7.新しくできた友人
「何をしている!」
頭の上から、聞き覚えのある氷を纏ったような低く澄んだ声がしたかと思うと、ぎゃん! というデイジーの声と共に何かがどしんと地面に倒れる音が聞こえた。
一体何が起きたのか。
手は顔から離さずに恐る恐る指の隙間から覗いてみると、まず飛び込んできたのは地面に伸びているデイジーの姿。一瞬死んでる!? って思ったけど、よく見たら体がわずかに上下してるから、気絶してるだけのようだ。
そして。
「おい、大丈夫か!?」
屈んでくれたのか、今度は耳の近くでさっきの綺麗な声がする。危険がなくなったんだと知った私は、ここでようやく手を外して声の主を確認すると、驚愕して思わず目を見開く。
「あ、なたは」
道理で聞いたことがあったはずだ。
前世ではゲームの中で、今の世界ではデイジーとのやり取りで散々耳にした。
そこにいたのは、いつも凍てつく氷を纏っているディラン様だったのだから。
だけど、今は少し様子が違う。
光を反射してキラキラ輝く水色の髪は汗で額に張り付いているし、普段は冷たさが際立つ濃紺の瞳には気遣いの色が宿っている。無表情がデフォルトの冷静沈着さが特徴の彼だけど、今の彼にはそんな様子は微塵も感じられなかった。
「よかった、見たところ外傷はなさそうだ。間に合ってよかった」
彼は私の全身を目で見て確認すると、安堵したようにほっと息を吐いた。
と、ここでようやく私は状況を把握する。
「あ、あのもしかして、私を助けて下さったんでしょうか……?」
「ああ。叫び声が聞こえたから何事かと思って見に来たら、ちょうど君がそこの人に襲われそうになっているのが見えたから」
本当に、もう駄目だと思っていた。そもそもこの辺りは人が滅多に来ないところだし、転んだ時点で終わったと半ば諦めていたのに。
それでも、運が味方したのか、神様が私を憐れんでくれたのか分からないが、とにかく私は助かったのだ。
私は立ち上がると、慌てて頭を下げる。
「おかげで助かりました。ありがとうございます!」
すると彼も立ち上がり、軽く肩をすくめると、
「体術に自信はなかったが、何とかなってよかった」
そう言って、一瞬ふわりと笑ったのだ。
その顔に、私の心臓がドクンと高鳴る。
え、なにその表情!? ゲームでも見たことなかったんですけど……というか、勿論この世界でも拝んだことのないご尊顔なんですけど!?
けれどもすぐにディラン様の顔はいつもの見慣れたものに変わってしまった。
「とにかく、これは立派な傷害事件だ。早急に彼女を引き渡そう」
そしてディラン様に、自分が見張っているから誰か呼んできてくれと言われ、私はその言葉に従い急いで最初に向かうはずだった警備室に向かう。
走りながら、そういえばなぜ彼がこんなところにいたんだろうと思案する。
デイジーが最近は現れていなかったとはいえ、読書に集中できないから人気のない裏庭にでもいたのだろうか。
確かに本を読むのにはいい環境だ。例えば今目の前にある大木の根本らへんなんて、良い感じに影もあって、今の季節なんてまさにうってつけの……と思ったのは私だけじゃなかったみたいだ。
なぜならそこは既に先約があるらしく、数冊の本が積まれていたから。なかなかいいセンスの人がいるななんて、通り過ぎる間際、何気に本の横の鞄のあたりをちらりと目にして、思わず目を丸くして足を止めそうになる。
この学園の鞄には、貴族の人間であれば鞄にその家の紋章が刻まれる。そして目の前のそれにあったのは、まさしくパシフィック家の印だった。
それは別にいい。私が釘付けになったのはその隣だ。
ホイップクリームがふんだんに使われたフルーツサンドに、チョコが散りばめられたクッキー、宝石のように色合いの美しいマカロン、などなど。
蓋の開いた大きなバスケットの中には、そんなたくさんのお菓子がぎっしりと詰め込まれていたのだ。
そして、地面には食べかけのサンドイッチが落ちていた。
そう言えば、最初にデイジーに絡まれていた時に持っていた本は他国のお菓子のレシピだったし、さっき置いてあった本も、言語関係なくスイーツに関するものばかり。
けれど、彼がこんなに甘いものが好きなんて、ゲームでもちらっと言葉で出てきただけだし現実でも聞いたことはない。
つまりディラン様は本当にお菓子が好きで、ここでこっそり食べていたとか……?
