婚約破棄されたので、「誰でもできる仕事」も辞めた結果・・・
「エリナ。君との婚約を破棄する」
王太子レオル殿下からそう告げられたのは、いつものように報告書を読んでいた午後だった。
私は手にしていた紙から顔を上げた。
「婚約を、ですか?」
「ああ」
殿下の隣には、侯爵令嬢のミレーヌ様が立っている。華やかな金色の髪に、よく似合う赤いドレス。
対して私は、今日も書類を読むための地味な紺色のドレスだ。
「私はミレーヌと結婚する。彼女なら王太子妃として、社交の場でも立派に務めてくれるだろう」
「承知いたしました」
「……それだけか?」
「はい」
ほかに何を言えばいいのだろう。
私とレオル殿下の婚約を決めたのは、国王陛下だった。
古くから王家に仕える伯爵家の娘である私を、十四歳のときに王太子妃候補として選んでくださった。
『王太子妃に必要なのは、華やかさではない。国を知り、堅実に務めを果たせることだ』
陛下からそう言われたことを、今でも覚えている。
けれど、その陛下は数か月前から病床にある。今では政務の多くを、レオル殿下が代行していた。
父王の決めた婚約を、殿下自身が終わらせる。そう決めたのなら、伯爵令嬢にすぎない私が覆せる話ではない。
私は机の上に視線を戻した。
「では、こちらも本日までですね」
積み上がった報告書を指す。
五年前。王太子の婚約者になった十四歳の私は、王太子妃教育の一環として各部署の月報を読むよう命じられた。
国のことを知らなければ、王太子妃は務まらない。先生から言われた課題は単純だった。
『報告書を読み、分からないことがあれば書き出しなさい』
だから、私は質問した。
『北部の小麦収穫量が減っているのに、王都への搬入量が増えているのはなぜですか?』
調べてもらったら、地方役人による数字の水増しが見つかった。
次の月には、
『東部街道を通る馬車だけ、到着が一日遅くなっています。何かありましたか?』
街道を調べてもらったら、橋脚に亀裂が見つかった。
その次は倉庫。次は羊毛。次は塩。
私はただ、分からないことを尋ねていただけだった。
けれど、いつからだろう。先生から渡される教材だけではなく、
『こちらもエリナ様に』
と、各部署から直接報告書が届くようになった。
私が気になるところに印を付け、短い質問を書いて返す。担当部署が必要なら調査する。
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
「毎日毎日、報告書を読んでいるだけだろう?」
レオル殿下が苦笑する。
「それくらいなら文官にもできる」
「そうですね」
私もそう思う。
私は橋を直せない。農作物を育てられない。犯罪者を捕まえることもできない。
紙を読み、数字を見て、気になったところを尋ねる。ただ、それだけ。
「では、失礼いたします」
「待て。せめて今日の分くらいは――」
「ですが私は、もう殿下の婚約者ではないのでしょう?」
「あ、ああ」
「でしたら、王太子妃教育も終了です。これ以上、王宮の資料を読むことはできません」
私は読みかけの報告書を机に置いた。北部穀倉地帯から届いたものだった。
少しだけ気になる数字がある。
今年は不作ではない。なのに小麦の収穫量が前年より一割ほど少ない。
いつもなら、『数字に間違いはありませんか?』と農務局に尋ねるところだ。
でも、もう私が見てはいけないものだ。
「五年間、お世話になりました」
一礼して、私は部屋を出た。
不思議だった。もっと悲しいと思っていた。
けれど王宮の門を出た瞬間、胸に浮かんだのは別の感情だった。
明日から、ここへ来なくていいのね。
五年ぶりに長い休暇をもらったような。そんな気分だった。
この日、五年間続いた『エリナにも一度見せる』という工程が、静かに消えた。
◇
婚約破棄から十日ほど経った。
私は、驚くほど何もしていなかった。
朝寝坊をして、庭で紅茶を飲む。街へ買い物に行く。読みかけだった本を最後まで読む。
最初の三日は楽しかった。五日目には少し退屈した。七日目には、数字の並んだ紙が恋しくなっていた。
「……私、仕事が好きだったのね」
自分でも知らなかった。
そんなことを考えていた午後。
「お嬢様。お客様です」
「どなた?」
「北方辺境伯家のカイル・ノルディス様です」
「……私に?」
何度か王宮の式典で姿を見たことはある。けれど、直接話した記憶はほとんどない。
なぜ北方辺境伯家の嫡男が、私を訪ねてくるのだろう。
応接室へ向かうと、背の高い黒髪の青年が立ち上がった。
「突然の訪問をお許しください、エリナ嬢」
「いえ。それより、どうしてこちらへ?」
「あなたの婚約が解消されたと聞きまして」
