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第14話

その夜、田村幸枝(さちえ)は随分と帰りが遅くなった事を後悔していた。すでに時刻は午前0時を過ぎている。遊びで遅くなった訳では無かった。帰り間際に仕事を言いつけられたのだ。幸枝が勤める会社は小さな建設会社である。不景気の煽りで多くの者がリストラされた。幸枝はかろうじてリストラは免れたものの、今まで三人でやっていた仕事を今では一人でこなしていた。とにかく忙しすぎるのである。定時は5時ではあるが、5時に帰った事等ここ何ヶ月もなかった。毎日が9時10時になっていた。以前三人で行っていた事務を1人でしている訳だから、遅くなるのも当然である。幸枝は来年30歳になる。別に何かしたい事があって今の会社に就職した訳ではない。ただ、大学を卒業してやる事も無いので、今の会社に入っただけなのだ。結婚までの腰掛のつもりだったのだが、就職してからも出会いは無かった。自分がいいなと思う男もいたけれど、相手にされなかったし、いい男は必ず結婚したりしていた。何年か前までは焦っていたが、今ではあまり焦らなくなった。自分の顔と言えば中の上ぐらいであるが、なぜか理想が高すぎた。男についてはプライドが高いのだ。会社や、合同コンパ等で男に誘われる事は何度もあったが、どうしても余計なプライドが邪魔をしてしまい、誘いを断り続けてしまった。その上しつこく誘いを掛ける男に対しては強気で出てしまう。

私は男には興味ありません、という様な態度に出てしまうのだ。本当はそうじゃない。早く彼氏を作って結婚したいのだけれども、自分の中の変なプライドが幸枝自身を追い込んでいるのだった。その内、会社や仲間の間ではレズビアンではないかという噂まで出始めたのだ。最近行われたリストラで女性三人の中から、なぜ幸枝一人が残れたか、能力は三人共ほぼ同じである。であれば、女が好きな幸枝は結婚退社がない。三人を一人にしても辞めるという心配がないので経営者としてはいい話である。幸枝一人でも会社での職歴もそこそこ長い訳だから、一人で出来る仕事は一人にさせるのがだ当然なのだ。

今だかつてない不景気に余計な人員をさいている余裕は、今どこの企業にもないのだから。

今では幸枝に声を掛ける社員は誰もいなくなった。幸枝はレズであるという烙印を押されてしまったのだ。友達はみな結婚してしまい、今では合コンに呼ばれる事も無い。

仕事も今まで以上に忙しい。当然出会いは無いに等しいのだった。その内幸枝も開き直って仕事をするようになった。そう私は男は大嫌いで女性が好き、男に対してどんどん強気で出る様になった。変な領収書は認めない、余計な経費は使わせない。男性社員は幸枝を嫌な目で見始めた。正に御局様の誕生である。幸枝はそんな自分が悲しかったが、しょうがなかった。自分の強気が恨めしかった。幸せになる為につけられた、幸枝と言う名前も今では冗談の様である。今日も今日とて、課長の奴がわざと帰り間際に仕事を持って来たのだ。だが幸枝は、負けたくなかった。言われた仕事をこなしてからこそ、こちらの言い分も通るのだ。会社の男を締め上げる為には出来る女でなければいけないと、最近特に思っている。しかし、いかんせん今日は良くなかった。毎週欠かさず見ているテレビドラマの録画予約をしてくるのを忘れてしまったのだった。今の幸枝を癒してくれるのは、現実ではない。作られた空想の世界だった。ドラマの中の主人公に自分の身を置き、ある時は泣き、そして笑い、あり得ない偶然の連続を楽しみ、いつかそれが現実になるのではないかと心の中で淡い希望を持っている。それが今の幸枝の唯一の楽しみであった。そしてそれが唯一のストレスの解消でもあったのだ。

一話見逃せば、次のストーリーがわからなくなる連続物を見逃すという事は幸枝にとっては、大袈裟だが命取りにも等しかった。だからこそ今日は早く帰りたかったのだ。課長許すまじ、幸枝はいつか課長の足を引っ張ってやろうと、心に固く決めていた。

