悶絶の俄か島人、ニノセ シンジ
白い光がはじけ、足元の魔法陣が消えたとき。
二ノ瀬真治は、見知らぬ部屋の中央に立っていた。
ふと、さっきまで目の前にいた“アイ”――二人目の仮面の監視員の姿が、もうどこにも見えないことに気づく。
気配も、音も、まるで最初からいなかったかのように消えていた。
静かで落ち着いた空間。白と木目を基調にしたインテリアは、どこか北欧風にも見える。窓の外には、緑の庭と海のような青い空が広がっている。
――だがその心地よさを、ゆっくりと味わう間もなかった。
「ようこそお越しくださいました、シンジ様」
声に振り返ると、そこには揃いのメイド服を着た、三人の仮面の子がいた。さっきまでの“アイ”たちとは違い、白い仮面で目元だけが隠されている。 だがやはり、輪郭がぼやけて見えて、顔はどうしても認識できなかった。
認識阻害。前に説明された通り、個人を特定させないための処置だ。
「お召し物は……申し訳ありませんが、まだ支給が間に合っておりません。もうしばらく、そのローブのままでお過ごしくださいませ」
軽く会釈したあと、彼女たちは手慣れた様子でシンジを案内する。部屋を出るとすぐに、屋敷の前に停まっていた漆黒の車体――馬車にも見えるが、どこか機械的な乗り物が目に入った。
「これは……自動車?……みたいなものか?」
「はい。『魔動車』と呼ばれる移動魔道具です。現在は一部の都市部と、ここアヴァロス島群のみで試験的に運用されております。魔導技術は、発展途上なうえに維持コストも高く、一般には普及しておりません」
そう説明しながら、仮面の子の一人がドアを開ける。
「どうぞ、ご乗車ください。移動しながら、いくつか説明を差し上げます」
静かなエンジン音とともに、魔動車は動き出す。
「この島は、いくつもの小島で構成される群島型居住区です。それぞれの島には一人ずつ、他の流転者様が生活されておりますが、接触のないよう厳重に管理されております」
「つまり……男は俺だけじゃないけど、誰にも会わないってことか」
「はい。その通りです。また、どの島も独立した生活機能を備えており、通常の生活はすべてこの島内で完結します。緊急時には、監視局を通じて即時の転移対応も可能です」
走る車窓の外には、小さな街並みのような建物群が見えてきた。仮面の子たちがちらほらと歩いていて、それなりにこの場所で日常を送っているようにも見えた。
「食事や寝具など、お好みに合わせて調整可能です。本日のお食事、何か苦手なものなどはございますか?」
「え? あー……いや、大丈夫。食べられないものは特にないかな」
「かしこまりました。お部屋についても、ベッドと布団のいずれをご希望か、また生活上で絶対にしてほしくないことなどございましたら、随時お申し付けください」
そこまで言い終えるころ、車はひとつの白い屋敷の前に停まった。
「到着いたしました、シンジ様」
白壁に木の枠が映える、開放的な雰囲気の建物だった。
「こちらと、先ほど通ってきた町並みすべてが、シンジ様のご自宅となっております。滞在はこの屋敷で構いませんが、ご希望があれば他の建物に移られても問題ありません」
「え……いや、ここでいい、ここでいいから!とりあえず中入ろう!」
その規模に押されるように、シンジは早口でそう言った。
屋敷の扉が開き、仮面をつけた十名近い仮面の子たちが一斉にお辞儀をする。揃いのメイド服姿、統一された所作、不気味なほど整然とした空気。
「こ、この仮面……なんとかならないの?」
「申し訳ありません。流転者様が候補者と個人的に関係を築くことを防ぐため、半年間は仮面と認識阻害の処置が継続されます。後ほど詳しくご説明いたしますので、今はご容赦ください」
諦め混じりのため息とともに、シンジは無言でうなずいた。
「お食事の前に、お風呂をご案内いたします。お疲れもあるかと思いますので」
その言葉に、シンジはふと何かを思い出す。
(もしかして、風呂に入れば……戻れるかも?)
「お風呂!いいね、いこう!」
今までで一番元気な声を出してしまい、あとで少し後悔した。
案内された風呂場は、想像以上に広く、まるで銭湯のような造りだった。脱衣所には、先ほどから付き従っていた仮面の子たちが五人ほど、そのまま当然のように足を踏み入れてくる。
そのうちのひとりが前に出て、そっとローブに手をかけた。
「では、失礼いたします」
「え、ちょ、ま――」
返事をする間もなく、ローブがスルリと脱がされ、全裸になる。
思わず前を隠し、顔が真っ赤になる。
「私たちも、失礼いたします」
仮面の子たちも服を脱ぎ、全裸になる。
「えっ……あっ……いや、その……」
嬉しいような、困ったような、情けないような声を漏らすが、彼女たちの姿は靄がかかったようにぼやけて見え、認識できない。
「現在も認識阻害魔法がかかっております。半年ほど、このままでお過ごしいただく形になりますが……ご容赦ください」
そのまま風呂場へ案内され、魔法じみた蛇口の使い方を教わり、そして、仮面の子たちの手で体を洗われる。
正直、ローブを脱がされた時点で、いやな予感はしていた。
それでもなんとか耐えて、されるがままに身体を洗われていたのだが――限界は、案外あっさり訪れた。
顔は見えない。姿もぼんやりしている。
それでも、どうしても意識してしまう。
だって、この世界には“女性しかいない”のだから。
その一点だけで、身体が勝手に判断していた。
頭では何も理解していないのに、息子だけが現実を受け止めていた。
情けないにもほどがある。
「シンジ様。ここでの生活、何不自由なくお過ごしいただけるよう、私たち全員で尽くしてまいります……」
「……なのに……こんなとき、何もできないなんて……」
「……ごめんなさい」
「……どうか……不気味だと思われるかもしれませんが、半年間だけ、お許しくださいっ」
「えっと、ごめん。変なもの見せちゃって……いや、仮面とか、たぶんそのうち慣れると思う」
頭を洗い終え、いよいよ湯船へ。
(帰れるかもしれない……!)
