4―5
「戻った」
「ああ、お疲れ、ソウル」
待っている間暇だったのだろう、ルクエールの手には、ソウルの部屋にあった物だと思われる本が開かれていた。微かにむっとした表情をしたが、特に何も言わずに辺りを見回して。
「ユイリは」
「変わらないわ。向こうでずっと外界を塞いでる」
「そうか」
頷きそちらへ向かおうとするソウルに、ルクエールは読んでいた本を閉じて立ち上がる。
「何か収穫でもあった? 普通に訊いても無駄なのはもう判っているでしょう」
「ああ、それなりのが一つな」
「!」
にっと笑ったソウルにルクエールは少し驚いた顔をして、それからふわりと微笑んだ。
「そう。良かったわ」
ルクエールにしてみれば正直ユイリなどどうでもいいのだ。しかしこれでソウルの望む結果になるのなら、それが純粋に嬉しいと思う。
「――ユイリ」
扉を隔てた客室へと入り、ソウルはユイリの名を呼ぶ。当然反応は返ってこなかった。
「お前に依頼したのはシュツィルオーレだな」
「えっ?」
「何ですってッ?」
ソウルの言葉に反応したのはむしろマナとルクエールで、ユイリは変わらず沈黙を守ったままだ。表情も微動だにしない。
「もしかすればお前は名前も知らんかもしれんがな。三十路過ぎぐらいの、金髪赤眼の女だろう」
「……」
「何を取り交わしたか知らんが、あの女は人間との契約など守る事はないぞ。会ったなら判っているだろうがシュツィルオーレはお前等を見下している」
「ちょ――、ちょっと待ちなさい、ソウル。シュツィルオーレはこの国の王妃よ? 何故陛下を」
反応しないユイリに更に言葉を重ねるソウルに、ルクエールは多少動揺を残したままそう問い掛けた。ソウルが持ったのと同じ疑問だが。
「さぁな。その辺は本人に聞けばいい。だが俺とお前が邪魔な理由は判るだろ」
「……ラーに王位継承権を戻そうというの?」
「そうだ」
ソウルの方は王位継承権に関わりは無い――が、それ以上にシュツィルオーレには嫌悪されている。理由はそれで十分だ。
「マナを見て動揺した。あれは人間を見たからとかそんなんじゃない。マナとユイリは似てるからな」
そっくりという訳ではないが、彼女達をあまり知らない者が一瞬見れば見間違えてもおかしくないぐらいには似ている。
「……でもそれだったら……嫌だよね」
「……マナ」
義理でも何でも母には違いない。いやそうでなくともやはり身内から殺したい程に憎まれるなど、あんまりだ。
(それにお兄さんとは仲良いみたいだし)
ソウルの兄の母がマナの妹にソウルと父とルクエールの暗殺を頼んだ。どちらにとっても嫌な話だ。
「シュツィルオーレに関してはその手の感傷は一切ないから心配なくてよ。あの女は昔からソウルを嫌ってるから。当然ソウルもラーも。ラーが何で嫌ってるのかは知らないけれどね」
「あいつの考えてる事はよく判らんからな」
「そ、そうなんだ」
考えている事が良く判らなくても、兄弟仲に問題は無いらしい。ラーの方は結構把握している感があったからかもしれない。
「とにかくだ、さっさと吐け、ユイリ。このまま黙っていてもお前に何も得は無いぞ。今ならお前にもアルバトラズにも人間にも、何の咎もなく解放してやる」
「……だから何?」
く、と唇を歪に吊り上げユイリは笑った。
「アルバトラズに帰った所で、私は追放でしょうね」
「ユイリ、それは」
「別にそれは構わないわ。でもアンタの思う通りになんかなってやらない」
「っ……」
「アンタもアルバトラズも人間界だって、どうにでもなればいい」
その年頃の少女に相応しくない、あまりにも捨て鉢な態度。しかも彼女は本気で言っている。それが判る。
「ユイリ、お前……どうしてそこまで」
マナに聞いた所によればユイリは当主の娘に相応しい、高い魔力を認められアルバトラズの次期後継者として目されている人間だ。当然アルバトラズ内でだって相当の待遇を受けているだろう。
なのに一体何故、アルバトラズまでも嫌っている様な事を言うのか。
『力があったって王の子供だからって、別に居やすい訳じゃない』
ふと以前ラーがそんな事を言っていたのを思い出した。
純血の魔族で、歴代稀な強大な力を持って、誰からも尊敬と畏怖の対象として崇められるラーも、このハインシュベルクそのものはどうでもいいのだと、そう言っていた。
その後にラーが自分に向けてくれた笑みが本物だと思うから、ソウルは必ず、ラーの為にならば力を惜しまず何かをしようと、その時そう決めたのだ。
――正直ソウルは、初めラーが苦手だった。
直接血の繋がった父でさえ自分を愛してはくれないのだ。
完全な純血であるラーから見れば、またさぞ自分は汚らわしいのだろうと。彼の母であるシュツィルオーレがそうだったから余計だったかもしれない。
だがラーは何の感情も見せなかった。兄であり弟であるその関係だけを受け入れてくれていた。
周囲からの悪意に疲れていたソウルにはそれだけで十分に、嬉しかったのだ。
それからはラーの側が一番心地良くなった。ラーもまた同じである事は何となく空気で判っていた。お互い口にもしなかったが。
「……お前、自分が愛されていないと思ってるのか」
「っ」
ぽつり、と不意に向けられた言葉にユイリはぎょっとしてソウルを見て、そして慌てて眼を逸らした。
「愛されているのは自分の力だから、だからどうでもいいと思ってるのか?」
「馬鹿にしないで!」
一度は逸らした眼を、我慢出来ずに戻して立ち上がりユイリは叫ぶ。
