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民子の宇宙

作者: 海辺 野人

 今日もいつものように、俺はブックオフで立ち読みをしていた。誰かの手垢がついたマンガを、誰かの思い出になったそれを、たいして感慨深くもなさそうに流す。娯楽とはつまり心の充足に繋がればよいのだが、この日、この話からは悲しみしか生まれなかった。

 来る日と、手に取るものを間違えたらしい。痩せた目の男のリュックサックと肩がぶつかる。彼は所在なさげに立ち止まる棚を探し、収まるべき居場所を探していた。ほとんど血眼のように見えた。それが、ますます俺を嫌な気持ちにさせる。

 帰ろう。タイミングが違うのだ。俺は誰かの不幸や、ましてやセカセカと過ごす人たちを眺めに来たのではない。本を棚に戻そうとした。

「あれ、それ私が売ったやつだ」

 耳元で女の声がした。芯があるというか、よく響きそうな声である。また、なんらかの悪意も感じられず、俺は黙って振り返った。目だけで、何事かと伝える。

「どう? ラストが少し悲しすぎると思ったから、私の手には負えなかったのだけど」

 女の身の丈は高く、体の線は細い。しかしそれは、どこか昔の絵画に基づくような、普遍性のある、誰しもの理想型だった。女は美しかった。

 これもまた、均一された美しさである。澄んだ肌、澄んだ瞳、艶のある唇。しかし、どうやら可愛らしくもある。子供のようでもあるのだ、女の人懐っこい笑みは。つまり、俺の目は、女の完璧な危うさに釘付けになっていた。

「――出かけましょう? ここは窮屈だわ」

 女の唇が唱えた。『民子』と、名乗る。それが二人の出会いだった。


 民子には不思議な癖がある。それは驚くと、しゃっくりが止まらなくなるという可愛らしいものだった。それを知ったその日、俺は彼女を徹底的に驚かせた。物陰から大声と共に飛び出したり、急に背後から叫んでみたり。彼女はわっと小さく悲鳴を上げる度に、次の瞬間にはヒックとしゃくりあげる。

 俺と民子は、それが可笑しくていつまでも笑っていた。


 ある日二人で公園へ行った。近所の小さいやつで、夕方になると子どもの集まる場所。その時は、ほとんどいなかった。

「座りましょう?」

 俺は、尻が汚れると首を振るが、民子はかまわず芝生に腰を下ろした。なにが楽しいのか、口元を笑わせている。そして大げさに、隣の地面を平手で叩いた。

 わかったから。と、俺も同じように座りこむ。民子は笑みをこぼした。背面のベンチには、薄汚れた浮浪者が、虚ろな眼でいて、彼女と並ぶと、絵画のようでもあった。『老人とベンチ』冴えない題名だが、作品の出来は本物だった。

「今日は晴れているのに、だあれもいない」

 平日の昼間だから。そう答えると、民子はつまらなそうに脚を伸ばした。青い芝に、青い空に、民子の白い足首がよく映える。穏やかな光景、まるで、天国だ。

「だって、こんなに晴れているのに。大人も子供も、今日くらい働かなくていいんだよ」

 団地からカラスの鳴き声。鳩が、一羽か二羽、首を振って地面を闊歩している。他は、まるで居場所のない人間をよせ集めたみたいで、ただただ天気だけがよかった。そうはいかないでしょう。と俺が答えると、民子はいたずらな笑みをつくった。

「あなたも働いていないでしょう。不公平だよ」

 その言葉にも、不思議と腹は立たなかった。


その場所で過ごす時間は、あまりに穏やかだった。何億年も続いていくような、途方もない感覚。ゆったりとした時間というのはこのことなのだろう。終わりもなく、はじまりもないそれは、例えるならば生まれる時でさえ、誰も隣にいなかった宇宙のようで、満たされているのかさえわからなくなる。しかし、厳密に言うなら終わりはあった。

 なんにでも、それはやってくる。ベンチの浮浪者は、いつか身を切るような寒さの冬に、ひっそりと眠るように死ぬのだろう。そのしわがれた表情には、ただただ安堵。穏やかなため息が出るような穏やかさがあって、暖かな死を受け入れる。世間には終末思想が溢れ、誰もかれも先行きに絶望しているが、老人の浮浪者は、そんなものを横目に死んでいく。