カイル様は十日前の婚約破棄を知り、北方から王都まで来たという。
「では、王宮で報告書を読むことも?」
「終わりました」
その瞬間、カイル様が安堵したように息を吐いた。
「間に合った」
「……はい?」
「エリナ嬢。北方へ来ていただけませんか?」
意味が分からなかった。
「私が、ですか?」
「はい」
「なぜ?」
カイル様は逆に、不思議そうな顔をした。
「あなたが必要だからです」
生まれて初めて言われた気がした。そんな言葉。
「ですが、私は何もできません」
「何も?」
「王宮では報告書を読んでいただけです。殿下にも、誰にでもできる仕事だと言われました」
カイル様が黙った。
「……エリナ嬢。あなたは私をご存じないでしょう」
「申し訳ありません」
「謝ることではありません。ですが、私は五年前からあなたの名前を知っています」
「五年前?」
「覚えていませんか? 北方から王都へ送る羊毛の量が、一月だけ大きく減ったことを」
「ああ……」
覚えている。
『羊の数は変わっていないのに、どうして出荷量だけ減ったのですか?』
そう尋ねた。
「調べた結果、集積所の責任者による横流しが見つかりました」
「そうだったのですか?」
「三年前には、北方街道を通る馬車の到着が遅くなっていると問い合わせをいただきました」
「しましたね」
「橋脚に亀裂が見つかりました。崩落する前に補修できた」
「それは、よかったです」
「昨年は、家畜用の薬の購入量が一地域だけ増えていると」
「あれは結局、何だったのです?」
「家畜の伝染病です。周辺へ広がる前に封鎖できました」
「まあ」
知らなかった。私は質問を送っていただけだ。結果まで報告されないことも多かった。
「あなたから問い合わせが来るたび、またエリナ嬢に見つかったと思っていました」
カイル様が笑う。
「北方へ来て、今までと同じように報告書を読んでいただけませんか?」
「それだけでいいのですか?」
「気になることがあれば教えてください。その先は私たちが働きます」
その言葉は、不思議なくらい嬉しかった。
「……行きます」
「もう少し悩まれるかと思いました」
「十日休みましたので」
「十日」
「十分でした」
カイル様が吹き出した。
父の許可を得て、数日後。私は王都を離れた。
馬車の窓から遠ざかる街を眺めながら、少しだけ笑う。
北方では、どんな報告書が私を待っているのだろう。
◇
北方へ着いた翌朝、私の机には久しぶりに報告書が積まれていた。
「……やっぱり、落ち着く」
「十日で仕事が恋しくなる方ですからね」
向かいの席で、カイル様が笑った。
それから数日、私はひたすら報告書を読んだ。
農作物、街道、倉庫、河川。去年の数字と比べたり、地図で場所を確認したりしながら、少しずつ北方のことを覚えていく。
五日目の朝。いつものように報告書を読み進めて――手が止まった。
「カイル様」
「はい?」
「これ、おかしくありませんか?」
上流にある三つの観測所。雨は降っているのに、昨日から川の水位がほとんど変わっていない。
「下流の水位は?」
「正常です。だから、上流だけ変わらないのが気になります」
測定器の故障かもしれない。偶然かもしれない。
それでもカイル様は、すぐに立ち上がった。
「調べさせます」
「よろしいのですか?」
「そのために、あなたに来ていただいたのです」
翌日、調査隊から報告が届いた。
上流で大規模な土砂崩れが起き、川がせき止められていた。自然にできた巨大な堰。水は今も、その後ろにたまり続けている。
崩れれば、大量の水が下流へ押し寄せる。
すぐに避難命令が出た。低地の倉庫から穀物が運び出され、家畜も高台へ移された。
そして二日後、堰が崩れた。
濁流は畑をのみ込み、街道を削った。けれど、人々はすでに避難していた。冬を越すための穀物も無事だった。
「間に合いました」
報告を持ってきたカイル様が笑っている。
「あなたのおかげです」
「私は数字を見ただけです」
「またそれを言う」
カイル様が笑った。私も笑う。
この人は、私の言葉を疑わない。
王宮では『本当に調べる必要があるのか』と聞かれることもあった。でもカイル様は違う。
『そのために、あなたに来ていただいたのです』
そう言って、本当に動いてくれた。
「どうしました?」
「いえ」
私は慌てて報告書へ視線を戻した。なぜだろう。さっきから、少しだけ顔が熱い。
でも今度は、自分の仕事なんて誰にでもできるとは思わなかった。
◇
それから一か月ほど経った頃、王都から国王陛下の使者がやってきた。
「陛下が、エリナ様とお話しになりたいとのことです」
病床にある陛下からの呼び出しだった。
「私も同行します」
カイル様が言った。
「ですが――」
「あなたを一人で帰したくありません」
