茜〈邂逅〉③
〈藍〉
いつの出会いが私にとっての初めてだったのか、よく思い出せない。
ただ、雨頃家で暮らす様になった彼が、いつも泣きそうな表情をしていたのだけはよく覚えている。
それは表面的にじゃなくて、お父さんにも私にも決して悟られないようにと、隠したつもりになって、誰にも知られないようにひっそりと泣いている寂しい表情だった。
どうすれば、私達と彼が本当の意味で家族になれるのか。私は幼いながらにすごく考えた。
どんなに距離を縮めようと頑張っても、彼は悉く拒んでしまうから。
同じ家で暮らしているのに、同じ卓でご飯を食べているのに、触れようと思えば簡単に触れられる距離に居る筈なのに。
どうしたって、私の手は届かない気さえしてた。
あの日も……彼は、ううん、私のお兄ちゃんは、私達に見られないようにと、人気のない公園で、やっぱり泣いていた。
茜お兄ちゃんに科せられた重荷を、ちょっとだけでもいいから私にも分けてくださいと、私は茜お兄ちゃんを胸に抱きながら、何度も神様にお願いした。
それが、茜お兄ちゃんが初めて私の声に答えてくれた日になった。
本当に嬉しかった。
でも、茜お兄ちゃんが……《銀》として、過適合者達を葬っていた過去を……私は言えなかった。
都合の良い言葉ばかり並べて、結局は嘘をついていたんだ。
そして、その嘘が……私達の決別へと繋がってしまったんだ。
これは私の罪だ。
二年前の決別から、私は誰にも知られないようにひっそりと泣いている。
でも、泣き顔を隠すのはとても難しい。
やっぱり誰かにばれてしまうものだ。
茜お兄ちゃんの場合は、私が気付いて、必死に寄り添うとした。
だけど、私の場合……気付かれた相手はピノ君で……彼の言動は私を慰めるどころか貶すものだった。
だって、これは私の罪だから。
誰かに助けを求めるつもりなんてなかった。
━━僕達はもうさ、対決するしかないんだよ。悩む段階なんて二年前に終わっている。
雨頃葵の脳裡では、王子の言葉が延々と反芻されていた。同時に彼女は自らへ問い掛けていた。
私は……もし、茜お兄ちゃんに会えたとして、何を望むの?
〈茜〉
「俺は、紫於さんと一緒に逃げてくれって、お願いしたつもりだったんだけどな……」
「俺だって言っただろ。茜を置いてはいけないって」
「……はぁ」
夕藤茜と灯の二人は、押切区の表通りから外れるようにして、狭く入り組んだ路地を駆け抜けていた。
過去、押切区で生活していた茜の土地勘を頼りに、二人は行き止まりに足を止めることもなく、着実と、高炉と命琉の待つホテルまでの距離を詰めていた。
茜の銀焔が逃走経路をこじ開け、更には追手の目を眩ます煙幕の役割をも果たした為、時折、後ろを振り返ってみても、追っ手の姿は影一つ見当たらない。
「こうなると、むしろEinsを奪われた紫於さんが危ないんだけどな」
茜としては、灯がここまで頑なに自分の傍から離れないと言い張る事自体が大きな想定外だった。
「大丈夫だろ。あいつ、悪運だけは桁外れだからな」
「そんなカンスト嬉しくないって……」
「茜」
「ん?」
「らしさが戻ってきたな」
言って灯は表情を微かに和らげた。いつもは目付きを鋭くさせて、唇を糸で縫いつけたかのように結んだまま、ぶすっとした表情をしている灯だからこそ、その笑みは映えた。
年相応の少女らしさを不意に垣間見せられた茜は、しどろもどろな受け答えをみせる。
「い、いきなり、なんだよ……」
「いや、むりして大人ぶる必要なんてないって言いたいんだ」
灯の言い方は抽象的だった。
「……わかってるさ。柄じゃないことぐらい」
が、茜は理解を示す。
「ならいいんだ。あのな……お姉ちゃんの前でぐらい甘えてもいいんだぞ?」
「きもちわるっ!! 灯、まじでどうしたんだ!? ミニスになんか吹き込まれたのか?」
今度は理解できなかった。というよりは理解したくなかった。
