15.気付いた気持ち
ディラン様から特大級の微笑み爆弾をお見舞いされた後。
あの時はたまたま顔の良いディラン様にあてられただけであって、感じた動揺はすぐになくなるだろうと思っていた。
が、あの日以来、なんだかおかしいのだ。
ディラン様が甘いものをご機嫌で食べている時、まるでその笑顔が自分に向けられているように感じて、鼓動が速くなり胸が締め付けられるようになった。
加えて、定期的にやってくる黒いもやもやも私の悩みの種の一つだった。そしてそれが出てくるのは決まって、セリーナ様のことが頭に浮かぶ時で。
なんなんだろうなこの気持ち…………。
分かりそうで分からない、いや、正確にいうなら、ちゃんと考えれば分かりそうだけどその正体に気付きたくない、とでも言うべきか。
それでも表面上はその謎の感情達を見て見ぬふりをし、いつも通りのアリスとして振る舞う。
けれど私の異変は、しっかりと気付かれていたようだった。
○○○○
「これから少し時間はあるか?」
週二回ほど放課後に行われるディラン様との勉強会。
いつもなら一科目終えたら小休憩とばかりにおやつタイムに入るところを、なぜか持ってきた自家製マフィンには手を付けず、ディラン様がそんなことを尋ねてきた。
「えっと、いつも通り門限までなら」
「そうか、なら……今から向かえば間に合いそうだな」
ディラン様は、窓の外に広がる空を見ながらそう小さく呟いた後、すぐにこちらに視線を向ける。
「今日の勉強会はここまでにしたい。構わないだろうか」
「大丈夫です。聞きたかった一番の難問も、先ほど解説していただいたおかげで解決しましたし。いつもありがとうございます」
「礼は不要だ。それより、嫌でなければ、この後少し外出に付き合ってもらえないか? この間俺に付き合わせてしまった礼も兼ねて、君を連れて行きたい場所があるんだ」
お礼なんて気にする必要はないんけど、かといって断る理由もない。二つ返事で了承し、すぐに迎えに行くから寮の前で待つように言われ、私服に着替えて言われた通り待っていると、パシフィック家の馬車がやってきてそのままどこかへと運ばれる。
どこへ向かっているのか尋ねても、着いてからのお楽しみだと教えてもらえなかった。
だけど馬車の進む方向から推測するに、王都の外れへと向かっているようだった。確かこの先にあるのは……。
到着して降り立つと、そこは私が予想していた通り、つい最近オープンしたばかりの植物園だった。
かなり広大な敷地の中には四季折々の花や植物が植えられており、いつ行っても飽きさせない工夫がされているという噂だ。
あとは、ハート型に花が植えられた花壇や自分好みのアロマオイルを作れる工房に、花を使ったり模したスイーツを提供するカフェラウンジ、休憩用にと木陰にハンモックが置かれていたりするようで、既にデート場所として人気のスポットだ。確かメイニーもザイル様とついこの間遊びにきたって言ってたっけ。
今日は平日。加えてあと一時間もしないうちに閉園するためか、思っていたよりも混雑していない。
そんな中ディラン様は目的の場所が決まっているようで、少し急かすように私を誘導しながらどんどん奥へと進んでいく。
「あの、パシフィック様、カフェはこっちの方向じゃないと思いますけど」
私はてっきり、この植物園で目玉の一つとも言われているラウンジへ連行されるものだとばかり思っていた。あちらには他にも薔薇の形をしたフィナンシェとかハーブの練り込まれたクッキーなんてものもあるらしいと聞いていたし、ディラン様がそれらに食いつかないはずがない。
「行くならさっきの道を右に曲がらないといけないらしいですよ」
「それは知っているが、今日の目的はそっちじゃない」
「そうなんですか? てっきり私は、一人で入店するのはまだ慣れないから、私を同行者として連れてきたのかとばかり思っていました」
むしろそれ以外に、ディラン様が恋人たちの新たな聖地と呼ばれつつあるここに私と一緒に来る理由が思い付かなかった。
そう言ったらディラン様は歩くスピードは緩めないまま私から視線を外すと、少しだけ頬を染める。
「確かにあの店で出されている、季節のフルーツと花びらが入ったゼリーも、二色のビオラが散りばめられたチーズケーキも、一人で入るにはまだ勇気が足りていないから食べに行けてはいないが。……あそこはあくまで俺が行きたいところであって、君を連れて行きたいのは別の場所だ」
やっぱり行きたいとは思っているみたいだ。お望みとあればいつもで同行するが、ほぼほぼ恋人たちで埋め尽くされている空間に私を一緒に連れて行くのは、あまりよろしくないかもしれない。 そういうところこそセリーナ様とデートで行けばいいと思うと考えたら、また黒い何かが奥からせり上がってくる。
……なぜ私は会ったことのない人間に対してこんな反応をしてしまうんだろう。ゲームをしている時も、ちょろっとしか出てこなかったセリーナ様には特になんの感情も抱いていなかったはずなのに。