胸が少しだけ高鳴った。
私はカイル様とともに、王都へ戻った。
◇
国王陛下は、寝台の上で私を迎えてくださった。以前よりずっと痩せている。その傍らには、レオル殿下も立っていた。
「久しいな、エリナ」
「ご無沙汰しております、陛下」
「すまなかった」
「陛下?」
「私はレオルから、婚約を解消したと報告を受けていた」
陛下がレオル殿下を見る。
「新たな婚約者は王太子妃として十分な能力を持ち、エリナに代わって務めを果たせるとな」
レオル殿下が目を逸らした。
「だから私は認めた。だが――」
陛下の声が低くなる。
「私は婚約者を替えたと聞いた! 仕事まで捨てたとは聞いておらん!」
「父上、しかしエリナがしていたことは、報告書を読んで――」
「それを私が知らぬとでも思っているのか!」
レオル殿下が黙った。
「エリナが各部署の報告を読み、異常があれば問い返していたことは知っている。だからこそ、私はこの娘を王太子妃に選んだのだ」
陛下はレオル殿下を睨んだ。
「私が病床にある間に、それが国政のどこまで組み込まれていた?」
「……」
「エリナがいなくなったあと、代わりに誰がその仕事をしている?」
「それは……」
「誰もいないのだな?」
レオル殿下は答えなかった。
陛下が深く息を吐く。
「お前はエリナの代わりが務まる婚約者と交代したのではなかったのか?」
「ミレーヌは、王太子妃としての社交も――」
「今は社交の話をしておらん!」
陛下の一喝に、レオル殿下が黙った。
「エリナが何をしているのかも知らず、誰にでもできる仕事だと切り捨てた。その結果が、小麦不足に横流し、交易路の停止か」
「それは各部署の失態でも――」
「だからお前を置いたのだ!」
レオル殿下の顔が強張った。
「各部署を監督し、国全体を見るのが、政務を預かる者の仕事だ!」
「父上……」
「本日をもって、お前に任せていた政務代行を解く」
「なっ――!」
初めて、レオル殿下の顔から余裕が消えた。
「お待ちください! 父上はまだご療養中では――」
「宰相と各大臣に戻す。少なくとも、お前よりは自分の仕事を知っている」
「そんな……」
「王太子の地位まで取り上げるとは言っておらん。もう一度、学び直せと言っている」
レオル殿下は何も言えなかった。
五年間、私は王太子妃になるために学んできた。そして今度は、私を必要ないと言ったレオル殿下が学び直すことになった。
しばらくして、レオル殿下が私を見る。
「……エリナ。王宮へ戻ってきてくれ」
「え?」
「君が戻れば、以前のように――」
「レオル!」
陛下の怒声が飛んだ。
「今の話を聞いて、まだ分からんのか! エリナを戻して、お前の失敗を埋めさせるつもりか!」
「……」
「自分で立て直せ!」
レオル殿下の顔が歪んだ。それでも、私を見る。
「エリナ。それでも私は……君に戻ってきてほしい」
私は少しだけ考えた。
以前の私なら、その言葉を待っていたのかもしれない。でも今は、答えが決まっていた。
「お断りいたします」
「……なぜだ?」
「私は北方へ戻ります」
「君はこの国のために五年間働いてきただろう!」
「はい」
「なら――」
「北方にも、この国の民が暮らしています」
レオル殿下が黙った。
「私はずっと、自分は報告書を読んでいるだけだと思っていました。橋脚の亀裂を見つけ、横流しを見つけ、伝染病が広がる前に止められた。そして北方では、大勢の人が洪水から逃げる時間を作れました」
今は、自分の仕事が何の役に立っているのか知っている。
「私の仕事を必要としてくださる方々が、北方にはいます。だから戻りません」
レオル殿下は、もう何も言わなかった。
私は国王陛下に一礼し、部屋を出た。
◇
王宮を出ると、カイル様が待っていた。
「終わりましたか?」
「はい」
「では?」
私は笑った。
「北方へ帰りましょう」
カイル様も笑った。
「はい」
私はもう、王宮を振り返らなかった。
◇
北方へ戻って数日後。
「エリナ嬢」
仕事を終えた私を、カイル様が呼び止めた。
「以前、あなたが必要だから北方へ来てほしいと言いましたね」
「はい」
「今は、少し意味が違います」
カイル様が私を見る。
「仕事ではなく、あなたにずっとここにいてほしい。私と結婚していただけませんか?」
胸が高鳴った。けれど、答えはもう決まっている。
「……結婚しても、報告書を読んでいていいですか?」
カイル様が笑った。
「もちろんです。領民一同、とても助かります」
「では、よろしくお願いいたします」
「はい」
私も笑った。
明日もきっと、机にはたくさんの報告書が届く。
そして気になる数字を見つけたら、私はまた尋ねるのだ。
「これ、おかしくありませんか?」と。