灯が女の子らしく笑うぐらいであれば、まだ起こり得る。理解の範疇だ。しかし、彼女が自らをお姉ちゃんなどと称するなど、これはもう九割九分九厘、ミニスか椚あたりが変な事を吹き込んだのだろう。
この場に俺しか居なくて助かったな。と、茜は黒幕だと一方的に決め付けた二人へ心の中で呼びかけた。もし、高炉さんが灯のさっきの発言を聞いたら、怒髪天を衝き、椚あたりはどっかの暗黒大陸みたいに捩じ切れたかもしれない。
「そうじゃない。ただ……俺には、お前が色々な感情を押し隠しているように見えるだけだ……あまり、独りで抱え込みすぎるなよ」
「……へーへー、お姉ちゃんはなんでもお見通しですねー」
「茶化すな」
「わるい……ただな、俺も俺なりに色々あったからさ、家族とか、そういう言葉にどうしても疑いが生じちまうんだ。色外の皆は信頼している。けど……こう言っちまうと、お前に殴られそうだけどな……仲間止まりなんだ」
茜の後頭部を棒状の衝撃が襲う。振り返れば、灯の狭まった双眸と、片手に掲げられた刀の柄頭とが目についた。
「やっぱ殴りやがった」
「あぁ。そりゃ殴る」
「あのなぁ、仮にも女の子なんだから、せめてビンタとかにしとけ」
今度は刀を持ってない方の腕が、茜の脇腹へ吸い込まれるように突き出された。灯は女の子扱いされるのが苦手だった。いや、正確には女の子の部分を引き合いに出されてからかわれるのが嫌だった。
堪らず、その場で蹲り何度か咳き込む茜。
「また殴ったね!? しかもグーパン!! お父さんにもぶたれことないのに!!」
「そりゃ殴るだろ」
立ち尽くしたまま、平然と言葉を返す灯。その表情からは既に女の子らしさも、ましてや茜が脳内に思い描くお姉ちゃん像など微塵も見当たらない。
「そうですよね。全面的に俺が悪かったです。はい、不謹慎なネタともどもほんとすみませんでした」
「それにしても……」
と、灯は灰色の壁に囲われた空を見上げながら呟く。
「目印もないような道ばかりなのに、よく迷わないな」
「あぁ……」
茜は灯の疑問に答えようとしたが、その先が声として発せられる事はなかった。
停滞していた二人の前方に、いつのまにか彼女は立っていた。
苦しそうに肩で息をしながらも、二人の行く手を遮るように両手を広げている。
なんか……いまにも泣きだしそうな顔だな。灯は彼女を見てそう感じていた。
「葵……」
茜が小さく、うわ言のようにもらした。
「茜?」
灯は、茜の様子の変化から、眼前に立ち塞がる少女が自分達にとって……非常に好ましくないものだと直感する。
「ずっと会いたかった……茜お兄ちゃん」
身を低くして刀を構える灯の行動を制するように、銀焔の灯らない刃を彼女の眼前へ水平に傾ける茜。
「灯……大丈夫だから、俺に任せてくれ」
「……」
そう言われてしまえば黙って頷く他なかった。
「俺は……会いたくなかったよ」
彼の目の前に立つ雨頃葵の容姿は、茜の記憶の中で愛らしく微笑む過去の雨頃葵とは随分とかけ離れてしまっていた。
身長も伸びて、髪型も変わって、顔つきも大人びて、見慣れない制服姿で、声も心なしかトーンが下がっていて、何より、あの頃は星屑を散りばめたみたいに無垢な煌きを宿していた瞳が、今はどんよりと沈んでいて、もし涙が滲んでも、光を放つことはないのではないかと思えた。
そして、その陰鬱とした面影に、茜は見覚えがあった。
かつての自分だ。
現在の雨頃葵は、過去の夕藤茜と同じように、独りで泣くことしかできないのだ。
だが、茜は正しい筈の理解を自ら否定してしまう。
自分を救ってくれた人の、一度だけの裏切りがどうしても忘れられず、それが彼を正反対の結論へと導いていく。
もし手を差し伸ばしても、もしあの震える肩を抱きしめても、もし再び家族に戻れるとしても。
最後に待っているのは……。
俺はもう、雨頃には戻れないんだ。
夕藤茜の帰る場所は色外であり、雨頃家ではない。
「……そこをどいてくれ」
結局、二年ぶりに邂逅したかつての妹に対して、茜が選んだ一言は、本心とは別にある、とても冷たいものだった。