10.(ディラン視点)アリスという少女
「今年度は特待生が入ってくるそうだね」
「ええ、聞きましたわ。実に五年ぶりだと」
「名前は確か……」
「アリス・メイト。この国の最南端に位置する港町の食堂の一人娘ですわ」
生徒会室で新年度の準備をしていると、生徒会長でもあり友人でもあるアレクサーと、その婚約者である副会長のエリザベスの言葉が聞こえ、ディランは書類にサインをする手を止め、驚いたようにわずかに頬をピクリと動かす。
それもそのはず。この学園で特待生として入学するのはかなり難易度が高いからだ。
条件は、有能な家庭教師を付けた上位貴族達の平均点ですら七割を切るほどの難問ぞろいで知られる入学試験で、全ての科目において九割以上の成績を取ること。
これまで達成できた人間など、学園設立以降両手の指で足りるほどの人数しかいないはずだ。その上成績を落とせば即刻退学となる。
貴族の出であろうと平民であろうと、既定の点数を取れば特待生として受け入れられ、数多の恩恵を受けることができる。昨年ディランも既定のラインを達したが、彼は学費や寮費免除などの恩恵を受ける必要はなかったので辞退したが。
だが新入生の中に狭き門を突破した者がおり、しかも その生徒がろくに高価な参考書など手に入らないと思われる平民の少女なのだ。
選民主義も甚だしいとアレクサーに言われるディランだが、この時ばかりは純粋にその少女に興味を持った。
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入学してきた少女は、よく見ると可愛らしい顔立ちをしてはいるが、見た目は至って平凡そのものだった。
この国で最も多い色合いの髪を持ち、丸い眼鏡の奥に髪色と同じ色合いの瞳がある。小柄な体躯で、大人しい印象を受ける。
入学式で宣誓をする彼女を遠目に見ながら、本当にこの少女があの難試験を突破したのかとディランは俄かには信じられなかった。
だがすぐに彼女の実力は分かった。
入学後に行われた一番初めのテストで、並み居る優秀な上位貴族の面々を押しのけ、学年で首席になったのだ。
「やっぱりアリスってすごいのね!! 見た目は子供みたいなのに」
「外見は関係ないでしょう? ねえ、頭撫でまわすのやめて」
「見てみろよ隣のクラスの奴らの顔! すっげぇ悔しそうにしてるぞ」
「私達だってアリスに教えてもらったおかげで思っていたより点数は取れていたし、もしかしたら下剋上も夢じゃないんじゃない!?」
「おっし、みんなでアリスを胴上げしようぜっ!」
「え、なんで急に!? こんな廊下の真ん中で胴上げとか恥ずかしすぎるんだけど────って、ちょっと聞いてる!?」
「おめでとうアリスー!」
「やったなアリス!」
「お前は俺たちのクラスの救世主だ!!」
「待って待って、本当に恥ずかしいんだけど!」
その様子をたまたま目にしたディランは、本来ならば大騒ぎをする彼らにはしたない行動をするなと注意をしなければならないのに、教師がその場に来るまで何もできず固まっていた。
これまで下位クラスはどう頑張っても上位クラスには勝てないという学園内での常識があった。当然どの学年の下位クラスの生徒も、テスト結果が貼り出されると己の点数の振るわなさに暗い顔で肩を落とす。
卒業試験で下位クラスが下剋上を達成できればどんな願いも王家が叶えるなど、制度として存在はしていても一度も発動されるはずがないものだとディランも含め皆が思い込んでいた。
だからあんなに熱を持った下位クラスなど、これまで見たことがなかった。
あとで彼らの成績を確認すれば、順位こそまだ上位クラスには及ばないものの、個々人の点数は例年の下位クラスの者と比べ圧倒的に高かった。
その中心にいるのがアリス・メイトだ。
ディランと同じく圧倒的な差をつけて一位の成績を叩き出した彼女は、もしかすると天才肌なのかもしれない。でなければ、勉強をするのに整った環境で育ったディランと同じ順位を平民が出せるはずがない。
けれどそれは違うとすぐに知る。
ある時は図書室で、ある時は中庭のガセボで、またある時は放課後の教室で。ふと目に入るアリスは、いつも参考書を片手に脇目もふらず勉学に励んでいた。
そうでない時は、同級生たちに勉強を教え、教師陣にも積極的に質問へ赴く。そんな彼女の熱に下位クラスの面々が呑み込まれていく。
そしてその熱は、彼らだけに留まらなかった。
「お前平民のくせに生意気だぞ」
「女のくせにでしゃばるな。お前たちは俺たちの下についてればいんだよ! 目障りだ。今すぐ学園を辞めろ」
「どうせ平民はお金に困ってるんだろう? 今ここで辞めるって言うなら、この学年で一番尊い立場にあるこの俺、バリビオン公爵家のザッカリー様が恵んでやってもいいぞ」
廊下の端から声が聞こえ、そちらへ足を向けると、まさにアリスが上位クラスの一年生に詰め寄られているところだった。
自分達の圧倒的優位が覆されたのだ。特に真ん中に立つザッカリーは、自身よりも下の人間にあっさり首位を奪われた。アリスがいなければ、名実ともに彼が一位であっただろう。
下の者に負けた彼らの気持ちも理解できなくはなかったが、か弱い女子生徒に寄ってたかって非難する行動は人としても貴族としてもふさわしくないと助けに入ろうとしたところで、俯いていたアリスが即座に反撃に出た。