朝から降り続いていた雨は、午前0時を過ぎてから強さを増した様だった。最寄の駅から幸枝のマンションまでは徒歩で30分掛かる。いつもはバスに乗るのだが、当然この時間最終バスは出てしまっている。駅についた幸枝はタクシーに乗る為にタクシー乗り場に向かったが、予想通りであった。雨の日に限っては、タクシー待ちの客が10人程列を作っている。雨の日のこの時間はいつもこうなのだ。都心から離れた郊外のベッドタウンでは、都心への通勤者も多く、普段は徒歩やバスを使う者も雨の日に限っては、タクシー利用者が多い。傘をさして幸枝は仕方なく列の後に加わった。傘を持たずに駅で雨宿りしていた者に、次々と迎えの車が現れては、待ち人を乗せて消えていく。中には傘もささずに走り去るサラリーマン姿もあった。次第に駅は静かになっていった。しかし、このタクシー待ちの列の進み具合はあまりにも遅い。タクシーの巡回率が悪いのだ。多分最初に乗った者の行き先が遠方だったのであろう。普段も3台程しかいないタクシーなのだ。幸枝の番はいつまわってくるのか、幸枝は気が遠くなる思いだった。気持ちはイライラと自分の置かれた境遇に叫び出したい心境になっていた。

その内、列が乱れた。二人程列から抜けた。幸枝の後に並んでいた者も何人かが列から出て歩き出した。そうなのだ、このイライラは幸枝だけのものではなかった。何人かが幸枝と同じ様に待つ事に限界を感じていて歩いて帰る事を決めたのであろう。幸枝は迷っていた。このまま列に残ってタクシーに乗るか、歩いて帰るか、雨足は増々強くなってきている。幸枝の足元から肩にかけては傘をさしている意味がない様に雨に叩かれていた。立って待つ間に全身がびしょ濡れになりそうである。歩いて30分、幸枝は腕時計に目をやった。すでに10分近くが経過していた。やっと次のタクシーが激しい雨の中を到着して次の客を乗せて走り去った時、幸枝の気持ちは決まった。待っている間に間違いなく20分以上は過ぎていく。立っているだけで、ずぶ濡れである。待っている間に歩けば家へ帰り着ける。幸枝は列から抜けて大雨の中を歩き出した。幸枝は駅前の大通りを渡って商店街へと進んだ。シャッターの閉じた商店街は幸枝以外の人影は全くない。まるでこの世の中に幸枝一人が取り残された様な気持ちになった。商店を抜けると少しづつ住宅が増えてくる。この住宅街を抜けて、もう一本大通りを抜けると幸枝のマンションがある区画に出る。今やっと3分の1を過ぎた所である。少し歩くと小学校のグラウンドの横の道に出るのだが、この道が曲者である。グラウンドの横には高い金網のフェンスがあり、その反対は、建売住宅の裏庭になっている。同じ造りで建てられた住宅の裏庭には、グラウンドの長さと同じ

長さの塀が続いている。裏庭に強盗防止のコンクリートの塀が建てられているのだ。その為この通りには、逃げ場がないのだ。実際ここは痴漢が出没する危険な通りとして、この町では認識されていた。ここ数年この通りでの婦女暴行事件は数件起きている。この通りを抜けると車の往来の多い大通りへ出るので、近道としても知られていた。

幸枝は最初からこの道を通るつもりであった。バス通りを歩くのと、この道では7.8分の違いがあるのだ。幸枝はとにかく早く家へ帰りたかった。ほとんど全身びしょ濡れと言う事もあったが、タクシーを待って帰るより先に帰り着きたかったのだ。タクシー待ちより歩きを選んだ自分自身へのプライドであった。早く帰りつかなければ歩いた意味がない。私は間違っていない、これが正解なのだ。どちらが早かったのか等確かめられる訳ではないのだが、ただ幸枝は勝ちたかったのだった。幸枝は例の通りに入ったが、少し後悔した。ほとんど灯りが無かった。約二百メートル程のこの通り、電灯が中央部分に一本しかないので後は、住宅の庭に面した部屋から漏れるかすかな灯りしかなかった。

まさかこんな大雨の中に出てくる痴漢等いる訳がないとタカをくくっていた幸枝も、この暗さでは正直足がすくんでしまった。かと言って又バス通りへ戻れば時間の大幅なロスである。幸枝は傘を強く握り締めて進んだ。

