うち、来る?
イルミネーションで煌めく海沿いの特設エリア。
行き交うカップルは幸せそうに笑い、そろそろ家族連れは家路へと急ぐ時間だ。どうしてこんなことになったんだろう、マフラーに口元を埋めた未央は無言で歩きながらそう思う。
付き合って初めてのクリスマス。いくらイベント事に疎いとはいえ、今日という日を楽しみにしていた。
視線の先には、今も自分の手を繋いでくれている小鳥遊の手。すっぽり包まれている自分の手とは違い、風を受ける彼の手は冷たいはず。でもこの手が離れてしまえば、関係まで薄れてしまうのではとすら思えてくる。
「未央、もう九時だけれど帰る?」
「……え?」
海道を歩き続け、すでにイルミネーションがある区間は終わりに近づいていた。
いつの間にか人影はまばらで、頬に当たる海風は強く冷たい。
帰るかと聞いたのは未央の仕事を気遣っての発言だったが、二人の間に流れる空気がそうは思わせない。
(もう九時なの? まだ、じゃなくて? 明日真くん、帰りたいのかな)
「「…………」」
交わる視線。
だが互いの真意がどこにあるのか、わからないまま心臓がドキドキと鳴る。
足を止めた小鳥遊は、繋いだ手をぎゅっと握った。
「また連絡するから」
控えめに笑った顔はどこか淋しげで、「まだ一緒にいたい」と言ってもいいのかと未央は口を開きかける。
が、その声はわずかな差で小鳥遊の言葉にかき消された。
「明日真くん、私」
「仕事、あるんだよね? 無理しなくていいから」
立ち止まる二人の脇を、駅に向かう人々が追い抜いていく。
未央は言葉を飲み込んで、少しだけ首を傾げながら無理やり笑った。
「ありがとう。今日は、帰る」
喧嘩をしたわけではない。でも空気は限りなくそれに近い。
「行こうか」
手を引かれ、また俯いて歩き始めた。
(こんなとき佐山さんなら。ひかり先生なら……)
自分じゃない誰かならどうするだろう、そればかりが頭をよぎる。
(白狐さんがいなかったら、好きにもなってもらえなかったし、こうして普通に会話するのもむずかしいなんて……。明日真くん、この後どうするのかな。佐山さんと会ったりしないよね?)
ちらりと上目遣いに見つめれば、視線に気づいた彼が口元だけ笑みを浮かべた。
ぎこちなくはあるけれど、自分を見つめる目は優しい。この人が不誠実なことをするとは思えない、と未央は思った。
(きちんと話し合わなきゃ!)
決意した未央は大きく息を吸う。冷たい空気は目が覚めるだった。
「明日真くん」
「ん?」
急に立ち止まった未央に手を引かれ、小鳥遊は彼女を見下ろす。
繋いだ手を離して向かい合うと、未央はいよいよ気になっていたことを話そうと口を開く。
しかしそこで、横から別の女性の声がかかった。
「小鳥遊くん!」
驚いた二人がそちらを向くと、誰もいない海道に佐山の姿が。
その笑みが違和感を抱くほどに妖艶で、未央は思わず身構える。
「佐山……? なんでここに」
動揺する小鳥遊だったが、佐山がうれしそうに駆け出したのを見てぎょっと目を瞠る。
「会いたかった!」
抱きつかんばかりの勢いで走ってきた佐山に、未央は驚いて瞬きすらできなかった。だが、小鳥遊がスッと身体を逸らして佐山を避けると、未央は思わず叫んだ。
「避けた!?」
自分の彼氏ながら、今だけは他人事のように突っ込まずにはいられない。
「そこは抱き留めるところでは!? 反射神経が良すぎる!?」
引き攣った顔でやや蒼褪めてもいる小鳥遊は、冷静に反論した。
「抱きつかれても困るんだけれど……」
周囲には不自然なほどに人がいない。まるで自分たちだけが、別の空間に隔離されているかのようだ。
さらには、勢いあまって派手に転んだ佐山が倒れたまま動かないのを見て、二人は不安を募らせる。
「佐山さん? ねぇ、明日真くん。なんか変だよ」
「あぁ、そうだよな」
声をかけようか迷っていると、突然むくりと起き上がった佐山が低い声で呟く。
「許せない……。私を好きにならないなんて」
立ち上がった彼女は、正気を失っていた。
「小鳥遊くんは私を好きであるべきなのよ。あなたに似合うのはそんな女じゃないわ! いつだって皆が私を好きになるのが正しいのよ!」
叫ぶ佐山を見ていると、彼女の背後にゆらりと火の閻魔の姿が重なって見えた。
「火の閻魔さん……?」
未央が目を凝らすと、その姿は次第に濃くなり、実体のように目に映る。
『そうじゃ。男は皆わらわのものじゃ。そなたも、この男が欲しいのであろう? 小娘から奪い取ってやるといい。遠慮はいらぬぞ?』
耳元でそう囁いた火の閻魔は、妖しげにニィと笑った。
背筋にぞくりと悪寒が走り、未央は思わず小鳥遊の腕を掴む。
「明日真くん?」
ところが小鳥遊は未央の手を振りほどき、ぼんやりとした表情で一歩また一歩と歩いて行く。小鳥遊の目には、佐山が未央に映っていた。
「未央、なんでそんなところに?」
「明日真くん!? 何言ってるの……!?」
火の閻魔がくすくすと面白そうに笑っている。それを見た未央は、あやかしの力で小鳥遊が誘惑されているのだと察した。
(このままじゃ明日真くんが……! あんな花魁が佐山さんを乗っ取っているんなら、私に勝ち目なんてあるはずない)
あやかしに憑かれやすい男を、正気に戻すことはできるのか。未央は不安に駆られ絶望に呑まれそうになるも、ぐっと唇を噛みしめて前を向く。
(やってみなきゃわからない! 公募も出さなきゃ受からないし、プロットも見せなきゃオッケーは出ない! 明日真くんを取られるのは嫌!!)
