十の誓い、シャーレン・クラヴィーア
舞台に立ったその瞬間、観客席がざわめいた。 黒のスラックスにジャケットを合わせたスタイルは、他の挑戦者とは一線を画している。深い金髪をひとつに束ね、細身の眼鏡をかけたその姿は、まるで裁定者か参謀のようにも見えた。
シャーレン・クラヴィーア。 この世界最大の魔導式製造連合、その中枢部門の筆頭を担う、稀代の“戦略術士”にして、今年の本戦進出者最年長――三十歳。
(……案外、平気なものね。こういう舞台も)
かすかに笑いながら呟いたその声音は、冷静で、そしてどこか諦念にも似た静けさを宿していた。
静寂の中に足音が響く。歩幅は一定、視線はまっすぐ、表情ひとつ揺らがない。
合理と計算の世界を生きてきたシャーレン・クラヴィーアにとって、これは未知の領域だった。 愛を語る舞台に立つこと自体が、常軌を逸した行為だ。
それでも、彼女はそこに立っている。 理由はまだ言葉にできない。 けれど、それが“価値”を持つ瞬間を、確かに彼女は信じていた。
「二ノ瀬真治様。本日は、このような場に立つ機会をいただき、光栄に存じます」 淀みなく、正確に区切られた声が舞台に響く。敬意と礼節、そして訓練された理性がその一言一言に宿っていた。
「私はシャーレン・クラヴィーア。魔導式の戦略設計を主としております」
「これまでの人生、私は常に“価値”と“対価”を計算しながら選択してきました」
「心さえも例外ではなく、求めるならば、その見返りを考えるべきだと――そう信じています……」
だが。
「私は、二ノ瀬真治様に捧げられるだけの“価値”を、いまだに持ち合わせていない」「どれほどの富を築こうと、どれほどの知を積み上げようと、あなたの心を得る対価としては、不足していると感じてしまいます」
一呼吸。
「それでも、私は願います。せめて、その手前まで辿りつけるように」
「今回、私が用意した告白魔法は――十の誓約です」
「私は、私自身に魔法をかけます。十の誓約を、自身の誇りをかけて刻みます。
これは取引ではなく、私の覚悟の証です。
対価を差し出すことでしか愛を語れないのなら――
私は、そのすべてを捧げましょう。
証人は、これをご覧になっている世界の皆様です」
その声には、もはや躊躇がなかった。
次の瞬間、彼女の足元に淡く発光する魔法陣が浮かび上がる。
――そして、彼女の記憶が、ふと揺れる。
*******
大会の開催が告知されたのは、いつもの情報巡回の中で見つけた項目のひとつにすぎなかった。業務の一環として、新制度・新規案件の動向をくまなくチェックするのは、仲介業を生業とする者の習性のようなものだ。
最初は、例年通りだと思っていた。だが――その年の参加者一覧に記された、一枚の写真に、彼女の時間は一瞬だけ止まった。
写真の中央にいたのは、流転者。二ノ瀬真治。言葉にはならない、けれど胸の奥に“何か”が触れるような感覚があった。
過去にも告魔フェスは何度か目にしてきたし、その都度、合理的な分析や感情の分析はしてきた。けれど、こうして「誰かの顔ひとつで」心が揺れるのは、初めてだった。
年齢はギリギリ。立場もある。ましてや、自分はあくまで交渉と契約のプロ。愛を語るなんて、そんな青臭いこと……そう思った瞬間、彼女の中で、ひとつの計算が始まった。
損益率、感情期待値、時間投資コスト。あらゆる数値を並べてみた。
たしかに、リスクは少ない。だが、それなりの時間と労力はかかるし、選ばれる確率など、ほとんどゼロに等しい。
それでも、あの感情――彼の姿を見た瞬間に湧き上がった衝動を、どこかにぶつけられる可能性があるのなら。
そう思えた瞬間、すべてのコストが“無視できる誤差”に見えてきた。
笑ってしまう。理屈も、損得も、あったものじゃない。
ふと、昔の自分を思い出した。
まだ若く、計算などせず、ただ夢中で何かに飛び込んでいた頃の自分を。
大きな案件も一段落した今、動ける時に動く。それは、投資判断として間違っていない。 ならば――やるなら、全力で。
そうして、シャーレン・クラヴィーアは申し込んだのだ。 たったひとつ、自分の心にだけ従って。
*******
舞台の中央で立ち止まったシャーレンは、胸の前で両手を組み、静かに目を閉じた。わずかに息を整えると、その唇がはっきりと開く。
「――単独誓約式・コード10:実行者=シャーレン・クラヴィーア」
