恋想画、アイリカ・トゥリス
アイリカ・トゥリス、18歳。絵描きであり、絵本作家でもある。
ふんわりとしたボブカットに、ふにゃりとした笑み。不思議な気配をまといながら、舞台の光を浴びるたびに、髪が空気にとけるように揺れる。
茶色のくせ毛が肩を撫でるたび、彼女の存在はまるで、筆先から描かれた夢のようだった。
ゆっくりと舞台を進むたび、腰につけた革製ホルダーに差された大量の筆たちが、小さく、律儀にカチャリカチャリと音を鳴らす。
――最年少挑戦者。その肩書きに、重さはない。
彼女はただ、自分の「想い」を描くためだけに、ここにいる。
舞台の中心で立ち止まると、アイリカは手を胸にあてた。
その視線の先、数メートル先に立つのは、流転者――シンジ。
「あなたに会えて、よかった」
ぽつりと漏れた言葉は、幼さの残る声色と不思議な余韻に包まれていた。
「絵では何度も描いたの。笑ってるあなた、怒ってるあなた、寝てるあなた……でも、今こうして本物に会えたら、映像よりずっと、ずっときれい」
彼女の瞳が、静かに揺れる。
「本当にたくさん描いたの。未来の景色、ふたりで過ごす部屋、あなたといる日々」
「でも、いつも最後に残るのは、空白のままの“あなたの顔”だった」
「きっと、本当に会わなきゃ描けなかったんだと思う」
「だから今日、ここで、全部描ききるの」
***
あの日、テレビで第4回告魔フェスの開催が発表されたとき、彼女はなんとなく画面を見ていた。紅茶を飲みながら、乾きかけの水彩紙をぼんやり眺めていた。
最初はいつも通り、BGM代わりのつもりだった。
でも、画面の中央に映った“その人”を見た瞬間、世界が変わった。
シンジ。
彼の姿を見たとき、胸の奥で何かが跳ねた。
“誰か”じゃなくて、“この人”に恋をしてる――はじめてそう思った。
それは衝動でも憧れでもなく、ただ一枚描いてみたいという、強い強い欲だった。
そのときから、アイリカの絵に“彼”が現れるようになった。
ずっと景色しか描けなかった彼女が、はじめて「誰かと生きる風景」を描こうと思ったのは。
でも、魔法はすぐにはついてこなかった。
色が滲んで、形がくずれて、絵の具は足りなくなって、魔力はぶれて――。
それでも、何度もやり直して、魔法構築を組み直して、筆を一から選び直して。
何度も、スケッチブックに「ふたりでいる部屋」を描いた。誰もいない未来の光景を、信じて。
誰のため? そんなの、決まってる。
――まだ会っていない、あなたのため。
シンジの顔を見た瞬間から、彼との日々を描くようになった。
それはもう、想像ではなく願いだった。
だって、もう描きたくてしかたなかったから。
好きだから。この気持ちは、ただのイメージじゃなくて、本物だから。
***
筆を抜き取る。その瞬間、ホルダーから百本の筆が一斉にふわりと浮かび、舞台の空に広がっていく。
魔力がにじみ、水と土の粒子が筆先から弾けた。
アイリカはそっと、唇をひらいた。
「――絵夢譚・終わりなき恋物語」
最初に空へ飛び出したのは、一枚の紙だった。
アイリカの背にかかる鞄のすき間から、ふわりとこぼれ落ちたそれは、微かな魔力の風に乗って宙を舞い――次の瞬間、眩い光に包まれて弾けた。
そこから噴き出すように、描きかけのスケッチたちが次々と空へ解き放たれる。
最初に描かれていたのは、シンジの横顔だった。
笑った顔、眠そうなまなざし、ふと遠くを見つめる眼差し――どれも少しずつ違う。
けれどそのすべてが、彼女がずっと描きたくて、でも描けなかった“本当の顔”を探す旅の記録だった。
百の筆が風に舞う羽のように空を駆け、次々と絵を仕上げては放っていく。
光をまとうその絵たちは、青空に向かってくるくると旋回しながら、柔らかに舞い上がる。
ひとつ、またひとつと繋がっていくそれらは、やがて星座のように連なり、空に巨大な物語を描きはじめる。
それは、現実と幻想の境を曖昧にしていく風景だった。
空気そのものが染まり、世界が、彼女の絵筆によって塗りかえられていく。