 しかし他は、自分からそこを抜けだすわけにはいかない。死ぬ時ですら人の都合に左右されそうだし、そんな勇気もない。だから、誰かが責任をもって、終わらせなければならないのだ。

 それは、人為的なテロによってかもしれない。一人の掲げた旗によって、他が死に、世間が死ぬ。しかし、各個人にはどうしようもないことであればあるほど、終末思想者には都合がいいのだ。天災と同じことなのだ。どこからか大きな力で、全部壊されれば、皆諦めも付く。自らの結末が、なんら面白みのないものでなくて、スリルに満ちるのだ。だからそんな考えが世に溢れる。

そしてそれは総じて大人の身勝手だった。少年、少女。はしゃぎ回る子ども。生まれたばかりの乳飲み子。彼らの未来は、いったい誰が責任を持つのだろうか。

 そうだ、これは将来に絶望した大人たちの惰性であるのだ。仮に子どもたちは、いつか絶望する日が来るとしても、それまではただ、まっさらな可能性であり、誰も、その子達が全員、幸せになる未来を否定出来ない。自分の進む先が見えたとしても、彼らの明日にだけは光があるのだ。

 そして、俺はその光のトンネルを抜けてしまった。見える範囲には暗闇しかありえない。まるで宇宙の果てである。どうやら、俺もその思想に、いつの間にかやられてしまっていたらしい。見えない大きな力に、全部壊されたいと嘆くようになってしまったのだ。全部、台無しにされたい。誰かに、壊してほしい、と。

 そして、真っ暗な闇に、手を伸ばした――。


 渋谷。ツタヤ前の交差点。反射するビルの壁には、空は湾曲して映っていた。俺はここに、危険思想を持ちだす。

天罰だ!皆等しく、死に晒せ! 大きく叫ぶ。誰も立ち止まらない大来の中、背中のリュックから散弾銃を取り出した。ズッシリとしてはいるが、これが命の重さらしい。一発、適当な方向に引き金を引くと、鮮烈な破裂音と共に、何人か分の血しぶきが飛んだ。

 街はすぐに阿鼻叫喚となった。地獄のようである。誰もかれも、さっきまでは眠いだの死にたいだの呟いていたくせに、とたんに溌剌として、人を押しのけてまで皆、我先に逃げ惑っていた。件の思想とはこんなものであるのか。結局、皮肉にも、街は一番、死に際に光が溢れていた。

 俺は慎重に、一発ずつ銃弾を撃ち込む。どこに撃ってもだれかに当たるのだが、俺は一番終わっていそうなやつらを、狙い撃った。どこか作り物みたいな音が鳴る度に、肉の破片が散らばる。見ろ、これが大きな力というやつだ。終わらせてやるのだ、ありがたく思えよ!

 これは、救済なのだ! 俺は、おまえらの願いを、聞き入れてやるのだ!


 街にはようやく、終わりがやってきた。しかし、俺は終わらなかった。きっとこれから先、延々と罪を問われ、しばらくは生き、長らえるのだ。俺の目の先は真っ暗で、依然、宇宙の果てが続いている。こんなはずじゃなかった。俺にも、終わりは来るのだが、それは今じゃない。もっと先なのだ。嗚呼、なんて、見事な自己犠牲だろうか。本当は俺は、今回のことで表彰されるべきなのかもしれない。


 それはそうと、俺はパソコンを見ていた。子供にパソコンを与えるのだけはよくないと思う。まだ狭い世間のなかを精一杯に生きて、友達の嘘にさえ惑わされ、やがて隣人との付き合い方を覚える年ごろだ。そんな時期に、インターネットはあまりに嘘が溢れすぎている。判断する前に、さらに別の嘘が染み込んで、やがて自分と他人との境界さえ曖昧になってしまうのだ。それはまごうことなき毒である。

 しかもどういうわけか、そんな子どもに対して、ネット上での大人は意味もなく厳しい。自分たちが間違いを教えなければならないはずなのに、ただ罵声を浴びせて終わりなのだ。死ね、消えろ、ゆとりは帰れ。それではますます毒素を与えるだけ、そのくせ、自分たちのことは棚に上げる。お前たちが賢いのは当然なのだから、間違いを教えてやれよ。なに、自分ひとりで大きくなった気でいるのだ。馬鹿が、畜生が。