息を飲み、頭まで勢いよく湯船に沈んだ。
……なにも起きない。
湯の中で目を閉じ、しばらく息を止めたまま考えていた。
本当に、もう帰れないのか。
風呂に入れば元の世界に戻れるかもしれない――そんな希望は、ただの妄想だったらしい。
がっくりと肩を落としかけたそのとき、不意に脇を抱えられる感触がして、水面が一気に遠ざかる。
「し、シンジ様。大丈夫ですか!?お怪我はありませんか!?」
そう声をかけられた次の瞬間、シンジは半ば強引に仰向けにされ、あれよあれよという間に数人の仮面の子たちが四方から群がってきた。
前から、後ろから、横から――目の前に仮面が迫り、複数の手がためらいなく彼の体に触れてくる。肩、腕、脇腹、脚、太もも……とにかく隅から隅まで、くまなく。
――また勃った。
あっけないほど、はっきりと。
すぐさま仮面の子たちが囲むようにかがみ込み、応急処置の準備を始めかけたのを見て、シンジは慌てて上体を起こす。
「あっ、ち、ちがう!大丈夫、怪我とかじゃないから!」
顔を真っ赤にしながら、言葉を探すように息をつく。
「……いやさ、こっちに来る前、あんな感じで風呂入ってたら、この世界に来てたんだよ……だから、もしかしたら戻れるかなって……その、ごめん」
「いえ、謝らないでください。帰りたいと思うのは当然のことです。むしろ、先に言うべきでした。私たちが知る限り、今までこちらに来た流転者様で、元の世界に帰ろうとし転移できた方はいません。仮に転移したとしても、そこが元の世界かどうかも私たちには……ごめんなさい」
そうだった。仮に同じ方法でここから転移できたとしても、そこが元いた場所じゃないことだって……もっとひどい状況になる可能性だってあるのか。そう考えると自分の浅はかさにぞっとした。
「こっちこそホントごめん、言われて気づいたわ、結構危ないことしてたんだな俺」と謝る。
「そ、その……こちらの世界の都合上、流転者様を元の世界に返す研究はあまり進んでおらず……。もちろん、世界をつなげることができれば問題は解決すると提唱する者もいるのですが、それはそれで新たな問題が出るというのが争点となっているみたいで、やはり研究が進まないのが現状です」
シンジは申し訳なさそうにする仮面の子の説明を聞き、色々考える。戻れなかったこと、危険だったこと、転移した場所の運が良かったこと、すぐに助けてもらったこと、不自由ない暮らしが保障されていること。そして色々吹っ切れる。
「そっか、わかった。こっちの世界で楽しくやってみることにするわ!まだ全然何もわかってないけど、いろいろ説明してくれるんでしょ?っていうか、ラフな感じで話してもいいか?」
「は、はい、それはもちろんです!私たちもそちらの方がとてもうれしいです。では、もう一度湯船に浸かり温まりなおしましょう。このままだと風邪をひいてしまいます」と少し笑っているような感じで言った。
全裸で寝かされたままだったシンジは、顔を赤くしながら風呂に入る。
風呂から上がると、多種多様な服が用意されていた、お好きなのをどうぞと言われ、着やすそうな藍色の甚平のような服を着る。
「私たちも、お召し物をそちらに合わせましょうか?」
「いや、大丈夫。そのままでいいよ」
案内された食堂は、洋風で家庭的な雰囲気だった。
椅子に座ると、冷たい水が差し出される。
一口飲むと、驚くほど美味しくて。
気づけば、シンジは夢中で水を飲んでいた。
移動中に聞かれた食事のメニューの中に、お米を使った料理があったのだが、和食ではないみたいだったので、無難にトマトパスタを選んだ。
シンジ一人が座り、周りで待機している仮面の子がいるので、居心地が悪いが、おなかが減っているので、そのまま食べることにした。
味はシンプルだった。濃厚なトマトの酸味と甘み、ベーコンのコクと塩気もちょうどよく、瞬く間に食べ終わる。
ご馳走様といい、水を飲んでいると、
「今日はお疲れだと思いますので、このまま寝室のご案内をします。今後の生活についてや、私たちの事について詳しい話……そして、流転者様であるシンジ様に発生するこの世界での義務などは、明日お話しする予定です。もちろん、希望であれば、二〜三日程度なら、説明を後回しにして休息してもらっても構いません。シンジ様もいまだに混乱していられることは承知しております」
と言われるが、シンジはもうここで暮らすことに前向きになっていた。
「いや、明日全部話を聞くよ!朝食は、パンがいいかな、目玉焼きもお願いね!」と少し無理やりに元気よく言う。
「はい!承知いたしました。ほかに要望があれば、何なりとお申し付けくださいませ。アイと一言呼んでくだされば、いつでもお伺いします」
とうれしそうに言い、部屋に案内された。
あ、この子たちもアイだったんだと、いまさらながらに気付く。
ベッドにバフっと倒れこむと、ふわりと優しい香りが鼻をくすぐった。
硬すぎず、柔らかすぎず。ふとんの感触も悪くない。
この世界のことも、仮面の子たちのことも、そして明日聞くという“義務”の話も。
まだわからないことだらけだけど――不思議と、不安はなかった。
(……まぁ、なるようになるか)
まぶたがゆっくりと落ちていく。
異世界初日の夜は、思っていたよりもずっと穏やかだった。