追憶-幻映、ヴィスカリア・ユルグレイン
ヴィスカリア・ユルグレイン――20歳。狐耳と白銀のミドルヘアを持つ、静かな眼差しの発明家。アークシティ同盟で研究職に就いており、整った顔立ちと涼やかな雰囲気から、周囲からは密かに憧れの視線を向けられている。
舞台に立ったヴィスカリアは、他の挑戦者たちのように言葉を連ねたり、大きな身振りを見せることはなかった。冷静な足取りでシンジの前へと進み出ると、まっすぐに視線を合わせる。
「恋だの愛だのを、一生懸命伝えるのは……私にはどうにも性に合わない。
でも、それがないわけじゃない。私はあなたに惹かれている、傍にいたい」
そう言って、少しだけ目を伏せ、空気を深く吸い込む。
「私は、私のやり方で伝える。すべてはあなたのために……」
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100年ほど前、とある地方都市で、獣耳を生やす魔法の応用実験が行われた。しかし制御に失敗し、町の住人全員に獣耳が現れるという事故が発生。すぐに政府による保護と治療研究が進められたが、今に至るまで元に戻す手段は見つかっていない。
この事件を経て生まれた子供たちにも同様の特徴が現れ、彼らはやがて「ケモ族」と呼ばれるようになった。差別や迫害は一切なく、むしろその外見的な魅力から人気が高まり、現在では一種の文化として受け入れられている。
ヴィスカリアも、そんなケモ族の末裔だ。外見による注目を避けることも多かったが、だからこそ、他人に媚びるような表現や感情を装うことには抵抗があった。
記憶投影魔法の構想を練り始めたのは、子供の頃からだった。もともとは、父が晩年まで取り組んでいた記憶再投影装置の理論を引き継いだもので、彼の研究ノートと魔導回路の残骸を手に、ヴィスカリアはひとり実験を重ねていた。偶然の発想ではない。記憶と空間の重ね合わせを応用すれば、何らかの印象に働きかける可能性があると考えていた。
彼女は魔導具の構築と理論の整理を並行しながら、独自に実験と改良を繰り返していた。魔導具は完成に近づき、そしてその過程で第4回大会開催の報が届いた。
正直に言えば、出場するつもりはなかった。第1回から第3回までの記録映像や魔法構造を全て分析し、どうも“自分向きではない”と判断していたからだ。派手な演出、感情の吐露、熱のこもった言葉。彼女の性格ややり方とは根本的に噛み合わないものばかりだった。
それでも、彼女の中に揺らぎが生じたのは、出場者たちが放った魔法の後、ただ静かに相手と向き合う流転者たちの姿を見たときだった。その表情に、熱狂ではなく、確かに心を動かされた痕跡を見た気がしたのだ。
――ならば、自分の方法で、理論に基づいた構造と演出で、“届かせる”ことはできないか。
そんな思考が、決意へと変わったのは、シンジの姿を映像で初めて目にしたときだった。冷静でいようとした。感情を排除しようとした。だが、その瞬間、胸の奥に波紋のような衝撃が走った。
それは胸の奥をふっとあたためるような、気づけば視線を追ってしまうような――名前をつけるには、少しだけ怖い“感情”だった。
(……この人になら、試してみてもいいかもしれない)
気づいたときには、参加を決めていた。知らないふりは、もうできなかった。
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ヴィスカリアはポケットから真っ白なレンズの眼鏡を取り出し、さっとかけた。そのまま片手を空中へ伸ばし、指先で淡々と空間をなぞる。
揺らめく裂け目が開き、彼女はそこにためらいなく腕を差し入れる。軽やかな金属音とともに、銀色の魔導具が手に現れた。
コンパクトな水晶核を中心に、多重レンズと細かな魔力伝導線が絡み合った発明品。それはまさに、彼女の手で設計・構築された、記憶と空間を重ねるための一点物だった。
「シンジ、元の世界を思い出して……ルミナス・ノスタルジア」
次の瞬間、シンジの頬に、静かに涙が伝った。
――実況席。
「な、なんですかこれは!? シンジさんが……泣いてますよ!? え、えーと、会場には何も映ってませんが……一体、何が起きているんですか!?」
「……おそらく、これは本人にしか視認できない投影型の魔法です。……いえ、名称は存在しませんね。今回のために彼女が新たに設計した魔導具と魔法理論による、完全な独自発明でしょう。仮に呼ぶなら……彼女の口から語られた『ルミナス・ノスタルジア』が、最もふさわしい呼び名でしょう。もしかしたら、シンジさんは元の世界の景色を見ているのかもしれません」
