30話 大学受験と卒業旅行
文化祭が終わると、香奈は完全に受験モードとなった。
相変わらず隙間時間に会う習慣は変わらなかったけど、本格的に一日遊ぼうという日はなくなった。私も少しずつ仕事が忙しくなってきたこともあって、前より連絡も少なくなった。夜に通話をするくらいで、その時は話が弾んでしまってなかなか切りにくかったりした。
やっぱり少しだけ寂しい気持ちはあったけど、そういう時は仕事に打ち込んだ。香奈もきっと頑張ってるんだし、仕事をしていると寂しさも紛らわせることができた。
クリスマスだけは簡単なパーティーを私のアパートでする。高校受験の時と同じように合格祈願をプレゼントして、ケーキとチキンで乾杯した。それでも、去年までのように泊っていくことはなくて、夜になって香奈は自分の家へ帰っていった。
年末年始は実家へ三日間だけ手伝いに帰省して、お父さんの弟子の黒川君と、アルバイトだったゆりちゃんが婚約した話をお祝いしたり、私はいつになるのかと母親に呆れられたり、そんな感じであっという間に年が明けて、また働いて。
二月のとある日、私は駅で一人待っていた。
「あゆみさん」
「香奈、おはよう」
分厚いコートを身にまとった香奈が、リュックを背負ってそこにいた。
「お休み取ってくれたんですね」
「半休だけどね」
周りには、香奈と同じように受験生が大勢駅へと吸い込まれていく。私達も並んで駅へと入った。
ちょうど滑り込んできた電車に私達も乗り込む。大勢の緊張と不安を乗せた電車は時間通りに動き出した。
「緊張してる?」
「少し……でも体調はいつも通りです」
「ならよかった」
かける言葉はそんなになかった。電車の中の会話はそれきりで、すぐに降りる駅へと到着する。多くの受験生と並んで受験会場まで歩く、手袋の上だけど、その手はしっかり繋がれていた。
「見送り、ありがとうございます。あゆみさんのおかげで気持ちも落ち着きました」
「これくらいしかできないけど」
「私にとってはこれ以上ない激励です。……名残惜しくなってしまうので、もう行きますね」
「うん、頑張って」
手を振る香奈に、私も振り返して、その姿が見えなくなるまで見送る。香奈は一度も振り返らなかった。
続々と入っていく受験生に邪魔にならないように、私は駅へ戻る。午後から出社する予定だけど、用事は済んでしまった。どうしようかなぁと思いつつも、私の足はとりあえず家まで戻ることにする。ここにいると、いつまでも待ってしまいそうな気がしたから。
仕事をしていると時間はあっという間に過ぎる。それは学生の時とは比にならないほどのスピードで、毎日増える仕事をなんとか減らしていくうちに、香奈の合格発表の日になった。
今回の合格発表は平日だから、どうしようと迷った結果有給をとった。どうせ仕事をしていても手につかない気がするし、それくらいなら休んだ方がいい。
でも一人で待つのも寂しい気がして、どうしようかと悩んだ結果、その日は家族が一人増えた恵奈の家へとお邪魔することにした。
「ほんと相手してくれるの助かるわ」
「こっちもただ待つよりいいからさ」
「あぅ」
毛布の上に寝かされた愛莉ちゃんは、せわしなく手足を動かしている。私の指を近づけると、その小さな手はちゃんと指を掴んで引き寄せようとする。
「こんなに小さいのに生きてるの不思議だなぁ」
「私はもう見慣れたけどね。今は小さな悪魔にしか見えないよ」
「まだ夜泣き酷いんだ?」
「ふふふ、最近はもうずっと寝不足……」
今年に入って子供を産んだ恵奈は今は産休中だ。産休後は会社を辞めて専業主婦になる。
「こうしていると悪魔には見えないけどなー」
「なんか人が来ると機嫌いいんだよね、もう猫被ってんのかも」
愛莉ちゃんは私の指を掴んだままニコーと笑っている。もう片方の手は小さな積み木を掴んでいた。
「あ、もうそろそろじゃない?」
「もう十二時? まだアクセスしてないや」
恵奈の声に時計を見ると、合格発表間近の時間だった。愛莉ちゃんの小さな指を慎重に開いてもらって、その場を離れる。