アイリカのまわりを、百の筆が螺旋を描いて舞い、淡く滲むような線を空へと描き続ける。
マグカップ、窓辺のスケッチブック、洗面所に置かれたふたつの歯ブラシ。
描かれるのは、未来そのものではない。
――未来が、始まる部屋の匂い。
観客は息を呑んでいた。
誰もが感じていた。そこにあるのは夢じゃない。“あってほしい現実”だ。
筆は止まらない。まだ描く。
シンジの寝ぐせ、同じ毛布で並ぶ背中、描きかけの一枚の絵。
永遠に続くかのように思われた光景は、ふいに途切れた。
何の予兆もなく、魔力の流れがぷつりと絶たれる。
――3分が過ぎたのだ。
アイリカの姿が、淡い光に包まれてふっとかき消える。
次の瞬間、宙を舞っていた百の筆が、魂を失ったようにぽとぽとと床へと静かに落ちていった。
空に浮かんでいた光の絵たちも、まるで糸を断たれたようにひとつ、またひとつと崩れ、やがてすべてが粒子となって消えていく。
舞台には、静寂だけが残る。
そして、筆とともに、無数の紙束がその場に散らばっていた。
彼女が今まで描き溜めてきた、空へと放たれなかった絵たち――ふたりの生活、笑顔、ささやかな日常。
散らばった紙の中から、ただ一枚だけが、そっと風にめくれ上がった。
それは、小さなスケッチブックの描きかけのページ。
描かれていたのは、シンジの横顔。
やわらかな輪郭に、未完成のまま残された瞳の位置。
まだ、描くべき線が、塗るべき色が、彼女の中にいくつも残っているのだと、静かに物語っていた。
実況席。
「じ、じ……時間オーバーによる強制終了です! まさかの夢中すぎて退場パターン! しかし……あの絵の世界……!」
「水と土による彩術系魔法……いえ、もはや“視覚式空間構成魔術”の一種ですね。物質ではなく、筆先を媒介に魔力を映像へと変換・構築する方式です」
「18歳にして、百本の筆を同時並列に制御し、空間全体に物語を紡ぐ……これは演出ではなく、限界突破した構築魔法です。
しかも彼女が描こうとしていたのは、未来の入口……日々のささいな風景だけ。
それがあれほど胸を打ったのは、たぶん本気だったからですよ。最初から最後まで」
「終わらなかったんですね、彼女の物語は……」
「いえ、“まだ始まってすらいなかった”。それが、彼女の伝えたかったことなのかもしれません」
舞台には、ただ静かに筆と紙だけが残されていた。
客席では誰もが息をひそめたまま、言葉を失っていた。
拍手をするのも忘れたように、ただ、心をどこかに持っていかれたまま。
まだ物語は語られていない。
けれど、その“予感”だけで、
人はこれほどまでに心を動かされるのだと、
誰もが知った瞬間だった。
――――――
仮面のメイドたちは、沈黙を守りながら控室の片隅に立っていた。
室内には、告白魔法が終わったあとの微かな余韻と、ほんの少しだけ、気配の揺れが残っている。
「……シンジ様、5人を選ぶの、かなり迷っておられますね」
「そうですね……。今大会の追加条件が“トマトが嫌いじゃない人”という、極めて緩やかなものであったこと。そして、事前の性格・相性診断においても、“受容範囲が極めて広い”という結果が出てしまったことで――結果として、本戦に進出した候補者たちが、性格も属性もバラバラな、多種多様な女性陣になってしまいました」
「タイプが似ていれば、まだ比較のしようもあったのでしょうけど……ここまで違うと、判断基準そのものが定まらないわ。しかも、それぞれがシンジ様の“好みに合致している”状態になってしまっている。性格面でも身体的傾向でも……」
「……ほんとうに、なんてお優しい方。
選ばれなくとも、のちに私たちと同じハーレム候補になる方々なのに、あんなにも真剣に悩んでくださって……」
「ふふ。そんなお姿を見ていると、またひとつ、好きになってしまいそうです」
誰かがつぶやき、他の者はただ静かにうなずいた。
仮面の奥――口元に浮かんだ、抑えきれない微笑。
静かな陶酔が、声にもならない息遣いとなって、そっと漏れ出ていた。