「私の力は私の一部よ! それは私が認められているのと同じ事!」
「ユイリ、お前――報酬に何を約束された?」
「関係無いわ」
「金や何かじゃ動かんだろう」
人間にとっての魔族のイメージというものはよく判らないが、それでも魔王暗殺などを引き受けるのだ。相当のリスクを背負う事になる。金ではいくら積まれたって安すぎる。
しかし相手がシュツィルオーレなら、ユイリが自分が認められるのは魔力だけだと思っているのなら。
「……お前、ラーとの契約を条件にされなかったか? 暗殺が成功すれば魔王になる男だ」
「……っ」
「そうなんだな」
「馬鹿馬鹿しい」
呆れた息をついてルクエールは腕を組んでユイリを見下ろす。
「ラーがそんな契約に応じるものですか」
「それは俺達がラーを知っているからだ」
何も情報の無いユイリが、魔王の妻だというシュツィルオーレからそう言われれば疑うだけの物がない。勿論シュツィルオーレ本人を疑わなければ、だが。
それもユイリが力を欲していたなら、ほんの少し欲望を後押ししてやれば簡単に乗せる事が出来ただろう。精神に作用するような魔術だって存在する。
「ユイリ」
「……何」
「お前とマナはやっぱり似ている。俺はお前もそう嫌いじゃない」
ユイリはきっと――怖かったのだ。
力の無いマナの扱いを見ているからこそ、余計力に拘ったのだろうから。
「お前がアルバトラズに帰りたくないならこっちに来ればいい。ま、こっちが過ごし易い訳でもないがな」
「――は?」
思ってもみなかった言葉だった。思わず間の抜けた声を上げるユイリは唖然として固まった。
自分を殺す依頼を受けた相手の身を、引き受けると?
じわじわとソウルの言葉が頭に沁み込んで来て、同時にふつふつと怒りが込み上げてきた。
「マナと似てるから?」
「あぁ、似てる。自分を認めさせようと必死なのがな」
そしてそれはつまり、ソウル自身にも似ているという事だ。
「マナを嫌ってる私にどういう神経でそれを言うの? 大体私の力は誰もが認めてるのよ。必死になる必要なんかそもそもないわ」
「そうだ。必要無い物を求めずにいられないぐらい、お前は不安だったんだ」
「……っ!」
ぎ、とユイリは唇を噛み、声を堪えた。ソウルの言っている事は――本当だったから。言葉を発したら感情が突いて出てしまいそうで。
「お前はマナが羨ましかったんだな」
「えっ?」
まさか、という響きでマナは声を上げた。マナから見れば何もかもを持っているユイリが、自分の何が羨ましいと?
「……そうよ」
「――ユイリ」
「だってあんたが愛される時は『マナフレア』だからだもの!」
魔力がないからこそマナにはマナ以外の価値は無く。
しかしユイリは違う。マナが魔力を持たない分余計、愛されるのは、褒められるのは、認められるのは常に魔力だけ。尊ばれるのは魔力だけ。
(だから――)
「だから力が欲しかったんだな」
「そうよ」
いくらあっても安心出来ない程に――
「お前の追い詰められ方は、やっぱり俺と似てる。ま、そのために他人を殺そうってのはあまりに身勝手だがな」
だがユイリにそうさせたのは、おそらくアルバトラズを始めとする彼女の周囲の人間で。
「喜べ。まだ誰も死んではいない。お前はまだ引き返せる」
「――……」
「俺がお前の居場所になってやる」
「――……本、当に?」
魔族である――しかも強大な力を持つソウルには、自分の魔力など価値は無い。彼は自分を『ユイリ・アルバトラズ』という個人を受け入れてくれると――
「それは認めないわ!」
「無責任にそーいう事言うの良くないと思う!」
弱々しく、しかし期待を込めて呟かれたユイリの言葉にソウルが応えるよりも早くマナとルクエールが異を唱えた。
「な、何でお前等にんな事言われなきゃならんのだ!」
二人の勢いに押されつつ、しかし納得いかずに反論する。
「だ――、だって、それは」
「お前は私のものなのよ! 他の女と関係を持とうだなんて認めないわ!」
マナの方は言い淀んだが、ルクエールはすぐさまそうきっぱりと言い放った。
「……そうなの?」
ユイリの視線が冷たい。マナが機嫌を悪くした時とやはりよく似ていた。
「あ、アホかッ! だから俺はお前のものではないし、つーかそもそも何でんな話になるんだ!」
「そーゆー話にしかならないでしょッ!」
ソウルとしては自分がラーに感じるのと同じ、気安い場所を作ってやりたかっただけなのだ。そこに男女の意識は無い。そもそもソウルはまだ色気よりも食い気――ならぬ、ケンカっ気の方が強い。つまりはほぼ興味対象外。
「……ふーん」
二人はとにかくソウルにその気がないのだけはユイリにも伝わった。
(……うん、でも、判る)
ソウルは優しい。それは自分の弱さを克服した強さから来る優しさだ。
自分が辛かった分だけ人が辛いのを見ると同調して、それを癒してやりたいと思うのだ。その辛さを知っているからこそ。
(……そうだね)
自分は弱い。
判っていたけれど認めようとしなかった自分の弱さをユイリは認めた。
頑張っていたつもりだったけれど、いや実際頑張ってはいたけれど。それは歪な価値観に合わせようとしていただけだった。
全然違う方向を向いていながら、いや、だからこそ違う方向を向いて進む強さを持っていたマナが羨ましかった。
羨ましかったから、嫌いだった。
「……ソール」
「あ?」
怒鳴り合ってぜーは―言いながらソウルはユイリの呼び掛けに振り向いた。
「私に話を持ってきたのは、確かに、その女だったよ――」