佐山と向かい合うようにして立っている小鳥遊に向かい、未央は必死で走った。
「明日真くん!」
大声で名前を呼ぶと、小鳥遊の背に追突するように抱きつく。
――ドンッ!
「うわぁっ!」
抱きつかれたというよりはぶつかられてよろめいた小鳥遊は、佐山のことも巻き込んでその場に倒れ込んだ。
額と鼻を打った小鳥遊は、その場に座り込んで顔を手で押さえる。
「イタッ……」
「あの、私」
ボロボロと涙を零しながら、未央は思っていたことを一気に吐き出した。
「明日真くんに嫌われたくなくて、安全な方へ行きたくて……! 佐山さんみたいにきれいな女子になれなくて、ずるいって言われたことがずっとひっかかってて……!」
涙ながらに訴える未央。小鳥遊は正気に戻っていたが、わけがわからず狼狽える。
「なんで佐山!? ずるいって何!?」
「白狐さんがいなかったら、明日真くんは私のことなんて好きになってくれなかったと思う。でも、それでも今こうして一緒にいてくれるんだったら、もっと、ずっと一緒にいたくて……!」
細い肩に手を置けば、未央の緊張がふっと緩んだのがわかる。
「未央、ごめん。俺の方こそ、何か色々ごめん」
慌てて謝る小鳥遊だったが、状況がまるで飲み込めておらずただただ必死だった。
「私、がんばるから……普通の彼女になれるようにがんばるから一緒にいてぇぇぇ」
絶叫に近いそれに驚いた小鳥遊は、未央を宥めようと強く抱き締める。
「いるから、ずっといるから落ち着いて!」
「ふぐっ……うえええええ……」
泣いている彼女を宥めたことなど、二十六年間で一度もない。
焦った小鳥遊は未央の背中を撫でさすり、必死で声をかける。
「大丈夫だから。いや、普通とかいらないから、大丈夫だから! 未央が楽しそうにしてたらそれでいいから!」
「ううっ……」
「白狐さんがいなかったら、っていう話はわからないけれど、でもそれでも未央のことは好きになってたと思う。きっと結果は変わらないよ」
腕を緩めて顔をのぞき込むと、涙で頬を濡らした未央は少しだけ落ち着いたように見える。
おそるおそる指で涙を拭い、ようやく泣き止んだと思ったら心底ほっとした。
『ふん、面白みのない』
頭上から聞こえてきたのは、火の閻魔の言葉。捨て台詞にも思えるそれは、心底呆れているように感じられた。
『小娘がわらわの戯れを邪魔するとは、ほんに腹立たしいのぅ』
艶やかな着物の袖を口元に当て、冷めた目で二人を睨む。
小鳥遊がムッと顔を顰めたそのとき、二人の前でふわりと白い狩衣装束の袂が揺れる。
『随分と勝手なことをしてくれたな』
びりびりと空気が振動するほど、妖気が周囲に漏れ出していた。
火の閻魔は「ひっ」と小さく悲鳴を上げると、ざざっと後ろに下がる。
『この者らは我の縁と言うたはず。それを知ってなお手を出すとは、よほど消滅したいらしい』
白狐の後ろ姿に、未央は安堵のため息を漏らした。あやかし同士の諍いに発展するのは本意ではないが、白狐が現れたことで心底ホッとする。
すぐそばにはいつの間にか青年姿のぬらりひょんも立っていて、「大丈夫?」と声をかけられた未央はコクコクと何度も頷いて見せた。
『見てたよ、未央。男を見せたね』
「ぬらさん、私は女です」
『細かいこと言わないの。がんばったって、褒めてるんだよ?』
お札を指に挟んだぬらりひょんは、黒い衣装で陰陽師のコスプレだった。怒りを露にする白狐とは違い、彼はいつも通り飄々としている。
『未央に手を出そうなど、千年早いわ。BLにはBLの、TLにはTLのよさがあるのだぞ』
「すみません、人の恋愛をTLって表現しないでくれます!?」