幸枝は思った。どうして痴漢が出る場所にこんなに灯りが少ないのか、もっと電灯を増やすべきではないのか。幸枝は頭に来ていた。怖い感情より怒りの感情の方が強かった。今度、市長に文句を言ってやろう、そう思った。しかしよく考えてみれば、この町では有名な危険な通り、わざわざこんな時間に歩くだろうか、自ら襲ってくださいと言っている様にも見えないだろうか。襲われても文句が言えない様な気もしてきた。数年前からしつこいぐらいこの道は危険です、特に若い女性は通るのを避けて下さい、と言われていた。幸枝はなんだか分が悪いなとも思えていた。とにかく早く抜けてしまおうと幸枝は雨が激しくはじくコンクリの道を進んだ。ハイヒールの中はとうに水浸しである。少し進んだ時幸枝は妙な気配を感じた。今、耳に聞こえているのは、傘を激しく叩く雨音だけであるが少し離れた所で、他に雨に叩かれる音をかすかに感じる。それは幸枝と共に移動しているように思えた。濡れきった冷たい体に氷のかけらが静かに上から下へ落ちる気持ちになった。幸枝は止まった。誰かいる、そう感じずにはいられなかった。寒さと恐怖が足を止めてしまった。この雨の中を痴漢、いや強盗?!そんなバカな、どうして私が通るこの道にそんな者が現れるの、信じられない、幸枝は心の中で叫んだ。こんな大雨の寒い中に、やめてよ、私が何をしたっていうのよ!幸枝は恐ろしかったが、このまま走って逃げる事も許せなかった。タクシーを諦めたのも自分、この道を選んだのも自分、ここで痴漢に襲われれば自分の選択は間違っていた事になる。そんなのは許せない、私は間違っていない。幸枝は自分自身に言い聞かせた。幸枝、勇気を持って振り返るのよ、そして思いっきり睨みつけてやりなさい。相手の存在に気が付いている事がわかれば、相手はきっと逃げ出すに違いないわ。幸枝、あんたは強いのよ、そうでしょう。今まで会社で何をしてきたの。幸枝は自分自身、心の中で思い切り都合の良い判断を下した。

気配をまだ幸枝は感じていた。確かに誰かいる。幸枝は決心した。思いっきり睨んでやる、幸枝は半身ではなく、全身を後方へ回転させた。傘の回転が雨を四方へ散らした。

今は、先程歩いて来た道とは180度逆を向いている。幸枝は興奮してはいたが、目線を上下左右にはわせた。雨に叩かれるコンクリの道以外何も無かった。暗がりの道を再度目を凝らして見た。先程通って来た道には誰もいないし、左右の壁とフェンスにも誰もいなかった。叩きつける雨以外誰もいない。幸枝の顔は途端に安堵の表情に変った。大魔神が元の石像に戻った様に、そして少し笑みの表情になった。もし人が見ていれば怒りの仏頂面が突然にやけ面になったとでも言おうか、変な奴にしか映らないであろう。幸枝はおかしくなった。考えすぎなのだ。今までこの通りについての話は良く聞いていたし、この道に痴漢が出るのは当たり前という考え、出て当然と言う概念が幸枝の頭の中で気配となって現れたのであろう。幽霊と一緒である。出るぞ出るぞ、いるぞいるぞと言う感情がちょっとした物まで幽霊に変えてしまう。全ての脳の仕業なのだ。脳が見せているのだ。幸枝は霊の存在も信じてはいなかった。幸枝はにやけ顔で前を向いて歩き出した。私ってバカだわ、こんな大雨に痴漢も何もあったもんじゃないわ、これじゃ痴漢もずぶ濡れ、風邪引いちゃうじゃない、痴漢も今日は休みよ。バカね、考えすぎちゃったわ。私は大丈夫。何も問題ないわ。幸枝は又も都合よく自分に言い聞かせながら、歩き出した。