恵奈の家にあるノートパソコンを借りて大学のホームページを開いた。
「恵奈は見なくていいの?」
「あゆみが教えてくれるからいい」
洗い物をしている恵奈に声をかけるも、パソコンの前で待つほどでもないらしい。
時間になってからホームページを更新すると、合格発表のページができていた。今回は検索で調べる仕様になっていて、教えてもらっていた香奈の受験番号を入力する。
そして出てきたページに、私はほっと胸をなでおろした。
「合格だって」
「そりゃそうでしょ」
恵奈の態度はいたって普通に見えたけど、その声に乗る嬉しさは隠しきれていない。私もその合格の文字にじわじわと嬉しさが広がってくる。
現地に合格発表を見に行っている香奈も、きっとそろそろ結果を見ているはずで。香奈からの連絡が待ちきれなかった。
その週の土曜日、私は100%の恰好で駅の前で一人待っていた。100%の恰好をするとモデルの私に近くなるから、たまに私のことを知っている人に声を掛けられたりすることもあって、マスクだけは忘れずにする。
駅は卒業までの短い期間を充実させようと、学生も多く行き交い賑わっていた。そんな中でも香奈の姿はすぐに分かる。
「あゆみさん、お待たせしました」
薄手の紺のコートと白い帽子をかぶった香奈が小走りで近寄っている。香奈も今日はうっすらと化粧をしているみたいで、それは可愛いというより大人の美しさの方に近くなっている気がした。
何人かの視線が私と香奈の間を通り過ぎていく。
「行こっか」
「はい」
ためらいもなく香奈は私の腕に飛びついてくる。その体を受け止めて、私達は駅とは反対方向に足を進めた。
今日は香奈の合格祝いという名目の、ちゃんとしたデートだ。発案者は私で、香奈にも一泊二日の日程を確保してもらっていた。
「今日のプランはお任せしましたけど、電車には乗らないんですか?」
「乗らないよ、実は香奈には秘密にしてたことがあって」
近くのパーキングに入って、私はポケットに入れていた車の電子キーを取り出す。ボタンを押すと駐車場に止めていた真新しいコンパクトミニバンの鍵が開いた。
「え、これあゆみさんの車ですか?」
「そうだよ、驚いた?」
「驚きました、いつの間に……」
香奈が受験勉強で忙しかったころ、実は私も自動車教習所へ通っていた。
東京に住んでいるなら、正直公共交通機関で事足りる。けど実家は東京じゃないし、今後のことを考えると運転は出来るようになっていた方がいいかなと思い、香奈には内緒で免許をとった。
教習は基本的に夜間で、会社の後にさらに勉強するのは正直めちゃくちゃ大変だったけど、香奈と一緒にいろんなところへ行きたいなと思って頑張った。
あと会社のボーナスが思いのほか多かったから、どうせならと思って新車も買ってしまった。もちろん初ローンで、一人で契約するのは少し怖かったからそこだけは両親を頼った。
「乗って乗って」
「はい、お邪魔します。新車の匂いがしますね」
助手席に香奈を座らせ、私はエンジンをかける。
「この車、納車してどのくらいなんですか?」
「二週間」
「……本当に新車なんですね。えっと、ちなみになんですけど、今日までに何回乗りました?」
「今日を入れて二回だね。もちろん、助手席に人を乗せるのは初めてだよ」
「えっと、あのー、提案なんですけど、やっぱり電車を使いませんか? 助手席に乗るのはもう少し運転に慣れてからでも……」
隣に座って、シートベルトまで締めたのに、そんなことを香奈は提案してくる。
「せっかく取ったのに……」
「う、……そう、ですよね。いえ、わかりました、行きましょう。私も覚悟を決めました」
「大丈夫だよ、ちゃんと試験もストレートに取ったから。先生には高速でスピード出しすぎって一回ブレーキ踏まれたけど」
「やっぱり降ります」
「じゃあ出発ー」
ゆっくりと車が動き出すと、香奈も諦めて席に落ち着く。どこも交通量の多い道をゆっくりと進んで、私達は東京都を抜け出した。