきっと間違っていない。ただ、あの子の正義感は純粋過ぎるんだ。もし、なにかの拍子に彼の信じ貫いてきたものが覆されてしまった場合、彼は立ち直れるのだろうか……それがとても心配になる。
二年前の彼の、片言交じりの無垢な笑顔が、今はとても遠かった。
ヒーローは正義を全うする度に、悲劇の末路へ一歩、また一歩と進んでいく。
もし、この絶対の悲劇を回避できる可能性があるとしたら、それはもしかしたら━━Einsを焼き尽くす銀の焔を宿す過適合者。
夕藤茜君、彼だけなのかもしれない。
それは雨頃透が一度も口に出した事のない、秘めたる本心だった。