「バシャバシャバシャバシャ」

幸枝はドキッとして立ち止まった。確かに聞こえた。幸枝は何歩か進んだ。

「バシャバシャ」

音は幸枝と歩調を合わせるように続く。立ち止まれば音も止んだ。確かに何かいる。大量の雨がアスファルトの上に水面を作り、その上を歩く音、幸枝の先程までの意気込みは吹き飛んでいた。気配ではない、確かに存在する何か、幸枝は恐怖した。数歩後ろに何かがいる。今度は紛れも無い事実。幸枝は歩を進めた。恐ろしさでいっぱいだった。幸枝は止まる事が出来なかった。幸枝の歩調に合わせて、水面を蹴る音は近付いてくる。心の中で叫んでいた。助けて、誰か私を助けて、殺される。目頭が恐怖で熱くなった。幸枝はパニック状態の中で、この道を通ってしまった事に後悔していた。なぜ強情を張ってこの道を通ったのか、今日一日の事が頭の中で繰り返された。課長の顔が浮かんだ。怒りを感じたが、今では課長にさえ助けを求めたい気持ちになった。しかし幸枝は心のどこかで感じていた。今の状況は自分が作り出した物であると。結局自分自身の人生はこの道につながっていたのだと。考えてみれば、幸枝の人生は自己中心的で敵を作る事ばかりだった。人に好かれる所か嫌われる事ばかりしてきたのだ。そう、私の人生はついてない、私の人生はこれで終わるのね。幸枝は今、過剰なまでに自分の最期を認めていた。これから自分は殺されると強く思い込んでいた。やはりそれは最近新聞やテレビで多く報道される無差別殺人や、すぐに切れる人間たち等のニュースに対する幸枝の認識が特にそう思わせるのであろう。この事件への関心は今や殆どの一般市民へ浸透していた。が、しかし幸枝の思考と行動は又別でもあった。歩きながら幸枝はハンドバックから先日東急ハンズで買った、防犯グッズを取り出した。携帯用の防犯ブザー、ヒモを引っ張ると98デシベルの警報音を発しライトが点滅する物である。幸枝が歩く数歩後ろの音は規則的に追い掛けてきていた。幸枝の視線は数メートル先の道の中間点にある街灯の灯りにあった。灯りの向こう側の道の先にはバス通りがかすかに見えている。時折タクシーや乗用車が通り過ぎるのが見える。幸枝は片手には傘、片手には防犯ブザーを握り締めて、大雨の中を街灯まで急ぎ足で進んだ。もうすぐ街灯の下に来る。幸枝の速度が上がれば後の足音も早くなり幸枝の跡を追って来た。数歩先の街灯の灯りが雨の大粒を写し出している。中間点である街灯の下に到達した時、幸枝は意を決した。振り向きざまに幸枝は防犯ブザーのヒモを強く引いた。98デシベルの激しい警報音が響き渡った。その音と殆ど同時に幸枝の耳に大きな音が重なった。

「ガシャン!」街灯の下の灯りが届く範囲には何も無い。しかし幸枝はその音の理由がすぐに分かった。グランド側の金網に黒い物が貼り付いている。音は幸枝を追っていた物が金網に飛びついた時の音だった。

金網はその物が飛びついた為に、ミシミシと揺れていた。その物体は地上よりも約3メートルは上に位置していた。幸枝は何が起こったか理解は出来たが、今の一瞬で人間があんな所に飛び移る事が出来るだろうか、動物なのだろうか、恐怖と緊張で頭の中が白くなり思考回路がショートしそうになっていた。

警報音は未だにけたたましい音を立てて鳴り響いているが、半分は雨の音に消されていたし、幸枝は黒い物体に目線を釘付けにされたまま、その場に立ち尽くしていた。その物体が動いた時、幸枝は少し声をあげた。薄暗がりの中、物体が向きを変えたのが分かった。その物体の上と下が回転し始めた。しかしそれが上なのか下なのかは分からない。とにかく上下の向きが変った。そしてその物体が下へ降りてくるのが分かった。

