5―3
「ラー」
「どうした? あぁ、そういやルクエールの戴冠式の日取りが発表されたな。どうする、逃げるか?」
「アホかんな事どうでもいい」
そう言えばルクエールが王位を継ぐからどうの、という話をラーにしていたのだ。少し忘れかけていた。
今も事ある毎に言われてはいるが、本気で無理矢理、という感じではなくなった。もし無理にでもとなったら――その時また考える。
「じゃなくてだな! シュツィルオーレ、静養とやらで田舎に引っ込むらしいぞ」
「それがどうした」
言った途端部屋の空気が下がった気がした――が、一回ごくと唾を飲み込んでから先を続ける。
「会わないつもりか。お前が今行かないと多分、最後だぞ」
「いい事だ」
「ラーっ!」
興味なさ気に言われた答えにソウルは非難の声を上げる。
「……ソウル。まさかと思うが、お前俺があの女を嫌ってるの知らないのか」
「知っとるわ! つーか露骨過ぎるわ!」
馬鹿にするなと吠えてから一息つく。
「……最後になるかも知れんのだぞ」
「だから、いい事だ。俺にとっては」
「母親だろう?」
「お前の母とは違う」
「……」
そう言われても知らない人間と比べられる訳もない。そしてそれ以上に何とも言えない気持ちがせり上がって来て、ソウルは言葉を切って沈黙した。
「……そうだな。お前は俺の母を知ってるんだったな」
「悪かった」
「別に。母とはいっても知らない人間だ。だが――」
その先は言い辛くて言い淀んだ。気にならない訳がない、しかし誰に聞く事も出来なかった質問。
「……どんな人だったんだ」
「綺麗なひとだった。あんまりお前似てないな」
「当り前だッ!」
そういえばというような調子で言ったラーにソウルは怒鳴った。自分は男なのだから、母になど似る訳がないだろうが。
「老婆んなっても赤ん坊のお前を抱いてた」
「……」
「成長した姿が見れないのが残念だと」
羨ましかった訳ではない。ソウルの立場に比べて自分は遥かに恵まれている。
しかしソウルを愛しみ、その細く非力な腕で守っていた彼女は、彼女こそが『母』なのだと憧れを抱いていたのも自覚している。
「……俺の方は見るどころか、何も知らないんだ」
「そうだな」
「……母が俺を愛していたのは、知っている。実感はないし信じられもしないが」
それを知りたかった。感じたかった。もう彼女はどこにもいなくて、名残が残っているのは庭だけだったから。
(……そうなん、だろうな)
何も知らなくても、何も知らないからこそ――母だから。
「同じだと思わんか」
「何がだ。シュツィルオーレとお前の母がか?」
全然違う、と鼻で笑ったラーにソウルは首を左右に振った。
「それが俺に判る訳ないだろうが。この場合は俺とお前が、だ」
「――?」
ソウルの考えている事が判らないというのはラーにとって初めてだった。戸惑ってソウルを見詰めると向こうも少し意外そうに苦笑した。
「知ろうとしないからな」
「俺はもう知っているだけだ。――大体何だ? さっきから。お前もシュツィルオーレがどうなろうが知った事じゃないだろ」
少し前のソウルならば間違いなくラーの言う通りだった。清々したと思うぐらいだろう。
だが。
「本当に知っているのか?」
シュツィルオーレが何故こんな騒ぎを起こしたのか。
「ソウル……?」
「最後なんだぞ、ラー」
「……」
「シュツィルオーレに会いに行くぞ」
いい加減にしろと、言ってやって良かった筈だ。しかし不思議に今日のソウルの言葉は強くって。
「……判った」
ため息交じりにそう頷いた。
(静かなものね)
権力の中枢にいた頃は毎日があれほど忙しなかったというのに、一歩離れればこんなにも静かで、そして――穏やかだ。寂しさはあるけれど。
(さて)
そろそろ行くかと実家に別れを告げ歩き出そうとした所で。
サク。
草を踏む足音に振り返る。まさか今更、自分に用がある者などいないだろうと少々驚いた気分で振り返る。そして振り向いた先で佇んでいたラーの姿を見て本当の驚愕に眼が見開かれる。
「ラー……」
「……一言、挨拶に」
ソウルに言われて、などと人に言える訳もないので無感情にそう言った。
「そう。有難う」
そこにラー自身の感情がないのは伝わっただろうが、穏やかに微笑してシュツィルオーレはそう言った。
「何故こんな馬鹿な真似をした?」
「そうね……。同じく国を出るにしても上手いやり方はあったのでしょうけど。上手くやりたくなかったのでしょうね」
ラーが言ったのは何故こんな成功が見込めないようなやり方を、という意味だったがシュツィルオーレはそう取らず、自分の目的を既にラーが理解しているのを前提にそう答えた。
ラーは常に賢く、自分などでは誤魔化せないと、そう実の子に対して思っていたから。
そしてそのシュツィルオーレの答えで、ラーにも彼女が本気で暗殺を目論んでいたのではないと伝わった。
(……ソウルが言っていたのはこの事か?)