その宣言と同時に、足元から淡く輝く魔法陣が広がる。複雑な幾何紋と記号が絡み合う光の輪は、回転とともに天へと上昇し、やがて舞台上空に巨大な書状を描き出した。
それは、誓約書。光で形作られたその文書は、横幅十メートルにおよぶ巨大な一枚の書類であり、観客の誰の目にもはっきりと視認できた。
書状の中央には、整然と並ぶ十の条文――彼女がこの魔法に刻んだ、十の誓いが、くっきりと輝いている。
第一条:二ノ瀬真治が誰を選ぼうと、その選択をシャーレン・クラヴィーアは受け入れること
第ニ条:選ばれなかったとしても、シャーレン・クラヴィーアは愛したことを後悔しないこと
第三条:シャーレン・クラヴィーアは、選ばれた後も、周囲との調和を尊び、共に在ることを選ぶこと
第四条:二ノ瀬真治に愛されるならば、シャーレン・クラヴィーアは生涯その愛を裏切らぬこと
第五条:二ノ瀬真治が望むなら、シャーレン・クラヴィーアは、自身の持つすべてを捧げること
第六条:他者に惑わされず、常に二ノ瀬真治の心に寄りそうこと
第七条:シャーレン・クラヴィーアは、二ノ瀬真治の弱さを、拒まず受け入れること
第八条:シャーレン・クラヴィーアは、必要とあらば二ノ瀬真治に進言すること
第九条:シャーレン・クラヴィーアは、愛が困難をもたらす時こそ、その意味を問い続けること
第十条:すべての誓いは、シャーレン・クラヴィーアの意思により永遠であること
シャーレンは一歩踏み出し、右手をすっと掲げる。その指先が空中の誓約書へと向かい、静かに文字をなぞるように動く。
筆も紙もない。だが、確かにそこには彼女の署名が刻まれた。
次の瞬間、十の条文がひとつずつ淡く発光しはじめる。光の粒となった文字は、宙を漂いながら彼女の胸元へと流れ込み、肌を透過して内側へと吸い込まれていく。
まるで、誓いそのものが、肉体に刻まれていくかのように。
会場には、張り詰めたような静寂が満ちていた。誰も言葉を発せず、ただその行為に込められた重みと、彼女の覚悟を感じ取っていた。
――実況席。
「こ、これは……本気の、やつですね……!」
実況席の補助マイクに入った音声は、いつもよりも明らかに低く、震えていた。
テンション高めの実況者でさえ、息を呑むほどの緊張感。舞台に立つその姿に、茶化す余地は一片もなかった。
「魔法の構造自体は単純な誓約式……ただし、ここまで大規模で、明文化された“十条の誓い”を提示する告白魔法は前例がありません……!」
解説者の声にも、ほんのわずかな敬意が滲む。
恋の魔法というよりも、儀式。もしくは……一種の自己犠牲。
魔力の消費すらも、効率ではなく“記録の完全性”のために設計されている。
「い、今の魔法……強制力とか、破ったときの代償って、あるんでしょうか……?」
「いえ、ないはずです。あれは“自分に課した”というよりは……“彼に伝える”ためのものだと思います。覚悟を」
「これが、彼女なりの“愛の証明”……なのでしょう。ただ、最後、文字が彼女の身体に吸い込まれていきました。あれは契約魔法に見られる現象で……おそらく、魂に先ほどの十の誓いが刻まれたと思われます」
「えっ、それって……本当に、もう、ずっと残るってことですか?」
「はい。ただし、強制力や代償といったものは一切ありません。あくまで“彼女がそう在りたいと願った記録”……その程度のもの、です」
――――――
控室に戻った二ノ瀬真治は、モニターの前に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
心の奥が、じんわりと温かい。
セレネアとのやりとりを経て、胸の奥に渦巻いていた迷いはすっかり消えていた。
そして今、その消えた空白を埋めるように、ある衝動が膨れ上がっていた。
――伝えたい。安心させたい。愛したい。
それは、何人もの少女たちから“告白”という名の感情を全力でぶつけられた、必然の帰結だった。
ただの言葉ではない。魂ごとぶつかってくる、魔法というかたちの本気。
その奔流にさらされ続けたこの時間が、気づかぬうちに自分を変えていた。
あと、二人。
その子たちの想いを受け取ったら、全員を選ぼう。
この想いに応えるために、彼女たちを“嫁”として迎えることを、観衆の前で宣言しよう。
きっと、残りの二人も、好きになってしまうに違いない。
十万人の中から選ばれた、たった十人だ。
ついこの間までただの高校生だった自分が、彼女たちを好きになってしまうのも――それは、やっぱり、必然だったのかもしれない。