「ギシギシ」と音を立てながら、幸枝は頭の中が混乱していた。あの状況で飛びついたのであれば当然頭が上のはずである。人間であればそのまま向きを変えずに降りてくるであろう。今の状況を考えれば、わざわざ頭を下にして降りて来ていることになる。では人間ではないのか。しかし大きさはどう見ても人間の大きさに見える。幸枝の心臓は激しく鳴っていた。傘を斜めにして上を向いている為、大粒の雨が幸枝の顔を叩いているが、幸枝は黒い物体に目線を釘付けにされ、動く事が出来ずにいた。握り締めた防犯ブザーは今もなお鳴り続けていたが、幸枝の耳には今では届いていなかった。「ギシギシ」と金網を揺らしながら、その物は灯りが届いている範囲に一歩づつ降りて来ていた。灯りがその物を写し出した時、幸枝は少し声を上げた。灯りに照らされたそれは、全身細かなうろこで覆われていた。移動の際に伸ばした手の指の裏側は吸盤のようになっており、しっかりと金網に絡みついた。色は灰白色で、大粒の雨をはじきその物のアゴから大量に流していた。幸枝はその物を見た時、それが何か、最初分からなかったが、徐々に見覚えがある事に気付いた、幸枝が子供の頃に田舎の祖父の家に遊びに行った時、天床や窓ガラスに張り付いていた物と似ていると言う事に。幼かった幸枝は、それを気味悪く思い、見掛ける度に祖父に抱きついた。その時祖父は「あれはヤモリじゃ、何もせん」と言って幸枝をなだめた。幸枝は見る度に気持ちが悪かった。目の前にいるのは全くそれとそっくりだった。但し幸枝が昔見た物はせいぜい10センチから12センチ程度の大きさで、今金網にへばりついている物は明らかに人間大の大きさである。その上、上半身は何も身につけていないが、なぜか下は黒っぽいジャージを穿いているのがわかり、ジャージの中央から長い尾が飛び出している。その物自体がヤモリではない。人間の体型をしたヤモリの様であった。灯りに照らされた人間ヤモリを見て、幸枝は何が起こっているのか分からなかった。なぜ、この様なおかしな物がこの世に存在しているのか、なぜこんなにも大きいのか、なぜジャージを穿いているのか。幸枝は恐怖と困惑で完全に我を忘れて人間ヤモリを凝視していた。後少しで地面に着くその前に、人間ヤモリは飛んだ。そして幸枝の鼻先に水溜りを蹴って降りた。突然の行動に固まっていた幸枝は短い悲鳴を上げて、尻餅をつきその反動で両手の防犯ブザーと傘が後に吹っ飛んだ。先程までけたたましく鳴っていた警報音が、防犯ブザーが地面に落ちると同時に止んだ。今は大雨が地面を叩く音しかしなくなった。幸枝を雨から守る傘も無く、幸枝は一瞬にしてずぶ濡れになった。ほんの2メートル先に、四つん這いの人間ヤモリは幸枝に向かって一歩づつ近付いてくる。幸枝は恐怖で動く事も出来ず、声を上げる事すら出来なかった。人間ヤモリは大粒の雨に叩かれながら、幸枝に迫ってきた。今では人間ヤモリのその顔がはっきり見える。爬虫類特有のその表情は無表情の中に、無機質な冷たい縦長の目をむき出し、幸枝を見ている。後には街灯があり、その後はコンクリートの壁である。後に逃げ道は無い。左右に逃げる事など幸枝は考えもつかなかった。その人間ヤモリの目にとらわれて動けないでいた。街灯の灯りが最も明るく照らし出す所まで迫り、幸枝との距離が1メートルも無くなった。その明かりで人間ヤモリの目が細くなり、口を開けた。幸枝は真っ赤な人間ヤモリの大きく開いた口の中を見た。その時、幸枝は大きな悲鳴を上げた。幸枝がその時、人生の最後を思ったかどうかは分からないが、今日始めて、いや幸枝の人生の中で今日はついていたのかもしれない。大きな光が幸枝と人間ヤモリを照らし出し、大粒の雨の滴を映し出した。幸枝が先程通って来た道から、巡回中のパトカーが異常な人影を察知して、ライトをハイビームに変えたのだ。そして赤いパトランプを点滅させた。今まで気が付かなかったが、パトカーはかなり近くに来ていた。パトカーのライトに照らされた人間ヤモリは、その光に目を細め、瞬時に体の向きを変えて大通り方面に向かって疾走した。警察ではこの道を警戒区域にしていたので、パトカーが深夜巡回するのは当たり前になっていたのだが、パトカーに搭乗していた二名の警官はいつもの道でいつもと違う光景に出くわして面食らった。二名の警官はライトの中で街灯を背に座り込んでいる一人の女性とそこに近づく奇妙な物を一瞬凝視した。しかしそれはほんの一瞬で、その物はライトの光の範囲から消えた。二人の警官は顔を見合わせたがすぐに我に返り、幸枝のすぐ側で車を止めた。一名の警官が幸枝に近付き肩に手を掛けたと同時に、幸枝の気は遠いた様である。車中のもう一名の警官はまた別の物を見ていた。それは大通りに向けて走っていくその物の姿を、四つん這いで走るその後には長い尻尾が時折はねては水面を蹴っている。警官はサイレン音を鳴らした。雨音の中に激しくサイレン音が響く。

警官はパトカーを急発進させた。前方を走る人間ヤモリはそれに気付き速度を上げた。かなりの速度だが、パトカーも速度を上げた。ライトの灯りの中で警官ははっきりと見た。ジャージを穿いた人間ヤモリを。

「何だぁ、あれは?」

パトカーとヤモリの距離はほんの一メートル程となり、ヤモリの真後にパトカーをつけている為、警官は走るヤモリを後からじっと見ていた。しかし大通りまではすでに鼻先に来ていた。大通り右からライトの灯りが見え、目の前のヤモリが大通りに出たのを確認した。その時激しいブレーキ音が鳴り、警官も同時に急ブレーキを掛けた。「ドン!」激しくぶつかる音がした。警官は前のめりになったが、大通りに出る手前でパトカーは停止していた。大通りには右から来た車が停車しており、その前にはライトに照らされた何かが倒れていた。幸枝は誰かに呼ばれて目を覚ましたが、それが警官である事に気付いた。自分は助かったのだ。雨は幸枝の顔をまだ叩いていたが、幸枝は再び気を失った。


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