だからどうしたと思わなくはないが――
「始めから国を出るつもりだったのか?」
「ええ、そうです。判っていたと思ったのだけれど。ふふ、お前にも判らない事はあるのね。――でも、そう……お前も誰かに恋い焦がれれば判る日が来るかもしれないわ」
言いながら、しかしそれは無いだろうとシュツィルオーレは自分の考えを否定した。ラーならばきっと、望めば誰の一番にでもなれる。だからきっと、自分の様に愚かにはならないだろう。
「ラー、元気で。どうか幸せにね」
「……」
「触れてもいいかしら?」
「……ああ」
そう伺いを立てられるのが、今更だが違和感を感じた。ラーが頷くとふわりとシュツィルオーレはその体を抱きしめる。
「お前には済まない事をしたと思っているわ」
「……何をだ?」
「お前と一緒に、私も愛してもらいたかったのね」
ふふ、と自分の胸の辺りで笑うシュツィルオーレの声に負の感情は感じ取れなかった。
「けれどやはり、お前は私のように馬鹿ではないのね。良かったと思います、本当に」
「……?」
シュツィルオーレの安堵の理由が、まだラーには判らない。ラーにとってそれは、既に当然の物として心に根付いていたからだ。
(気に喰わないけれど)
気に喰わないが――ソウルは確かに、あの女の子供だ。
魔王の愛した女の気質に、良く似ている。
「ありがとう」
(あ)
すいと離れた女の香りに、ラーは寂寥感を覚えて、そして自分で驚いた。
(まさか。何故)
今更この女に何の想いがあるとだと自問してシュツィルオーレを見て、気が付いた。
(あぁ、そうか)
――同じだったからだ。
ラーが憧れた『母親』と、今の彼女は同じだったからだ。
(俺もソウルを笑えねえな)
いつからだったのだろう。ずっと――見てこなかったから。
そう自分に苦笑してラーはシュツィルオーレに微笑んだ。
「――!」
「元気で。また……そうだな。会いに行く」
「……ええ。ラー、お前も」
ひらりと手を振り、ラーは来た道を引き返していく。大分戻った道の外れで地べたに直接座ってヒマ潰しだろう、本を読んでいたソウルがラーの気配に顔を上げた。
「済んだか」
「あぁ」
答えたラーの表情は穏やかだ。行く時はあれだけ苦い顔をしていたというのに。
「行って良かっただろう」
良かったと、思う。それは認める。だが。
「生意気だ」
得意気なソウルの頭を押さえ付けてからラーはそのまま止まらず歩き出す。
「あ、おい!」
その後を追い、隣に付いて歩きながらソウルは不思議そうにラーを見上げた。
「まさか歩いて帰るのか?」
「そうだな、少し」
「珍しい事もあるもんだ」
「たまにはな。――別に付き合えとは言ってないぞ」
「急いで帰って何がある訳でもないからな」
「そうか」
拒むでもなく頼むでもなく、ゆったりと二人で歩を進める。
いつもと何が変わった訳ではない。ただふと、気が付いた。
世界は普段考えているよりずっと、明るいのだ。