 俺はそんなことを呟きながら、パソコンを眺めていた。親には感謝しなければならない、俺は十分に思慮深くなってから、ようやくインターネットを与えられたのだから。


 俺は宇宙について検索する。ブラックホール。


 俺はいつか終わるし、きっとそれはロクでもない結末だが、穏やかではあるのだろう。

 では、民子は終わるのだろうか。「私だって、死ぬよ。きっと殴られたら、いたくてすぐ死んじゃう」彼女はそう答えた。


 ブラックホールとは、つまり時空を捻じ曲げているのである。あのように宇宙空間上で黒い穴として存在するのは、そこに光という概念がないから。全部、捩じれ曲がっているのである。

 ようするに、そこには善と悪。光と闇。生と死。そういうものがない。まるで神のようではないか。人間にとっての全てである真理を、いとも簡単に捩じ曲げる。さらには、自分自身が極めて曖昧で、極めて絶対な存在であること。つまり、なにが言いたいかといえば、俺はブラックホールになりたい。


 しかし世間で、成り上がりのブラックホールには居場所がない。ブックオフはどこも「生誕1年未満のブラックホールは、入店を断っています」との張り紙。在庫を全て吸い込まれては、商売上がったり、だそうなのだ。しかし、はたしてブラックホールに玄人も素人もあるのだろうか。なってみた今でも、それはわからない。

 痩せた目をした男と肩がぶつかる。男はわあぁぁ、と素っ頓狂な悲鳴を上げると、俺に吸い込まれていった。


 俺がこんなになっても、愛してくれる?

「うーん。私を抱きしめられる?」

 保障はないかな。たぶん吸いこんじゃう。

「本当の意味でひとつになるわけね(笑) でもね、大丈夫」

 どうして? 俺、ブラックホールだよ?

「あのね、ブラックホールさんには、必ずホワイトホールさんがあるの。だから、私が吸い込まれても、出てくる穴はあるのよ」

 あらら、抜け道があるのか。もし君がホワイトホールの畜生にとられちゃったら、俺はきっと癇癪を起こすだろうな。

「じゃあ、私を抱きしめられないわね」

 とほほ。それは残念だ。

 ――彼女は結局、俺を愛せるかという問いを上手くかわしたようだった。そして、神にも欠点はあるらしい。そりゃ、自分が作ったものさえうまくコントロールできないのだから、わかりきったことだったけど。なんだか残念だ。

 俺は黒い体のまま、途方に暮れた。


 生命の誕生とは、つまりひとつの宇宙の誕生と同義である。彼の中では生まれた瞬間に世界を認識し、その輪郭が形作られていく。そして、その色や出来上がりに、同じものはひとつとしてない。ひとりに、ひとつずつの宇宙。

 では、お母さんとは、いったいどんな存在なのだろうか。ようするに宇宙を作り出す仕組みである。神なのだ。そして子宮口が、神の抜け穴。つまり、ホワイトホールのことだ。


 僕が民子を吸い込んでしまった時は、産婦人科医になろう。いつか、誰かの子宮から、ひょっこり彼女が顔を出すかもしれない。


 僕は目を見開いた。彼女はベッドの隅で、座りながら息をしている。

「半分、でちゃった」

 彼女はすこしはにかみながら、そう言った。目じりには涙がたまっていて、キラキラと輝いていた。

 彼女の沈み込むシーツには、銀の泉が溢れていた。僕はそれに振れ、両手で掬い、顔を洗う。

そしてバールのような、重くて、硬くて、尖ったやつを取り出した。


 僕はそれを大きく振りかぶった。彼女が微笑む。僕は彼女の背中に、おもいっきりそれを突き刺す。するとドンと鈍い音がして、すぐに血が溢れた。


 彼女は青くなって、倒れた。銀の泉に赤が混ざる。キレイな光景だ。

 そして半分笑いながら、苦しそうに唇を、小さく動かした。

「――――」なんて言ったのかはわからない。

 やがて、彼女は動かなくなった。


 これが、民子の一度目の死であった。彼女はいつか暗闇を抜け、光になり、やがてトンネルからこちら側に戻り、当たり前のような顔で、ひとつの、宇宙を生むのだろう。

 冷たくなった体は、それまで預かることにする。


 民子は、ゆっくりと、笑いながら、死んだ。


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[一言] 読ませていただきました。 こう、上手くは表現できない読後感ですね。 これは悪い意味では決してないです。 むしろ良い小説、文学してのあるべき姿一つ、というふうにも私は思いました。 続編や…
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