TLとは、女子向けの恋愛漫画で、ストーリーに性描写が含まれるジャンルのこと。まさかそんな風にたとえられるとは、と未央は呆れて口元を引き攣らせた。
そんな未央に構わず、白狐は右手を翳し、殺気の篭った目を火の閻魔に向ける。
あまりの恐怖にガクガクと震え出した火の閻魔は、とても無様に見えた。
(そんなに力の差があるなら、おとなしくしていればよかったのに)
あやかしは好奇心旺盛だと、白狐から聞いたことがある。火の閻魔も例外ではなく、人を弄ぶことが好きで、好奇心に負けたのだろう。
白狐の手から紫色の炎がゆらゆらと燃え上がり、もはや火の閻魔の消滅は免れないかと思った矢先、「ヒィィィ!」と悲鳴を漏らした火の閻魔が振り返りざまにその姿を消した。
逃げられたのか、と案じる未央。
しかし、ぬらりひょんは面白くて堪らないという風に軽快に笑う。
『あははは、逃げられるわけないのに。根城にしていた御堂はもう僕の罠がいっぱいだよ? すぐに、あやかし専用の蜘蛛の巣に絡め捕られて身動きできなくなるさ』
どうやら火の閻魔の戯れは二人にバレていたらしい。しかもぬらりひょんが白狐にある提案をする。
『ねぇ、白狐。火の閻魔を僕にくれない?』
唐突な提案に、未央と小鳥遊は目を瞬かせる。
『気位の高い者を屈服させて、地獄を見せるのって好きなんだよね~』
「ぬらさん、まさかのドS!!」
未央が興奮気味に叫ぶと、ぬらりひょんはふふふと上品に笑った。
『やだなぁ、趣味じゃなくてお仕事だよお仕事。世直しみたいな感じかな?』
白狐は炎を鎮め、呆れ気味に言う。
『そんな悪趣味な世直しがあってたまるか』
『何とでも言って。本能に忠実なあやかしなんだよ、僕は』
上機嫌のぬらりひょんは、恍惚な笑みを浮かべて暗闇に消えた。
その場に残された佐山はまだ意識がなく、白狐が無理やり彼女を覚醒させると、以前のように自分の家へ戻るよう暗示をかけて解放した。
今夜のことは、記憶から一切なくなるらしい。
『さて、おまえたちは好きにするといい。手ぶらで戻ってくるなよ』
白狐は暗に、抱き合いもせず帰ってくるなと告げる。
二人は絶句し、白狐が闇夜に溶けるかのように姿を消した後もしばらく茫然としていた。
(あぁ、やってしまった。明日真くんに泣いて縋ってしまった)
未央が猛烈な後悔に苛まれていると、小鳥遊が躊躇いがちにある疑問を口にする。
「さっき言ってたことって、どういうこと? 佐山に何かされた?」
もう一度しっかりと繋がれた手。
互いに冷え切っているが、重ねることで不思議と安心できた。
「何かされたっていうか……」
口ごもる未央を見て、これはじっくり話をした方がいいと小鳥遊は判断する。
そして何度も言おうとして今日まで言えなかったことを、ようやく口にした。
「うち、来る?」
「へ?」
未央が驚いて見上げれば、小鳥遊は真剣な顔で言った。
「ちゃんと話がしたい。仕事、大丈夫そうなら……うちに泊まる?」
「とっ!?」
思わぬ提案に息が詰まる未央。
(これはもしかしてそういうお誘い!? えっ、何も考えていなかった……!)
いつかは、と思っていたがまさかこれほど早く機会が訪れようとは。二十代の恋人同士、しかもクリスマスともなれば至極当然の誘いだと理屈は理解できても、未央の頭がついていかない。
「嫌……?」
その躊躇いがちな表情と言葉に、未央は衝撃を受けた。
(ここに来て子犬系!? 何そのかわいい感じー!!)
「い、行きます……明日真くん家、行きます」
「よかった」
ふっと表情を緩める小鳥遊。未央も自然に表情が緩む。
イルミネーションが煌めく海道。二人は再び無言のまま寄り添って帰路についた。




