虹〈作家〉②
〈黒〉
突然、眼球を突き刺すような眩い光に襲われ、東雲命琉は堪らず両目を瞬かせた。
「お目覚めですかな?」
朗らかな声に迎えられて、命琉はゆっくりと、網膜に焼き付いた残像を溶かす様に目を開いていく。
つい先刻までの街中の景色はすっかりと失われており、代わりに白塗りされた壁面が彼女の瞳に映り込んでいた。
明るい色調の苦手な命琉は、反射的に目を細めながら、声の主をぼんやりと視界へおさめる。
「……高炉さん。おっとーと、灯が」
細い息遣いに紛れて囁かれた命琉の一言に、朗らかな声が答える。
「えぇ、察しております。つい先程、緊急警報が鳴っておりました。従って命琉様の幽体に干渉を感知致しました故、誠に勝手ながら強制切断させて頂きました」
口調は泰然たる老紳士の様を呈していながら、窓際の椅子に腰掛けている人物は齢十にも満たない幼子の姿をみせていた。
子供は膝の上に焦げ茶色の中折れ帽子をのせて、薄いカーテンを通して降り注ぐ日光に身を任せている。
色外の七番に該当する老人━━代継高炉のEinsは、所謂、幽体離脱に近い。
東雲命琉は運動神経が著しく低かった。
走れば三分で死ぬ。と彼女は自身の体質を主張するが、それはひとえに誇張とも言い切れないものだ。
朝方、隣室に宿泊していた高炉が、夕藤灯と東雲命琉の部屋を訪れて東雲紫於の脱走を告げると、紫於を父と慕う命琉は行方を探すと言って聞かなかった。
しかし、彼女の運動能力を知る灯が、命琉の同行を拒んだのだ。
高炉は、相反する両者の意見を取り持つ為に変身すると、命琉を幽体化させた上での同行を提案した。
代継高炉のEins《幽体》は、対象により幾つか異なる性質を持つ。
①自身の幽体離脱化。
②他者の幽体離脱化。
①の場合、当然、意識は幽体に付随する。従って、高炉の本体はその場へ眠るように残されてしまう。
②の場合、高炉が幽体者と共有できる感覚は、幽体への直接的干渉に限定される。それも、脳に雑音がはしる程度の曖昧な信号だ。
この場合、高炉の意識そのものは高炉自身に残っており、彼の能力範囲内であれば行動の自由も約束されている。
能力の範囲はおよそ十メートル。それ以上離れてしまうと、対象の幽体化は強制的に解除されてしまう。
幽体化には複数の視覚が存在しており、周囲が肉眼で確認できるレベルの視覚があれば、反対にまったく映らないレベルまで透過させることも可能となる。
また、幽体者は物理的な接触を持てない。あくまで精神のみの顕現となっていた。
「……だから、急がないと」
赤神との対峙から強制切断された命琉は、その場に残された紫於と灯の身を案じ、口早に語っていた。
いつの間にか変身が解け、本来の容貌を取り戻していた高炉は、口の周りに実る髭を撫でながら呟いた。
「まさか、この段階で七色機関の接触を許すとは……些か侮っておりましたな」
「……うん」
無論、この状況を引き起こした根本的な原因は東雲紫於にある。
しかし、色外のメンバーは誰一人として彼を責めるような言葉を選ばない。
それは……色外を寄せ集めた人物、夕藤茜が責任の追及を嫌う人間であり、彼の価値観に賛同して集まったのが色外の面々だからだ。
起きてしまった出来事を掘り返していても解決に結び付かないのであれば、考えるべきは現状の打破となる。
そして、それを率先して実行するのが夕藤茜でもあった。
二対のベッドに挟まれた台の上で沈黙を守っていたタッチパネル式の携帯電話が 不意に震えだした。
飾り気のない黒い液晶がぼんやりと、とある名を照らし出す。
「……茜から」
命琉は自身の携帯電話へ手を伸ばすと、液晶部に指を滑らせた。
「命琉か?」
大きく張った相手の声が命琉を驚かせる。
通話先ではサイレンの音が反響しており、轟々と唸るような風の音が常に流れていた。
「……うん」
「高炉さんが電話に出なくなった」
「……私と一緒、だけど」
答えて、命琉は高炉へ「……電話は?」と尋ねた。
問われた高炉は、僅かに目を見開いて、続けて苦い笑みを浮かべて言った。
「これはうっかり……部屋に忘れておりました」
「……携帯してなかったみたい」
代弁する命琉。
彼女は、茜の溜息を微かに聞き取った。
「ならいい。それより状況を教えてくれ」
茜の声は、既に不穏な事態を嗅ぎ取っているようで、深刻さを帯びていた。
命琉は事の次第を、できるだけ短く伝える。
「そうか。赤神が来たか」
「……お願い。二人を」
命琉の懇願を遮って、茜ははっきりと告げた。
「あぁ、必ず助ける」
「……私も」
「命琉、お前は高炉さんと待っていろ」
「……でも」
「いいから任せておけ。相手が過適合者なら、俺は絶対に負けない」
茜の吐いた一言は、決して命琉を安心させる為に口を突いた言葉ではなく、命琉もそれを知っているからこそ大人しく頷けた。
それきり、ぶつりと通話が切れる。
二人を助ける為に押切区を疾走しているであろう夕藤茜へ想いを馳せて、東雲命琉は祈るように両の手を合わせた。
〈藍〉
雨頃葵は、街中を必死に駆け抜けていた。
《鬼因子》の子供達に重荷を背負わせたくない一心で、常日頃から鍛錬を欠かさなかった彼女の意志が功を奏したのか、走るペースは同年代の女生徒とは比べ物にならない程に速い。
呼吸も歩調も然程乱れておらず、はためくスカートの裾は、すれ違う人々へ一種の爽快さを感じさせていた。
葵はタクシーの中から垣間見た面影を、何度も何度も脳内に思い浮かべていた。
あの時、彼女は交差点を横切る瞬間、一人の青年を目で追っていた。
彼は黒い光沢を放つバイクに跨り、防護ヘルメットで目元をぼかしていたが、それでも、葵には分かった。
彼女の部屋には、伏せられた写真立てがある。
瞳に映すべきではないと伏せておきながら、忘れたくないと捨てきれずにいる一枚の写真。
そこには、幼い頃の自分の手を引いて立つ少年の姿があった。
「茜お兄ちゃん……」
道を違えた筈の二人の邂逅は、着実と迫っていた。
〈青〉
運転手の男性は思わず罵言を吐きそうになり、慌てて口を噤んだ。
遠野・アメリア・ピノルークこと王子は綺麗な声音で、再度、運転手に告げる。
「料金はしっかり払います。ですから、来た道を戻ってもらえますか?」
信号が切り替わると同時に、運転手は無言で荒々しくハンドルを切った。
後輪が擦れて、甲高い悲鳴を上げている。
悲鳴を運転手の了承と捉えた王子は、同級生の女の子達を魅了してやまない美しい顔に、冷たい微笑みを浮かべた。