第1話
すべての大人になれない大人の為に・・・
10月の雨は冷たいと雄多郎は思った。早見雄多郎27歳、東都新聞の記者になって今年で3年目である。東都新聞入社以来、各部署に配属されたが、これといったスクープなどはものにしていない。大学時代に報道に興味を持ち、卒業したら新聞社に入社して、特ダネをものにするのが雄多郎の夢だった。が、しかし現実はそんなに甘くなかった。念願かなって新聞社に入社はしたものの、今では社のお荷物的存在になっている自分自身に最近になって気がついた。雄多郎は思う。自分はいい所まで行っているのだ、いつも最後の詰めが甘いのだ。以前にもある事件の被害者からの確かな情報を入手したが、その娘がどうしても一日待ってくれと頼むものだから一日待ってみたが、その情報は他社に出し抜かれ、次の日の一面に掲載された。被害者の娘は他社から金を受け取っていたのだ。甘かった、本当に甘かった・・やはりすぐ載せなければいけなかったのだ。雄多郎はスクープを逃した。デスクには怒鳴られるし、ショックは大きかった。雄多郎は思う。こんな失敗は二度としない、今度こそはスクープをものにしてやる。雄多郎は雨のそぼ降る夜道で顔をしかめた。
「やっぱり降ってきやがった。傘を持って帰るべきだったなぁ・・ついてない」
時計をみると11時過ぎだった。
「早く帰ろう」
雄多郎が走り出そうとした時、近くで女性の悲鳴にも似た音がした。えっ!雄多郎は耳を澄ました。ほんの一刻もう一度音がした。間違いない、音ではなく声だ。それも女性の悲鳴だ。ここは雄多郎が住んでいるマンションの近く、あまり車も通らない。夜になると人気も少ないので、女性が一人で帰るにはとても物騒な所だ。雄多郎は駆け出した、声の聞こえた方向へと。一瞬、雄多郎は考えた。ただの痴漢だろうか、暴漢だろうか、それとはまた別の考えも浮かんできた。雄多郎自身が今追っている事件の事である。この3ヶ月の間に起こっている無差別暴行殺人の事だ。とにかく変な事件である。年齢性別に関係なく、ちょっとした些細な事、例えば肩がぶつかるとか信号でクラクションを鳴らされるとか、日常的な事でキレてしまうのだ。ただキレ方が普通ではない。相手を本当に殺してしまうのだ。会社の上司と部下、学校の先生と生徒、親と子、見境なく殺そうとするのだ。普通、頭に来た事があっても人間の理性が働き、少し傷つけてもそこまでで終わるのが普通である。が、しかし今回は違う。その場では理性も何も無く、相手を殺すまで追いかけるのだ。相手が謝っているにもかかわらず。3日前に起こった事件では、部屋を覗いた父親を、18歳の女子高校生が包丁を持って追い掛け回した。家から逃げ出した父親を、1キロ近くも追いまわしたのだ。幸いにもパトロール中の警官に取り押さえられた。その時は異常なまでの興奮状態にあり、そのまま病院へと連れて行かれた。落ち着いたところで話を聞いてみると、その間の事は全く憶えておらず、なぜそのような行為に至ったのか、記憶が削げ落ちているのだ。他の事件でも、すべて本人にはその間の記憶が無くなっているのだ。警察の発表によると、加害者の薬物の使用は一切無いという事である。そしてその加害者はすべて真面目を絵に描いたような人間で、勤勉実直、品行方正、学校では優等生ときている。まぁどちらかと言うとストレスを溜めやすいタイプだと言える。3ヶ月前から起こったこの事件の件数は、殺人に至った物9件、未遂に終わった物13件、先の9件については現在裁判中である。本人に記憶が無いので今ひとつ立件が難しいのである。そしてほとんどの加害者が、今も病院に入院しており、まるで魂を抜かれたような状態にあるという。警察の発表はないが、加害者の中には現役の警察官も存在すると言う噂もある。警察は現在も加害者の共通点、例えば新興宗教や催眠術の類についても、捜査の範囲を広げているという事だ。ただひとつの共通点として、加害者は皆、自己啓発に興味があり、自宅の部屋には必ず自己啓発の本やカセットテープ、CDなどがあり、自己の内にある潜在能力を高めたいと、常日頃から考えていた節があった。しかしそれ以外はこれといった共通点は見つかっていない。一般市民は突然の人の変貌に恐怖して、外も出歩けないうえに、人間不信になる市民も出てきているようで、警察による早期事件解明を求める声が、日増しに高まっているのである。雄多郎はこの事件を追っていた。出来ればこの悲鳴が事件に関係あれば良い、等という不謹慎な想いもあったのだ。考えながら走っていたので一瞬目の前に現れた黒い影をかわしそこないまともにぶつかってしまった。雄多郎は尻餅をついて倒れた。腰と尻をしたたかに打ってしまった。
「イテテテ、すいません」
尻をさすりながら前方を見たところ、男が立っていた。遠くの街灯の灯りが目の前の人物を後ろからうすく照らしていた。一瞬顔が見えたような気がした。長身である。まさに黒づくめ。10月にはまだ早すぎる黒のロングコートを着ている。コートの襟を立てているようだが、その顔は暗がりでも見えた。長髪が雨に濡れている。雄多郎は目を細めて顔を良く見ようとしたが、男は小走りに駆け出した。雄多郎は尻餅をついたままの状態で男に言った。
「おい、ちょっと待ってくれよ!」
腰の痛みを堪えて立ち上がり、男が走り去った方向を見てみると、すでに男は約20メートルも先におり、角を曲がってすぐに見えなくなってしまった。
「早ぇーなぁ、なんなんだよ」
雄多郎は自分の尻を見た。びしょ濡れである。尻をついた所がアスファルトのくぼんだ部分で雨水が溜まっていたのだ。
「あーあ、なんてこった」
(しかしあの男の顔は見たぞ。あんなに急いでここから離れようとするのはいかにも怪しい。まだ若い、俺とそう大差ないだろう。おっといけない、早く行かなくちゃ)
雄多郎は自分のバッグを拾い上げ、腰をさすりながら悲鳴のした方へ急いだ。さっきの男を照らしていた街灯が近づくにつれ、雨の粒が良く見えるようになって来た。ちょうど左カーブになっている所に街灯はあった。そのちょうど真下の辺りに人が二人倒れているのが見えた。雄多郎は急いで近づいて行った。一人は女、一人は男である。どちらもまだ若いようだ。女はうつ伏せになり、男は仰向けで大の字になって倒れていた。雄多郎は女を抱き起こした。
「おい君、しっかりしろ、大丈夫か!しっかりしろ!」
雄多郎は女を少し揺すってみた。顔にかかる雨の滴で女は低くうめいた。雄多郎は少し安心して、今度は男の方へと向かった。男の脈はない。すでに死んでいるようである。これといって外傷は見られない。雄多郎は胸ポケットから携帯電話を取り出し、救急車を呼んだ。それから社にも電話を入れた。電話に出たのはサブデスクの大沢だったが雄多郎は状況を説明し、メールで記事を送ると告げた。雄多郎は女を雨がしのげる所へ移した。救急車が到着したのは、それから約10分後のことだった。すぐに警察も到着したが、同時に救急車やパトカーのサイレンの音で、近所の野次馬も集まってきた。雄多郎は警察に身分を明かし、まだ目が覚めない女と救急車に乗り込んだ。女の目が覚めれば何かいい話が聞けるかと思ったからである。時刻は午前0時を過ぎていた。