「うるさいなぁ。別に? 私は辞めてもいいよ。だけどそうしたら……あれ、これってつまり私の勝ち逃げってことだね」
「ぐっ……!」
「大体三人がかりで女の子一人を囲んで、恥ずかしくないの? それって一人じゃ勝てないから徒党を組んでやってきました、ってことだよね。つまりこの時点で、あなた達は一人一人じゃ私に及ばないって証明してるようなもんだよ。その上嫌味言ったり脅したり……。余ってる時間をそんなことに使うから勝てないんだよ。悔しかったらまずはあなた達が馬鹿にしている平民の私に勝ってから文句言いに来なよ!」
「あ、この、待て────」
臆することなく強い瞳で目の前の三人を見つめ、はっきりとした口調でそう言い切ったアリスは、そのまま彼らの前から一目散に逃げて行った。
残された三人はてっきり彼女を追いかけ再度文句を言うのかと思ったのだが────。
「っおい! 今からうちのクラス全員に緊急招集をかけろ!」
「ザ、ザッカリー様、呼び出してどうするつもりで……」
「このままだと卒業試験どころか、下手すれば次のテストで負ける……そうしたら俺たちは一生貴族社会の恥さらしだ! まずはあの下位クラスの連中と平民女を、完膚なきまでに叩きのめす。その為に今日から毎日、俺たちも集まって勉強会するぞ。呼び出しに応じ
ない奴はこのバリビオン家に逆らうつもりかと脅しをかけてでも引きずってこいっ!!」
そうして上位クラスはアリスと下位クラスを実力で潰す為、本気を出した。結果次の試験では上位クラスの点数が大きく上がったものの、アリスの順位は変わらず、両クラスは互いに互いを身分関係なくライバルとして認め、切磋琢磨するようになった。
時には意見を交換しながら、敵同士であるはずなのに皆の顔には活気が満ち、誰もかれもが楽しそうに学園生活に臨んでいる。
これまで散々アレクサーや父であるルーベンに言われていたにもかかわらず、そこで初めてディランは、自分はこれまで狭い価値観に捕らわれていたのだと理解した。
平民は何もできない。下位の貴族は何もできない。だから高位の貴族が国の中核を担い、それに彼らは付き従っていればいいと。
だが今あるのはその逆だ。
下の人間が上の人間を突き動かすことで、良い方向へ状況が変わる。
そして全ての起点になったのが、あのアリス・メイトという、何の力もないと思っていた平民の少女。
ただひたむきに、努力だけでここまでのし上がってきた彼女は、誰よりもまっすぐで輝いて見えた。
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人気のない裏庭にいたのは偶然だった。けれどその偶然にディランは感謝した。
なぜなら短剣を振りかぶるピンク髪のデイジーという生徒から、アリスを助けることができたのだから。
初めてきちんと対峙した彼女は、やはりとても小さく華奢に見えた。
だがか弱そうに見えて、襲われたばかりだというのに震えることも泣くこともない。半日一緒に付き添い、話をしているうちに、もっと彼女のことを知りたいという欲が湧く。
まさか自分がそのようなことを思うようになるとは予想もつかなかった。相手は平民であるというのに。
それでも互いの立場など関係なく彼女と友人となりたいと告げて了承してもらえた時、その時は確かに友としてもっと彼女と関われるようになることが、素直に嬉しかった。
────けれど、抱いている想いが友情ではない別の名前の何かになるのに、そう時間はかからなかった。
この見た目で甘いものを好むのは恥ずかしいと思っていたのに、そんな考えを新しく友人の一人に加わった少女はいとも簡単に崩す。
アリスといると、自分の中にあった固定概念が全て覆され、新しい自分になっていく。彼女の為に作るスイーツを作る時、いつも浮かぶのはアリスの笑顔だ。
そうして一緒に過ごすうちに、ディランは知る。いつの間にか自分はアリスに惹かれていたのだと。
だがこのことを告げることはできない。
以前アリスに、学園を卒業したあとの進路を尋ねた時にある答えが返ってきた。
「私、昔から勉強が好きで得意なこともあって、バリバリ働いて稼げる女性官吏になるのが夢なんです。そう言ったら他の人には平民女のくせにそんなの絶対に無理だって馬鹿にされたりもしたんですけど、両親だけは私のことをずっと応援してくれていて……。だからそんな二人のためにも、絶対にいい成績を取ってここを卒業して官吏にならないといけないんですよね」
強い瞳でそう語る彼女に自分の気持ちを伝えたところで、迷惑以外の何物でもないだろう。
それにアリスが自身に対して感じている想いは、ディランが持っているものとは違う。純粋に友人として慕ってもらっている。
そんなアリスに自分の身勝手な感情を押し付け、余計な雑念を与えたくはなかった。
けれどこの学園にいる間だけは、アリスの望む一人の友人として、少しでも彼女の力になりたい。
たとえ一緒にいることで押さえこんでいる気持ちが大きくなっていくことになろうとも。
そうしてディランは今日も、友人としてアリスと共にいる。
自分の想いをアリスに悟られないよう、心の内に隠しながら。