ということを走るスピードはそのままほんの数秒ほど考えたが、今はそれどころではない。ただ、彼の至福の時間を邪魔してしまったのなら申し訳ないと思いながら、警備の人たちを連れて急いでディラン様の元へ戻る。
幸いまだデイジーは起きておらず、彼女は気絶したまま、荷物のような扱いで警備の人たちに運ばれていった。
「お二人にも事情をお伺いしたいので、一緒に学園長の元へ来ていただけますか?」
私は当事者だし、そりゃそうだろうなと思ったけど、ディラン様はただその場に居合わせただけで関係ない。私だけではだめですかと尋ねようとしたけど、それよりも早くディラン様が同意した。
そして荷物をまとめて再び戻ってきた彼と一緒に学園長のいる部屋へ呼ばれた私は、事情を説明する。
私の立ち位置は、乙女ゲーム? 転生? ヒロイン? なんか急に意味の分からないことを言われて襲われたので困惑してます……である。
「何とも珍妙な話だ。ちなみになぜベレール君は、君がその……ヒロインとやらだと思ったのかな?」
白の混じった長い顎髭を撫でながら、学園長も訳が分からない、という感じで首を傾げる。なので私も困惑した表情で答える。
「そのヒロインさん? と、私の名前が同じだったようです。それから、私の本来の髪の毛の色もその証拠だと仰っておりました」
どうせデイジーが意識を取り戻したら、私が本当はピンクの髪の毛で、だからそれがヒロインの証明なんだ、と言われそうだ。後からそれは本当なのかと確認されたり、それで逆に疑われても面倒なので、自分から話すことにした。
「本来の私の髪は、今のベレールさんのようなピンクの色なんです。ですが、そのような髪色の方はほとんどいらっしゃらないですし、悪目立ちするのも嫌でしたので、入学前に今の色に染めたんです」
嘘は言っていない。
正しくは、ヒロインとして面倒ごとに巻き込まれたくないから、だけど。
それからディラン様にも状況を確認し、今のところは、妄想に取りつかれたデイジーが起こした傷害事件として話を進めるだろうと学園長から言われた。
そもそもデイジーの男子生徒への付きまとい等の問題行動は学園長の耳にも届いており、何かしらの処分を下した方がいいと判断された矢先での出来事だったそうだ。
解放された頃にはすっかり外は暗くなっていた。
ディラン様が近くにいたのは、やっぱり私がヒロインとして攻略対象者を引き寄せる性質を持っているからなのかもしれない。普段は疎ましいと思っていたけど、今となっては良かったと素直に思えた。
まあ、ヒロインじゃなかったらそもそもデイジーに襲われる、なんて危険なこともなかったんだけど。
それでも助かったのは事実だ。
私は改めてディラン様に向き直ると、深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました。パシフィック様がいらっしゃらなければ、今頃私はここにいなかったと思います」
この世界の死は、前世と同じ死だ。ニューゲームもコンティニューもできない。今更ながらそのことに気付いて、思わず背筋がぞくりと寒くなる。
「気にするな。君は寮生だったな。送っていこう」
「そんな、そこまでお手を煩わせるわけには」
そんな私の言葉を無視して、ディラン様はさっさと歩いて行ってしまう。抵抗を諦めた私は、慌てて彼の後を追いかける。私が追い付いたのを確認すると、ディラン様はすぐにスピードを落として私に合わせる。
ちらりと見える横顔はやっぱりゲーム通り、冷たい冬を纏わせたような美しさで、しかも平民なんてお呼びじゃないっていう選民思考の持ち主だから、いつもだったらひょえー怖いーってなってたんだけど。
半日一緒にいて感じたのは、どうもゲームとは印象が違うなということだ。
学園長の部屋に行く前に、もしかしたら怪我をしてるかもしれないと保健室に連れていってくれて、何度も、どこか痛くないか確認してくれた。
そこからの移動中も、学園長の部屋でも、表情はいつも通りだけど、ずっと気遣うような視線を向けてくれていた。
乙女ゲームのディラン様の攻略ルートでさえそんなシーンは最後の告白のシーンも含めてほぼ皆無だったというのに。しかも私は彼を攻略していない。
平民の私にこんなに優しくするなんて、なにか裏でもあるのだろうか……と訝しく思った気持ちが、ふと口から飛び出していた。
「パシフィック様は下位の立場の人間を厭う方だと思っていたのに」
