漫画家とあやかし憑き編集者
「う~ん、足の角度が……」
今日も古民家には、未央の唸り声と呟きが漂う。
居間の隣にある仕事部屋。色褪せた畳はとっくに張り替え時期を逃し、かといってずぼらな未央がそれを気にすることはない。
作業台は、漆塗りの古い机。そこに、大きな画面のパソコンがどんと構える。
築二百年の古民家でもインターネット環境はばっちり整えられていて、不自由なく仕事ができている。
電源の少なさも、電源タップと延長コードがあれば解決。プリンターに一眼レフカメラ、デジカメ、パソコンのデータを保存するための外付けハードディスクも揃い、この作業部屋だけが古民家で異質な空間だった。
座椅子に座ってパソコンに向かい、手元のペンタブで絵を描いていた未央は、キャラが絡み合うときの足の角度で悩んでいた。
「偶然転んで押し倒すって、膝の裏はどうなるんだろう。際どいところに足を入れたい……」
足の角度がどうにも気持ち悪い、それが現状の課題である。
未央の後方では、座布団に胡坐をかいた白狐が真剣な表情で原稿に目を通している。白い髪が、エアコンの風でふわふわと揺れては戻る。
手にしている物はBL漫画の原稿だが、真顔でいるとまるで難しい報告書でも読んでいるかのように見える。とても絵になるあやかしだ。
「ねぇ、白狐さん。ちょっとそこに仰向けに寝転がってくれませんか?」
『なんだ、ポージングとやらか。承知した』
色褪せた畳の上に原稿を置き、ころんと寝転がる白狐。白い髪が入れ替えたばかりの畳に映え、切れ長の目は妖艶に細められる。
専用のミニ三脚にスマホをセットした未央は、白狐のもとに移動してその長い脚の間に躊躇いも照れもなく身体を入れる。
――カシャッ!
『撮れたか?』
白狐から離れ、未央はスマホを手にして画像を確認する。目の下のクマを指でこすり、撮ったばかりの画像を凝視した。
「体格差が理想とは違いますが、いい感じです」
『おまえに男でもおれば、そやつと絡んでやるのに』
「さすがにそれはちょっと……」
そもそもモザイク多めのBL漫画家と付き合ってくれる男など、伝説級の生き物ではないだろうかと未央は苦笑した。
(まぁ、白狐さんが現れる奇跡に比べたら、彼氏なんてそこまでレアキャラでもないか……)
二十七歳、恋愛経験は少しくらいあるが、本格的にBL漫画家として仕事を始めてからは一度も彼氏ができていなかった。
漫画を読むと、ときめきも感動も切なさも苦しいほどに味わえる。持ち前の妄想力があれば、淋しいとも思わない。それに今は、漫画家として身を立てる方が大事だ。
「恋愛は漫画の中だけでいいです」
『枯れとるな』
「そんなことないです。萌え滾っていますよ、二次元に」
現実より二次元。その思いは、恋人がいた時期も同じだった。
だが、それからわずか数時間後。
BL道を極めようとする二人の元へ、思わぬ出会いが訪れる。
「未央先生。以前お話したことですが、こちらの小鳥遊が先生の担当になります」
担当編集の夏目が連れてきた一人の男性。未央の新しい担当者だと紹介された。
見た目は二十代前半。短い黒髪と大きな目、端整な顔立ちはいかにも好青年。
しかも身長は百八十センチを超えていて、二次元から飛び出だしたかのようだ。
(こんな正統派イケメンが私の担当に!? 何かの間違いだよね?)
