強制退場
初雪が古民家の屋根にはらはらと舞い落ちたその日、未央の仕事はようやくひと段落した。
公募用の漫画を三作仕上げ、連載原稿も締切の峠は越えたと言える。
ただ、戦国のウェブ漫画は正式に打ち切りが決まり、来週掲載分で最終回を迎えることになっていた。
「はぁ……」
打ちひしがれる未央。畳の上に寝転がり、仰向けになったりうつ伏せになったり、だらだらと過ごす。
三匹の小玉鼠が代わる代わる未央のそばにやってきては、顔色を窺うようにちらちらと目を向けてくる。
「小玉ちゃんたちにも、心配かけちゃったねぇ」
――キュイ?
三匹は揃ってつぶらな瞳を未央に向けた。「元気出せよ」という声が聞こえたような気がして、未央は苦笑する。
「はぁ……、しっかりしなきゃ」
気を立て直そうとするも、まるで空気はお通夜。精神的な安寧はほど遠い。
(明日真くんにも伝えなきゃ。気にしてくれたし、色々手伝ってくれてたし)
ぬらりひょんによるあやかしセクハラを「手伝い」と表現するのはどうかと思ったが、それでも未央はあれを編集業の一環としてスルーすることに決めていた。
(ごめん、腐った女で……!)
今日は金曜日。小鳥遊は、明日がイベントの代休だと言っていた。
年末に向けて不定期のムック本の編集、新人賞の選定などが通常業務に上乗せされ、小鳥遊とはこの二週間会えていない。通信アプリで顔を見ながら話はできているが、直接会えない状況に恋しさは募る。
『今にも苔が生えそうな空気だな』
ふわりと天井から現れた白狐は、未央の落ち込む姿を見てそう表現した。
「苔って……生えるかもしれませんね。でもって、生えたら動画アプリに上げるだけですよ」
『くくくっ、商魂たくましいな』
「当然です、商魂たくましくなきゃやっていけませんよ。漫画家たるもの、何一つムダにできるネタはありませんから。はぁぁぁ……」
ため息は深い。そして数も多い。
胸にずっと重くのしかかっている打ち切りのモヤモヤは、どこへ吐き出せばいいのか。未央は目を閉じて仰向けになった。
『随分とたくさん描いたのだな』
公募用の原稿を見て白狐が言う。
未央は寝ころんだまま、返事をした。
「だって、打ち切りのショックは描くことでしか癒えませんから。私が戦国で描こうと思っていたストーリーやキャラは、もうどこにもやり場がないんだなって思うと苦しくてつらいですけれど、かといってこれで落ち込んだまま終わっちゃったらそれこそすべてが無駄になります。戦国が終わった分、他のものを描けるって思わないとやっていられないんですよ」
仕事部屋の畳の上をゴロゴロと転がる未央。踏まれそうになった小玉鼠が、慌てて未央の腕を避けて逃げ惑う。
「私もあやかしみたいに、気楽に生きられたらいいのにな~」
愚痴る未央に、白狐はすかさず否定する。
『それは違うぞ。あやかしも色々だ。気楽に生きているのは、ぬらだけだ』
未央はクスリと笑い、のろのろと起き上がって机に向かった。
『小鳥遊にでも慰めてもらえ。いつまで清い関係でおるのだ、情けない』
「漫画の傷は、漫画でしか癒せないんですよ。白狐さん」
私を何だと思ってるんだ、と未央はじとっとした目で白狐を睨む。
(自暴自棄になって抱いてくれ、とかあり得ないから)
畳の上に再び寝ころんだ未央は、しばらくの間やり場のない気持ちと格闘していた。
◆◆◆
その日の夕方。
人波が途切れない東京の片隅で、あやかしに憑かれやすい男が足早に駅へ向かっていた。
今日こそ早く帰って未央の家に行く、と決意する小鳥遊。
たかが二週間、されど二週間。
繁忙期にめずらしく会議が早く終わり、定時にオフィスを出ることができたからには未央に会いに行きたい。
ところがその途中、思わぬアクシデントに見舞われる。
「佐山?」
四十代と思われるスーツ姿の男性が、思いつめた表情で佐山に詰め寄っていた。
異様な空気に、小鳥遊は見過ごすことができず二人の間に割って入る。
