第五章 母と女の言葉
「ユイリ、お前は一度人間界に戻れ」
「どうして?」
「お前が戻らなかったら誰かが暴走して来るかも知れんだろ」
もう正式にアルバトラズから人が来る事はないが、それを知っているユイリ個人を助けに来る者はいるかもしれない。
「これ以上面倒な人間を増やしたくない」
「それは大丈夫。もう父さん達が知ってるから」
「アルバトラズとしての対応がどうだろうが、お前に忠実な奴はいないのか?」
マナが魔王と謁見した際に、『アルバトラズの意思ではない』とはっきり言った以上勿論制止はしているだろうが、全員が全員従う保証があるのかという事だ。
「大丈夫だよ。……アルバトラズじゃない私に価値はないから」
だから当主に逆らってまで自分の意思を通そうとする者などいない。その自信がある。……虚しいけれど。
「私も行く。その方がいいでしょ?」
「……まぁな」
何と言ってもユイリは当事者だ。その言葉には素直に頷く。
「ならそれはそれでいいとして――どこから行くの?」
「そうだな」
ルクエールに言われてソウルは意識しないで腕を組み、少し考えた。魔王の所へ行くか、シュツィルオーレの所へ行くか――
「シュツィルオーレだな」
考える時間は短かった。すぐにソウルはそう結論を出す。コソコソ言い付けるような真似は好きではない。
「そうね、けど……」
「?」
「何でこんな事をしたのかしら……」
シュツィルオーレは名前こそ第二妃だが、扱いは正妃そのものだ。それはソウルの母が生きていた頃からそうだった。
故にラーを王にして権力を得ようとしているとは考えられない。今でも十分な程の権力者だ。むしろラーがシュツィルオーレを毛嫌いしている事を考えれば、余計自分の立場を危うくしかねない。
にも拘らず何故、夫である王を殺害してまでラーを王にしたいのか――
「さぁな。だが」
「何?」
「……親父は多分、知りたくないだろうな」
ソウルにはシュツィルオーレが自分の命を狙った事に対して驚きすらもない。ルクエールにしても同じようなものだろう。
だが魔王はどうだろう。自分の妻に命を狙われて。
「だからと言って黙っている訳にもいかないでしょう? それともシュツィルオーレを殺して全てを隠す?」
「馬ッ、んな事!」
出来る訳がないし、していい筈もない。
「……シュツィルオーレの所に行く。処断は親父がすればいい。それに納得できなければその時考える」
「そうね」
「だがその前にラーに知らせて来る。どうせ『面倒だからどうでもいい』とか言うだけだろーがな」
ラーはもう判っているようだったし、シュツィルオーレの進退になど興味は無いだろう。しかし一応、それでもシュツィルオーレは彼の母親なので。
「待ってましょうか」
「……そうだな」
そう長い話をするとも思えないが、万一という事もある。大勢でぞろぞろ行って話すような事でもない。
「少し待っていろ。行ってくる」
「ええ」
同じ館の階違いなだけのラーの部屋。ほんの数分で辿り着き、扉を叩く。
「俺だ。少しいいか」
「あぁ。入れよ」
いつもと同じ、抑揚の無いラーの声。ソウルの方は少し緊張して中へと入る。
「どうした。何かあったか」
然程興味はなさそうに、しかしソウルの表情が硬いのには気が付いてラーの方からそう聞いてきた。
「……親父を殺そうとしていた奴が判った」
「そうか」
やや硬いソウルと対照的に、ラーの反応は淡々としていた。僅かにあった興味さえも消え失せたかのように。
「シュツィルオーレだった」
「ああ、だろうな」
「……どうして判ったんだ? あの時にはそんな情報無かっただろ」
「あの女の事を俺はお前やルクエールより良く知っているからだ。親父がどうかは知らねえがな」
「……」
事もなげにそう言われてソウルは重く沈黙する。ラーの最期の言葉はソウルの一番気の重い部分を直撃してくれた。
「……親父はやはり、悲しむだろうか」
「さあな。だが覚悟ぐらいしてるんじゃないのか」