「ああ」
それに気付いたのは、心の内のひとりごとにディラン様が反応したから。
やばい、と思って慌てて口を塞いで怯えながら足を止めてディラン様を見上げると、相変わらずの冷たい美貌が少しだけ陰っている。
彼は私からあえて視線を外すように窓の外に目をやると、形のいい唇を噛む。
「情けない話だが君の言う通り、私はつい最近まで、高位の貴族こそが国の中枢を担うのがふさわしいと考えていた。だから君のような爵位を持たない平民は、どうせ何もできないのだから、学園に通って無駄な勉強をせずに私たちにおとなしく守られていればいいのにとさえ思っていた。だが君が入学し、明らかに状況が変わった」
「そう、なんですか?」
自覚はない。首を傾げると、そこでこちらに目線を向けたディラン様は、わずかに口元を緩めながらゆっくり頷いた。
「平民や下位貴族は、本気で上位を狙おうと勉強やそれ以外にも力を入れ、これまで胡坐をかいていた上位貴族たちも、このままでは逆転されると努力を始めた。結果、君の学年の生徒は皆やる気に満ち溢れ、気付けばクラスも身分の垣根もなく、時には互いの意見を交換しながら本気で実力を競い合っている。しかも、皆とても楽しそうにな」
そういえば。
まだ入学して間もない頃、入学後初めて行われたテストで、学年一位の成績を取った時。
廊下に貼り出された上位成績者のほとんどを上位貴族が占める中、一番上に私の名前があったのを見つけた同じクラスの面々は、そりゃあもう褒めたたえてくれた。
頭がくしゃくしゃになるからやめろと言っても、すごいすごいと撫でまわし、挙句胴上げまでされてしまった。
だが、そんな私のことが気に喰わない上位貴族の面々に呼び出され、平民のくせに生意気だとか、女のくせにでしゃばるなと恫喝された。
もちろん、箱入り貴族のボンボンたちの脅しに屈するはずもなく。
「うっさいなぁ、別に嫌味言ったり嫌がらせして私を辞めさせてもいいけど、そうなるとあなた達は私に実力で勝てなかったということになる。悔しかったらあなた達が馬鹿にしている私にまずは勝ってから文句言いに来いよ」
的なことを言って、ダッシュでその場は逃げた。
それから、私を疎んでいるはずの上位貴族たちは面と向かって文句を言ってくることはなくなり、代わりに彼らの成績が跳ね上がった。
だけど私達も負けてられないとばかりに努力を重ね、以降ますますクラスの面々の勉強に熱が入り、テストでは上位に食い込むクラスメイトが増えた。
「君たちの様子を見ていて、自分がいかに狭い価値観に縛られていたかを痛感させられた。これまで散々、アレクサー殿下に言われていたにもかかわらず、ようやくそのことに気付いたんだ」
冷徹だと言われた顔に春の雪解けのような柔らかな笑みを浮かべながら、一歩踏み出して私との距離を縮めこの言葉を発する場面、すごく覚えがある。
いや、考えるまでもない。これは、ディラン様のルートの中盤のシーンだ。
なぜこんなことになった。
私は彼との接触はこれが初めてだし、攻略する気もなかったっていうのに……!
この後の展開は、よかったら友人になってくれないかと彼にお願いされ、承諾すると彼との段階が一つ進む。
そして予想通り、ディラン様は私に友人になってほしいと告げた。
さて、どうすべきか。
今の私は見た目もゲームとは違ってるし、すべてがゲーム通りに進んでいるわけでもない。
それでもこうしてディラン様と接点を持ってしまったのは、ゲームの強制力が働いているせいなのだろうか。だからといって私は彼を、デイジーのようにゲームの中の人間として攻略したいと考えているわけでもない。
たとえ今、ゲームと同じ場面が目の前で展開されたところで、その気持ちに変わりはない。
大体ここはゲームじゃなくて現実なのだ。
だからこそ、アレクサー殿下がエリザべス様とラブラブなように、ザイル様が友人のメイニーと婚約したように、ゲームとは違う展開で物事が進んでいる。というか、暴走するデイジーの存在自そもそもゲームにはなかったんだし。
大事なのはゲームとか関係なく、今の私がどうしたいかだ。
色々思考を巡らせた結果、自分の感情に素直に従うことにした。
「私で良ければ、ぜひ」
今目の前にいるディラン様に、私は興味を持っている。だから友人になりたい。何も躊躇することなんてない。
私は最近覚えた淑女の礼で、彼の言葉に返した。