「この子がどうかしましたか? 随分と強引なことをしているように見えますが」
「小鳥遊くん!」
佐山は、縋るように小鳥遊の腕を掴む。いきなり出てきた乱入者に動揺した男性は、歯を食いしばって顔を赤らめるも、怒りを爆発させることはなく、悔しそうな顔で去っていった。
「大丈夫?」
強引に迫られている風に見えたが、お人好しな小鳥遊はあえて詳細を尋ねない。
佐山はまだ彼の腕を持ったまま、ホッとした表情で礼を述べる。
「ありがとう。怖かった……」
ぎゅうっと腕に縋りつかれては、振り払うことができない。カップルが腕を組んでいるようにしか見えないのか、周囲の人間は見向きもしなかった。
「前から好きだって言われていて、断ったんだけれどしつこくて。それで今日、待ち伏せされてあんなことに……」
「そうなんだ。警察に届ける?」
小鳥遊の提案に、佐山は小さく首を振る。
「お客さんなの、取引のあるお医者さんで。だから警察には……」
「そうか。仕事はもう終わったの? これから帰るなら駅まで送るよ」
「うれしい。ありがとう」
二人は駅に向かい、ゆっくりと歩き出した。
腕を取られたまま気まずそうに歩く小鳥遊の隣で、佐山の口角が上がる。
『騙されやすい男よのぅ』
佐山の中から、嘲笑う声がした。けれど、小鳥遊には聞こえない。
駅に着くと改札で別れようとした小鳥遊の手を握り、佐山が上目遣いで言った。
「家まで一緒に来てくれないかな?」
「それは……」
断りを入れようとする小鳥遊だったが、なぜか佐山の目を見ると言葉が出ない。喉に何か詰まったような違和感を覚え、しかも目の前にいるのが未央だと思えてくる。
「来てくれるよね? ずっと会いたかったの」
笑顔でねだる佐山が、未央にしか見えない。
その手を握り返した小鳥遊は「行くよ」と口にしようとした。
しかし、その言葉が出る前に背後から怒りを孕んだ声がかかる。
『小鳥遊、こんなところで何をしている』
振り向けばそこには、人間に擬態した白狐がいた。
ぬらりひょんのように髪が黒になっていて、すっきりと短い。黒いブルゾンに蒼いデニムという、現代風の若者の姿になっていた。
「白狐さん!? その恰好は一体」
人間に擬態できることは以前聞いていたが、どう見ても人間にしか見えない彼を見て小鳥遊は一気に正気に戻る。
『この姿なら、編集部とやらでおまえを捕まえられると思ったからこうしている』
「俺を?」
小鳥遊は佐山の手を振りほどくと、すぐに白狐に向き直る。
「今、未央の家に行こうとしていたんです」
『女と手を繋いでか?』
「え、いやこれは違います。不可抗力です」
慌てて否定するが、白狐の機嫌は悪いままだ。
「あれ、佐山? そうだ、俺は佐山と改札まで歩いてきて……。なんで未央がここにいると思ったんだろう」
混乱のあまり右手で額を抑える小鳥遊だったが、火の閻魔の幻覚を見せられていたとは気づくはずもない。
白狐も人間に擬態しているため、火の閻魔の存在に気づいていなかった。
「ここに未央がいるわけないのに」
そんなに疲れているんだろうか、と自分の目を疑う。
「小鳥遊くん、どうしたの? 早く行こうよ」
佐山には、今の白狐は普通の人間にしか見えない。
突然現れた見知らぬ男に、嫌悪感を露わにした。
白狐はそんな佐山を一瞥すると、音もなく移動し距離を詰める。
『邪魔だ』
右手の人差し指で、佐山の額を突いた。すると彼女は一瞬だけ目を見開き、その後は虚ろな表情で改札に向かって歩いて行く。
「何をしたんです!?」
『家に帰れと命じた。それだけだ』
危害を加えたわけではないとわかり、小鳥遊は安堵する。
しかしそれも束の間、擬態を解いた白狐に乱暴にコートの襟を掴まれて駅から外へと出された。
「なっ……!?」
驚きで思考が停止する小鳥遊は、一瞬で白狐の肩に担がれて空に浮き上がる。
『来い。これも未央のためだ』
「うわぁぁぁ!!」
それからわずか十分後、小鳥遊は古民家の軒先に乱暴に下ろされるのだった。