「な、なんと……それなら泣いている理由も納得できますね。でも、それって魔法舞台のプロテクトに引っかからないんですか? ……あっ、いえ、別に悪い意味じゃなくてですね、念のため!」
「問題ありません。視覚情報は舞台システムに対して無害です。そうでなければ、今までの魔法はすべてシンジさんから見えないことになってしまいます。もちろん、視覚を通して作用する、精神系魔法の干渉は完全に遮断しています」
「なるほど、でも一体どうやって?」
「この魔法は、本人の記憶や感情の“波長”を外部から感知し、映像として視覚化しているだけです。つまり、彼女は“見せている”のではなく、“引き出している”。映像はあくまで、シンジさんの心の内側から自然に浮かび上がったものです。そこに魔法的な内部作用は一切ありません」
「……だからプロテクトに触れていないんですね」
「ええ。内面への干渉ではなく、本人の思考を読み取り、それを形にして見せているにすぎません。構造としては、魔法というより、きわめて高精度な感応式の魔導具に近い。まさに、光と空間を自在に操る発明家――ヴィスカリアさんらしい技術です」
「それにしても、あれだけ静かに、心の深くまで入り込むなんて……」
舞台の中心で、静かに佇むヴィスカリアの姿を、観衆も、テレビの前の人々も、世界中が固唾を呑んで見守っていた。
解説の言葉から、今シンジが何を見ているのか――かつての世界、帰れないはずの記憶を追体験していることが伝わったからだ。
彼の頬を伝う涙に、誰もが静かに心を寄せていた。
観客席では、思わず目頭を押さえる者もいれば、そっと隣の手を握る者もいた。
誰が選ばれるかなんて、この瞬間においてはどうでもよかった。
ただ、流れた涙に共鳴するように――世界が静かに、ひとつになっていた。
――――――
最初に見えたのは、実家のリビングだった。母親がエプロン姿で台所に立ち、湯気の立つ味噌汁を鍋でかき混ぜている。父親はソファで新聞を広げて欠伸をしていた。妹はその横でクッションを抱えてテレビを見て笑っていた。
(……ああ、この感じ……毎日がこんなふうに始まってた)
カーテン越しの朝の光。壁にかかった時計。日曜日にだけ聞こえる父のくしゃみの音。
次に見えたのは、夕方の食卓。カレーの匂い。誰かがごはんをおかわりする音。家族で囲む食卓に、特別な会話なんて何もない。ただ、それが確かに幸せだった。
(なんで、こんなに……懐かしいのに、痛いんだよ)
通学路。雨上がりのアスファルト、白線の上をバランス取りながら歩いた足元。信号が変わる直前、全力で駆けた朝。転んで膝を擦りむいた帰り道。
教室のざわめき。誰かが背中を叩いて笑った昼休み。自習中の静けさ。放課後の青い空。何も話せなかった日の寂しさ。
(戻れないって、こういうことか……)
懐かしさというより、切なさだった。失ったのではなく、もう届かない場所。元の世界にいた頃ですら、曖昧になっていたような情景が、今はっきりと胸を刺してくる。
ランドセルの金具がうまく閉まらず、母に直してもらった朝。熱を出して寝込んだとき、手を握ってくれた父の温もり。妹とケンカして泣かせた日、謝るタイミングを逃して笑い合った夜。
休日の公園、父とキャッチボールをして、母が木陰から見守っていた。帰り道に寄った駄菓子屋、妹が選んだラムネをこっそり一口もらったこと。
何度も、何度も、当たり前に繰り返された日常。
(ああ……全部、あったんだ……ちゃんと、あったのに……)
胸が詰まり、呼吸がうまくできない。気づけば、涙が頬を伝っていた。
気づけば涙が頬を伝っていた。
そのとき、映像がすっと切り替わる。
白い光の研究室。整然とした空間。椅子に座る少女。狐耳、白銀の髪。
静かな手つきで道具を組み立て、分解し、また書き留める。
家族らしき背中。父親かもしれない人物に、そっと毛布をかける姿。
(……これは、ヴィスカリアの……)
『人間は忘れてしまう生き物だ。世界を渡ってきた君が、一番大切にしないといけないものを、私は守ろうと思う。これは君と私にしか見えていない』
『この映像は、魔導具に記録されている。思い出したくなったら……いつでも言ってくれ。何度でも、蘇らせよう』
『そして、代わりと言ってはなんだが、今度は、私の人生も少しだけ見てくれ。これでおあいこだ』
その声と共に、彼女の静かな日々が流れていく。
静かに、でも確かに何かを願いながら積み重ねてきた時間。
その最後に、彼女はふっと、ほんの少しだけ、笑った。
そして、映像は消えた。