「覚悟?」
「親父はお前のお袋さんが死んでもシュツィルオーレを正妃に戻さなかった。正妃として迎えた女を格下げにして、人間の女をとったんだ。恨んで当然だろう」
「っ」
そうか、シュツィルオーレから見ればそうなるのかと、ソウルは今初めて気が付いた。自分を嫌うシュツィルオーレの事など考えた事もなかったから。
「だが勿論、それでお前に八つ当たりするのは筋違いだがな」
「……そうか」
敵である筈の女はとっくに亡く、シュツィルオーレの捌け口はもうソウルにしかなかったのだ。しかしそれにも耐えられなくなってついに魔王にもと――いう事だろうか。
「俺が言う筋合いはないかも知れんが、もう少しお前がシュツィルオーレへの態度を変えてやればよかったんじゃないのか?」
自分の子にまで見捨てられたシュツィルオーレが、どんな気持ちでこの数千年を過ごしてきたか。
不自然な関係であってもやはり自分の子は愛しいのか、それでもラーだけは生かして王にしようとしていたのだから――
「……」
ソウルの台詞にラーは顔をしかめ、煩わしそうな表情をする。少しぎくりとしたが、間違っているとは思わなかったので退かずにソウルはラーを見つめる。
(面倒だ)
シュツィルオーレの事などどうでもいい。本気でそう思う――が、そんな女にまで心を向けてやるソウルは嫌いじゃない。
(馬鹿な女だ)
ソウルの強さを見ろ。自分などより余程辛い居場所で、それでもソウルは人に、優しい。
「……あの女は俺を愛してる訳じゃない。ただ怖いだけだ」
ラーとて始めは一番近い肉親であるシュツィルオーレが好きだった。今のソウルや父に向けている愛情と同じ位。
――だがシュツィルオーレはラーを愛してはくれなかった。
どれ程ラーが献身的であっても、シュツィルオーレが愛して欲したのはラーの才の方だった。
そして歳を経て、段々ラーの力を『自分が使える物』と見なしその力への比重がラー自身よりも強くなったのを知った時、悟ったのだ。
自分を本当に愛してくれるであろう者も、ラーが相手を愛し無償でその力を自分の為に使ってくれるのだと知れば相手はそれに頼るようになる。縋るようになる。
――それしか見てくれなくなる。
だからこれから先も魔王のためにもソウルのためにも表立って何かをするつもりは無い。けれど愛しく思う気持ちに嘘は無いし、助けてやりたいとも思う。
だからユイリも保護したのだ。
「俺を王にすれば一応の権力は維持できるし、手を出さなきゃ俺のカンに触れないと思ったんだろうさ」
本当に愚かだ。そう思う。
もし魔王でもソウルでも――どちらかが傷付けられたら、自分が黙っていると思うのか?
「……それは、寂しいな」
「……そうだな」
ぽつりと呟いたソウルに、少し躊躇ってからラーは頷く。まさかラーが頷くとは思っていなかったのだろう、ソウルは驚いてラーを見つめた。
「……もういいだろ。さっさと終わらせて来い」
少しばかり視線に居た堪れなくなってラーはソウルをそう促した。
「ああ。――ラー」
「何だ」
「俺はお前が兄で良かったと思ってる」
言われなくても判っている。そんな事をソウルが言うとは思っていなかったし、正直ラーはそういう想いを言葉にするのもされるのも嫌いだった。
言葉は嘘ばかりつくから、言われた途端に嘘くさくなりそうで。
「……あぁ」
けれどそこにその通りの想いがあれば、心を訴えるその言葉はとても暖かくて優しくて。
「俺もお前が弟で良かったと思ってる」
『良かった』とまでの素振りなど見せた事のないラーからの言葉に、ソウルは驚いた顔をして――実際驚いていたのだが――それから素直に、気恥かしそうに笑った。
それを見たラーの表情にも自然と柔らかな微笑が浮かぶ。
温かな言葉には心に淀んだ冷たいしこりすら溶かす力がある。
それは気持ちだけでは足りなくて、言葉だけでは意味の無いもの。
(本当に――お前で良かった)
心も言葉も持つ、ソウルだからこそ。