日を追うごとに押さえつけるのが難しくなる正体不明のそれに苛立ちを覚えるが、気持ちを落ち着かせ、苦戦しつつゆっくりと奥底へと鎮める作業に集中していたら、ディラン様が急にピタリと足を止めた。
「よかった、間に合ったようだな」
ほっと安堵の声を漏らすディラン様の背中に危うくぶつかりそうになり、慌てて私も立ち止まる。
「危ないじゃないですか。止まる時はちゃんと教えてくださ────」
抗議の声を上げかけた私だったけど、最後まで言い終わる前に広がる光景に思わず目を奪われ、言葉を失い立ち尽くす。
そこにあったのはこの時期に見頃を迎えているコスモスの花畑だった。
私の元の髪色と同じ淡い色のものや、目にも鮮やかな濃いピンク色、ふんわりと柔らかな黄色に淡雪を思い起こさせる美しい白……そんな様々な色合いの花々が、視界いっぱいに広がっている。
私は昔から可愛い見た目だけど意外と逞しいこの花が好きだった。だから元気が出ない時や気分転換をしたい時、家の近くにあったコスモスが自生するとっておきの場所まで、よく眺めに行っていたものだ。
だけど晴れた秋空の下で見たことは何度もあっても、この時間に見るは初めてだった。
「綺麗……」
風で微かに揺れるコスモス達が、ちょうどゆっくりと地平線の彼方へ沈んでいく夕陽に照らされている。 時間の経過と共に少しずつ見せる色を変え、今だけの幻想的な空間を作り出していた。
そのまま赤い光が空の向こうに呑まれるまで、私はさっきまで抱えていた黒い物も、ここがどこなのかも忘れ、ただただ目の前の景色をうっとりとした心地で眺めていた。
やがて夜の帳が辺りを包み、星がぽつぽつと空に散らばり始めた頃。
「そろそろ戻ろう」
隣からディラン様の声が聞こえ、ようやく私の意識は現実の世界へ引き戻される。
そうだった、ここは王都の植物園で、ディラン様にここまで連れてきてもらったんだったと今更ながらに思い出す。
案外明るい月と星の光に照らされた道を来た時と逆方向に歩きながら、私はディラン様に訳を尋ねる。
「どうして私をここに連れてきたんですか?」
「この植物園はうちも出資しているんだが、オープン前のレセプションで招待された際、偶然あの景色に居合わせたんだ。だから機会があれば君に見せたいと思っていたんだ。……君は以前、あの花が好きだと言っていたから」
軽い雑談の最中に何の流れだか忘れたけど好きな花の話になって、コスモスが好きなことやよく見に行っていたことも話した気がする。
そんな些細なことまで覚えてもらっていたことに、今ディラン様はあの笑顔を浮かべていないのに、突然胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
────嫌な予感がする。
多分これ以上進んだら駄目なやつだ。本能的にそう悟って、必死で何かを無理やり押さえつける。大丈夫、まだ何とかなる。
それなのに、私が必死に抵抗している隣でディラン様はその抵抗を無に帰すように、気遣うような柔らかい視線を向けてくる。
「その、あれだ、最近君は少し元気がないような気がしてな。だから気分転換になればと思ったんだ」
「……そんな風に見えましたか」
おかしいな、隠していたつもりなのに。ディラン様の友人のアリスとして、違和感なんて出ないように、ちゃんと。それでも見抜かれていたなんて。
ああ、自分の心臓の音が痛いほどに脈打っている。全ての音をかき消すほどの大きな鼓動音で、頭の中が割れそうだ。それなのにディラン様の声だけは、すっと耳に入っていく。
「君が頑張っているのは知っている。だが、あまり気負い過ぎるな。俺に勉強以外のアドバイスができるかは自分でもあまり自信はないんだが……。それでも君が悩んでいるなら、いつでも相談に乗る。その為の友人だろう?」
そう言って小さくふわりと微笑みかけられた瞬間。
私のことを思いやってくれる彼の優しさが嬉しくて胸が一際高鳴ると同時に、友人という単語に心がえぐれるような痛みを覚える。
そして、無理やり閉じ込めて蓋をしていたものが全て、一気に溢れ出すのを感じた。
────本当は『それ』がなんなのか、知っていた。分かっていた。
けれど気付きたくなくて必死に抑えて、分からないふりをして、友人という言葉で誤魔化して、ずっと自分の気持ちを考えないようにしていた。だけどやっぱり無理だ。
この時ようやく私は自覚した。
ディラン様のことを、いつの間にか好きになっていたんだと。
気付いてしまえば全てに納得がいく。
ディラン様の笑顔を目にした時に感じた幸せな気持ちも、張り裂けそうなほどのこの胸の痛みも、今私が持っている想いは全部、彼への恋慕の情だ。
そしてセリーナ様のことを思い浮かべた時、急に出てきたあの重苦しい黒い物体の正体は、醜くも浅ましい嫉妬だ。
だけど、こんな感情、気付きたくなかった。
だって気付いたところで私の想いは届かない。彼の好きな人は……きっとあの人だろうから。
この時、私の心の中で一番強く占めていた感情は、絶望だった。