今日も長い黒髪をトップでお団子にした未央は、頬に落ちてきていた毛束を指でつまんで引っ張った。これは、困ったときに出る未央のクセだ。
「このたび『Boysアガピ・ム』編集部に異動になった、小鳥遊明日真です。未央先生、これからよろしくお願いいたします」
白いポロシャツに、細身の紺色のパンツスタイル。クールビズでネクタイをしていないのに、真面目さが伝わってくる。
「よ、よろしくお願いします」
未央は爽やかなオーラに圧倒され、かろうじて挨拶を返すことしかできない。
精一杯の愛想笑いの後、すぐに夏目へ視線を戻した。
「あの~」
「未央先生、すっかり忘れていましたね?」
夏目によると、担当者が変わることは前もって伝えてくれていたらしい。そういえばメールが来ていたような気がする、と未央は記憶を掘り起こす。
「私は新人の先生をサポートする立場ですから、もう未央先生は一人前ということで卒業です」
どの雑誌でも一人の編集者が複数の作家を担当するのは一般的だが、夏目はその中でも連載がない漫画家を担当する編集者だ。それは出会った七年前に聞いていた。
だがまさか、連載が決まってすぐに担当を離れてしまうとは予想外だった。
「未央先生、今後は小鳥遊がしっかりサポートしますから」
公私ともに何かと世話を焼いてくれていた夏目にそう告げられ、未央は心細く思う。だがそんな弱音を新しい担当者に聞かせるのも失礼だと思い、未央は動揺を隠して、小鳥遊に問いかける。
「えっと、小鳥遊さんはこれまでどういった作品を?」
経歴を尋ねられた小鳥遊は、少し緊張気味な態度で答える。
「これまでは、コミックネオやドリームブックという少女漫画を担当していました。今年四年目で、BLは勉強中です」
(新卒入社の二十六歳か。なんだ、若く見えるけれど私と一つしか違わないんだ)
未央はレストランのアルバイトで培った、愛想笑いを小鳥遊に向ける。
「私は連載を持ったばかりで至らないところが多いと思うんですが、これからがんばりますので、どうぞよろしくお願いします」
とりあえず顔合わせはうまくいった。今後のことは、また今後考えよう。そう思った未央の隣で、白狐がポツリと呟く。
『こいつ、ちょっと頼りなさそうだが大丈夫か?』
本人に聞こえていないからといって、失礼なことを口にする白狐。
しかしここで、まさかの事態が発生する。
「あはは、よく言われるんです。頼りなさそうだって」
『お?』
見えない、聞こえないはずの白狐の声に、彼はさらりとリアクションした。
目を見開いて彼を凝視する未央、興味深そうに眉を上げる白狐。
夏目だけが、小鳥遊の言葉に眉根を寄せた。
「あなた何言ってるの?」
マズイ。直感でそう判断した未央は、不自然極まりない大声で二人の視線をこちらに集めた。
「ああ、そういえば! 夏目さん、小鳥遊さん! 実家からもらった梨があるんですけれど、食べていきませんかぁぁぁ!?」
そして急いで立ち上がり、強引に小鳥遊の腕を取る。
「台所はこっちです! ちょっと梨の段ボールを運ぶの手伝ってください! わぁ、ありがとうございます、よろしくです」
「え、はい!」
無理やり彼を立たせると、台所へ連れ去る。
そして冷蔵庫の前で、未央は小鳥遊に詰め寄った。
「あなた白狐さんが視えるんですか!?」
「え? あ、はい。最近のアシスタントさんはコスプレで?」
「んなわけない。だいたい私は、アシスタントなんて雇えるような漫画家じゃないんです! 漫画家一本で生活できるレベルじゃないから、ファミレスのバイトとウェブデザインの仕事もやっていて、兼業なんです」
『未央、話が逸れているぞ』
小鳥遊はあやかしの存在に驚くことなく、興味深そうに白狐を観察し始める。
『我はあやかし。未央の保護者だ』
白狐の言葉に、小鳥遊は初めて目を瞠った。彼にとっては、未央も白狐も確かにここに存在する人なので、あやかしだとは今の今まで気づいていなかったのだ。
ただし、自信満々に保護者宣言した白狐を見て、未央は首を傾げている。
(白狐さんって私の保護者だったんだ。居候兼BL作家だと思ってた)
じわりと汗が滲む、蒸し暑い台所。小鳥遊の動揺が未央にも伝わってきた。
「小鳥遊さん。信じられないでしょうが、白狐さんは高位の妖狐なんです。本物のあやかしです。そして、うちのあやかしは腐男子です」
「は?」
「信じられないでしょうが、あやかし界にも腐男子が存在します」
白狐はなぜか自慢げな顔で、仁王立ちしていた。
理解できるはずもないと思った未央だが、小鳥遊は即座に頷く。
「わかりました」
「わかったんですか!?」
拍子抜けした未央は、逆に問いかけてしまう。
「はい、実は実家が神社でして……昔からそういった類の方々はたまに」
「じ、神社の息子? 何、その漫画みたいな設定!」
今度のコミケで売る同人誌は、坊主×坊主にしようと密かに決める。
(美坊主カップルの秘めた恋……! あああ、ものすごい背徳感!)
ときめいている未央の後ろから、白狐が梨を手にして言った。
『未央、せっかく視える男が担当についたんだ。これはいい』
「いいって?」
未央は梨を受け取り、白狐の顔を見上げる。
『おい、小鳥遊。ポージングに協力しろ。編集なら売れる漫画にしたいだろう。なに、簡単なことだ。指定されたポーズを取るだけだからな』
「指定されたポーズですか……?」
本能的に身の危険を察した小鳥遊は怯む。
しかしここで、未央も動いた。格好の餌食、いや協力者を逃すわけにはいかない。
「お願いします! こんな古民家まで来てくれる男性の知り合いがいなくて、ポージングに悩んでたんです。どうか協力してください!」
梨を手渡し、必死で小鳥遊に頼む未央。
一歩引いていた彼も、その熱意にほだされてしまった。
「できる範囲でなら構いませんが」
「よろしくお願いします!!」
かくして、新しい編集者の殉職が決まった。